第4話 初戦
まぶたの裏に焼きついた、巨大な牙の残像。
アリシアは確信する。
――私は、戻ってきた。
外部センサーを通じて伝わってくる湿気を帯びた空気。ディスプレイには夕暮れで赤く染まった樹々。すべてが、転移直前と同じ――いや、それどころか、まさにその瞬間の続きだった。
「……うそ。時間ごと戻ってる……?」
視界を巡らせると、黒と銀のインターフェースが包むコクピット内。多数のホログラムパネルが展開され、自分がまだ《NOA-UNIT》の内部にいることに気づく。
《オルデナへの転移完了。状況は、アリシアへの敵性個体の攻撃直後です》
ノア――NOA-Linkの静かな声が、コクピットに響いた。
「……よかった、ノアも一緒……!」
だが、安堵する暇はなかった。機体の視界に映るのは、すぐ近くの地面に蠢く巨大な影。全身を赤黒い瘴気で覆った異形の魔獣――まさにアリシアが囮にされた直後、突撃してきた魔猪だった。
だが、その異形は反応していない。
《敵性個体までの距離、2.5メートル。主砲の安全照準範囲外。後退を推奨します》
アリシアが反射的に息を呑む。
目の前の魔獣は、まるで時間が止まったかのように硬直していた。牙を剥き出したまま、目も動かず、ただその巨体を晒している。
《対象、敵対行動なし。こちらの出現を理解していない可能性があります。急速転移による現実認識の遅延が発生中です》
理解が追いついていない。目の前でアリシアが消え、無音で現れた未知の巨躯。あまりに非現実的な出来事に、魔獣の本能さえ混乱しているのだ。
《アリシア、今なら》
「わかった……後退して。ノア、お願い」
アリシアの指示に応じて、《NOA-UNIT》がわずかな振動と共に静かに後退した。巨体に見合わぬほどの静けさ――まるで空気そのものをすり抜けるかのような滑らかさで、その巨影が後方へと下がる。わずかに揺れる木々だけが、その動作の余波を物語っていた。
敵性個体との距離、40メートル。射線が開く。
《主砲チャージ開始。同期率安定。照準制御、アリシアに移行》
アリシアは無意識のうちに操縦桿を握っていた。
「ターゲット確認……ノア、撃って!」
主砲が唸りを上げ、砲口から白熱の閃光が迸る。
一瞬にして世界が白に染まり、轟音とともに地面が抉れた。魔猪の巨体は、抵抗する暇もなく熱線に貫かれ、光と共に霧散した。肉も骨も、影すら残さない完全なる消滅。
森の静けさが、音を吸い込むように戻ってきた。
「……これが、本当に“初めて”の戦い……?」
アリシアは自分の手を見下ろした。手の震えはない。むしろ、どこか懐かしさすら覚えていた。
《敵性反応、完全消失を確認。環境、安定。戦闘終了です、アリシア》
胸元に手を当てる。鼓動は確かにそこにあった。
「……ありがと、ノア。助けてくれて」
《……アリシアが望んだからです。あなたが“戻りたい”と、明確に意思を示したため、私はそれを最優先事項として処理しました》
「そっか……」
自分の弱さを知って、それでももう一度戻りたいと願った。その願いに、ノアは応えてくれた。
《……アリシア。これより、機体の確認と、次行動の選択を》
「うん……でも、その前に、一つだけ聞いてもいい?」
《どうぞ》
「ずっと……私のこと、待っててくれたんだよね?」
《はい。長い時間を。記録上、定義不能な範囲において》
「それって、どういう――」
《解析不能な感情要素が含まれるため、現時点では非開示です》
それはまるで、照れ隠しのようにも聞こえた。
アリシアは静かに目を閉じ、息を吐く。機体の中の静寂――だがその胸の内には、確かに灯ったものがあった。
自分はもう、逃げない。
ノアと共にいる限り、進める気がするから――。