第2話 裏切りと選択
夕暮れの森を、紅い光が満たしていた。それは、戦いの血の色だった。
「おかしい、あれだけ攻撃を叩き込んで倒したのに……まだ動いてる……!」
リオンの叫びが、焦燥に染まる。
森の奥、血に染まったはずの巨猪――いや、それはもはや魔獣と呼ぶべき怪物だった――が、禍々しい咆哮とともに立ち上がる。皮膚の下に浮かぶ魔紋が、地脈から直接力を吸い上げてどんどん巨大化している。
アリシアは、一歩下がりながら剣を構え直した。
「どういうこと……確かにあの一撃で……!」
「……いや、あれは幻覚だったんだよ。最初から俺たちは、見せられてた。あいつの能力だ」
カイが唇を噛む。その顔は、アリシアを見ない。
「――仕方ねぇ」
その声には、冷たく、鋭い決断が混じっていた。
「おい、リオン、フィーネ。あの怪物から逃げ切るには、誰かが足止めしなきゃならねぇ。こいつは速い、普通に逃げたら全滅だ」
「……だよな」
リオンがうなずき、ちらとアリシアを見た。
「まさか……」
アリシアは首を振った。だが、言葉が出ない。喉の奥が乾き、震えていた。
ほんのささいな違和感は、たしかにあった。最近、視線が合わない。どこか、避けられているような距離感。仲間たちと交わす言葉が、少しずつ噛み合わなくなっていた。 けれど、気のせいだと思っていた。 “冒険の疲れが溜まってるんだろう”って、そうやって自分をごまかしていた。
「アリシア。お前、最近妙だったよな? 何か隠してるみたいで。強くなりすぎたし。……俺たちの中で、お前だけ“異物”なんだよ」
「まさか……わたしを……?」
笑って否定してくれると思った。だが彼らは、視線を逸らし、答えなかった。
「お願いだ、時間を稼いでくれ。お前ならできるだろ? あの魔獣を一瞬でも引きつけられる。そうしたら……俺たちは逃げられる」
「……ひどい」
言葉が震える。涙がこみ上げる。だが、魔獣の咆哮はもう、すぐそこだった。
「お願い、フィーネ……!」
かつて一緒に笑い合った魔法使いの少女に手を伸ばす。だが、彼女は唇を噛み、視線を合わせなかった。
「ごめん、アリシア……」
アリシアを突き飛ばすと同時に、風のように、皆が去った。背中を見せ、誰も振り返らない。
アリシアはその場に取り残された。いや――置いていかれた。
何も考えられなかった。 足が動かない。声も出ない。 目の前の現実が、現実じゃないように感じられていた。 風の音さえ遠く、身体の感覚がどこか鈍くなる。 ただ、心だけが痛くて、熱くて、どうしようもなく叫びたかった。
魔獣が動いた。裂けた大地、噴き出す瘴気。体に伝わる強い衝撃と共に、世界が崩れる音。
アリシアは剣を握ったまま、両膝が地に着くのを止められなかった。
「なんで……なんで、わたしだけ……!」
だが、そこに突然、青白い光のパネルが、彼女の視界に浮かび上がる。
それは、何もないはずの空間に唐突に現れた。
まるで“最初からそこにあった”とでも言いたげに、違和感なくそこに在る。
『転移プロトコル:起動可能』
『転移先:ヴェルトリカル・コア』
『この世界を離れ、新たな環境へ移行しますか?』
――選ぶの? この、“どこか”を?
それでも。
死にたくない。
誰かに、見捨てられたまま終わりたくない――
アリシアの指が、かすかに動く。
『はい/いいえ』
震える指が、最後の賭けのように操作を選ぶ。
「……ここに、わたしの居場所なんてない」
《転送:ヴェルトリカル・コア》
次の瞬間、光が爆ぜた。
世界が音を失い、全ての感覚が断ち切られる。