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気がついたら、屋上に戻っていた。案内人が状況を知りたいと私を見つめている。
「三回目はいかがでしたか?」
「あの、これもう少し長く留まれないのでしょうか。あまりも短くて、折角状況を掴みかけていたときに引き戻されて、もどかしいです」
「私にはどうすることもできません。限られた時間の中で頑張って下さいとしか言えません。それで今回はいつのどのような時に戻られたのですか?」
「それは一回目にタイムリープした体育の授業の後でした。日付は十月二十五日でした」
案内人はホワイトボードに日付と情報を付け加える。十月二十五日はちょうど自殺する一週間前の日付だ。
「それでどうでしたか?」
「矢野恵都は授業を抜け出してトイレで泣いていました。体育の授業の後、私が強気につっかかったせいで風当たりが悪くなっていて、辛く感じたんだと思います」
私は想像する。
あの後、矢野恵都は着替えて教室に戻ったけど、周りの目が気になる。友達と話をしている周りの女の子たち。ちらっと偶然に矢野恵都に視線が行く。それだけで矢野恵都は怯えるはずだ。自分の悪口を言っていると思い込んで体がすくんでしまう。周りが邪悪な敵に見えて冷ややかに笑っていると思ってしまう。息苦しい。気持ち悪い。この場から逃げ出したい。そんな気持ちでトイレに駆け込んでいたのかもしれない。
「矢野恵都は屋上のあちらであの行動に至ったわけですから、それなりの理由はあると思います。あなたの行動だけが原因になっているとは思いません。多少の失敗は気にしない方がよいかと思います」
「失敗も何も、何をどう変えたらいいのかさえわかりません。本当に自殺を止められるのかな」
急に自信がなくなってきた。思ったより難しい。
「それじゃ、もうやめますか?」
案内人から簡単にそんな言葉が出るとは思わなかった。意表をつかれてきょとんとしてしまう。
「急にどうしたんですか?」
「自分も仕事が面倒くさいと思って、あなたにこんなことを押し付けましたけど、あなたが悩んでいる姿を見ると、申し訳なくなってきました。楽にさせてあげてもいいかなって思いまして」
「でも私も興味を持ったのは確かです。それに矢野恵都の中に入ってみると、放っておけない気もします。なぜ自殺をしなければいけなかったのか。その理由も気になりますし」
「でも、そんなこと気にしなくてももう一度真っ白な状態にすれば全てがなかったことになって忘れてしまいますよ。あなたを無にする……まあ、その作業が大変なんですけどね」
案内人はちらりと私に視線を向けた。
自分が無になる。それは自分が消えてなくなってしまうことだ。すでに死んでるわけだから、今更それが何というところだけど、私はタイムソウルキャンディを見つめた。まだ残りはかなりある。自分がそれだけ矢野恵都となってこの世に留まれるということだ。
例えどんな結果になろうとも全てを使い切ってからでもいいのじゃないだろうか。無になる前の私のあがき。
「私、やります。矢野恵都が戸惑うくらい、私が彼女の中に入っている時は楽しんでみたいです」
そういえば、私は引き受けてから弱音を吐いて、文句ばっかり言っているように思う。
私にとっても折角のチャンスを与えられているのに、失敗を恐れて弱気になっていた。ぐっとお腹に力を入れて次のタイムソウルキャンディを取り出した。今度は水色だ。
私は案内人をちらりと見てから、それを口に放り込んだ。
シュワシュワはすっかり慣れて、炭酸水の中に落ちた気分も余裕だった。次はどこへ飛ばされるのか、瞬時に対応できるように気を引き締めた。
笑い声が次第に聞こえてくる。
「へえ、それいい色だね」
「うん、かわいい」
女の子たちの会話だ。
髪の毛が引っ張られ、首が後ろに反れた。
「あっ、恵都、動いちゃだめだよ」
段々と意識がはっきりとしてくる。
目の前には利香がいて、私の手をとって爪にマニキュアを塗っていた。
その隣で清美がファッション雑誌を持ってページをめくっていた。
「この服なんか、恵都に似合いそう」
それを私に見せてくる。
確かにそれはおしゃれな服だった。
「か、かわいいね」
状況を読んで咄嗟に答えた。
その時、髪の毛がまた引っ張られる。
「いたっ」
つい声がでてしまう。
「あっ、ごめん、恵都。ちょっとここ、もつれてたみたい」
振り返れば由美里が櫛を持って私の髪を梳いていた。
一体どういう状況なのだろう。
ここは教室だ。黒板の日付は四月二十一日となっている。時計はもうすぐ午後四時になろうとしていた。
どうしてこの三人が放課後に矢野恵都の側にいるのだろう。どう見てもとても仲睦まじいじゃないか。
利香は丁寧にマニキュアのブラシを矢野恵都の爪の上で滑らせている。
ひんやりとしてなんだかくすぐったい。だけど利香にこんなことをしてもらっているのが嬉しく思えるのはなぜだろう。
自分の爪がうっすらとピンク色に染まって、艶々としてとてもきれいだ。自分でも見ていてうっとりとしてしまう。
由美里が私の髪の毛を梳いているのも、ドキドキとしてくる。
「ねぇ、ちょっとこの辺三つあみしてみようか」
「うん」
私が返事すると、右サイドの髪を触りだした。
「恵都の髪質って細くて柔らかいね」
優しく由美里に触れられ、ぞくぞくとしてしまう。
「恵都もさ、もっとおしゃれするといいよ」
清美は自分のリップグロスを取り出して、私の唇に塗ってくれた。ほんのりとイチゴの香りが漂う。
矢野恵都はこの三人にもてあそばれているのだろうか。でも、こんな構われ方は嫌じゃなかった。大切にされているようにすら思える。
矢野恵都はこの三人と最初は仲がよかったんだ。この時の三人が私は好きだと思える。
「あの、色々と優しくしてくれてありがとう」
これは矢野恵都にされていることなのに、つい自分がちやほやされているように思えてしまう。
「何言ってるんだよ。恵都がかわいいからつい構いたくなるの」
利香が顔を上げて私に微笑む。睨んだ時はきついけど、笑顔の利香はお姉さんみたいに頼りたくなってくる。
「嫌だったら、はっきりと言っていいんだよ。直接言えなかったら私に任せな」
清美はさばさばとしている印象だ。仲がいいときは面倒見がよさそうだ。
「ほらできた」
由美里がコンパクト鏡を取り出して私に見せた。
きれいに編んでくれている。とても器用な人だ。
「かわいい」
素直に喜ぶと、由美里は目を細くして満足そうにしていた。
「こっちも終わったよ」
利香がマニキュアの蓋を閉めながら言った。
「ありがとう。とてもきれい」
「これでお揃いだね」
利香が手を広げて私に爪を見せてくる。
お揃い。その響きが特別なことのように、私の心をくすぐる。
「自分がすごくかわいくなったような気分。みんなありがとう」
矢野恵都じゃないけど、優しくされるのはやっぱり気持ちいい。この先嫌われてしまうのが起こらないのではと思えてくるほど、この時のみんなは優しい。
「なんかお腹空いたね」
清美がお腹を押さえて空腹を強調する。
「あっ、私、お菓子もってるよ」
利香が鞄から何かを取り出した。青緑色のボトルに入ったラムネだった。
「あっ、ラムネ……」
「恵都は好きだよね。自己紹介のとき言ってたくらいだから」
利香は私の手のひらに二粒乗せた。清美と由美里にも同じように配っていた。
「これ、子供の時、よく食べたな」
清美はパクッと食べ、「うんうん」と相槌をうちながら由美里も口に入れた。
私はじっと見るだけでなかなか口に入れられない。もし食べてしまったら、このひと時が終わるんじゃないかと思ってしまう。
もう少し、このときのみんなと過ごしていたい。
みんな本当はいい人達なんだ。矢野恵都はこの時、この三人から好かれている。矢野恵都も好きだったに違いない。
「どうしたの?」
利香が心配そうに覗き込む。
「ううん、なんでもない」
私はラムネを口に含んだ。勢いでつい目を瞑ってしまう。でも恐れていたしゅわしゅわは起こらなかった。
ほっとしたところで、ラムネの甘さが感じられた。
「美味しい」
「私も好きなんだ、ラムネ」
恥ずかしそうに微笑んで告白したその時、大人びているはずの利香が子供っぽく見えてかわいらしい。
「もっと食べる?」
「うん、頂戴」
清美と由美里が手を伸ばす。
「恵都もほら、もっと食べて」
「あ、ありがとう」
今度はさっきよりも多めに手のひらに乗った。
ただラムネをみんなで食べているだけなのに、それがとても楽しいひと時で、忘れたくないと思った。
「あのさ」
つい口を開いていた。
「どうしたの、恵都?」
利香が首を傾げる。
この先、私を嫌わないでほしいと言ってしまいたい。ぐっと喉に思いがひっかかっている。でもそれが出てくることはなかった。
その代わり、私は利香の手を握った。
「どうしたの恵都。なんだか泣きそうだよ」
「ちょっと変なんだ」
後で起こることを考えると、本当に私は泣きたくなってしまう。矢野恵都はこの時そんなことも知らずにみんなと仲良くしていたと思えば思うほど、この日の出来事がとても切なく思えた。
涙がこらえきれなくなると同時に体がしゅわしゅわっと泡に包まれていく。
再び屋上に戻ってきた時、私は我慢できなくなって泣いていた。
「ど、どうしたんですか? 嫌なことでもあったんですか?」
案内人がびっくりしていた。
「ううん、あまりにも幸せを感じすぎて辛くて」
「はい?」
私は声に詰まりながら、案内人に全てを話した。重要な情報はホワイトボードに書き込んだあと、案内人はしばらく黙っていた。
仲がよかったからこそ、三人から嫌われてしまったことの辛さが痛いほどわかる。私は飛び降りたままの矢野恵都を見つめる。
「辛かったね、恵都」
彼女に声を掛けずにはいられなかった。
必ず彼女を助けたい。そんな気持ちが高まっていく。私は小瓶からラムネを一つ取り出す。口に放り込む前、次こそは助けられるようにとしっかりと握って祈っていた。
案内人も同じ気持ちでいると思って視線を向ければ、空を仰いでにやりと白い歯を見せて笑っている。私の視線に気がつくと少し慌てたそぶりになったように見えたが、その時は深く考える余裕がなくて気にしなかった。
「それでは次へ行く準備はできてますか?」
案内人に訊かれ、私は迷わずラムネを口に放り込んだ。