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「えっ、彼女に何か変化が現れましたか?」
案内人ははっとしていた。
「いえ、そういうことじゃなくて」
私は手を伸ばした後、矢野恵都に近寄ろうとしたその時だった。またゴツンと額を打ってしまう。
「えっ、痛い」
「ああ、言うのを忘れてましたけど、あなたがここで動き回れる範囲は決められているんです。自由にいろんなところに逃げ、いえ、行かれると困るもので……」
「なるほど、逃げられないようにということですか。それは仕方ないとして、でも、先ほどよりも範囲が広がっている気がするんですけど」
「それで変わったと感じたんですね。でも気のせいだと思いますよ」
「もしその範囲が広がっているとしたら、何か意味があるんですか?」
私は期待してしまう。例え些細なことでもこの屋上で変化があったら、それは私が過去に戻ったからと考えられるかもしれない。
「そうですね。何かの影響を受けている可能性も否定できません。この場合、矢野恵都じゃなく、あなたの心の変化があったと考える方が正しいのかもしれません。あなたもまたもう一度この世を味わうことで魂が成長し続けていますから。視野が広がったことが、ここで動ける範囲も広がったと考えると筋が通ります。憶測ですけど」
狭い範囲に閉じ込められたのは、自分の心が狭いからという風にも聞こえるけど、あまり深く考えないことにした。
案内人もよくわかってなさそうだ。彼にとって大切なのは、自分の仕事を減らしたいということだろう。
私が過去に行っている間も、この時が止まった屋上で仕事を堂々とサボれてゆっくりと過ごせるのかもしれない。
成り行きで私は利用されているだけだけど、小さくてもこの屋上に変化があったことは素直に嬉しかった。一歩前進だ。
私は小瓶を手にし、タイムソウルキャンディをまた一粒取り出す。今度は白色がコロンと手のひらに乗った。
次はいつのどの場所に飛ばされるのだろう。
「もう次に行かれるのですか? 休憩をいれてもいいんですよ」
「大丈夫です。では行ってきます」
三度目は慣れてきたこともあって、少しわくわくとしていた。自分が女子高生になって学園生活を送ることが楽しくなってきている。
その時、利香の笑顔が思い出された。もう一度あの続きに戻れますように。私なら彼女と仲良くなれるかもしれない。そう願ってタイムソウルキャンディを口に入れた。
その後はシュワシュワと泡を感じ、同じ感覚を繰り返して過去に戻って行く。気づいたら私の目の前で目を真っ赤にして泣いている女の子がいた。
私が困惑して慌てだすと、目の前の女の子も同じように困った様子であたふたしていた。
「大丈夫ですか?」
声を咄嗟に掛けたら、目の前の女の子も同時に「大丈夫ですか?」と口ぱくしている。でも声が伴ってなかった。そこには私が発する矢野恵都の声しかなかった。
そこでようやくそれが鏡に映った矢野恵都だと気がつく。ここはトイレの中だった。個室をチェックしたが、今は他に利用している生徒はいないみたいだ。
もう一度鏡の前に立つ。じっくりと彼女を観察する。これが、矢野恵都だ。
髪は肩を少し超えたストレートの黒髪。涙に濡れたまつげが長い。頬がふっくらとして丸みを帯びた顔。まだ幼さが残ってかわいらしい。やや気弱そうな雰囲気がしたのは、自分に自信がないからだろうか。それとも虐められて参っている姿なのかもしれない。
思わず鏡に身を乗り出してじろじろと見てしまう。
肌がきめ細かくて色白で、とてもきれいだと思った。
うっすらと涙のあとが頬に残っている。それを手でぬぐってやった。一体何があったのだろう。
ここにいつまでもいては何の情報もわからないので、私はトイレのドアをこっそりと開け、廊下の様子を窺った。
誰もいないので、そっと外に出て辺りを見回す。廊下の窓からは向こう側の校舎が見えて、それぞれのクラスの授業風景が窺えた。今は授業中だ。
でも矢野恵都は授業をサボっている。矢野恵都の一年四組の教室はこの先にあるけどそこに戻るべきなのか迷ってしまう。でも足はゆっくりと教室に向かっていた。
今の状況を把握したい。
怖い気持ちとこのままではいけない使命感に葛藤しながら、一年四組のドアをスライドした。一斉にクラス全員の視線が私に向いた。どきっとする。
ちょうど担任の佐賀先生の授業だった。黒板を見れば、英語が書いてある。そして日付を確認する。
十月二十五日――。
「すぐに戻ってきたけど、具合は大丈夫なのか」
すぐに戻ってきた?
「はい。すみませんでした」
佐賀先生に謝り、私は自分の席を探す。一番後ろの席が空いているのを見つけ、そこに向かう。佐賀先生は授業の続きを再開する。みんなの視線は教科書に向かったけど、利香はじっと私を目で追っていた。
冷たい眼差しがとても悲しく私の目に映る。四月は利香の方から声を掛けてきて、笑顔を見せてくれた。そのギャップが激しくて、矢野恵都としてじゃなく、私自信が辛かった。
一体このふたりの間で何があったのだろう。
席についたとき、隣から囁く声が聞こえた。
「恵都、大丈夫?」
振り返れば、英一朗だった。
英一朗は恵都と呼び捨てしている。ふたりの関係はやっぱり何かありそうだ。私は彼の顔を見たときびっくりしたのもあったけど、同時にドキッとしていた。
「うん。大丈夫だから」
矢野恵都は彼のことをなんて呼んでいるのだろう。水瀬君だろか、または英一朗君と下の名前だろうか。もしかして呼び捨てってこともありうる。
ぎこちない様子だが、やっぱり英一朗は恵都を気遣っている。
「でも体育の授業中、もめてたよね。何かあったんでしょ?」
ちらっと利香の方に視線を向けほのめかす。
もしかして、これは一回目のタイムリープの後の続きなのだろうか。
「私、あのあとどうだった?」
「あのあと?」
英一朗は私の事情を知らないから、何のことかわからない。
「えっと、その、私が突っかかってもめだした後だけど、私はどんな風に見えた」
「みんなに無視されて、ひとりでうずくまって泣いているように見えたけど」
やはり、矢野恵都は私のせいでもっと辛くなってしまった。
「それから?」
「えっと、それで教室に戻ってきても元気がなくて、授業が始まると急に気分が悪くなって教室から出て行ったんじゃなかった?」
「うん、そうそう」
ここは合わせるしかない。適当に返事した。これで私がしたことで矢野恵都を益々苦しめたことがわかった。これじゃ逆効果だ。
「でも大丈夫そうでよかった」
英一朗はほっとしていた。
「はい、そこ、いつまで無駄話をしている。矢野も気分がよくなったからといって、調子にのるんじゃないぞ」
先生に怒られた。
英一朗も私も肩をすくめた。
もう少し英一朗と話をしたかった。彼に聞けば何かがわかりそうだ。ノートを少し破って、そこに『後でもう少し話しできる?』とメッセージを書いて、それを彼の机の上にポンと投げた。
それ見るや否や、英一朗ははっとして驚いていた。
そして同じように英一朗からもメモが返ってきた。
『うん。恵都がまた話しかけてくれてうれしい。今までごめん』
英一朗が謝っている。
私が振り返ると、英一朗は遠慮がちに微笑んでいた。
益々ふたりの関係が気になってくる。早く英一朗と話がしたい。顔を上げ時計を見た時、二時半を回ったところだった。今は六時間目だろうか。早く授業が終わってほしい。でもまた例のシュワシュワ現象が始まりだした。
嘘、こんなに早く?
私は咄嗟に英一朗に声を掛ける。
「この後、私が変な態度でも気にしないで」
最後まで言えたような気がしなかった。