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二度目は状況がわかって少し余裕があった。次はいつどこに戻るのだろう。今度はもっとよく考えて行動しなければと思いながら、気がつけば私は教室の中で席についていた。
ぼうーっとした中、気弱で抑揚のない男性の声が耳に入ってくる。
「高校に入学し、新学期が始まって君たちは今希望を胸にわくわくしていることだと思います」
黒板の前で黒縁眼鏡をかけたひょろっとした小柄な男性が喋っている。黒板には『佐賀均』と書かれているところ見ると、この人が担任の佐賀先生なのだろう。右端には四月七日と日付が書かれている。これは新学期が始まったばかりの頃だ。そして高校一年の入学したての時でもあった。
まだ真新しい時。誰もお互いをよく知らないはずだ。ということは、矢野恵都はまだ虐められていない?
「だけども三年間はあっという間に過ぎ去る。先のことを視野に入れて目標を立ててほしい。進路のことや悩んでいることがあればいつでも先生に相談してくれていいから」
いい事を言っているように聞こえるけど、佐賀先生はひょろっとした風貌から見るからに頼りなさそうだ。笑顔もなく淡々と話している様子は口先だけに聞こえる。矢野恵都が虐められていてもきっと気がつきそうにない。だからあの結末になってしまうのだろう。
でもこのとき矢野恵都はこの先生をどう見ていたのだろうか。
いい風に思えば優しそう。悪い風に思えば、かっこよくない? いや、最初の頃は担任のことなんてそんなに気にしないかもしれない。このクラスにいるほとんどの人たちはきっとこの先上手くなじんでいけるか、仲良くできる人がいるか、ひとりにならないか、嫌われないか、自分のことを一番気にしているかもしれない。自分の居場所をこのクラスで見つけられるのか不安になっているような気がする。
「それじゃ、ひとりひとり自己紹介をしてもらおうか」
窓際の端からそれは始まった。
最初は男子からだった。椅子から立ち上がり、自分の名前を名乗る。そのあとは趣味や好きなことを好き好きに語っていく。
私は英一朗が自己紹介をするのを待っていた。後ろの席にいる彼の様子をちらりと窺う。その時目が合ってしまった。慌てて目をそらしたけど怪しまれなかっただろうか。
ドキドキとしながら下を向いていると、そのうち英一朗の自己紹介が始まった。
「えっと、水瀬英一朗です。趣味は読書と映画鑑賞です。よろしくお願いします」
人前で話すのが慣れてなく、当たり障りのない平凡な自己紹介。それが却って彼らしいようにも思えた。矢野恵都はいつ英一朗と言葉を交わすことになるのだろう。
英一朗が椅子に座る時、私の方をちらりと見た。目が合った私はどう反応すれば矢野恵都らしく振舞えたのだろうか。何もなかったことのように目を逸らしたけど、それが正しかったのかわからなかった。
それから女子の自己紹介が始まった。体育の授業の時に悪口を言った人が立ち上がった姿に私はドキッとしてしまった。
「小杉清美です。みんなと仲良くして一年四組を楽しいクラスにしたいです。趣味はお菓子作りです。今はマカロン作りにはまってます」
堂々とした明るく弾んだ声だった。
「今度作ってきて、私食べたい」
清美の後ろの席の女の子が声を掛けていた。その人も矢野恵都に悪口を言った人のひとりだった。
「うん、いいよ」
清美が後ろを振り返り嬉しそうに答え、席についた。
ふたりはすでに気が合ったように笑い合っていた。
「じゃあ、次は私の番だね」
そういって立ち上がると、笑顔を振りまいた。あまり物怖じしそうじゃない人だ。
「佐竹由美里です。趣味はお菓子を食べること」
またここで前の席の清美が振り返り嬉しそうな顔をした。この二人が意気投合しているのが誰の目にもはっきりと映った。
「夢は……あることはあるけど、なんか言うの恥ずかしくなっちゃった。とにかく私もみんなと仲良くしてこのクラスをいいものにしたいです。この一年間よろしくお願いします」
あの笑顔の陰に矢野恵都を蔑んでみるきつい目がちらつく。
この時点では虐めは発生していないから、清美も由美里も物怖じしない女子生徒だ。この先の未来で起こることを今ここで語るべきではないのはわかっているけど、あの嫌な体験を先に味わってしまうとつい偏見をもって見てしまう。
これは私がそう思うことであって、矢野恵都はまだ何も知らない。ここは客観的に傍観するのが正しいはずだ。
次々と自己紹介が進んで行く。そして私の前の席に座っていた人が立ち上がった。
「牧内利香です」
利香と聞いて私ははっとした。自分の目の前にいた人物がこれから矢野恵都を虐める主犯格になっていく。こんな近くにいたなんて。急にドキドキと心臓が早鐘を打つ。この人が後に矢野恵都を虐めてしまう。どうすればいいのだろう。落ち着かない中で利香の自己紹介に耳を傾けた。
「特に趣味ってないんだけど、キラキラするものとかかわいいものを見るのは好きかな。夢はいろんな国を旅行することです。どうかよろしくお願いします」
大人びたきつい感じがする人だと思ったけど、今の自己紹介で少し子供らしさを感じた。
利香は一体どんな人なのだろう。矢野恵都の何が気に入らなくなるのだろう。
そんなことを考えていると、「おい、矢野!」と先生に呼ばれる声がした。
「あっ、はい」
そうだ次は私の番だった。あれ、でも私は矢野恵都のことをよく知らない。何を言えばいいのだろう。
「えっと、矢野、け、恵都です。えっと、あの」
どもってしまう。というより、自己紹介できるネタを全く知らない。
その時、利香が振り返って私に微笑んだ。そして優しく囁く。
「落ち着いて。好きなものを言えばいいよ」
「えっ? あっ、あの、好きな食べ物は……ラムネです」
それしか思いつかなかった。
「みなさんと仲良くしたいです。どうかよろしくお願いします」
矢野恵都を嫌ってほしくない。そういう思いをこめて頭を下げた。
その時私を見ていた利香の笑みがとても優しく感じた。
座る時、ほっとしたのもあったけど私も自然と彼女を見て笑っていた。
後で虐められるとわかっていても、今目の前にいる利香の笑顔がこの時とても素敵だった。私に向かって微笑んでくれたこともとても嬉しくて、心が温かくなって心地いい。
このまま利香と仲良くできたら、矢野恵都も虐められることなんてないんじゃないだろうか。きっと矢野恵都も利香のあの笑顔を見たら好きになったはずだ。
笑顔を見せられると、こっちも笑顔が移る。笑顔って大事だ。せめて私が矢野恵都の中にいるときは笑顔でいよう。この先も矢野恵都が笑っていられますように。私は口角を上向きにしてみた。
自己紹介はさらに続く。まだ矢野恵都と接点がないので他のクラスメートはそれほど気にしないでいた。そこで最後のひとりが立ち上がった。
「和久井紗江です。趣味は読書。面白い本があったら教えて下さい。本が好きなのでいつか自分も物語を作ってみたいと思ってます。どうかよろしくお願いします」
メガネを掛けてまじめに見えるけど、とても地味な感じもする。でもメガネの奥の目が鋭い印象だ。じっと見る癖がついているのか、別の意味で近寄りがたく思えた。
私が振り返ったとき目が合ったので、少し微笑んでみた。ひとりでも矢野恵都を気に入ってくれたらという気持ちだったけど、紗江は無表情で私から目を逸らした。私の笑顔が中途半端だったのかもしれないし、紗江が人見知りだったのかもしれない。笑顔が返ってこなかったことに少しがっかりしたけど、気にしないようにした。
「みんなこれからは仲良く、そして一年四組を楽しいクラスにして下さい」
最後は佐賀先生の言葉で締められた。
ほっとしたのか、教室がざわざわとし始め、みんな近くの人たちと話始めた。
利香が私に振り返り、また笑顔を振りまいてくれた。
「ねぇ、恵都って名前、外国の女性の名前みたいで素敵だね」
「えっ、そ、そうかな」
なるほどケイトって英語の名前にもあった。
「ねぇ、恵都って呼んでもいい? 私のことは利香って呼んでくれていいから」
「うん、もちろん」
これって友達になろうって言ってるのと同じことだ。利香は矢野恵都を気に入ってくれている? まさかこんな展開になろうとは。私は利香を見つめながら素直に喜んだ。
この時、またシュワーと体から泡が溢れてくる。このサインはまた元に戻されてここで終わりということだ。もう少し利香と話がしたいのに利香の笑顔が遠くに離れていく。私が消えたあとの矢野恵都は利香と仲良くできるんだろうか。
やきもきと心配の中、気がついたら私はまた屋上に戻っていた。
「お帰り。どうでしたか?」
案内人が私の顔をのぞきこむ。
「はぁ」
思わずため息が漏れた。
「何か最悪なことでもあったのですか」
「いえ、その反対。とてもいい感じでした。もう少し留まりたかったです」
私は案内人に体験したことを詳しく話していく。そこで印象に残った人たちの名前を言った。案内人はホワイトボードに新たな名前を書き出した。
担任の佐賀、後に悪口を言う清美と由美里、そしてたまたま目が合って笑ったけど無視された紗江の四人が書き加えられた。
「クラスは一年四組。四月七日にそれぞれの自己紹介ですか。まだ始まったばかりの時で何も進展はないみたいですね」
案内人は情報を書き込みながらつぶやいた。
「時系列がばらばらで過去に戻ると複雑です。利香だって最初はいい人っぽく見えて、すごく戸惑いました」
「でも、その方が物事をよく見られませんか? 先に何が起こるかわかっているから、注意深く見るようになれるんだと思います」
「そうかもしれませんけど、行き当たりばったりで前後関係なく過去に戻るのは何が起こっているのか混乱します。本当にこんな調子で矢野恵都を助けられるんでしょうか」
私は飛び降りた直後で宙に留まっている矢野恵都を見た。もう少し近くで見たいと、近づいたとき、違和感を覚えた。
「あっ、なんか変わってる」