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 体の感覚が全くない。とても軽くふわふわとして、まるで浮いているように足が地についてない。手足も動かせず力が入らないけど、体は風に揺られるようにすっと動けるのが不思議だった。

 目の前にふたりの女の子がいる。

 ひとりはけんか腰に話し、もうひとりはメガネをかけていて言われるままに身を竦ませていた。

 あのメガネをかけている女の子には見覚えがある。

 ピンクの上下のスウェットを着て、胸にはCute girlとロゴが入っている。あれは私も着たことがある服。

 矢野恵都だ。そしてもうひとりは姉の聖良。ふたりはリビングルームで対峙している。

 私は俯瞰して上から彼女たちを見ていた。どうして? なぜ矢野恵都の中に入れないのだろう。どうやら魂だけがタイムスリップしてしまった。

 私があたふたしている時、ふたりは言い合いを始めた。

「いいよね、最新のスマホを入学祝に買ってもらって。私より高いやつだよね」

 聖良が箱を手にしてねちねち絡んでいる。

「お姉ちゃんは中学のときからすでに持っているじゃない。私、今までずっと持ってなかったもん。それ返して」

 恵都が催促しても姉は箱を返そうとしなかった。その箱には新品のスマホが入っているようだ。

「あんたさ、お父さんの仕事が変わって給料が下がったの知ってるのに、こんないい機種を買ってもらうなんて贅沢よ」

「私が選んだんじゃない。お父さんが買って来てくれたんだもん」

「あんたは、お父さんに取り入るの昔から上手かったよね。いつもいい子を演じてさ。その服だって、お父さんが買ってきたんだったね。キュートガールっていうロゴもお父さんの本音なんだよね。恵都がかわいくて仕方がない。本当に気持ち悪い」

「そんなことない。部屋着が欲しかったのを知ってて、たまたまセールで安かったから買ってきてくれたんだよ。上下で五百円だったんだよ」

 恵都が説明しても聖良は聞く耳持たずだ。

「そういうことを言ってるんじゃないの。あんたはわざとアピールしてるってことなのよ。()(よう)高校を選んだのも、家の近所で交通費が浮くからでしょ。家計のこと考えたんだよね。本当だったら、私よりもいい高校にいけたのに、負けず嫌いの私に遠慮したんでしょ」

「違うよ、朝ゆっくり寝られると思ったからだよ。朝起きるの苦手だから。それに華葉高校も結構いい高校だよ」

「そうやっていつも本音を隠して嘘をつくんだから。そんなの見え見えなんだよ。少しでも家計の助けになるからと家から近い高校を選んだ。それを知ったお父さんは心打たれて奮発していいスマホを買った。お父さんは恵都のことになると無理するから」

 聖良は妹に嫉妬している?

「お姉ちゃんが考えすぎだよ。それ返して」

「お父さんに取り入って高いもの買わせようとしてないのなら、どんなスマホでもいいよね。だったら私のと交換してあげる」

「そんな。どうしてそんな意地悪するの?」

「意地悪? あんたがいつもいい子ぶるからだよ。そんなロゴが入った服きて、自分がキュートガールにでもなったつもりなんでしょ。全然顔と文字が似合ってないわ」

「服のロゴなんてどうでもいいでしょ。そんなことより、スマホ返して」

 恵都は箱を取り戻そうと姉に手を伸ばすが、姉は恵都を跳ね除ける。恵都もかーっとして向きになって取っ組み合いに発展した時、もみ合った拍子にメガネがはずれて床に落ち、それを姉がバリッと踏んでしまった。

「あっ」と思った時、メガネの柄の部分が外れていた。

 そこに母親が買い物から帰ってきて、部屋に入ってきた。

「ちょっとあんたたち何やってるの? また喧嘩なの?」

「ううん、違うよ。恵都がスマホを交換してくれるって無理やり押し付けようとするの」

 聖良は簡単に嘘をついた。

 誰が聞いてもそんなの嘘に聞こえる。でも母親は何も言わない。

「お母さん、あのさ、お姉ちゃんが」

 恵都は母親に助けを求めようとするけど、母親はキッチンで袋から食品を取り出してまともにきいていない。というよりとても疲れていた。

「恵都、お姉ちゃんは新しいスマホが欲しいって、買うまでうるさく毎日言うから、ここは我慢して交換してあげて。うちはもう一台新品を買う余裕がないの。恵都ならうちの事情わかってくれるよね」

 母親の言葉に恵都はショックを受けていた。その横で聖良は得意げに笑っている。

 見ている私の方がいらっとして聖良を殴りつけたくなってくる。

 でも恵都は壊れたメガネを拾い「わかった」と悲しげに返事をした。

「さすが物分りのいい恵都。サンキュー。データ移行したら後で私のお古渡すね」

 姉は箱を抱えて、自分の部屋へといってしまった。

 それを確かめると母親は恵都にこそこそ話す。

「恵都、ごめんね。お姉ちゃん、学校生活が思うようにいってないみたいですぐに荒れるでしょ。スマホで機嫌がよくなるのなら、とても助かるの」

 母親は聖良の扱いに困っていた。

 恵都はそのことに対してもう何も言わなかった。壊れたメガネを手にして泣きそうになるのをじっとこらえていた。

 かすれた声で母親にそっと呟く。

「お母さん、メガネ壊れちゃった」

「ええ、お金が入用な時に、なんで壊すのよ」

「お姉ちゃんが……」

 とても小さな声だった。母親は何も言わない。その代わりため息が聞こえた。

 姉が壊したといっても、母親は姉に叱るわけでもなさそうだ。恵都はじっとして考え込んでいた。そして顔をあげる。

「メガネ壊してごめんね」

 そこまで言わなくていいのに、恵都にとったら精一杯の母親へ対する皮肉のつもりなのかもしれない。

 母親の手元が止まった。そこで一瞬間が空いた。母親も誰が壊したかくらい想像がついていたのだろう。

「……壊れたものは仕方ないね。だったら、いい機会だし、コンタクトにしてみる?」

 スマホのお詫びなのだろうか。

「お金大丈夫なの?」

「メガネもコンタクトも値段変わらないでしょ。だったら違うことしてもいいんじゃない? どうする?」

「うん。コンタクトにしてみたい」

 恵都が気に入ったことで母親も微かに微笑みほっとする。これで埋め合わせをしたと思ったのだろう。

 母親は聖良の肩ばかりを持っているわけではない。生活に疲れてトラブルを避けたいだけだ。それを恵都がよくわかっているから、全てを我慢する。

 損な立場なのかもしれない。恵都自身、もどかしそうだ。決してコンタクトレンズを買ってもらうからといって、姉の理不尽な行動を許せるわけでもない。

 母親の気遣いも邪険にできなかった。本当はコンタクトレンズなどどうでもよかったのかもしれない。母から勧められても恵都は全然笑ってなかった。

 でも「ありがとう」と健気にお礼を言っていた。

 そしてリビングルームから出て行く。私は彼女の後をついていくが、身がとても軽くて壁やドアをするりと抜けられることに驚く。

 どうやら、魂だけが過去に戻り本来の矢野恵都を見ることができている。これって私は時をかける幽霊ということだ。こんな姿でどうやって彼女を救えばいいのだろう。

 その後、恵都は部屋で机に向かってセロテープを使ってメガネを修理していた。

 それをじっと見てため息をつく。そしてすくっと立ち上がると服を着替えだした。

「私はかわいくもなく、いい子でもない。こんな服二度と着ない」

 姉に言われたことがとても悔しかったみたいだ。

 色々なことが見えてくる。これが本当の矢野恵都の姿。

 私がもし彼女の中に入っていたら、姉にあのスマホを絶対に渡さなかった。もっと挑んだはずだ。でも恵都は物分りがよすぎた。そういう癖がついてしまっている。争いごとが起こると自然と身を引いてしまう損な性格だ。

 この日いろんな思いに突き動かされたのかもしれない。

 恵都は静かに怒っていた。

 今、彼女の中に入れば姉からスマホを取り戻しに行きたい。

 どうにかして彼女の中に入ろうと私は試みるのだけど、すーっと体を抜けてしまいどうしても憑依できなかった。

 なんでできない。

 その時、自分の中でパチッとはじける音がしたと思ったら、急激に風がふいたように体が流された。

 自分はどこに言ってしまうのか。

 そして辿りついたのは、教室の中だった。


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