5
「お帰りなさい」
案内人の顔が少し強張っている。それだけで屋上の端にいる矢野恵都は何も変わっていないと読めてしまう。
私は後ろを振り返れなかった。現実を直視するのが怖い。
ただ悔しくて拳を握り締めながらうなだれてしまう。
今はまだ見ない方がいい。次だ。次が勝負だ。必ず変化が現れるはずだ。
自分に言い聞かせて、姿勢を正して案内人をまっすぐ見て報告する。
「新学期も近い夏休みだと思うんですが、みんなでファミレスに集まっていました。矢野恵都を中心に会話があって、彼女はみんなから好かれてるとしか思えなかったんです」
「楽しいひと時を過ごしていたんですね」
「でも、そこに絵梨がいて、実際の矢野恵都はどう思っていたかわかりませんが、私が彼女の中に入って感じたのは今までの関係を邪魔されるような危機感でした。私は矢野恵都の中に入って利香たちと一緒にいると、独占したいくらいすごく楽しかったんです。この後どうして虐められるのか、どうしてもわからないです。もしかしたら、私はどこかですでに変えて十月二十五日は違った展開になるのかもと思えるくらいです」
そうであって欲しいと願いも入っていたけど、案内人はホワイトボードにメモしながら静かに聞いていた。
私はできる限り詳しく話そうとする。全てを話し終えた時、案内人は私と向き合った。
「残るところあと一粒となりました」
小瓶を掴む手に重みを感じる。
焦るな。
大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
案内人は真剣に私を見ていた。
「ここまでくるとあなたは矢野恵都の中に入って、彼女とは違う見え方をしたのかもしれません。本来、恵都がすべき言動をあなたは違う視点から見て感じ、変えてきました。本来の恵都とは違った行動があったはずです。そしてあなたは恵都がこの後、信頼していた友達から仲間はずれにされてしまうことも知っています。それでもあなたは彼女たちが好きといいました」
「そうです。私は矢野恵都の中に入れてとても楽しかった。例え嫌なことがあっても、つまらない日常だったとしても、生きているからこそ味わえるものだと思いました。一度死んだ自分だからわかるんです。きれいなものがより一層鮮やかに見えたり、普段の食べ物がもっと美味しく感じたり、見えない気遣いを感じたり、些細なことが愛おしかった。私は矢野恵都にいいたい。死ぬなんて勿体ないと」
力説してぶるぶると体に力がこもってしまった。
「最初は自分の仕事が面倒くさいから、たまたま側にいたあなたに無理なことをお願いしましたけど、あなたがこの世で感じた思いに心を打たれました。今は頑張ってと私も熱くなってます」
「はい。それじゃ、次こそ変えられるように頑張ってきます」
小瓶から最後の一粒を手のひらに乗せた。
この一粒に矢野恵都の運命が掛かっている。それを口に入れ最後のシュワシュワを味わった。
意識がはっきりした時、私は下駄箱に自分の靴を入れ終わったばかりだった。上履きに履き替えたということは、朝登校してきたに違いない。
肩にかけていた鞄の位置を整え、私は教室に向かった。
教室に足を踏み入れまずは黒板の日にちをチェックする。九月二十日となっている。時間は八時二十分過ぎだ。黒板には他に大きくURLが書かれていた。何かの連絡だろうか。『これを見て』と言葉も添えられていた。
そして教室全体を見た時、スマホを持っている女子や男子が私を見てこそこそ話していた。その目つきが突き刺さる。
英一朗が教室の隅で紗江と一緒にいて何かを話しているが、もめている印象だ。紗江は怒ったように英一朗に何かを言って自分の席についていた。英一朗は私の視線に気がついて何か話したそうだったけど、その前にあまり絡んだことのない女子生徒が私のところにやってきて怪訝な顔をした。
「あのさ、あのサイトで書かれてることって矢野さんが書いたの?」
なんのことだろう。
彼女は黒板に書かれたURLを指差していた。
矢野恵都はネットで何かを書いているのだろうか。鞄の中を探り、スマホを取り出しURLにアクセスした。
『ヤーンのひとりごと』というタイトルのサイトが出てきた。とりあえず目に付いた文章を読んでみた。
――クラスは相変わらずアホ面ばかりだ。なんでこんな連中と同じ空気を吸わなきゃいけないんだろう。
なんだこれ?
――二学期が始まったけど、夏休みに海外に行ったからってお土産にチョコレート持ってきて、結局は自慢なんだろう。マカデミアナッツ入りのチョコなんて日本でも買えるのに。側にいたからひとつもらったけど、食べずにこっそり捨てちゃった。
――早めに宿題を終わらせたけど、見せてくれって言われるの腹立つ。断れなくて見せたけど、それなら何かおごれっていうの!
――ちょっと大人しくしてたら、コロッと騙されて優しくしてくれるけど、心の中ではあんたたちといるのがうざいんだよ。
――1年4組って本当につまんない。みんな本心隠して表面だけは仲良くして、茶番だ。見ていてむなしい。
――グループでいるといつも自分を押し殺してしまうのがいやだ。気の強い連中となんでいつもいっしょにいないといけないのだろう。
――ちょっと話しかけたら、仲良くなったと友達気分になってるけど、本当はあんたなんかと一緒に居たくないんだよ。それなのにずけずけとグループに入ってきてあつかましい。
ちょっと読んだだけでも悪口だ。これがどうして矢野恵都が書いたと思っているのだろう。
「これは一体……?」
私が首を傾げていると、顔すら覚えていない女子が目を三角にして突っかかってきた。
「このサイトは矢野さんのなの?」
「私じゃないよ」
実際のところ私は半信半疑だ。まさか矢野恵都が本当に書いていたんだろうか。はっきりとわからないから私はうろたえてしまった。
それが益々見るものには怪しく見えているかもしれない。そこではっと我に返った。まさか、これが矢野恵都の虐めに繋がる出来事!?
「チョコレート捨てるんだったら入らないって言えばいいじゃない。それをこんな風に自慢してるとか書いてさ」
もしかしたら、この人が夏休み海外に行ってお土産にチョコ買ってきた人なのだろうか。今まで接点がなかったから、全然わからない。そして矢野恵都がこのサイトを作ったと決め付けている。
「もういいじゃない、放っておこうよ」
誰かがなだめて、チョコの人を私から遠ざけた。そこから連鎖して他の女子生徒が私を睨んでいた。
「本当に私じゃないよ」
とりあえずは否定してみたけど、胸がドキドキとしてしまう。でもなぜ矢野恵都だと決め付けるのだろう。
「どうしてこれが私のサイトだと思うの?」
「一年四組ってあるし、このクラスでヤーンと名乗れるのは矢野さんしかいないじゃない」
矢野だから、もじってヤーン? でも彼女は違うことを言った。
「そうよ、ヤーンって、英語で毛糸を意味するじゃない」
毛糸? けいと、恵都……あっ!? そこに引っかかるというわけか。
「矢野さん、英語が得意だし、自分の名前を英語にもじったんでしょ」
次々にクラスの女の子から言われてしまった。
男子の声も聞こえてくる。
「大人しそうに見えて、陰でクラスの悪口いうなんて、酷い女」
「バレない名前だとでも思ったのか? 馬鹿じゃねぇ? バレバレなんだよ」
こんなのって、なんで。
とにかく私は黒板のURLを消した。後ろを向いていてもちりちりと視線が背中に伝わってくる。
そういえば、まだ利香たちが来ていない。でも利香は私を信じてくれるはず。矢野恵都がこんなことする訳がない。
チャイムが鳴る八時半ギリギリになって利香、清美、由美里、そして絵梨が一緒に後ろのドアから入ってきた。
私が利香に駆け寄ろうとすると、プイッと首を横に振る。
すでにサイトのことを知っていて、私が悪口を書いたと思っている。
「利香、ねぇ、聞いて」
「何も話すことなんてないよ」
利香は冷たく私を突き放し、自分の席に着く。
「清美、由美里」
「あんたさ、うちらのことうざいって思って付き合ってたんだ。本心を隠して陰で呟くって最低」
由美里は激怒している。取り付く島がない。
「違う、あれは私じゃない」
「ぼかして書いていても、私たちのことだって一緒にいたらわかるよ」
いつも冷静な清美がなぜ矢野恵都を疎外した理由がこれでわかった。
これが虐めに繋がる原因だった。
本当に矢野恵都が悪口を書いたんだろうか。
「恵都、なんでこんなことしたの? 私のこと嫌ってるなんて知らなかった。」
絵梨が悲しげな表情を向けると、私はドキッとしてしまう。
絵梨については心当たりがあるから、息苦しくなってしまった。
「私が恵都の邪魔をしたと思ったの? 私は恵都と仲良くなったのが嬉しかったのに」
やはり矢野恵都がこっそりと悪口サイトを作っていたのだろうか。
これがタイムリープするラストチャンス。ここで失敗するわけにはいかないのに、条件がとても不利すぎる。
でも私は今、矢野恵都の行動が否定しきれてない。
私は考える。ここでちゃんと対応できなければ矢野恵都は確実に死を選んでしまう。
「ほら、みんな、席につけ」
佐賀先生がやってきた。
クラスはみんな自分たちの席について静かになる。
「矢野、いつまで後ろで立っているんだ。早く席につきなさい」
みんなが座ったあと、真ん中の席が空いていた。四方八方から見られてしまうような席だ。そこまで行くのが怖く、足が震えた。
出席がとられ、ホームルームが始まるけど、先生の話なんて耳に入ってこなかった。
下を向いてこっそりともう一度スマホでサイトを確認する。書き込みの日付は五月から始まっている。ところどころ私が知らないことも書かれている。私がタイムリープしていない時に起こったことなのだろう。私は一度も書き込んだことがないし、こんなサイトがあったことも知らなかった。
まさか、紗江が私に成りすまして書いたということは考えられないだろうか。
紗江を問い質したい。でもそうだとして本人が素直に白状するだろうか。もし違ったら、あの紗江のことだ益々それを逆手にとって私を責めてくる。
それじゃ他に誰がこんなことするというのだろう。
まさか、本当に矢野恵都本人がしたことだったらどうしよう。矢野恵都はいんけんな性格だった? 私が勝手にいいように思い込んでいただけなのか。
それでも、矢野恵都を死なせるわけにはいかない。
ホームルームが終わり、担任が教室から出て行くと、クラスはがやがやと騒がしくなった。そのクラスの雑音の中に矢野恵都を責める声が混じっているように感じる。
何もせずにこのままここで座っているわけにもいかない。私は立ち上がる。その時、クラスが一瞬静かになった。その瞬間に私は怯える。クラスがこんなにも怖いと思ったことはなかった。
みんなが私を見ているのがわかる。でも私は周りを見る勇気がない。心のどこかで矢野恵都を信じきってない。
でも彼女になりきって考えるべきだ。
矢野恵都の中に入ったことで私にはわかるはずだ。もし矢野恵都が悪口を書き込んだとしたらきっと家族の悪口も書き込むはずだ。そして紗江や英一朗のことも。こんなに毎日が不服ならば、関わった人全てにおいて不満をもつはずだ。
私が利香たちと一緒にいて楽しかったことは必ず矢野恵都も感じているはず。矢野恵都は嫌われまいとしてあの中で必死に似合う自分になろうとしていた。そんな彼女が利香たちの悪口を書くだろうか。好きだからみんなに釣り合いたいと一生懸命に背伸びしていた。
やはりあの書き込みは矢野恵都じゃない。
今、私が彼女を信じないでどうやって自殺を食い止められるというのだろう。
私は勇気を振り絞って顔を上げる。そして利香のところへと向かった。どうにかして利香にも信じてもらわなければ、矢野恵都は居場所を失ってしまう。
「利香」
真剣な顔をして向き合う。でも利香は私と目を合わせなかった。
「あのサイトの書き込みは私じゃない。利香なら信じてもらえると思ってる」
利香はゆっくりと私に視線を向けた。その瞳が揺れて困惑しながら私を見ていた。かすかに唇が動くけど声は出てこなかった。そしてまた目を逸らし、私の存在をなかったことのようにリセットした。それがとても悲しい。
「私、利香に好かれるように無理をしていたかもしれない。それが利香にとったらじれったかったり、もどかしかったりってわかってる。でも私、矢野恵都にとって利香は大切な友達だから嫌われることが一番怖かった」
他に何が言える? 利香にどう伝えたら信じてもらえる?
涙目になりながらも、必死に思いを伝えようと私は踏ん張った。
でもだめだ、利香は全然反応してくれない。
「見苦しいよ、恵都。もうやめな」
清美に腕をとられ引っ張られた。私はそれを跳ね除ける。その時シュワシュワが始まった。嘘でしょ。こんな中途半端にここで終わらせたら、何も変わらない。
「利香、お願い。信じて」
最後まで言い切れただろうか。私はそこで泡に包まれて矢野恵都から引っぺがされた。
これが最後のタイムスリップだというのに、一番大切な場面だったというのに、利香の信頼を勝ち取れなかった。
その後悔を抱いたまま、私は屋上に戻り案内人の前でうなだれていた。
案内人が何も言わない。ただ申し訳なさそうに私を見ている。
「何も変わっていないのですね」
私の方から声を掛けた。
「残念ながら、そういう結果となりました」
私は空の小瓶を手にしていた。それを案内人に突き出す。
「もう少しだけタイムソウルキャンディを下さい」
「申し訳ないのですが、それは矢野恵都の年齢の数しか与えられないのです。彼女は十五歳でしたので、十五個分だったということです」
最初手にした時はたくさんあるから簡単に変えられると思い込んでいた。もっと考えて使うべきだった。自分の計画のなさに今更腹が立ってくる。しかも、ひとつ落としてしまった。
その時私ははっとした。
「一個落としたから、まだどこかにあるはずですよね」
「でも、それは」
案内人の言葉など聞いている暇はない。落とした方向へ私は向かう。その時、かなり動ける範囲が広がっていることに気がついた。相変わらず屋上の端で、飛び降りようとしている矢野恵都がいる。何ひとつ変わっていない。だけど私は最後まで諦めたくない。
見えない壁が取り払われ、矢野恵都にかなり近づけるようになった。近くで見るとその姿はやはりとても生々しい。直視するのもためらわれた。
彼女から感じられる悲痛さ。追い詰められてしまった絶望。信じてもらえなかった悔しさ。全てが私には理解できる。それでも私は彼女に生きて欲しい。人生なんて楽しいことばかりじゃない。辛いことの方が多いのかもしれない。だけどもそれがあるから、この世の些細なことがとても美しく見えるんだと思う。
何かに成功して富を得てもそれは一瞬だけで、それが一生幸せに続くことでもない。毎日の日常の中でこそ味わえる小さな喜び。それは自分の見方しだいでいつだってたくさん感じられることだと知った。
それを矢野恵都、あなたが私に教えてくれた。
私はあなたをどうしても救いたい。今度はあなたがその目で日常の幸せを見つける番だ。
フェンスまで近づけた時、その根元にピンクのタイムソウルキャンディが落ちていた。
「あった!」
私はそれを拾い上げ、軽くはたいた。
口に入れようとした時、案内人がさっと目の前に現れた。
「待って下さい」
「どうして止めるんですか。これが最後のチャンスなんです」
私は必死になって訴える。
「それは小瓶から一度出て、あなたの手をすり抜けて落ちてしまったものです。その後、長いこと放置され、そのせいで鮮度も悪くなってます」
「鮮度? タイムソウルキャンディは賞味期限があるんですか?」
「そう言っていいのかわかりませんが、それは矢野恵都から抽出したエネルギーの元なのです。色がパステルカラーなのも、彼女の好みだからそうなったのでしょう。それは小瓶の中で鮮度を保たれ、あなたが口にすることであなたの持つ力と結合し過去に飛べて彼女に憑依できるのです」
案内人の表情が難色を示していた。
「じゃあ、これはもう効力がないと仰るんですか?」
「わかりません。ただ、通常通りに働かない可能性があるということです」
「それでも、私はチャンスがあるならそれにかけます。必ず、彼女を救います。それに私だって、まだこの世に留まれるチャンスがあるんですよね」
「それは、もちろんですが」
何か問題がありそうな言い方だが、気にしてられない。
「それじゃ、やるしかないじゃないですか」
私は少し汚れて傷がついたタイムソウルキャンディを口に入れた。シュワシュワの中に濁りを感じる。砂が混じった不快感。透明だった炭酸水が濁って泥水のようだ。爽やかなシュワシュワ感がなくなりぶくぶくと洗剤が泡立つ粘りのある泡が私を取り囲む。体が重く感じ、深く沈んでいった。でも体にはいくつもの泡がへばりついて、そのそれぞれの泡の中に時計の針が巻き戻っていた。
そのうちのひとつがはじけた時、私の体も鈍くはじけとんだ。




