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「普通だけど?」
ごまかして答えたけど、この日は矢野恵都にとって最悪の日だった。それが私の食べたいという欲のせいで彼女の苦しみが母親に伝わらなくなってしまった。
「それに、そのスウェットも着るのをずっと嫌がってたんじゃなかったの?」
「そうだっけ?」
そっけなく答えたものの、内心ヤバイ感じが拭えない。この服にも何か問題があるのだろうか。
「いつもお姉ちゃんばかりに気を遣うから、恵都には我慢ばかりさせてすまないって思っているのよ。本当は何か言いたいことがあるんじゃないの? 恵都は口には出さないけど、時々それとなく態度で知らせようとするから」
後ろめたそうな母親の表情。矢野恵都に対して母親は悔いているような様子だ。状況が飲み込めない私にはどう答えるべきかわからない。ただ黙って聞いていた。
「ごめん、別にいいのよ。恵都は好きなようにしなさい。あなたがいい子でお母さんはとても助かってるわ」
矢野恵都は優しい子だ。姉に問題があり母親はそれに苦労しているのを悟って家族に迷惑をかけないようにしている。でもそれは却って矢野恵都を苦しめている。家族でも本音が言えない環境は息苦しそうだ。
もう少し家庭環境の情報がほしい。
「さっき、お姉ちゃんの部屋を開けたら怒られたけど、お姉ちゃんは何で私に怒るの?」
「自分の思うように行かないから聖良は八つ当たってるのよ」
姉は聖良というのか。姉妹そろって外国っぽい名だ。
「どうして八つ当たりなの?」
「いい高校に入ったまではよかったけど、周りの人たちはもっと勉強ができて初めて劣等感を覚えてしまった。そこからイライラしてるのかもしれない。その点、恵都はもっと上の高校を目指せたのに、家から学校が近いだけで安易に決めたでしょ。お姉ちゃんのようにはなりたくないって言われたみたいに思ってるのよ」
矢野恵都はもしかしたら英一朗と同じ高校へ行きたかった可能性も考えられる。勝手にイライラの種にされて理不尽だ。
それからしばらくして玄関のドアが開く気配を感じた。
「ただいまー」
父親の声が聞こえる。廊下を歩く足音が近づいてドアが開いた。
「お帰りなさい」
母親と合わせるように私も声を掛けた。
私を見るなり掲げた白いビニール袋を前に差し出す。
「こんなのでよかったか?」
メガネをかけ、まじめそうな父親だ。ふっと笑った後に疲れたようなダルさが残る。
手渡された袋の中を確認すれば、思っていたのよりも豪華だった。彩りよく飾られたフルーツと白い生クリームが添えられている。これはプリンアラモードだ。冷蔵庫に入っているものよりもずっといい。
「ありがとう、お父さん」
「恵都は最近食欲なかったから、お父さん、心配してたんだよ」
父親は恵都をかわいがってそうだ。
「早く、ご飯にしましょう。ほら、お父さん、手を洗って着替えてきて。ついでに聖良にもご飯って伝えて」
「はいはい」
父親はまた廊下へと引っ込んでいく。母親は慌しくおかずをテーブルに並べだした。
私はプリンを冷蔵庫にしまい、後で食べられるかもしれない期待でわくわくしていた。
奥で父親が聖良と話す声がこごもって聞こえると、ばたばたと足音が近づいてくる。バーンとドアが開くと、姉の聖良が姿を現した。
「はぁ、あんた、なんでそれを着てるの? 捨てたんじゃなかったの?」
捨てた?
「ほら、もういいじゃない。聖良、早く座りなさい」
母親に諭され、聖良はテーブルにつくも、おかずを見て嫌そうな顔をする。
「なんで、肉じゃが? どうせならすき焼きにすればいいのに」
「お肉よりもジャガイモがたくさんあったの」
「またもやしの炒めものなの、これ昨日もあったよね」
「いいでしょ、ちゃんと味は変えてるわよ。昨日は塩炒めで今日は醤油炒め。もやしは安くていっぱい食べられるんだから重宝するの。文句言わないの」
聖良はいちいちおかずにケチをつけていた。
「ほら、恵都も座って」
茶碗にご飯をよそおい、母親は私をせかした。
聖良の隣に座れば「ふん」と嫌そうにする。そんなことよりも、私の前におかれたほかほかご飯に釘付けだ。
にくじゃが、もやしの炒め物、お味噌汁、漬物とそんなに豪華ではないけども、それらとご飯があれば立派な食事だ。
部屋着に着替えた父親が入ってくる。
「おっ、肉じゃがか。酒が合いそうだな」
ちらっと母親を見るけど、それを華麗にスルーした。しょぼんとした父親がかわいそうに見えてくる。
「それじゃ、食べましょう」
母親が最後に席につくと姉以外、「いただきます」と手を合わせた。
お茶碗を持てば、手のひらに温かさが伝わってくる。お箸を持ってご飯を口にする。食べているって満足する気分だ。次に肉じゃがに手を出した。柔らかく煮込まれて、箸で運んでいるうちに崩れそうだ。鯉のようにぱくっと食べると、しっかりと味が口の中に広がって自分までジャガイモのようにホクホクする。
「おいしい」
自然と声が漏れた。
「はあ、肉じゃがごときで美味しいって、うちはよほど貧乏だな」
聖良は鼻で笑う。
「そんなこと言うんじゃないよ。お父さんの給料が減ったのに、お母さんはやりくりして立派な食事を作ってくれるじゃないか。感謝して食べなさい、ねっ」
優しく諭す父親。責任は自分にあるから、あくまでもソフトにあまり強くいえないようだ。
「どこまであんたはそうひねくれてるの。そんなに文句があるなら食べなくていいわよ」
母親は機嫌を損ねる。
聖良はプイっと横向いて、肉じゃがの肉だけ箸でつまんだ。
「それにしても、恵都は食欲が戻ったのか? 最近全然食べてなかったのに」
パクパクと食べている私を見て、父親が不思議そうに母親と顔を合わせた。
「今日はお腹が空き過ぎただけかも」
今は中の人が違うんです。気にしないで下さい。
まだシュワシュワは起こらない。せめてプリンを食べるまで待ってほしい。
「お母さん、生卵ちょうだい」
聖良がかったるく催促する。
「自分で取りなさい」
母親に拒否されて、聖良は仕方なく席を立ち、冷蔵庫へと向かう。その扉を開けたとき大きな声を出した。
「ちょっと、何これ。なんでプリンアラモードがあるの?」
「それ、私のだから。お父さんが買ってきてくれたの」
もごもごとしながら私は答えた。
「なんで恵都だけ豪華なプリンなの。私の分がないじゃない」
「いいじゃないか。恵都は最近食欲なかったんだから。聖良はいつも食べてるじゃないか」
「それでも娘がふたり居るんだから、ふたつ同じの普通買ってくるでしょ。これじゃ不公平よ」
聖良は納得いかない。
「あんたのプリンはすでにあるでしょ。それ三個入りパックだったのに、恵都にはひとつもあげなかったじゃない。数では聖良の方が多く食べてるんだからいいじゃない」と母親。
「私のは三個パックで百六十円くらいじゃん。恵都のは二百八十円って書いてる」
「あら、ひとつでそんなに高いの?」
母親はちらりと父親を見る。
「それひとつしかなくてさ」
慌てた様子の父親。
「だったら変わりに同じような値段のスイーツを私に買ってくればいいじゃないの」
聖良は卵をひとつもって椅子にどかっと座った。
「お父さんも、まだ給料前だからお小遣いがなくてこれで精一杯だったんだ」
「もういいじゃないの。プリンごときでこんなに騒がなくても」
母親が口に入れた漬物の噛む音が強く聞こえてくる。
気が治まらない聖良、呆れる母親、肩身の狭そうな父親、それぞれが気分悪くして食べていた。
私だけが黙々と喜んでご飯を食べ続けていた。気がつけばみんなが私を見ていた。
「あんた、こんな時にひとりで楽しそうにご飯食べてさ、それ私に当て付け? 恵都は昔から姉の私よりもいい子を演じてさ、本当に鬱陶しい」
「これ聖良、食事の時はやめなさい」
母親が注意する。
それでも私は食べることをやめなかった。一刻も早くご飯を食べてプリンを食べたい。その態度が益々聖良の機嫌を損ねた。
「ちょっと恵都、無視するって何よ」
「さっきから聞いていたら、みんなそんな気持ちでご飯食べて楽しいの? たかがプリンでしょ。お姉ちゃんのプリンと交換してもいいよ。私はプリンが食べられたら何でもいいから」
「だからそういうことを言ってるんじゃなくて、恵都のいい子ぶった態度が……」
「だったらさ、お姉ちゃん。もし私が死んでいなくなったら清々する?」
唐突だったけど、実際矢野恵都は行き場をなくして自殺を考えている。私がそれを阻止しない限り、それが現実に訪れてしまう。みんなもっと真剣に彼女の事を考えてあげて。
「な、何を言うのよ。そんなこともできないのに脅すようなこと言って」
聖良は少なくとも動揺した。
「ちょっと食卓でそんな話するのやめなさい。縁起でもない」
母親も注意はするがどきっとして慌てている。
「冗談でもそんなこというんじゃない。お父さん、悲しくなってくるじゃないか」
父親は涙声になっている。
その後は様子を探るように黙り込んだ。家族はばらばらでまとまりがなくても矢野恵都のことは潜在的に心配していた。
私はご飯を食べ終え「ごちそうさま」と手を合わせた。
「ねえ、プリン食べていい?」
返事も待たずに立ち上がり、冷蔵庫からプリンを取り出す。
それを持って再び席につき、プリンアラモードを聖良の前に置いた。そして私は聖良のプリンの蓋に手をかけていた。
「恵都、これ何よ?」
「お姉ちゃんにあげる。それ食べてハッピーになって」
聖良は言葉を失くし、母親も父親も黙っていた。
蓋を開けていざ食べようとしたらスプーンがないことに気がついた。しかし、その時シュワシュワっと体に泡が集まってくる。
プリンを食べるまでは戻れない。飲み物のように容器を口にあて慌てて吸い込む。とにかく一口分は無理やり飲み込んだ。だけど、時間の泡は容赦なく私をまた屋上へと連れ戻してしまった。
「お帰りなさい」
案内人の姿が目に入り、私は涙目になってしまった。
「どうしたんですか? なんか悲しそうですね。辛い過去だったんでしょうか」
「いえ、とても美味しくて最高のひと時でした」
「えっ? じゃあなんでそんなに悲しそうなんですか?」
「プリンをゆっくり味わえませんでした」
喉越しに流れたけども、味が舌に乗らなかったのが残念でならなかった。
あの後、矢野恵都はスプーンも使わずにプリンを丸呑みしようとしてびっくりしなかっただろうか。
屋上の端にいる彼女に振り返れば、全然様子は変わってない。ここでもがっかりしてしまう。
全てを案内人に報告すると、気休めにプリンを出してくれた。見掛けはぷるるんとして美味しそうなのに、それを食べると味がなくどろっとして口の中が気持ち悪く感じた。
「やはりだめですか」
「お気遣いありがとうございます」
「でも食事ができただけでもよかったですね」
「はいそれはとてもよかったです。私も肉じゃがってそんなに好物でもないんですけど、味わうことができなくなると、特別に美味しく感じました」
「生きるために食べることですから、食事は生命の源ですね。美味しく食べられるって幸せなことのように思います」
その通りだ。死んでしまった私にはもう必要ないから美味しく味わえない。だから矢野恵都の中に入って体験できることはとても貴重だ。
少しは状況を変えていると自分の中では手ごたえを感じる部分もあるけども、それが目に見えるように現れないのはなぜだろう。
でもまだ諦めない。
今は小さなパズルのピースを集めているだけなのかもしれない。いつかそれらが集まった時、変化が起こると私は信じている。
「またやる気モードになりましたね」
案内人がしっかり見ていた。
体に力がみなぎってくる。小瓶からタイムソウルキャンディを取り出した。ピンク色がコロッと勢いよく出てしまい、手のひらから零れ地面に落ちてころころと矢野恵都がいるところへと転がっていく。
「ああ、待って、もったいない」
走って追いかけるも、ゴーンと見えない壁にぶつかった。タイムソウルキャンディはそのままフェンスの袂にぶつかるまで転がっていった。




