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はっと気がついた時、周りには学ランと紺色のセーラー服を着た人たちがいて、それぞれ和気藹々と写真を撮っていた。
「みんな元気でね」
「高校に行っても忘れないでよ」
抱き合っている人達、泣いている人達、それぞれぞれ名残惜しそうに友達と挨拶をしている。
みんな手には卒業証書と文字が入った赤いファイルを持っている。そういう私も胸の前で抱えていた。そしてセーラー服を着て、眼鏡をかけていることに気がついた。
これは中学三年の卒業式が終わった直後だ。卒業を終えた三年生や後輩たち、先生や生徒の親たちも入り混じっている。
「恵都、写真撮ろうよ」
「私も!」
「待って、私も入れて」
あっという間にみんなに取り囲まれた。カメラを目の前にしてとりあえず笑っておいたけど、私はみんなのことがわからない。
「恵都、今までありがとうね。本当に別れるのが辛いな」
「私もだよ」
口先ではそう言えても心の中では誰も知らなくて戸惑っていた。
「ほら、あそこに水瀬君がいるよ。声を掛けてきなよ」
英一朗を指差して意味ありげにその女の子はにやっと笑う。
「あの、私、英一朗と仲がよかった……ように見えた?」
「何、今さら隠そうとして。水瀬君は恵都のこと絶対好きだと思う。気持ちに応えてあげたら?」
「私は、彼のことが好きなのかな?」
ごまかすようにヘラヘラと笑ってみた。
「そんなの、自分の気持ちでしょ。人に訊いてどうするの? 何照れてるのよ」
ばしっと背中を叩かれた。
「だけど、私、よくわからなくて」
「じれったいな。中学生最後なんだから飛び込んでいけばいいじゃない」
その女の子は私の背中を押して無理やり英一朗の前に連れて行く。
「水瀬君。恵都が話あるって」と私を突き出し、その後は「じゃあ、頑張って」と私に囁いて去っていった。
英一朗は照れたように私を見て、もじもじと恥ずかしそうだ。
「えっと」
「あの」
どちらも同時に声をだしてしまった。
英一朗はヘラヘラと笑い焦っている。ちらりと私を見てはにかんでいる様子がわいい。私もつられてくすっと笑った。
「とうとう卒業しちゃったね」
英一朗は無理に口を開いた。かなり矢野恵都を意識している様子だ。じれったい気もするけども、初々しい感じもする。
しかし今はそういうのを楽しんでいる暇がない。訊けることは訊いておかないと。
私が口を開きかけたその時、紗江が駆け寄ってきた。
「英一朗、あっちでお母さんが待ってるって」
どうしてここで紗江が登場するのだろう。一言も話せないまま、ここで終わりになってしまう。私はイライラとして紗江に視線を向ければ、彼女は意地悪く笑っていた。
「わかった。ありがとう。それじゃ恵都、またあとで」
同じ高校に進学するのを知っているから英一朗は今話さなくてもいいと思ったに違いない。
こっちはそういう訳にはいかない。私の足が無意識に動いた時、紗江が私の前に立ちはだかった。
英一朗はさっさと去っていく。追いかけたいのに、紗江はわざとそうさせないようにぴりぴりとして私を見ていた。
どうすればいいのだろう。考えた挙句、私は余裕を見せて微笑んだ。
「あのさ、和久井さん、あっちでみんなと写真撮らない?」
「えっ、私もいいの?」
この訊き返し方が少し違和感だった。
急に嬉しそうにして、私についてくる。矢野恵都の友達らしき人に声を掛けると、私の側に紗江がいたことをびっくりしていた。
「和久井さんも入れて、一緒にみんなで写真撮ろう」
「うん……いいけど」
乗り気じゃない返事だった。もしかしたら紗江は嫌われているのだろうか。でも紗江はみんなの中にいるのが楽しそうだ。
私は耳元で名前も知らない友達に囁く。
「英一朗と話がしたいんだけど、和久井さんが邪魔をしてくるの。ちょっと引き止めといて」
「ああ、そういうことか。OK」
私の言ったことをすぐ理解してくれて助かった。この友達は矢野恵都の味方だ。利香のような派手さは全くないが、その分話しかけやすく気を遣わないでいい感じがした。
その友達が紗江の気を引いている間、私はそっと抜け出して英一朗を追いかけた。
校門の近くでちょうど英一朗が母親と出会っていた。英一朗の母親はきっちりとした身なりをして教育ママっぽい雰囲気がする。近寄りがたかったけど、この時の英一朗とどうしても話をしたかった。覚悟を決めて近づいたその時、親子の会話が聞こえてきた。
「紗江ちゃんから聞いたけど、変な女の子がいたんでしょ。ずっとつきまとって英一朗が困ってたって言ってたわよ。昔からはっきりといわないから、そうやって変なものを引き寄せるのよ。高校生になったら少しはしっかりしてよ」
あまりいいタイミングじゃないものを感じながらも引き返せず、その内英一朗の母親は私の存在に気がついた。英一朗も振り返れば矢野恵都が立っていたから目を見開いてびっくりしていた。
「あの、英一朗……」
この時、母親の前だから水瀬君と呼べばよかった。私が呼び捨てをしたことで母親の目がきつく警戒した。
「恵都、ど、どうしたの?」
「少しだけ話せるかな」
「お母さん、ちょっと先に帰ってて……」
英一朗がおどおどとしながら母親の顔色を窺っていた。母親は英一朗よりも前に出て私に近づく。
「申し訳ないですけど、これから用事がありますので」
「お母さん、何も用事なんてないでしょ」
「さあ、帰りますよ、英一朗」
母親に腕を引っ張られていく英一朗。
突っぱねて、言うこと訊かなければいいのに、英一朗は母親にコントロールされて反抗できないでいた。母親を怒らせると怖いものがあるのだろう。
母親もわざとらしく私に聞かせるようにつぶやいた。
「あの地味な子がつきまとってくる子でしょ。嫌だったらはっきりといわなくっちゃダメじゃない」
英一朗はひたすら黙って母親と歩いていく。私は後姿を見ていたが、結局振り返ることなく行ってしまった。
これは紗江の策略だ。嘘を吹き込まれて母親はそれを信じてしまう。でもそれだけじゃない。英一朗の母親は息子を支配するタイプであり、とてもきつい性格を感じた。
矢野恵都がメガネからコンタクトレンズに変えた理由はこれなのかもしれない。紗江の嘘にも悔しかっただろうけど、英一朗の母親に地味な子といわれたことの方がもっとショックだったに違いない。
自分を変えたい。高校生になったらおしゃれをしてきれいになりたい。だからクラスでも目立つクールな利香と仲良くなれて矢野恵都は願ってもないチャンスだった。
矢野恵都の気持ちに段々近づいてくる。
そしてこの時、終わりを告げるシュワシュワが始まった。
ふたつ同時に食べても、過去に留まれる時間を操作できるわけではなかった。シュワシュワしながらもったいなかったと思っていた時、誰かの後姿を見ていた。案内人さんにまた何か言われると覚悟しながらシュワシュワが収まるのを待っていたとき、側で車が横切っていく音が耳に入った。
あれっ、屋上じゃない?
シュワシュワが起こってからそれが収まるまでは、寝起きのタイミングに似ている。意識がはっきりしなくて、しばらくぼうーっとしてしまうあの感覚だ。全てを把握するまでに数十秒掛かってしまう。
特に今回は頭がすっきりとせず、ふらふらとしてしまった。
「恵都、危ない」
何が起こっているのか、前に歩いていた人が私を支えてくれた。
「大丈夫かい?」
「ありがとう……」
顔を上げれば、それが英一朗だったからびっくりしてしまった。
「えっ、なんで、ここにいるの?」
「どうしたんだい。あれから一緒に帰ろうってことになって、ずっと僕と歩いてたじゃないか」
「ねぇ、今日は何月何日?」
「十月二十五日だけど?」
英一朗は不思議がっているが、そんなこと気にしてられなかった。
これは三度目の十月二十五日だ。そして六時限目の授業中にメモを交換したあとの続きだ。
「そうだった。私、英一朗と話したかったんだ」
「メモにもそう書いてあったから、放課後話しかけたら、恵都、そのことを忘れててびっくりしたよ。メモを見せても自分が書いてないって言い張るしさ」
「あっ、ごめん。最近、物忘れがひどくって。だから私変だけど気にしないでって言わなかった?」
「変なこと言ってたとは思うけど、こんなに物忘れがひどいって異常だよ。もしかしてストレスのせいなの? 精神が不安定になってるとか?」
「うん、多分そう」
そういうしかなかった。
「そんなに辛い思いしてたんだ。ごめんね」
「どうして英一朗が謝るの? 英一朗は心配してくれてるのに」
「同じクラスなのに、力になれなくて。ずっと恵都は僕のこと怒ってると思ってたから。高校入学しても声を掛けられなかった。それでずっと疎遠になってたからさ」
「私たち、喧嘩でもしてたっけ?」
英一朗は首を横に振る。
「ほら、中学の卒業の時、僕の母が恵都に失礼なことを言っただろ。僕それから恵都に顔向けできなくなった。あの時もっと母に抗議すべきだった」
「もしかして、お母さんに逆らえなかったんじゃない?」
英一朗は頷く。やはり母親が毒親タイプだ。
「あの時はどうしていいかわからなくて、恵都を守ることもできなくて、あの後、家でちゃんと説明したんだけど、あの人に言ったところで焼け石に水だった」
なんとなくわかってきた。全てが段々繋がってくる。
「それで変なことを吹き込んだのが和久井さんだったから、英一朗は和久井さんを許せず無視してるの?」
紗江は私のせいにしてたけど、自業自得な結果だ。
「そういうところかな。高校生になっても紗江が側にいるっていうのが本当にうっとうしかった。紗江は恐ろしく強引なんだ。幼馴染ではあるけど、僕は紗江が苦手だった。なんでも押し付けがましく僕に指図するし、僕は面倒くさくて黙って聞いているふりをして適当にしていたんだ。お互いの親同士はいい付き合いをしていたからね。我慢するしかなかった。だから中学三年の三学期、恵都と隣の席になったお陰で仲良くなった時、すごく嬉しかったんだ」
矢野恵都はどうだったのだろう。
私が英一朗を見る限りかわいいと思うし、恥ずかしがりながら淡い恋心を抱いてお互い胸きゅんしていたんじゃないだろうか。
今だって英一朗はかなり意識して矢野恵都と話している。恵都もそれは悪くなくて、願わくば英一朗の助けがほしいと思うに違いない。
クラスに誰も頼れる人がいない時、英一朗が一緒にいてくれて居場所を作ってくれるだけで矢野恵都はきっと救われるはずだ。そしてあの自殺は起こらなくなる。
このままふたりが一緒にいてくれたならいいのに。私は今この時を上手く変えなくてはいけない。
英一朗が私を見たとき、ふたりが上手くいくようにと笑顔を作った。でもそれを見て英一朗は苦しそうに目を逸らす。どうして?
「恵都、やっぱりまだ僕を怒ってるんだろ?」
どうしてそう思うのかが私にはわからない。
「恵都が無理に笑顔を作るとき、それはいつも正直な気持ちじゃないくらい僕にはわかるよ」
「そんなこと」
寝耳に水だった。こっちは素直に笑っているというのに。
「高校に入って、メガネからコンタクトに変えたとき、あれは僕に対しての当て付けだったんでしょ。僕の母があんなひどいことを言ったからじゃなく、僕が何も言わなかったから愛想つきたんだよね」
私は矢野恵都じゃないから、詳しい心理まではわからない。てっきり彼の母親が地味だといったことに反応したのかと思っていた。
「君はいつも無理をするよね。嫌だとはっきりといえず自分の気持ちを押し殺したり、相手に合わせようとしたりするよね。でもサイレントに君は心の中だけで怒るんだ。気持ちを隠すくせに、どこかでそれに気づいてもらおうと僕にわかるようにそれとなくサインを送る。それがメガネをはずしたってことでしょ」
「そんな、ただおしゃれしたかっただけ……」
実際のところはわからない。でも英一朗が言うことが正しければ、矢野恵都はちょっといんけんじゃないか。
私が抱いていたイメージと違う。
「もちろん、かわいくなったと思う。でも恵都らしくなくて余計にとっつきにくくなった気がしたんだ。だから益々話せなくなった」
「女の子は変わるよ。いつまでも同じところでは留まっていない。これだけははっきり言える」
これは自分の意見だった。
「自然にそうなるのなら僕はそれでいいと思う。だけど恵都の場合、心と行動が伴ってないように見えたんだ。だからクラスでも派手な人たちのグループなんか入って、それで結局、虐められてるんじゃないか」
虐められている原因が自分自身にあると責められたように聞こえた。
「それって自業自得っていう意味なの?」
「そういう意味でいったんじゃなくて、その、僕は……」
助けてくれると思っていた英一朗にこんなにきつく言われるとは思わなかった。
このままでは矢野恵都がかわいそうすぎる。仲間はずれにされて心も体もぼろぼろの状態で英一朗からお説教じみた意見を聞かされ、自分に非があるなんていわれたら苦しいに決まってる。
虐めの原因って一体どこにあるというのだろう。なぜそういう方向へいってしまうのだろう。
矢野恵都が死にたいと思ったあの気持ちはどこから発生したのだろう。
本当のあなたは一体どうなの?
私はあなたの代わりにここでどう言えばいいの?
「英一朗の言うことが正しいのなら、この元凶は卒業式の時、英一朗がお母さんにはっきりと違うって言ってくれてたらよかったんじゃないの? 今思えばあれは地味だといわれたことにショックだったんじゃなく、英一朗が違うと否定しなかったことが悲しかった」
今更こんなこと言い返したら、また英一朗と互い違いになってしまう。だけど矢野恵都のためについ言い返してしまった。
この先、英一朗の助けが必要なのに私は何を言っているんだろう。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。
英一朗が悲しそうに私を見ている。あまりにも不器用で英一朗にイライラしてしまう。矢野恵都が今必要なのは全てを受け入れてくれる優しさだ。
『するべきじゃなかった』や『間違ってる』や、上から目線で否定なんていらない。助けてほしいと思っている時にそんな言葉を聞いたらどれだけ傷つくと思っているのだろう。恵都のことが好きじゃないのだろうか。
「お願い、もう私が悪いとか、間違ってるなんて言わないで」
「そんなことを言ってるつもりはないんだ。僕だってずっと謝りたかったし、恵都と話をしたかった。お互い変に構えて話せなかったのもあるけど、恵都も僕を避けていただろう」
矢野恵都の本当の気持ちはわからない。どちらも自分の中で勝手に想像して悪い方向へ思い込みすぎて話しにくくなっていたところはあるかもしれない。でも英一朗はまだ矢野恵都にも多少の原因があると思っている。
こんな時に限って、また体がシュワシュワしてきた。もう少し待ってほしいのに、時間の泡は私を取り囲んだ。
英一朗がどんどん遠くへと行ってしまうと同時に急に体の力が抜けて胸が苦しくなる。周りの泡に包まれるというより、体の中から泡が抜けて自分が小さくなっていく。やっとの思いで案内人の元に戻ってきた時、自分がとても薄っぺらいものになった気分だった。




