余命一年の呪いを受けたので好きに生きます
「寿命を短くする呪いが掛けられております。もって一年でしょう」
教会の鑑定の場で、聖女は静かにそう告げた。
「あら、まぁ」
まるで他人事のようにおっとりと首を傾げたのは、公爵家の長女ソフィだ。たった今余命一年と告げられた本人であり、第二王子ローレンツの婚約者である。
「あらまぁ、じゃないだろう。お前のことだぞ?」
「そうですけれども、騒いだら解かれるものでもありませんでしょう? それに、何となく予想はしておりましたから」
教会に来たのも予感があったからだ。数日前に黒い靄を身体に浴びてから、魔力がかき乱されるような、何かに取り憑かれたような、そんな感覚がソフィにはあった。
ローレンツはそんなソフィに小さく溜息をついてから、聖女に向き直った。
「解く方法は?」
「ないことはございませんが、非常に難しいかと。呪いの手順を逆から全てこなさねばなりません。呪いを掛けた人物に心当たりはありますか?」
聖女が尋ねると、ローレンツはソフィに「どうだ?」という視線を向けた。
「特定の人物は思い浮かびませんね。ローレンツ様の婚約者の座を狙う者は多いでしょうから」
「俺のせいか……」
「あら、言い方が悪かったですわ。ローレンツ様に責任はございません。ただ、わたくしがいないほうが都合がいいという方は多いと思います。もしかしたら気が付いていないだけで、わたくしが誰かの恨みを買ったのかもしれません」
「どちらにしても、すぐにはわからない、か」
聖女は呪いを解く確実な方法として、呪いを掛けた人物の血と呪いの核が必要だと言った。
呪いの核とは、呪術を行う段階でできるものだ。呪いの術は成功すれば相手を害することができる半面、行えば術者にも大きい反動がくる。それを直接浴びずに閉じ込めたものが、呪いの核だ。壊れれば呪いは術者に跳ね返る危険なものであるため、術者本人が大切に持っている可能性が高い。
呪いは当然禁術とされている。高度な技術が必要なので、行える人物は限られている。薬と毒が紙一重なように、呪いと癒しはまた紙一重。そのほとんどが聖職者として国に登録されている。
だけど、登録されている者だけが呪術ができる全員とも限らない。
「まずは呪いを行った者を探すのが先だな」
それから一月。
ソフィはローレンツと城の中庭にあるガゼボで落ち合い、調査の経過報告をしながらお茶を飲んでいた。
「手がかりなし、か……」
ローレンツが悔しそうに呟いた。
ソフィとローレンツは周りの協力も得て、必死に術について調べ、術を掛けた人物を探した。だけど有力な情報は得られなかった。
わかったのは、他にも解呪の方法はなくはないが、一年のうちに解くのは難しいということだけだ。
「ローレンツ様を狙う方は思った以上に多かったですね。モテモテすぎて妬いてしまいますわ」
「お前は俺に嫉妬などしないだろう?」
フンと鼻を鳴らして、ローレンツはお茶に口をつけた。
薄いピンクの花びらが満開の木から風に乗り、ひらひらと舞っている。その一枚がソフィの茶器の中に入って浮いた。ソフィはそのままお茶を一口飲み、花木を見上げた。
「綺麗ですね。これで見納めかしら?」
「おい、諦めるのか?」
ソフィは舞う花びらの中でまっすぐローレンツを見て、そして柔らかく微笑んだ。
「ローレンツ様、婚約を解消してください」
「は?」
「だってわたくし、あと一年もない命ですもの。王子妃にはふさわしくないでしょう?」
「何を言っている」
まさかそんなことは考えていなかったとでも言うような顔で、ローレンツはソフィを睨んだ。
「あら、いつの間にローレンツ様はわたくしのことが好きになりましたの?」
「んぐっ?」
「ふふっ、冗談です。ローレンツ様がユリアナ様を慕っていることは知っていますわ。まぁユリアナ様は無理があるでしょうけれど、わたくしとの婚約が解消されたら、ご自分で良い人を探せるではありませんか」
ユリアナはソフィとローレンツと同じ歳で17歳。ソフィの家とは別の派閥の公爵家のご令嬢で、ローレンツの2つ上の兄であり王太子マリウスの婚約者だ。
彼女は、天が二物を与えたどころか全部与えたのではないかと思うような女性で、美人なのに可愛らしくもあり、誰にでも優しく、所作も美しく、王妃の資質を完璧に揃えている。歩いているだけでも、男女問わず目で追ってしまうような人だ。
ユリアナとソフィはよく二人で一緒に王子妃教育を受けた。ユリアナは非常に頭の回転が速く、ソフィは勝てる気がまったくしなかった。それなのに決してソフィを見下すような態度は取らないばかりか、忙しい中でソフィが分かるまでつき合い、教えてくれた。
「ユリアナ嬢には、別に特別な思いがあるわけじゃない」
「隠さなくてもいいのですよ。ユリアナ様は女性から見ても素敵な方ですもの」
王子であるローレンツと公爵家に生まれたソフィは幼い頃から交流があった。仲はよく、お互い気の置けない存在ではあったけれど、だからといってそれが恋愛感情になるとは限らない。
二人の婚約が決まったのも、政略的な意図によるものだ。王太子マリウスがユリアナを見初めて婚約したため、ユリアナの生家である公爵家に力が偏りすぎないように、ローレンツの相手にソフィが選ばれたのだ。
「ユリアナ嬢の話は今はいい。なんだ、婚約解消とは。俺はそんなつもりはないぞ」
「あら嬉しいですね。でもローレンツ様のためというわけでもないのです。残り一年弱しかないならば、好きに生きてみたいのですよ。行きたいところに行って、食べたいものを食べて、やりたいことをやりたいんです」
ソフィは今まで王子の婚約者として、いずれローレンツにふさわしい王子妃となれるように、努力を続けてきたつもりだ。そのために忙しい日々を送っていた。学園での勉強に加えて王子妃教育を受け、勉強だ、お茶会だ、社交だ、と参加しなければならない行事だらけだった。
ソフィはそれを嫌だと思っていたわけではない。ローレンツも似たような日々を送っているし、王太子やユリアナも同じだ。義務なのだから仕方がないと思っている。だけど元々がおっとりしているソフィはユリアナと違って出来が悪く、いつも叱られていた。
優秀なローレンツの妃にふさわしくないと陰口を叩かれていることも知っているし、ソフィ自身にもその自覚があった。ローレンツに釣り合うのは公爵令嬢という身分くらいだと、ソフィはよくわかっていた。
それでも頑張ってきたのは、ローレンツを慕っていたから。
ローレンツはソフィでいいと言ってくれた。だから、役に立ちたいと思った。たとえローレンツの心が自分になくても、精一杯のことをしようと思った。
だから呪いを掛けられたのだろう、ともソフィは思っている。自ら引けばよかったのに、傲慢にもローレンツの隣を望んでしまったから。
だけど、それももう終わりだ。役に立つどころか迷惑にしかならないなら、今度こそ引くべきだ。
「もう王子妃になれないのですから、そのために勉強するよりも、やりたいことをやりたいのです。わたくしのわがままを、叶えては下さいませんか」
柔らかく微笑みながらも、ソフィの目には決して譲るつもりはないという力が籠っていた。いつもほわんとしているように見えて、ソフィは一度決めたら簡単には覆さないところがある。それを知っているローレンツは諦めたように肩を落とす。
ソフィはそれを了承だと捉えた。
「ありがとうござい……」
「俺もやる」
「……え?」
「俺もお前のやりたいことにつき合うと言っている。もちろんやらなきゃいけないこともあるから、全部ってわけにはいかないけど」
ソフィはきょとんとローレンツを見上げた。
「でも」
「婚約は解消しない。お前のためじゃない、俺のためだ。呪われたお前を捨てた不誠実な男だとか、俺と一緒にいると呪われるとか、そんな評判が立つのは困るからな」
「なるほど?」
「表向きはお前が体調を崩したことにしよう。そうすれば社交界に出ないのも仕方がないと思われるし、もし……」
そこでローレンツは一度止まり、息を吸い直した。
「もし一年後にお前が死んだとしても、俺は最後まで健気にお前を支えた男になれる。そのほうが都合がいい。だから婚約は解消しない」
「あぁ、確かに呪いよりはそちらのほうがいいですね。ローレンツ様がそれでいいのであれば、一年ほど、ご迷惑をお掛けします」
「迷惑だなんて思っていないぞ。そもそも呪われたのも俺のせいだ」
「だから違うって言っているじゃありませんか」
舞う花びらが心を隠す。その中で二人は微笑みあった。
それからソフィは、我慢するのをやめた。
やめてみてから、いろいろ我慢していたんだなと気がついた。たとえば当たり前に着ていたドレスが苦しくて本当は嫌だったとか、きつく編んで髪飾りをたっぷり付けていた頭が重かったとか。食事の作法を気にしすぎておいしく食べられていなかったとか、勉強や社交も毎日のようにあるのは負担だったとか。
腰まで長く伸ばしていた薄い茶色の髪を、肩の下少しのところでバッサリ切った。侍女にもローレンツにも「ああぁ……」と悲痛な声を出されたけれど、ソフィに後悔はない。手入れする時間も編み込む時間ももったいない。頭が軽くなってスッキリだ。
「うっはぁぁ! 美味しそう!」
「その言葉遣い、どうにかならないのか?」
「もういいじゃありませんか。ローレンツ様も食べましょうよ」
街のレストラン。テーブルの上にはデザートがたくさん並んでいた。
ソフィは公爵令嬢らしからぬラフな格好で、髪も軽く纏めただけ。目を輝かせたと思ったら、シュークリームを手づかみで持ち上げ、大口開けてパクリと食べた。
「あーーー、幸せ。こうやって心ゆくまで食べてみたかったんですよ。ほら、いつもはお上品に少しだけ、がマナーだったでしょう」
コロコロ変わる表情があまりに令嬢らしくなくて、ローレンツはクッと笑う。
「それにコルセットが苦しくて、どちらにしても食べられないっていう事情もありましたけど」
「あぁ、あれは辛そうだよな。なんでそこまで締め付けるんだ?」
「なんでって、そのほうが綺麗に見えて、それを男性陣が望むからでしょう」
ソフィは呆れた顔をしながら、別のケーキにフォークを伸ばす。
「食べないんですか? ローレンツ様も甘いもの、実は好きでしょう? わたくしが全部食べてしまいますよ」
「これ全部一人で食べたらお腹を壊すだろう」
「そう思うなら、食べてください。残したらもったいないではありませんか」
二人でも量が多かったため、食べた後は二人揃って気持ちが悪くなった。馬鹿だな、と笑い合った。
別の日には平民のふりをして、街を歩いた。
「わたくし、こうやって食べ歩きしてみたかったんですよ。はい、串焼きとジュース」
「串焼きとジュースは相性悪くないか?」
「いいじゃありませんか。美味しければいいのです。あら?」
少し離れたところから、まだ小さい子供がソフィの手元をじっと見ていた。身なりからすると、貧民の子だろう。
ソフィはその子に近づいて行くと、「はい、あげる」と言ってまだ食べていない自分の分を差し出した。子供はじっと見つめたのち、それを手に取って駆けていった。親や兄弟が近くにいるのかもしれない。
「無駄な事を、と思いますか?」
「いや」
子供が曲がっていった角をソフィはじっと見つめる。残念ながら、この国にもまだ生活が苦しい人たちは少なくない。
ローレンツは「ほら」と串焼きを差し出した。半分まで食べられている。
「いいんですか?」
「お行儀が悪いかもしれないけど、お前は気にしないだろ。途中まで食べちゃったけど、嫌じゃなければどうぞ」
ソフィは受け取ると、「はんぶんこですね」と嬉しそうに食べた。
それからソフィは、自分のドレスや装飾品、使っていたものを売って教会に寄付した。そのお金で救護院や孤児院を作るようにと、確実にそうなるように手を回しながら。
「それは本来、国がやるべきことだろ。お前がやらなくてもいい」
「でも国でそれをやるには時間がかかるでしょう? 天国には宝石は持っていけませんし、わたくしにはもう必要ありませんから」
「だけど……」
「死んだ人のドレスって、なんだか不吉じゃありませんか。だから売るなら今ですよ」
ソフィは拳を握りしめる。
ローレンツは、いつもおっとりとしているソフィの違う一面を見て、またクッと笑った。
「それにドレスたちもクローゼットで眠るよりも日の当たるところに出たいでしょうから、これでいいのです」
「そうか」
半年が過ぎたころから、ソフィは体調が悪くなる日が増えた。確実に呪いは身体を蝕んでいた。
そんな中でもソフィはいろんなことをした。観劇や音楽の演奏会に行ったり、馬に乗ったり、絵具まみれになりながら絵を描いてみたり、土まみれになりながら園芸をしてみたり。驚いたことに、ローレンツはそのほとんどにつき合ってくれた。
二人で海に来た。ザザーンと波が音を立てる。寄ってきては引き、引いてはまたやってくる波打ち際に、ソフィとローレンツは足だけ浸かっていた。
「冷たいですね」
「もう秋だからな。長い時間は無理だぞ。風邪を引く」
きっと今までだったら、裸足で水に入るなんてはしたない、と叱られただろう。でもここにそれを咎める人はいない。足の指の間を砂が通り抜けていく。不思議な感覚をしばらく楽しんだあと、二人は浜辺に並んで座った。
「波の音って、なんだか落ち着きませんか?」
「そうだな」
とぎれることなく波音は続く。きっと、ソフィがいなくなっても、この音がローレンツを癒してくれるだろう。
「どうした?」
ローレンツがふと隣を見るとソフィが顔を逸らしていた。泣いていることに気が付いて、ローレンツはハンカチを差し出す。
「えへへ、すみません。幸せだなと思っていました。美味しいものを食べて、こうやって波の音を聞いていたら、なんだか涙が……」
「強がらなくていい」
「……んっく」
ローレンツがそっと抱き寄せると、ソフィは嗚咽を漏らした。
「怖い」
「うん」
「本当は、怖いです」
「俺が絶対に何とかするから、信じて待ってろ」
残されたわずかな期間で何とかできると思っているほど、ソフィは楽観的ではなかった。だけどそう言ってもらえただけで、心が軽くなるのを感じた。
余命一年と言われてから十ヶ月が過ぎた。起き上がることが難しくなったソフィは、ベッドで横になっている。
「大丈夫か?」
「あらローレンツ様、わざわざお見舞いに来て下さったのですか? 女性の寝室に入ってくるなんて……まぁ別にもう構いませんよね。身だしなみが整っていませんけれど、許してくださいませ」
公爵家のソフィの部屋は、公爵令嬢とは思えないほど殺風景だ。もう必要ないからとソフィが売り払ってしまったからだ。
「好きな本が読み放題ですよ。いいでしょう? ローレンツ様はお勉強にお仕事に忙しくて可哀想」
わざとニヤリと笑って、ソフィは読んでいた本をローレンツに見せつけた。ローレンツは呆れたような、安心したような息を吐いた。
「手土産にお前が好きなリンゴのタルトを持ってきたが、本のほうがよかったか?」
「やったぁ、リンゴのタルトで正解ですわ! ありがとうございます」
ローレンツが手づからお皿に出してやると、ソフィは嬉しそうに手を伸ばした。
「ローレンツ様おすすめの本も読みたいところですけれど、もういつどうなるかわかりませんからやめておきます。だって、続きが気になるまま眠りたくないじゃないですか」
「ソフィ?」
「説明が難しいのですけれど、なんていうんでしょう、身体の中に黒い靄が広がっているような感覚がするのですよ。最初は薄かったのがだんだん濃くなって、全身を巡っているような。もう長くはないようです」
ソフィはごく淡々と事実を述べた。
ローレンツも覚悟はしていた。ソフィの容態からすると、いつそうなってもおかしくないと。
「ローレンツ様、わたくしのことは忘れて構いません」
「何を言ってる」
「……嘘をつきました。やっぱりたまにだけ、本当にたまにでいいから、思い出してください。そうすれば、わたくしは生きていられます」
「馬鹿なことを言うな。毎日思い出す」
「それは駄目ですよ。新しい婚約者の方を大切にしてください」
ソフィの手をローレンツが握った。大きな手だなとソフィは思った。きっとこれからこの手で、ローレンツはたくさんのことを成し遂げる。
今だけは……。
離さなければならない彼の手を、ソフィはぎゅっと握りしめた。
ソフィが眠りについたのは、それから十日後のことだった。
その首には、ネックレスが掛けられていた。ほとんどの装飾品を手放したソフィが最後まで残したそのネックレスは、ローレンツがプレゼントしたものだ。
公爵家から棺が教会に移される。
雨が降っていた。
雪が少し混じっているような、冷たい雨だ。
ローレンツは傘を差していなかった。頬が濡れていたのはそのせいだ。決して涙を流してはいなかった。
〇〇〇
ローレンツは教会に安置されたソフィの眠る棺の前にじっと座っていた。
ローレンツは定期的にここを訪れてはこうしてしばらくの間、ひとりで過ごす。
今日で三年が経った。いまだに新しい婚約者を迎えず、こうして教会を訪れるローレンツに、同情の眼差しを向ける民は多い。
「ソフィ、お前は間違っているよ」
ローレンツは静かに、独り言のように語りかける。
ソフィはずっと、ローレンツが好きなのはユリアナだと思っていた。ユリアナは王太子である兄の婚約者になってしまったから、諦めて自分との婚約を受け入れたのだ、と。
実際のところ、ローレンツはユリアナを恋愛的な意味で見たことは一度もない。美しい人だと思う。所作も綺麗で頭もよく、王族の妃として相応しいとも思う。だけど、それだけだ。
ローレンツが見ていたのは、最初からソフィ一人だった。
一目惚れをしたわけではなかった。どうしようもなく恋焦がれた、というものでもなかった。ただ、ソフィといると居心地がよかった。その穏やかな波長の中にいるのが、ローレンツは好きだった。一生を共にするのはこの人だと、確信めいたものを感じていた。
だから兄マリウスからお互いの婚約について相談された時、迷いなくソフィの名を挙げた。兄に遠慮したわけでもない、まぎれもない本心からだった。
マリウスがユリアナに惹かれていたのは事実だとローレンツは思っている。だけど、それ以上に政治的なものも絡みついていた。
ユリアナは将来の王妃として完璧だった。そのユリアナがローレンツの婚約者になったらどうなっていただろう。決してマリウスは愚鈍な男ではないが、ローレンツは兄よりも優秀だった。ローレンツを次期王に、と望む声もなくはなかったのだ。
当時は歳が同じこともあり、ローレンツとユリアナは会う機会が多かった。ローレンツとしては会ったから話をした、という程度であっても、周りからは仲がいいように見えたらしい。一時的に、マリウスに付くか、ローレンツに付くか、と貴族の間で話題になったこともあった。
マリウスには、どうしても王位につきたいという願望があるわけではないらしかった。だけど彼は第一王子であり、王太子になれない理由もなかった。マリウスもローレンツも、兄弟で王位争いをするつもりはなかった。
だから、政治的な意味でもマリウスとユリアナが婚約するのが都合がよかった。
そんな意図も理解していたから、ソフィはいくらローレンツが「ソフィがよかったんだ」と言っても「ローレンツ様は優しいですね」と返すばかりだった。
「俺が望んだから……すまない、ソフィ」
ソフィが聞いたら、きっと「ローレンツ様のせいではありませんよ」と笑うだろう。ローレンツはそんなソフィの顔が頭に浮かんだ。だけどそれが慰めになるはずもない。寂しさが増すだけだ。
あと一年しかないのならばやりたいことをやりたいのだと言ったソフィにつき合って、大量のデザートを食べた。平民のふりをして街を歩いた。救護所や新しい孤児院を建てた。海に行った。
そのほとんどが、かつて二人で会話した中にあったローレンツのやりたいことだったということに気が付いたのは、いつだっただろう。
大量のデザートを並べて好きなだけ食べてみたいと言ったローレンツに、ソフィは甘いものは好きだけれど少しでいいと言っていた。王子じゃないただの俺になって屋台で買い食いしたいと言ったローレンツに、わたくしは屋台で搾ったジュースが飲みたいですとソフィは言った。頭の固い大御所たちのせいでなかなか民に金が回らないとイラついたのも、無気力になった時に海に行きたいと言ったのもローレンツだった。
「馬鹿だな、お前は……」
残り少ないかもしれない時間を、ローレンツのために使う必要なんてなかったのに。
「犯人がわかった。もう少し待っていてくれ、ソフィ」
名残惜しむように何度も振り返りながら、ローレンツは教会を出た。
向かう先は、城だ。
〇〇〇
目が開いた。
どういうことか理解できなかったけれど、開いたのだ。だって見たことのないような、歪んだローレンツの顔が見える。
そしていきなり覆いかぶさってきた。上半身を起こされて、ぎゅっと抱きつかれる。
ちょっと強い。だから久しぶりの最初の言葉が「潰れます」であったのは仕方がないと思う。
身体のあちこちが痛い。それ以上にぎゅっとされすぎて痛い。
「痛いです」
「うん」
うん、じゃない。力を緩めてほしい。だけどたしかに痛いのだ。ということはどういうことだ。どうやらここは天国じゃないらしい。
「わたくしは誰で、ここはどこでしょう」
「お前はソフィで、ここは教会だ。忘れたのか?」
「無理があります。だってわたくし、自力で教会に来た記憶がありませんもの」
「そうだったかもしれない」
お互いの声がかすれている。ソフィは長く寝すぎたため、物理的に喉の調子がおかしい。いや、全身おかしい。ローレンツは、どうしてだろう。
「わたくし、死んでいない?」
「死んでない。生きてる。三年半寝ていた。でも生きてる」
「あら、まぁ」
まるで他人事のようにソフィは呟いた。これでも驚いている。それと同時に、少しずつ記憶が蘇ってきた。たしかソフィは呪いを受けて、もう助かることはないと思って目を閉じたはずだった。
「呪いが解けたのですか?」
「解いた」
「誰が?」
「俺が。信じて待ってろと言っただろう。信じて待ってなかったのか」
「無理があります。だってわたくし、意識がなかったのですよ」
「そうだったかもしれない」
今日のローレンツはどこか壊れているらしい。長く眠っていたはずのソフィよりも言動がおかしい。
「大丈夫ですか?」
「それは俺のセリフだろう」
「……そうですね。でもわたくしは、わたくしが大丈夫なのかわかりません」
「そうだよな。とりあえず俺は大丈夫だ」
「本当ですか? なにか危ないことをしたのではありませんか?」
「してないとは言わないけれど、問題ない。無事だ」
問題ない、ではない気がする。
「とりあえず、力を緩めてくれませんか」
「嫌だ」
そう言いながらも、少しだけ緩められた。身体の節々はまだ違和感があるけれど、そんなことは気にならないくらいにローレンツのぬくもりが心地よい。
「あの、今の状況を教えていただけませんか?」
「何から話せばいいか」
ローレンツはそのままの体勢で少しずつ話し始めた。
呪いの術を掛けたのはユリアナだった。彼女は魔術も得意としていたけれど、呪術は独自に学んでいたらしい。ソフィとも近い関係にあったので、呪術に必要な材料、例えばソフィの髪の毛や血液を得ることも可能だった。
そういえば怪我をしたときに手当してもらったことがあることをソフィは思い出した。
「まさか、ユリアナ様が。一体どうして……」
ユリアナはローレンツを慕っていたらしい。そのために努力したにもかかわらず、ユリアナはマリウスの婚約者に指名されてしまった。それに異を唱えることはできなかった。そしてローレンツとソフィの婚約も決まってしまう。
それでもソフィが優秀であればよかったのかもしれない。だけどそうではなかった。何をやってもユリアナは軽くソフィを上回った。
マリウスよりもローレンツの方が断然優秀だったことも、原因の一つだった。
「ユリアナは兄上にも呪術を使った。俺が王に、ユリアナが王妃になって国を治めるのが一番良いと、彼女は考えたらしい」
「あぁ……まぁ、たしかに」
「たしかに、じゃないだろう」
ソフィはちょっと納得してしまった。ローレンツはもし王座に就けば素晴らしい王様になるだろうし、ソフィは王妃になれる資質はないと自分で思っている。政治的に判断して、その説もきっと間違ってはいない。
「どうしてローレンツ様はそうなさらなかったのですか?」
ユリアナのことを慕っているはずのローレンツにとって、都合の悪い話じゃなかったはずだとソフィは思う。
「どうしてって、俺は別に王位につきたいわけじゃないし、ユリアナに興味はない」
「え」
「ずっとソフィがいいって言ってるのに、なんでお前は信じないんだ?」
「……え」
さすがのユリアナでも禁術とされる術を何度も使うことはできなかったらしい。マリウスには体調を悪化させる程度の軽い呪いしかかけられなかった。それでも、健康上の問題を理由に王太子の座から下げられればそれでよかった。
ちなみにマリウスは、すでに回復している。
「その前から目星はつけていたけれど、それで決定的な証拠を得られてユリアナを捕えることができた」
「ユリアナ様は、今どちらに?」
「牢に入っているが、呪いの核が壊れたことで呪術の反動がきているはずだ。もう長くはないだろう」
「……そうですか」
ローレンツはソフィが呪いで命を失う前に、術を重ね掛けして仮死状態にした。本来許された聖職者以外がやっていいものではないが、それしか道がなかったから、ローレンツが迷うことはなかった。
「捕えたユリアナから呪いの核を得て、ようやくお前の呪いを解けるようになった。でも呪いと仮死状態にする術と、他にもいろんな術を重ねてかけていたから、すぐには目覚めさせられなかった」
「どれだけ掛けたのですか」
「七つほど。そうしないと呪いが強くて保てなかった」
「え。よくそんなに掛けられましたね」
普通、重ね掛け、なんてことはやらない。いや、やれない。上位の聖職者や魔術師だって、できたとしてもせいぜい二つか三つじゃないだろうか。
「魔術が得意でよかったと、この時ほど思ったことはない」
「天才ですね」
「まぁな」
ローレンツがフッと笑った声がした。得意気なわけじゃなく、本当にホッとしたというような声だった。たぶん、ローレンツでも難しかったのだろう。
「なぁ、どうして最後の一年かもしれない日々を俺のために使ったんだ? お前のやりたいことが、なんで俺のやりたいことなんだ?」
「えっと」
「好きに生きてみたいって言っただろ。どうして好きに生きなかったんだ?」
ソフィは首を傾げる。
「好きにしましたよ。だって、本当だったら結婚して、ゆっくり一緒にいろんなことをして、いろんなところに行けると思っていたんです。でもできなくなってしまったから、ローレンツ様がつき合ってくれるならやりたいって……だから」
「だから?」
「ローレンツ様のやりたいことをやったんじゃなくて、わたくしが、好きに生きたんですよ」
ローレンツが長く、ゆっくり息を吐いた。顔は見えない。だけど、その顔が歪んでいるのはわかった。
「一緒にやりたかったと思ってくれてるってことでいいんだよな。俺とずっと一緒にいたかったんだよな、そうだよな?」
確認するように、そうであってほしいというように、もしくは反論は許さないとでもいうように、ちょっと強めにローレンツが聞く。
「……そうですよ。でも、三年半? 経っているのですよね。新しい婚約者の方とか、もしかしてお妃さまが……」
「いるわけないだろう」
「そうなのですか?」
「婚約は解消しないと言った。だから、俺たちはまだ婚約中だ」
ソフィの心拍数が上がった。
望んでもいいのだろうかと期待してしまう。それを悟られないように、落ち着かせようと深呼吸した。でもこれだけ近くにいるのだ。きっとこの鼓動は伝わっている。
「でもわたくしは死んだことに……」
「生きてる。だから婚約中だ。これから結婚もする。絶対する。だから一緒にどこでもいけるし、やりたいことだってやれる」
ソフィの顔が歪む。生温かいものが頬を伝った。
「どうしましょう、やりたいこと、もうやってしまいました」
「また作ればいいだろ。……嫌か?」
ソフィがまだ動かしにくい首を横に振ると、ようやくローレンツが腕の力を緩め、ソフィを解放した。
ソフィは初めて、ローレンツが泣いているのを見た。