第二十四話「白銀の翼」
十二歳という若さの相手を強敵として認めたグレイは、躊躇いなく首元へ闇の鉤爪を突き立てた。
先ほどどこかにあった欠片ほどの遊びと油断は完全に消えていた。それはただ、命を奪うための精密な一撃。
ギィィンッ! という甲高い金属音が、地下倉庫に響き渡った。神経を全身全霊で尖らせたエリオルは、鉤爪と自分の喉との間に強引に剣をねじ込んで防御をした。
しかし、魔王軍幹部として君臨し続けたその暴力的な力を受け止め切るには、エリオルは幼すぎた。
ドガァン! と、防御していた体ごとエリオルは壁に叩きつけられる。
「か、はっ……ッ!」
「……、」
何かを言う時間すら惜しいと言わんばかりに、壁からエリオルの体が離れる前にグレイは地を蹴る。
「――ッ!」
グレイの殺意を肌で感じ取ったのか、エリオルは強引に体を捻って本能的に攻撃を避ける。
闇の鉤爪はわずかにエリオルの頬をかすめ、壁へと突き刺さった。間一髪で回避したエリオルは転がるようにしてグレイから距離を取る。
「やはり戦いのセンスは素晴らしいな。常人ならもう二度死んでいる」
冷たい声を放つグレイは、壁に鉤爪を刺したまま体を横に回す。
闇の鉤爪の切れ味の前では、壁を造る石程度は粘土と変わらない。突き刺さった鉤爪が、そのまま壁を切りながらエリオルを狙う。
剣を構えていたエリオルは、咄嗟にしゃがんで鉤爪を避けた。
「先ほどの吹き飛ばされたことを学習し、可能であれば避ける。……正しい判断だ。しかし、」
まるで避けることを分かっていたのか、空振りをした鉤爪の勢いをそのままに体を回転させたグレイは、しゃがんだエリオルの顔面目掛けて後ろ回し蹴りを放つ。
「武器だけが攻撃手段というわけではない。殺し合いとは、そういうものだ」
やや下側からエリオルの顎を蹴り上げたグレイは、わずかに空いたエリオルの腹部に渾身の蹴りを叩き込んだ。
骨が折れ、肉が潰れる音がやけに大きく響く。内臓が潰れる生々し感覚を、壁に飛ばされるまでのわずかな時間でエリオルは体験した。
その場で膝をついたエリオルは、赤黒い血を吐き出した。
体の中がめちゃくちゃになっていることは、上がる息と吐血を見れば明らかだ。
しかし、エリオルは立ち上がる。
憐れむように、グレイはエリオルへ視線を送る。
「素直に倒れておけばいいものを」
そんな呟きに、エリオルはこう答える。
「僕は……勇者、だ。この城にいる人たちを、守らなくてはならない」
途切れ途切れの声。ボロボロのエリオルの意識は既に朦朧としていた。
だが、それでも。その心の芯に通る一本の筋だけははっきりとあった。
「なら、助けがくるまで粘るか?」
「いいや。ここで僕が、お前を倒す。僕は助けるためにここにいるんだ」
「本当に勇者ってのは狂った人間なんだな」
グレイはその姿に嫌悪感すら覚えていた。
見ず知らずの誰かのために、死すらも覚悟する自己犠牲の心。
それが報われる保証などないのに、彼はそれだけを支えに目の前に立っているのだ。
「勇者という呪縛か。殺してやる理由がまた増えたな」
満身創痍の少年へ向かって、グレイは一欠片の容赦もなく攻撃を繰り出す。
何度も何度も何度も何度も。
あらゆる方向から闇の鉤爪が襲い掛かる。
が、しかし。
「……、」
殺せない。
グレイが手を抜いていたわけではない。獣の姿のときはまだ少し遊びがあったが、今は一切の隙も油断もないはずだ。一つ一つが、今まで何人もの敵を葬ってきた最強最悪の爪だ。
しかし、そのどれもがエリオルの肌をかすめる程度で、斬り傷だらけで血まみれではあるが致命傷となる傷は一つもない。
こんなことは今まで一度もなかった。
この小さな勇者がグレイの人生の中でも段違いの力を持っていることは分かっている。だからこそ手を抜かずに戦い続けている。
だが、殺せない理由はグレイの知らない別の何かにあるのではないか。
そう思わずにはいられないほど、今の彼には異常な雰囲気があった。
「どうして、死なない」
思わず、グレイはそう問いかけた。
震える声で、エリオルはこう答える。
「全力のサイトウハヤトの方が速かった。全力のお姉さんの方が不規則な動きだった。あの二人に比べれば、ギリギリだが予測はできる」
「それだけではないはずだ。お前よりも戦いの経験を積んだ奴らを何人も倒してきた。予測だけじゃない。今のお前には、それ以上の何かを感じる」
百年近く、猛者と戦い続けてきたグレイだからこそ感じた何か。
殺すことよりもまず、この少年に宿る何かを見定めたいという好奇心がグレイの心を揺らす。
「……何もない。ぼくはただ、護りたいだけだ。今苦しんでいる人たちを、これから苦しむ誰かを」
「お前も、分からないようだな」
言葉ではおそらく、それを理解することはできないだろう。
ならば、渾身の力で見定めるまで。
「全力で行く。お前も最後の一滴まで絞り出せ。殺してやる」
「……僕が護る」
エリオルは血だらけの体で剣を握りしめる。
あれだけの攻撃を剣で防いでいたにもかかわらず、青い装飾の剣は綻びの一つもなかった。グレイの鉤爪ならば、普通の剣など簡単に壊すことができるはずだ。
それなのに、淡く白い光を宿すその剣の切っ先はグレイに向き続けていた。
「不思議な、感覚だ。まるで誰かが、この剣を通じて僕に力を与えてくれているような」
大きく息を吐いたエリオルは、おもむろに剣を頭上へ掲げた。
直後、その剣にどこからともなく稲妻のような白い光がその剣の元に吸い寄せられるように現れた。
「【勇者の煌剣】《天使》」
剣に宿った白い光が、剣の形へと圧縮されていく。
握るよりも一回り大きくなったところで光の凝縮はとまり、光の剣としてそれは定着するが、変化はそれだけでは止まらない。
剣を持たなかったエリオルの歪な光の剣は、剣と化した右腕から右の肩甲骨にかけて不安定な輪郭をした白い片翼を生み出していた。
しかし、今は完全に光が剣へと収まり、歪だったはずの力は完成している。
「なんだ、それは……」
呆然としか、することができない。
グレイの理解を超える何かが、目の前にあった。
スキルとはそもそも、その人に先天的に備わった才能のようなものだ。だからこそ、一般的な魔法とはまったく毛色の違う能力も数多く存在する。
だが、しかし。
飛ぶ斬撃、光線の突き、そして。
「なんだその、白い翼は……ッ!」
人間であることに変化はない。
だが、その背中に白銀の翼が二本、彼の背中に生えているのだ。
まるで彼の命の延長にあるかのように、根元からなめらかな動きで今すぐにでも羽ばたかんと揺れる翼は、まるでエリオルの意思に呼応するように濃密に広がっていく。
ただの魔力で形作ったわけではない。グレイのスキルのように、超高密度で魔力を圧縮して出来上がった翼。
翼そのものも脅威に変わりないが、それよりも不思議なことがある。
スキルがその人の才能だというのなら。
目の前にいるこの少年は一体、どれだけの才能を秘めているというのだ。
「お前はただの、人間なんじゃないのか……?」
魔族がその種族の特性をスキルとして複数所持するという話はよく聞く話だ。種族が原因の才能など世界にはいくらでもある。だが、あれは人間のはずだ。
種族の都合を無視して複数のスキル持つ者といえば、グレイの頭に浮かぶのは魔王メリィだ。あの魔王の持つ時を止める力は、妖精とは関係ないはず。他には確か、妻であるマゼンタから聞いた、エミラディオート一族の生き残り。そして、サイトウハヤトもスキルのようなものをいくつか使って――
「まさか」
稲妻のように、グレイの頭に浮かんだ一つの可能性。
あの少年の、いや。
この勇者たちの力の源になっている正体とは。
「まさか、お前の剣に降り注いでいた光は……ッ!!!」
その全てを知ったグレイは、すぐに身構えて闇の鉤爪に意識を集中させる。
この人間は、今すぐにでも殺すべきだと、改めて理解した。
彼が真の意味で勇者となってしまう前に、命を絶たなければおそらくこの少年の兄よりも厄介な存在になる。
「この力が目覚めるまで時間をかけた俺の責任だ。俺の手で始末する」
「……僕は、負けない」
自分に言い聞かせるようにそう言ったエリオルは、白銀の翼を広げて待ち構える。
小細工なしで、グレイはエリオルへ正面から突進した。
「ふ――ッ!」
タイミングを読んでいたのか、エリオルは翼を使ってその場に上昇し、体の上下を反転させた。ちょうど、グレイの真上に足を天井へ向けたエリオルは浮いている体勢だ。
このまま、エリオルはグレイの背中めがけて突きを放とうとするが、
「背後を取って、上から突き。お前ほどの才能があれば、当然それくらいはやってくるだろう」
今のグレイに、油断や隙は一切ない。
そうやってエリオルが動くことまで予測していたのか、グレイはその場でぐるりと体を捻って鉤爪を振り上げる。
狙うは心臓、ただ一つ。
だが、エリオルは咄嗟に大きな翼を使って姿が見えなくなるほどに体を覆い、防御をする。
「俺の爪を、舐めるなよ……ッ!」
グレイは構わず、白銀の翼ごと貫くために腕を振り上げた。
ギギギッッ!! という金属音よりもずっと鋭い高音が響き、夜空を真似たかのように闇と光が辺りに散らばる。
今までないほどに決死の表情をするグレイは、体中の血管を浮き上がらせる勢いで力を入れ、エリオルの翼へ爪を立て続ける。
そして。
「ぐあぁぁ……ッ!」
闇の鉤爪は、白い翼を貫いた。
グレイの手には確かに、その先にある肉を突き刺した感覚があった。
「一歩及ばなかったな、若き勇者よ! 俺の勝ちだッ!」
「いや、まだだ……ッ!」
返事が返ってくると思っていなかったグレイは、焦燥に顔を歪ませた。
狙いはずっと心臓だった。今も間違いなく、エリオルの心臓を貫いているはずで……
「翼を使って、狙いをずらしたのか……!?」
翼の隙間から見えたのは、鉤爪に貫かれる左肩だった。
心臓から狙いを逸らし、致命傷を強引に避けた。
だが、グレイは止まらない。
「知ったことか! 突き刺したまま、お前の心臓を切ってやればいいだけだッ!」
グレイは突き上げた右腕に力を入れる。
しかし、動かない。
突き刺した白い翼が、エリオルをこれ以上傷付けさせまいと、その位置にグレイの鉤爪を固定させていたのだ。
どうやって力を入れても、微動だにしない。全てを切り刻んできたはずの爪が、一切動かない。
そして、苦痛に顔を歪めながらも、エリオルの意思は途切れない。
「あと一歩届かないのなら、あと一歩、踏み出せばいい……ッ!」
いつだってそうだったはずだ。彼の憧れた人たちはいつも、苦しいと思った時、それでも誰かのためにその一歩を踏み出せる人たちだった。
そして、剣を握る意味を、一歩踏み出す覚悟の理由を、つい最近彼は知ったのだ。
「僕の目標は兄ではない! 兄を超える勇者になって、世界で苦しむ人々全てをお前たちの魔の手から護ることだッ!」
左手に以前鉤爪は刺さったまま。蹴りによって損傷した内臓のせいで今も口元からは血が流れ続けている。
それでも、前へ。
「あぁぁぁあぁああああああ!!!!」
本来ならば届かなかったはずの一歩。
経験も力も全て上の相手に勝つために必要な一歩。
死を前にしてさらに進んだこの一歩こそが、埋まるはずのないグレイとの差を強引に塗りつぶす。
「【勇者の一撃】ッッッッ‼︎‼︎‼︎」
右手が翼によって固定されているため、逃げることも出来ない。
エリオルから放たれる突きを、グレイは左の鉤爪だけで強引に受け止める。
薄暗い地下倉庫の中に、白と黒の閃光が瞬く。
そして、ついに。
バキャ、という音が闇の鉤爪から響く。
「クソがァァァああああッ!!!」
凄まじい音と光とともに、鉤爪を破壊したエリオルの突きはグレイの腹を貫いた。
完全にグレイの腹に大きな穴が開き、エリオルの左肩を突き刺していた鉤爪が消滅する。
同じくエリオルの広い翼も消え、両者が同時に床に倒れる。
そして、互いに重傷を負う二人はゆっくりと起き上がった。
「ここまで、追いつめられたのは生まれて初めてだ、エリオル=フォールアルド」
口から血を吐きながら、腹に空いた穴を苦しそうにグレイは押さえていた。
対するエリオルも異常な出血だ。その姿を見れば、今立っているのが奇跡だと誰もが思うだろう。
だが、それでもエリオルは剣を握り、立ち続ける。
「まだ、やるつもりか」
「…………、」
返事はなかった。
ただ立ち続けるエリオルを見て、グレイは笑う。
「いや、どうやら俺の勝ちみたいだな」
もう、とっくの昔にエリオルの力は尽きていたのだ。
気持ちだけで立っていたエリオルでも、意識がなくなってしまえばもう立つことは出来ない。
ゆらゆらと揺れるエリオルは、音なく崩れ落ちた。
大量の血を流しながら、足を引きずってグレイはエリオルの元まで歩く。
「ここまで楽しませてもらった礼だ。ちゃんと殺してやる」
グレイはなけなしの魔力で短剣程度の鉤爪を作り出した。
「さらばだ、エリオル=フォールアルド」
そう呟いたグレイが、鉤爪を振り下ろそうとした瞬間。
城が、揺れた。
そして、
「【神の真似事】」
グレイの頭上にあったはずの天井に、瞬く間に巨大な穴が開いた。




