ハジマリノヒ 前編
「惨めだな、未熟な冒険者たちよ」
灰色の体毛をゆらゆらと揺らしながら、四足歩行ながらもその前に立つ人間たちよりも高い位置から彼らを見下ろすそのヘルハウンドは、哀れむようにそう言った。
だが、返事をする余裕など対面する四人は一切なく、それぞれが傷だらけながらもどうにか立っている状態だった。
立ち向かう力がないと判断したヘルハウンドは、ふう、と一つ息を吐いた。
すると、その体がみるみると小さくなり、灰色の毛皮が褐色の人肌へと変わっていく。
たった数秒で、その場にいる誰よりも小さな体の少年に姿を変えたヘルハウンドは、目の前にいる血だらけの冒険者たちへ冷たい視線を送る。
「人と話すときはこの体の方が楽なんだ。まあ、魔力の操作で半ば強引に姿を変えているから長くは持たないがな。というわけで、手短に話すとしようか」
獣の姿では低く圧力のある声だっただけに、少年の体となって声色が高くなったことに違和感はあるものの、そんなことを気にする余裕は誰にもなかった。
沈黙にあたりが包まれる直前、冒険者の中の一人が声を上げる。
「僕が足止めをする。三人はその隙に逃げてくれ」
一歩前へ出て剣を構えた青い装備に身を包んだ青年は、未だに瞳の中の光を灯していた。
「何言ってんだ、アルベル。お前一人を置いていけるわけねぇだろ」
アルベルの言葉へそう答えながら彼の横に立ったのは、屈強な肉体をさらに頑丈な鎧で覆った、アルベルと同じぐらいの歳をした青年だった。
頑丈そうな鎧の半分以上が破壊され、身体中できた深い切り傷を一瞥してから、アルベルは口を開く。
「今は下がっていてくれ、フィオリオ。君たちを失うくらいならば僕が……」
「あなた一人を犠牲にして逃げるなんて、そんなことを私たちがするはずがないでしょう、アルベル」
フィオリオに続くように彼らの横に並んだのは、とんがり帽子に厚手のローブを羽織った、十四歳ほどの少女だった。
「ミア、君まで……」
アルベルがミアと呼んだその少女は、その幼い見た目とは裏腹にはっきりとした口調で、
「乗り越えましょう、みんなで。今までだってそうだったじゃない」
アルブレドの樹木から削り出した木材を丁寧に加工し、先端に宝石のように輝く魔晶石を三つほどあしらった、そこらの商人では値段をつけることすらできない杖を握るミアは、左腕からあふれ続ける血を杖を握る手で強引に抑えつけながら言った。
そして、最後に三人に並んだのは、血で汚れてもなお華やかな衣装と、動きの邪魔にならない程度に、しかし豪奢に宝石をあしらったティアラを頭に乗せたアルベルやフィオリオと同年代の少女。
「ええ、そうよ。あなたたちが私を助けてくれたときもそうだったでしょ、アルベル」
「……ルル」
ルルと呼ばれた少女は、傷だらけの体でも、凛とした表情でその場に立っていた。
だが、そんな四人の絆の間に割って入る少年の声が一つ。
「お前たちの感動を台無しにするようで悪いが、俺がお前たちに話をしようと言ったのだが」
そう切り出した少年の姿をしたヘルハウンドは、立ち向かう意思を示す四人を無表情で見つめ、
「今一度、確認しておこう。お前たちは、何をしにこの地に来た」
「お前たち魔王軍の悪事を止めるためだ」
「死ぬ覚悟は、してきたか?」
「訊かれるまでもない」
アルベルが剣を構えた姿を見て、異常な威圧感を放つ少年は諦めたように首を振る。
「そうか。なら、遠慮なくお前たちの暴力に抵抗させてもらおう」
と、少年の体が再び灰色の猛獣へと変化する直前、アルベルの横にいた三人が同時にアイコンタクトを行い、三人全員が一斉に一つの目的を持って動き出した。
「ミア、魔力は練ったか⁉︎」
「私を舐めないで、フィオリオ! あなたこそ頼むわよ!」
最初に目に見える動きを始めたのは、ミアとフィオリオだった。ミアが魔法の詠唱を始めると同時に、フィオリオは自分の持っていた剣を構えてミアの近くへ体を寄せる。
ミアの詠唱が完了したと同時、フィオリオは自分の持っていた剣をアルベルへと放り投げた。
「ほらよ。その剣、大切に使えよ」
そう言ったフィオリオは、右手を強く握りしめて近くにあった岩石を全力で殴りつけた。
屈強な肉体が放つその拳は、巨大な岩石を簡単に握れるほどの大きさにまで粉砕し、その粉砕を確認した瞬間に、次はミアが行動を起こす。
「《ヴェタリレーベ》‼︎」
瞬間、ミアの持つ杖から颶風が生み出された。
獰猛な蛇のようなうねりをあげる風はフィオリオが粉砕した岩石のかけらを飲み込み、そのまま姿を完全に獣へ戻したヘルハウンドへと突き進む。
だが、邪魔な虫を払うような手つきで、その岩石を含む暴風を蹴散らした。
「この程度、目くらましにしかならないぞ」
「ああ、目くらましで充分なんだよ!」
不敵な笑顔を見せるフィオリオの後方に、ミアの放った魔法の風が枝分かれしていることに、ヘルハウンドはその時初めて気づいた。
そして、その枝分かれした風が向かう先にいるのは。
「何を、やっているんだ……?」
「あなたを逃がすためよ、アルベル」
自分に向かってくる烈風を見つめるアルベルへ優しく伝えたのは、ルルだった。
呆然と目の前で起こっている現象を見つめるアルベルの体に両手で触れると、ルルは静かに口を開く。
「――【守護の衣】」
直後、淡く優しい緑色の光がアルベルの体を包み込んだ。暖かな光であるはずなのに、外界からの全てを拒絶するような壁の中に閉じ込められたアルベルは、ルルによって作られた防壁に触れて、
「何をやっているんだと、言ってるんだよルル……‼︎」
ようやく、仲間たちの行動の意味を理解したアルベルは、それでもそう彼女へ問いかけた。
わずかに寂しそうな顔をしたルルは、強引に口角を上げて、言う。
「私たちじゃ、あの魔族には勝てない。このままじゃ、全員ここで殺される」
「だったら、全員で逃げればいいじゃないか!」
「あのヘルハウンドは、フィオリオやアルベル以上のスピードで動けるのよ? どうやっても、四人全員が逃げるなんて無理。一人だけが残っても、無理。でも、三人が残れば一人だけなら逃げられる」
「そう言うこった、アルベル!」
ルルの声に続くように笑顔のフィオリオが言った。だが、彼の剣を握るアルベルはそれでも首を横に振った。
「なんで君たちを置いていかなきゃいけないんだ! 僕だって戦える!」
「あなたはここで死ぬべき人間じゃない」
そう断言したルルは、笑ってこう続ける。
「だって、あなたは勇者なんだから」
「…………、」
言葉を失ったアルベルへ、傷だらけのルルはそれでも笑顔のまま、
「あなたがいなかったら、私たちはここにいない。あなたが救ってくれたんだもの。今度は私たちが救う番。だから行って、アルベル。あなたは、『勇み歩き続ける者』なのだから」
ルルがそう言うと同時だった。
彼女の横からミアの魔法によって生み出された風がアルベルの体を浮かせた。
「私の【守護の衣】があれば、遠くに飛んでも着地で怪我をすることはない。私たちの残りの力を全て使った、最期の悪あがき」
宙に浮いたアルベルは、ルルのスキルで作られた防壁をドンドンと叩きながら、
「やめろ、やめてくれ! これが最後なんて、そんなことを言わないでくれ!」
「……ずっと、恥ずかしくて言えなかった。でも、最後だからね。ちゃんと、言うね」
血の混ざる涙をボロボロと流しながら、ルル=アーランドは美しい笑顔でこう綴る。
彼女が勇者へ送る、最期の言葉を。
「愛してるわ、アルベル。必ず、魔王軍を倒して。あなたならきっとできる。止まらないで。進み続けて。世界を、救って。私たちの――勇者」
アルベルの返事を待たずに、宙に浮いた彼はどこか遠くへと飛ばされていった。あの飛距離ならば、少なくとも極東の谷は超えたはずだ。
「二人とも。アルベル、逃げれたよ。生き残ったよ」
そう言って振り返ったルルの視界に映ったのは、血だまりを作って倒れる二人の仲間と、その爪を彼らの血で真っ赤に染める凶悪な獣。
「……実に、誇り高き戦士たちだった。彼らの、いや、お前たちに敬意を表して、あの男は見逃してやろう」
彼らを回復させる魔力など、もうどこにも残っていない。そもそも、息があるのかすら分からない。
そんな状態になるまで、彼らはアルベルとルルの最後を邪魔させないように耐え忍んだのだ。
「ミア、フィオリオ……」
名前を呼んでも、返事はない。
ただ聞こえるのは、目の前の獣が近づいてくる足音だけ。
「……言い残すことは」
「もう、全て伝えたわ」
「…………素晴らしい」
そう、獣が爪を振り下ろした瞬間だった。
「グレイ〜〜。その子を殺すの、ちょっとだけ待ってもらってもいいかな〜?」
ピタリと。まるで時を止めたかのように、獣の動きが止まった。
そして、ルルに到達する前の爪をゆっくりと下げると、獣は静かに振り返る。
そこにいたのは、一人の少女だった。
どこにでもいるような服装で、どこにでもいるような顔立ちで、ごくごく平凡的な体つきで、人混みの中に入ってしまえば、数秒のうちに見失ってしまうと思うほどの外観であるはずなのに、今まで対面した誰よりも禍々しく、吐き気すらも覚えそうな雰囲気をまとったその少女へ、獣は言う。
「……どうしたんだ、メリィ」
「いやぁ。せっかくのお客さんだし、お話でもしたいなぁって」
「こいつらは最近、我々の拠点をいくつも潰して勇者と言われている者の仲間だ。生かす理由はないはずだが」
「だからって、今殺す理由もないでしょ?」
「…………、」
ルルは、目の前で起こっている現象に理解が出来なかった。
自分たちをいとも容易く蹴散らすほどの力を持つあのヘルハウンドが、上から物を言われているのだ。
あの異様な雰囲気は気になるが、それでも彼女の実力がヘルハウンドよりも上とはどうにも考えられない。
だが、ルルの目に映る光景は、夢ではない。
「……好きにしろ。俺はシアンと遊んでくる」
「うん、ありがとねっ! マゼンタとシアンによろしく言っておいてね〜」
「ああ、分かった」
それだけ言うと、ヘルハウンドはどこかへと走っていった。
あまりにも。あまりにも呆気ない幕引き。
命を懸けて守ってくれたはずなのに、その命を無駄だと嘲るような展開。
無駄死にと、死に損ない。
異常な嫌悪感に吐き気を感じながらも、ルルは目の前の少女に問いかける。
「あなたは、誰……?」
「あ、そっかぁ。自己紹介がまだだったね。いやぁ、あんまり外の人と話す機会がないから、忘れちゃってたよ〜」
そんな風に笑った少女は、自らをこう名乗った。
「私、メリィ! みんなのご存知魔王だよ!」




