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ルビーホテルの謎

作者: 千尋万暉

一 困った王さま

        こうしてシエン・ミエンは、王さまを騙して騙して、騙し続けました……。

        とうとうある日、王さまは宮中の廷臣を集めて言いました。

        「シエン・ミエンと私は、一つの檻の中にいる二頭の虎の如きものだ。並び立つ

        ことはできぬ。私は彼に死を賜ることにしよう」


 文彦は、ルビーホテルの二〇三号室のベッドで、読んでいた本を、開いたままお腹の上に載せた。

 シエン・ミエンって、ラオスの一休さんみたいな人だな。還俗したのだからもうお坊さんじゃないけど、得意のとんちで権力者をやり込める点は似ている。もっとも彼のとんちで何度も煮え湯を飲まされた王さまは、業を煮やして、とうとうシエン・ミエンを永久に排除しようとしているから、その点は足利将軍より過激かな。困った王さまだ。

 庭に面した西側の窓から、カーテン越しに陽の光が洩れてくる。このカーテンの薄さときたらまったく絶妙である。何しろ、巧まずして室内の光量を、読書に足る明るさかつ、昼寝に支障のない暗さに調節しているのだ。

 扇風機がブンブン唸っている。三時過ぎたばかりの室内はうだるようだ。外では懈怠なく太陽がかんかんに照っている。庭木に鳥が集まっているようだ。囀りが近く聞こえる。何もかもがうっそりと気だるい。

 文彦は東京の大学二年生である。春休みに初めての海外一人旅に出た。まず、マレーシアのクアラルンプールに入り、北上してタイのバンコクを経、今はラオスのヴィエンチャンに逗留している。フットワークは軽いはずなのだが、日中の気温が三〇度以上あるうえ、通りは日陰が少ないので、やはり外出は億劫なのだ。

 四時になって、もう少し陽が陰りはじめたら出かけよう。そう考えてまたうつらうつらしていると、誰かが部屋のドアをノックした。


 「霊芝寺くん」

 文彦はぼんやりと目を開いた。日本語だ。女の声だ。今読んでいた本の貸し主高山七葉子七葉子(なおこ)だ。

 「はい」

 口の中だけで返事をし、お腹の本をサイドテーブルに預けた。幸い、寝起きで少し皺が寄っているものの、ちゃんと洗い立てのまっ白なTシャツを着ている。そのままサンダルを引っかけ、ベッドから立ち上がってドアを開けた。

 「あら、いたんだ」

 廊下には、麻のワンピースをストンと着た七葉子が立っていた。

 「いましたよ。よかったらどうぞ」

 「ありがと」

 七葉子はドアを開け放したまま入って来た。ホールを挟んだ向かいのシャワー室から蚊が入って来そうで厄介だが、閉め切るのも何だか具合が悪い。七葉子の部屋は同じ二階の二〇八号室に在り、冷房付でシャワー室からも遠いので、蚊の心配はないらしい。文彦は、この安ホテルの湿気と蚊にいささか閉口していた。

 七葉子はまっすぐ壁際のライティングデスクに向うと、椅子を引いてベッドの方に向け、すらりとすねの伸びた足を組んで腰かけた。東京都内S学園の、博士課程に在籍している院生である。北京にも二年留学していたというから、文彦よりたぶん八歳年上だ。ホテルに着いた翌日の夜、談話室で出会った。もう一週間もヴィエンチャンに滞在していると言い、そんな訳で文彦は今、七葉子からガイドブックとラオス民話の本を借りていた。

 専攻は東洋史だそうだが、古代史なので現代の国際問題は詳しくない、と予防線を張っていた。それどころか、大学院に在籍しているのは婚活の間の腰掛だなどと言って、文彦を面食らわせた。

 文彦も最前まで寝転んでいたベッドの端に、今度は行儀よく足を揃えてかけた。

 「このお部屋、やっぱりちょっと暑いわね」

 七葉子が言った。

 「仕方ないよ。トイレ、シャワー、冷蔵庫無しだけど、一晩八万キップの格安なんだもの」

(キップはラオスの通貨単位。ここでは一キップ約100円。)

 「私の隣のお部屋にすればいいのに。広いし涼しいし、一二万キップだから、そんなに変わらないんじゃない?」

 「でも、朝晩は冷えて冷房なんて必要ないし、もったいないよ。それに、トイレやシャワーが付いていると、部屋が湿気るような気がして嫌なんだ。臭いが気になる方だから」

 「だって、お昼寝する時なんか、辛くない?」

 「へいき、へいき。どうせ、ぼーっとしているだけだから」

 七葉子はふふっと笑いながら、テーブルに手を伸ばして自分が貸した民話の本を取りあげ、ぱらぱらと眺めた。

 「お昼、どうしたの?」

 「暑くて外出意欲が挫けたから、ここでカロリーメイトのフルーツ味食べた。

 デスク脇の籐のくず籠から、黄色い空き箱がのぞいている。

 「まあ、贅沢ね」

 七葉子はからかうように言った。

 「まだあるよ。あげようか?カップ麺もちょっと残っているよ」

 文彦が答えると、慌てたように言う。

 「あら、いいのよ。自分用にとっておいて」

 「そうなの?」と文彦。

 「だけど、さすがにカロリーメイトだけじゃもたないよ。まだこんな時間なのにもうお腹空いてる」

 「あら、それならちょうどいいわ。今日のお夕食、一緒にクアラーオでコース料理食べない? 量が多いから、よほどお腹を空かせてゆかないと食べきれないわ」

 クアラーオは高級ラオス料理店である。七葉子はショータイムのある夕食時に、毎回隅の席に案内され、悔しい思いをしていた。助っ人を連れてリベンジしようという魂胆である。

 「ぜひ。僕も一度、ラオス料理のフルコース食べてみたいと思っていたんだ」

 「ええ。一度は食べてみる価値があると思うわ。それじゃ、鷲尾さんもまだいらっしゃるようだから、お誘いして三人で行きましょうよ。私、これから鷲尾さんに声をかけてから、クアラーオに行って直接予約してくるわ。六時半にお店集合でいい?」

 「お願いします」

 「それじゃ、六時半に」

 七葉子は立ち上がった。


 鷲尾悠一郎も、ここで知り合った一人旅の日本人である。やはり都内の学生だが、本人の弁では授業料が払えずに休学中で、年齢は二十四歳。

 休学中授業料を払わなくてすむのだから、国公立大学であろう。授業料は無いのに旅行費用は有るというのがいささか怪しい。

 文彦は初めての海外一人旅であるから、二人の情報には結構助けられている。こちらから食事に誘いたいと思っていたところだ。旅慣れた二人を初心者の過ごす時間に突き合わせることに遠慮を感じていたが、あちらから誘ってくれて渡りに船だった。

 悠一郎はバンコク滞在が長く、七葉子は北京に留学していたこともあり、二人とも言葉には困らないようだ。傍目には一人でいたいように見えた。

 一方、文彦がヴィエンチャンに来たのは、今年(二〇〇八年)から日本人は短期滞在時のビザが不要になった、とバンコクの安宿で小耳にはさんだからである。ビザ代数千円が無料になったというだけの理由で、はるばるやってきたのだから、ヴィエンチャン滞在については何の準備も知識もなかった。

 悠一郎は、明日の午前中の飛行機で古都ルアンパバーンへ行くと言っていたので、今晩がたぶん、ヴィエンチャン最後の夜になるのだろう。最後の夕食にクアラーオでよいのだろうか。あるいはメコン川床に並んでいる屋台に出かけて、ビールを飲みながら夕陽を見たいのではないかしらん。文彦は少し心配した。


二 ルビーホテルの談話室

        居並ぶ廷臣の驚きは、たとえようもありませんでした。けれど、王さまは

        何があっても王さまです。従わぬわけにはゆきません。王さまは毒の蜂蜜を

        満たした美しい壺を携え、自らシエン・ミエンに届けに行きました。


 文彦は着替えを持ってホールに出た。ドアを開ければホールを挟んだ向かい側に、シャワールームが三つある。中は十分に広く、手前からトイレ、洗面台、シャワーが並んでいる。床と壁はタイル張りだ。

 中央のドアからホールに水音が響いていた。自分のことは棚に上げ、こんな時間に誰だろう、と思いながら、文彦は階段寄りの一室に入った。

 ヴィエンチャンに長期滞在する客は多くない。ラオスに入る旅行者の目的は、たいていが「大仏」という名を持つ古都ルアンパバーンの観光である。首都であるヴィエンチャンを中継地点と見做し、一両日の滞在で済ませたり、中には素通りする旅行者すらいる。ことに東洋人は一人旅でもその傾向が強い。欧米人に、何をするでもなくのんびり過ごす者の多い事とは対照的だ。

 七葉子は珍しく後者だ。文彦も旅の疲れを自覚して、昨日からこののんびり型にシフトしている。

 のんびり型の日常は、暑い日中はこのホテルのような安いゲストハウスやカフェに引きこもる。夕方からはメコン河畔などに繰り出し、ひたすらぶらぶら歩きまわったり、外国人の集まるレストランでおしゃべりしたり、歌った踊ったり、たわいがない。みな、旅に特別な目的など無いように見えた。

 文彦は三日前の朝ヴィエンチャンに着くと、まっすぐにルビーホテルにやって来た。イミグレーションで知り合った日本人学生の二人連れが、二冊のガイドブックを熟読して選んだと言うのを聞いて便乗したのである。

 一階はロビーとキッチン、それにオーナー家族と住込み従業員の住居、二階と三階が客室の、旧くて小さなホテルである。教えてくれた二人は朝着いたというのに、その日のうちにレンタサイクルで精力的に市内を回ると、翌日にはもうルアンパバーンへ発って行った。文彦も二日間で市内の主な寺院や名所は回った。

 今日は朝、たまった洗濯物をランドリー・サービスの店に持込んだ。その足でフレンチカフェへ行き、外国人定番の分厚いバゲットのサンドイッチとコーヒーの朝食を採った。

それから川沿いの道をそぞろ歩き、その昔、東西のスパイがロビーを闊歩していたというランサンホテルへ向った。ホテル近辺の五〇メートルばかりは、自分もスパイになった気分で歩いてみた。ぶらぶらしていると見せて油断なく周囲に注意を払ってみたりもしたが、並木の根本に物乞いの老人がいるだけであった。

 それからシーサケート寺院の廻廊を意味もなく何周も右繞し、昼前に戻って来た。その時シャワーを浴びて着替えたので、今日はこれが二度目のシャワー。クリーニング店は散歩のついでに預ければ翌朝仕上げてくれるので、気軽に着替えられる。

 シャワーを済ませ、外出の仕度を整えてから、またホールに出た。ホール南側の談話室には給水タンクが設置されており、自由に給水できる。滞在客はみな、外出前、持参のボトルに飲料水を補充してゆく。

文彦は、何時も談話室のドア前右わきに置かれていたラックが、手前の二〇一号室の靴のラックであることに気づいた。宿泊客は長期滞在であるらしい。ラックにはスニーカーが置かれていた。そう言えばサンダルが置かれていたこともある。今は在室中ということだ。

 文彦はその客を見知っていた。眼鏡をかけた色白の青年である。人見知りするタイプらしい。ホールですれ違う時に会釈するのだが、スルーされていた。


 文彦が談話室の開け放たれたドアから中に歩みいると、南ベランダ側の椅子に悠一郎がぽつねんとかけ、外を眺めていた。膝にはノートパソコンを開いている。

 何を見ているのだろう。窓にはレースのカーテンだけが引かれている。ベランダ全体は防犯用の金網で覆われており、室内からはセーターティラート通りを挟んで、向いの建物の二階が見えるだけである。

 「こんにちは」

文彦は声をかけた。

「鷲尾さん、今夜、クアラーオに行きません?高山さんから誘われたんです。鷲尾さんもって、高山さんが」

 すると、悠一郎が振り向いて言った。

 「行く、行く。俺、一度行ってみたいと思っていたんだ」

 「僕も。ちょっと敷居が高そうで、独りでは行きにくいと思ってたんで、誘ってもらってよかった。あの店、外から見ると立派そうだけど、こんな格好で大丈夫かな」

 文彦はTシャツを、薄いグレーのポロシャツに着替えていた。これでも襟がある分、Tシャツよりはずっとフォーマルなはずだ。

 「十分じゃない?」

 そういう悠一郎は、寒色系チェックの半袖ボタンダウンのシャツだ。第二ボタンまで外している。暑いのだ。談話室には冷房設備が無い。その姿はだらしなさそうにも、おおらかそうにも見えた。ひょっとしたらセクシーかもしれない。

 「霊芝寺君、夕食までの予定は?」

 「まず、ヴィエンチャン・プレスに行ってみようと思って」

 ヴィエンチャン・プレスは、ヴィエンチャン・タイムスを発行している新聞社である。

 「どうして?」

 「欲しい本がヴィエンチャン・プレスから出てるんで」

 昼寝のお供に朦朧と眺めていた民話のことである。シエン・ミエンのとんち話も面白いが、「三匹の仲良しの蠅」もいたく気に入った。「街の鼠と田舎の鼠」のラオス版で、蠅同士の友情がいじらしい。鼠よりもまだ小さな蠅を擬人化しているところに、生き物に対する隔てのなさが感じられる。さすがに仏教国だ。

 「英文?」

 「うん。ラオスの民話」

 「そうか。でも新聞社に置いてあるかな」

 「それはそうなんだけど、昨日、三軒書店を回って無かったから、ダメモトで」

 「英文書籍専門店は行ってみた?」

 「え? どこにあるの?」

 「うーん。ナンプー広場から近い、大きな通り。行けば判ると思うけど。ラオスの歴史文化関連の本もたくさんあったから、フォークロアもあるよ、きっと。付合おうか?」

 「いいの?」

 「もちろん。夕食までその他に何か予定ある?」

 「無い。メコン川沿いをまたぶらぶらしたいという程度」

 「じゃ、本が見付かったら、マッサージに行かない?」

 「マッサージって?」

 「行ったことない? 全身じゃなくて、足だけのフット・マッサージなら安くて手軽だし。足がすーっと軽くなって気持ちいいよ。俺もここではまだ行ったことないんだけど、良さそうな店見かけたから」

 マッサージと聞いて、一瞬不謹慎なことを連想した文彦は、悠一郎の言葉を聞いてほっとしたものの、ちょっぴり落胆もした。

 「ふうん。。。いくら?」

 「表の看板に五万キップって出てた。六百円弱ってところかな。足だけだから」

 六百円なら、いくら物価の安いラオスでも、本当にマッサージだけだろう。やっぱりちょっと残念かもしれない。

 「どれくらい時間かかるの?」

 「長くて一時間かな。たぶん正味五〇分くらい」

 「行く」

 相談がまとまり、その足で出ようとしていると、オーナーが入って来た。小太りの中国系ラオス人である。琺瑯のマグカップを手にしている。この暑いのに、透明な琥珀色の液体からは湯気が上がっていた。

宿泊客のほとんどが観光に出ているか、冷房の効いた自室にこもっている。そんな昼下がりのむわんとした談話室に二人がいたことは、オーナーには少し意外だったようだ。

 それでもフロントでのイメージそのままに如才なく会釈し、中央のテーブルを囲んだ籐椅子のソファにかけた。

 「行ってきます」

 二人が声をかけて出ようとすると、オーナーはまたゆったりうなづいて、笑みを返した。


三 マッサージ店のマダム

         「シエン・ミエンよ。お前は何度も私を騙した。お前は確かに賢い。さぞ満足

         であろう。されば国一番の蜂蜜を飲み干し、自らの勝利をとくと味わうがよい」

         こう言うと、王さまは白馬の背に揺られながら、宮殿に帰りました。


 二人は一六世紀の王の名を冠したセーターティラート通りから、繁華街の中心であるナンプー広場を通り抜けた。

 文彦は、時々悠一郎の背中に話しかけながら、後をついて行った。幸い英文書籍専門店には、捜していた本があった。他にもラオスの自然を紹介する写真集など、見ていると美しさに溜息が出たが、重くて荷物になるので諦めるしかない。悠一郎も立ち読みするだけで、買ったのはヴィエンチャン・タイムスだけであった。


 マッサージ店は、思いのほか書店から近かった。これ以上汗をかかずに済むと思い、文彦はほっとする。

 扉を開けると正面にカウンターがあり、色白でむっちりとしたマダムが待ち受けていた。身体には栄養が衣装にはお金が行き渡っていた。「フットマッサージ」と告げると、すぐに奥へ案内される。

 通された部屋は薄暗かった。入ったところに等身大の坐仏が説法印を結んでいる。シーサーケート寺院の仏像にそっくりで、金箔の剥げ具合まで似ていた。コピーであるはずなのに、やはり何がしかの荘重さや慰めを感じさせる。窓と壁にめぐらされた色鮮やかな織布が、幡のように室内を荘厳していた。

 仏像の台座前にくべられた線香から、一炷(しゅ)甘い香りが漂い、何か懐かしいような気持ちになる。ゆるい冷気を、天井から下がったシーリングファンがゆっくりと撹拌する。昼寝をして寝足りているはずなのに、丁寧なマッサージを受けていると、またいい気持ちになってしまう。暗さも手伝い、文彦は隣りに悠一郎がいることも忘れてとうとした。仕上げにさっぱりしたオイルを足全体に揉みこむように塗られ、コースは一時間で終わった。

 二人が部屋を出て受付カウンターにもどると、冷茶がふるまわれた。なぜか桜餅のような香りがする。悠一郎は先に飲み干すとカウンターに進み、マダムに代金の五万キップを渡した。続いて文彦も米ドルで五ドル渡す。五ドルは約五万三千キップである。あいにく財布の中にはキップもタイバーツも切れていた。ここでは自国通貨以上に、タイバーツと米ドルが流通している。

 文彦がお釣りを待っていると、マダムが宣言するように言った。

 「ちょうどいただきました」

 はっとしたが、突っ立っていた自分がまぬけに思え、そのまま引き下がろうとした。すると思いがけず、悠一郎が脇から低い声で言う。

 「お釣りがあるはずでしょう?」

 文彦は一瞬どきっとした。しかし、マダムの方は慌てずにきっぱりと言った。

 「いえ、これでちょうどです。あなた方は外国人旅行者でレートをご存じないから」

 「そんなことはない。今日のレートなら朝、見てきましたよ」

 「もちろん、私だって知っています。対ドルは八ですから、これでも足りないくらいです」

 文彦は再び椅子にかけ、冷茶をすすりながら二人のやり取りを見ていた。お釣りといっても二千か三千キップ。日本円で数十円。そんなことで言い争うなんて。自分一人なら疾うに引き上げているところだが、自分のために交渉している悠一郎を置いて先に出て行くわけにもゆかなかった。

 文彦の困惑をよそに、悠一郎は譲らない。

 どう収めるつもりなのだろう。文彦はタイ語が一言も分からない。そう思っていると、悠一郎がこちらへ歩み寄ってきて言った。

 「マッサージ、どうだった? 良かった?」

 諦めて帰るのかと思えば、こんなことを訊いてくる。全く文脈が読めない。とまどいつつ答えた。

 「うん、すごくよかった」

 「そうか。満足した?」

 「うん、大満足。病みつきになりそう」

 「それなら、マッサージしてくれた女の子にチップあげないか?」

 え? 文彦は焦った。

 「チップあげなきゃいけなかったんだ。あげる、あげる。いくらくらい?」

 「いや、もちろん、どうしてもというわけじゃない。出さなくともいいんだ。でも俺は挙げたいんだ。感謝の気持ちとして。少しでいいんだよ。女の子だって、上げれば自分のサービスが本当に喜んでもらえたと思って、励みになるじゃない?」

 「もちろん出すよ。いくらくらい? 悠一郎さんはいくら出すの?」

 「俺は二千キップ」

 あれ? チップって、一五パーセントくらいじゃないのか。

 「そんな少なくていいの?」

 「いいんじゃない? 気持ちを表すだけだから。本来無くともかまわないものだし。だから文彦君も、五ドルのお釣りを上げればちょうどいい」

 「え。だって、お釣りないでしょ?」

 「大丈夫。たしか隣に両替スタンドがあったから、俺が五ドル取り戻して、キップに両替してくるよ。そしたら、五万キップ店に払って、残りをあげればいい。文彦君は何も損をしないで、女の子に喜んでもらえる。直接渡さないと彼女たちの実入りにはならないし。それに、たとえわずかな額でも、日本人はみな言いなりに払うと思われると、後から旅行する人たちにも迷惑かけることになる」

 呆気にとられていると、悠一郎は重ねて言った。

 「文彦君は何もしなくていいんだ。ただ、ここで待っていてくれればいい。全部、俺がやるから。任せて」

 「お、お願いします」

 へどもど答えると、悠一郎はカウンターに戻って再び話しはじめた。マダムはしぶしぶ五ドルを返して寄こす。悠一郎は紙幣を受け取ると、さっと店から出て行った。文彦は手にしていた財布をそっと仕舞った。

 マダムは後ろに控えていた女の子たちに何やら話して笑った。女の子たちもお追従をして一緒に笑っている。悠一郎と、そしておそらくは文彦のことだろう。言葉が分からないのを幸い、マダムと女の子たちを眺めながら待った。

 戻って来た悠一郎は、レシートと一緒に五万二千五百キップを文彦に渡した。

 「悪いけど、お札だけでコインは出せないって言うんだ。だからレシートよりちょっと少ないけど」

 「いいよ、そんなの。ありがと」

 文彦は立ち上がって受取り、カウンターに進んだ。やっと帰れる。マダムに五万キップを渡す。悠一郎も財布から二千キップを取りだし、自分の担当だった女の子に渡す。すると女の子は驚いて、それからちょっと泣き出しそうな表情をした。それがとてもチャーミングだった。

 こっちの子が自分の担当だったら危なかった。文彦はそう思いながら自分の担当だった女の子の姿を捜したが、見当たらない。それで二千キップを彼女に託し、五百キップはポケットに入れた。

 すると、女の子は黒目勝ちの目で文彦を見つめ、何か言った。たぶん、必ず渡しますとでも言ったのだろう。それから「サンキュー」と言って、お札を持ったまま、胸の前で合掌した。

 文彦はすっかり気を良くして、自分も「サンキュー」と言ったまま、突っ立っていた。目の前の瞳がきらきらしている。つい、でれでれしていると、ドアを開ける音がする。ふりむくと悠一郎が出て行くところだった。あたふたとその後を追って、店の外に出る。目の隅にマダムの忌々しそうな表情を捕えてしまった。マダムに恥をかかせてしまったようだ。あちらを立てればこちらが立たず。難しい。


 先を歩いていた悠一郎が振り向いた。

 「どうする? 夕食まで時間があるけど」

 「メコン川に行きたい」

 「いいね。そうしよう」

 二人は川に向かって歩きはじめた。文彦はひょろりとして少し猫背の悠一郎の後ろを黙って歩きながら、サムライだな、と思った。そして、財布に入れそびれてそのままポケットに突っ込んだ五百キップ札のことを思い出し、果たして帰国までにこのお札を使う機会があるだろうか、と考えた。


四 最後の英雄

         シエン・ミエンはその蜂蜜が毒であることを知っていました。また、それを

         飲まねばならぬことも。

         彼は妻と召使いと愛犬を呼び、別れを告げて言いました。


 二人は土手から川岸に下りた。悠一郎はサッカーの仲間入りをし、文彦は流木を捜して得られなかった。

 それから二人で対岸のタイ側に沈む夕陽を楽しんでから、クアラーオに向う。約束の六時半に着いたが、七葉子はすでに待っていた。今回は先回よりステージに近い席だそうだ。三人で予約した甲斐があった。

 コースは二種類。文彦は真剣に英語のメニューを読もうとしたが、結局はっきりわかったのは料金だけであった。すなわち、Aコースは一〇ドルでBコースは一五ドル。

 七葉子が訊いた。

 「決まった?」

 「AコースとBコース、どう違うの?」

 「料理の内容はあまり変わらないわ。品数もたしか同じだったし。ウェイターに訊いてみたんだけど、Bコースの方が材料が高級なんですって。ラープだったら、Aコースは鶏肉で、Bコースは七面鳥とか」

 ラープはラオスの代表的な肉料理で、細切り肉の和え物のことだ。

 「ふうん、そうなのか」

 「でも、何度も来るならともかく、一度だけならやっぱりBコースにした方がいいんじゃない? その方が後で心残りが無いでしょう?」

 悠一郎が言った。

 「そうだね。俺、明日ルアンパバーンへ行くし、帰りにヴィエンチャンによっても、またここに来るかどうかわからないから、Bコースにするよ」

 「じゃ、僕も」

 「それじゃ、そうしましょ。私、ご馳走します」

 「え?」

 文彦と悠一郎が顔を見合わせる。

 七葉子はにっこりして言った。

 「二人とも、忘れてるでしょ? 今日は三月三日(月)。お節句よ。私、初めから今晩は二人にご馳走しようと思っていたの。いろいろお話を聞いてお世話になったし」

 そうだった。あんまり暑くて、日本が初春だということを忘れていた。何だか別の世界の出来事のようだ。しかし、お世話になったのはどう考えても自分の方なので、どうしたものかと文彦が逡巡していると、それを後目に悠一郎がさっくり言った。

 「そうだったねぇ。お雛祭りおめでとう。それじゃ、遠慮なくご馳走になるよ」

 えっ、いいのかな、と文彦が再び逡巡していると、悠一郎が続けた。

 「その代わり、お祝いに俺たちが白酒の代わりにワインを一本ご馳走するよ」

 おお、そうか、そういう手があったのか。

 「まあ、嬉しい。ここはフランスの植民地だったから、ワインは美味しいわよ。みんなで飲めばボトルで頼んでも無駄にならないでしょうし。そうしましょう」

 悠一郎はウェイターに、リストの中の一行を示した。

 料理は一人分づつ、丸いお盆に並べられ、一度に出て来た。インドのターリーのようだ。ご飯は白米より高級だという赤米の蒸し飯で、小豆を入れてごま塩をかければまるでお赤飯だ。

 「きれいにできてるね」

 文彦が感心すると、七葉子が言った。

 「ほんとね。精霊の家のお供えセットみたいで、ラオスの精霊と共食しているような、ちょっと厳かな気持ちになるわね」

 「精霊って何?」

 「仏教伝来以前の土着信仰よ。カイサン・ポンヴィハーン通り沿いにも、立派な精霊の家があったわよ」

 七葉子はバッグからデジタルカメラを取りだし、写真を見せてくれた。

 「カイサン・ポンヴィハーン通りを歩いたの?」

 悠一郎が訊ねた。

 「ええ」

 「どこまで?」

 「カイサン・ポンヴィハーン博物館まで。凱旋門で車、つかまえられなかったの。一本道だから、歩きながらつかまえようと思ったんだけど。一時間歩いて路線バスすら通らなかったわ。みな、団体専用の送迎バスばっかりで」

 「さすがにツワモノだね。めちゃくちゃ暑かったでしょ。あの通り、日陰も何もないじゃない」

 ツワモノは、昨晩、七葉子がインドを数カ月かけて一周した時の話を聞いた、悠一郎の命名である。

 「焦げちゃったわよ。あんなとこ歩いているのは、私とお坊さまが二、三人。お坊さまの大きな傘が、ちょっとうらやましかったわ。頭から砂埃を被っちゃうし」

 その博物館にはまだ行っていない。文彦は堪えきれずに訊ねた。

 「それって、何の博物館?」

 二人は、同時に弾けるように笑った。

 「文彦くん、持ってるじゃない」

 「へ?」

 「二千キップ以上の紙幣に、もれなく印刷してあるよ。カイサン・ポンヴィハーンの肖像が」

 「ああ。あの栄養状態の良さそうなおじさんか。へえ。そうなんだ。ラオスの英雄なんだ」

 「最後に現われし者ね」

 七葉子が言った。

 「え?」

 「タイミングよ。英雄の資質の有る人はどこにでもいるけれど、最後に現われることが肝要だと思うわ」

 「西側はカイサン・ポンヴィハーン、フー? って感じだったらしいね」

 悠一郎も言い添える。

 わけのわからない文彦は、よし、帰国したら手当たり次第にラオスのガイドブックを読んでやる、と心中ささやなか決意を固めながら言った。

 「でも、キップって自国の通貨なのに、存在感薄いよね。タイバーツや米ドルの方が使いやすいなんて、ちょっと不思議」

 「そのうち、人民元が流通するようになるかもしれないわ」

 七葉子がつぶやく。

 文彦は米ドルとキップの両替レートについて、昼のマッサージ店でのマダムとのやりとりを披露した。すると、七葉子はその店を知っていた。何度も通っていると言う。しかも、マッサージ店のオーナーはルビーホテルのオーナーであり、マダムはオーナーの妹だと言うのである。

 「じゃ、あのマダムは雇われマダムなんだ」

 色白もち肌なので、中国系とは思っていたが、オーナーの妹さんだったのか。

 七葉子はマッサージ店の女の子や、ホテルの従業員たちから、いろいろな話を仕入れていた。

 オーナーの娘リリーの母親は日本人で、昨年、死亡したということである。

 確かに色は白かったが、オーナーが中国系なので、彼女も中国系とばかり思っていた。第一、チェックインも出入りの挨拶もいつも英語だった。それでも七葉子とは北京語で話しているらしいから、異性には話しかけないだけのことかもしれない。今度、日本語で話しかけてみようか。

 小柄でキュートだが、大学を出ているそうなので、文彦より年上だ。まあ、二、三歳の差ならもちろん射程範囲内だ。

 噂では、リリーの母親が、学生時代に海外ボランティアに参加して、オーナーと知合い、結婚してこちらに永住したということだ。珍しい話である。ホテルの開店資金が母親の持参金から、という話もあるらしい。そんなことまで噂になるのか。

 母親の死因は事故死だと言う。何の事故だろう。交通事故だろうか。目抜き通りのランサン通りでも、信号の数は少ない。もっとも、車の数自体がまだまだ少なく、夜など車道が空いていて、一九世紀にタイムスリップしたような気分を味わえる。十九世紀の車道を知らないが。

 それにラオスは、鉄道も敷設されていない。今、日本などから援助を受けて建設中で、来年(二〇〇九年)開通予定だ。アジア諸国はみな、植民地時代に鉄道が敷かれているが、ラオスでは人口の少なさなどから、投下した資本を回収できないと計算した宗主国のフランスが、敷設しなかったという。

 ヴィエンチャンにゆったりとした雰囲気が漂っているのも、人口が少ないこと以外に、鉄道の無いことがその要因かもしれない。それも、来年からはおしまいになる。

 しかし、国土全体に鉄道網が張り巡らされ、整備されるまでは、まだまだ時間がかかるだろう。古都ルアンパバーンにも、とうぶんは小型飛行機か長距離バスで行かねばならない。

 隣りのテーブルのフランス人女性が二人、簡単な単品料理をつまみにビールを飲んでいる。一人は、こちらに運ばれたコース料理を見て、ほうっとため息をつき、文彦と目が合うとにっこりした。

 食事が終わる頃、舞踏ショーが始まり、三人は色とりどりのカットフルーツと飲み物でショーを楽しんだ。

 ストーリーは恋愛のかけひき程度のことしかわからなかったが、それでも十分楽しめた。衣装にしても何にしても、中国の少数民族の舞台を見ているような感じもする。途中から皆が席を立って舞台に近寄り、俄かカメラマンに変身した。文彦はクアラルンプールでデジタルカメラを失くしており、撮影できなかった。それで同情した七葉子が、帰国後携帯に何枚か送信してあげる、と言ってくれた。

 九時頃ショーが終わった。七葉子が請求書を開くと、悠一郎がいつの間にか準備していた三〇ドルを渡す。文彦が焦ると、「あとでね」と軽く往なされた。七葉子は「ありがとう」と屈託なく受取り、八〇ドルをはさんで渡した。領収書が戻ると、七葉子はそれだけ抜き取り、お釣りははさんだまま、テーブルに置いて立ち上がった。


五 夜の贈り物

         「妻よ。私が死んだら、私の死体を揺り椅子にかけさせ、眼鏡をかけさせ

         手にはいつもの新聞を持たせ、テーブルには私の好きなお茶のカップを置い

         ておくれ」


 店を出ると、外はもう真っ暗である。大通りに出るまでの細い通りは、街灯もほとんどなく、足元も覚束ないくらいに暗い。なぜか、話す声すら小さくなってしまう。

 幸い、セーターティラート通りに出ると、間遠いとはいえ、街灯が並んでいた。薄暗い通りを自分の影を見ながら歩いていると、影絵の世界に迷い込んだような心地がする。たまに通りかかる車のライトも、怪物の目玉のようだ。

 ナンプー広場で、悠一郎が、まだ帰りたくないから、コプチャイドゥーに寄る、と言った。文彦も付き合うことにした。

 コプチャイドゥーは、オープンエアのテラスレストランである。外国人旅行者のたまり場になっていて、夜はいつも、にぎにぎしく混んでいた。テラスはムードがあるが、一人で入るとやはり室内の席に案内される。二人ならどうだろう。男同士だけど、ワイン代の清算もしないといけないし。

 七葉子は、暗くてもこの通りなら遅くまで外国人が歩いていることでもあり、携帯用防犯ベルも携行しているので大丈夫だから、と先に帰って行った。


 文彦たちと別れた七葉子は、一人で歩き出した。ホテルのあるブロックに入り、少しほっとしているところへ、どこからか痩せた浅黒い女が現われ、話しかけてきた。

 黒い瞳が熱に浮かされたように闇に輝いている。おずおずと、はにかむような笑顔を投げかける。どこかで見知ったような懐かしさを感じて思わず微笑み返すと、女は開きかけた真紅のバラを一本差し出した。

 言葉はわからない。花売りなのだろうか。手を振って断った。しかし、女は離れない。ホテルのロビーにも臆せず入って来て、話しかける。

 フロントにはパムが詰めていたが、女がロビーで七葉子に話しかけるのを目にしても、無言である。それでは女はここの従業員だったのか。七葉子はほっとして、押し付けられたバラを受け取った。すると女は、なおもしきりに話しかける。さっぱりわからない。パムに助けを求めると、厳しい顔をして女にひと言ふた言話した、すると女は一言も返さず、と言って悪びれる様子も見せずに、出て行ってしまった。

 呆気にとられた七葉子はパムに訊ねた。

 「あの人は誰? 何をしたかったの?」

 「知りません」

 パムはいつもの愛想の良さに似ず、そっけない返事をした。狐につままれた心地でいると、女が戻ってきた。七葉子がバラを返そうとすると、押しとどめながら花頭部を指さす。見ると、花びらの内側のまだ固く巻いた蕾状の頭に指輪が嵌めてある。女はその指輪だけ抜き取ると花は七葉子に上げる、と身振りで示し、にっこり笑って出て行った。

 「どういう意味なのかしら」

 部屋の鍵を受け取りながら再び訊ねたが、パムは「さあ?」と首を傾げるばかり。

 面妖なことだ。彼女はいつもこんな時間に、この辺りをうろついているのだろうか。ひょっとして、精神を病んでいるのかもしれない。ただ、危害を加えそうな様子は見えなかった。

 あるいは、ラオス人の言う精霊には、彼女のような存在も含まれているのかもしれない。きらきらと潤む黒い瞳。この世とあの世の堺に住まう者。どちらにも行き来できる者。

 現実を回避してここまで来ている自分と、精神の在りようは通底するところがあるのではないか。

 七葉子は考え込んで、二階への薄暗い階段を上った。一段毎に注意して足を運んでいると、踊り場の扉の大きな閂が目に入った。扉は門限が過ぎれば閉じられる。一階から客室のある二階への出入りはここで遮断される。閂は外側である一階側に付いている。つまり、この扉は閂がかけられた後は、客室側からは開けられない、ということになる。もし、二階か三階から出火しても、上の階からこの扉を開けることはできない。

 宿泊客の外側から施錠するという発想は、異文化を意識させる。水滸伝などでおなじみの、宿の主が盗賊という顛末の物語は多いが、現実には主が得体の知れぬ宿泊客を恐れることの方が多いのかもしれない。宿中が寝静まった深夜、盗賊に変身する宿泊客を。

 非常口はある。談話室の、南側の通りに面したベランダの西端に、庭に降りる非常階段が付いていた。その非常階段の鉄扉も、普段は内側から掛け金が下りている。ベランダは全体が金網で覆われているので、通りからよじ登って侵入することは出来ない。また、談話室からベランダへ出る鉄枠のガラスドアも、内側から施錠してあるはずだ。

 夜間の非常時に外の通りに出るには、談話室からベランダへのドア、非常階段から庭へのドア、庭から裏通りへの裏口のドア、この三つの扉を開けなければならない。

 七葉子が二階のホールで談話室を見ると、明りは消えていたが、ドアは開いていた。このドアは一日中開け放してある。非常口に通じているからであろう。思い返してみても、閉めた状態を見た記憶がない。

 部屋にもどると、ざっとシャワーを浴びた。お茶をいれようとすると、飲料水が切れている。七葉子は律儀にパジャマから再びワンピースに着換え、談話室へ給水に出た。廊下はしんとしていた。どこかの部屋から微かにテレビの音が洩れている。共同シャワー室の水音は絶えていた。

 談話室は無人であった。入口で天井の照明を点け、給水する。ベランダへのガラスドアには、昼のレースカーテンの上に花柄のカーテンが引かれていた。気後れをふり払って歩み寄り、カーテンをめくって施錠を確認する。内側から掛け金が下りていた。時計は九時四〇分を差していた。

 七葉子は部屋にもどった。水を満たした琺瑯カップに携帯用ヒーターを入れてお湯を沸かし、ティーバッグでお茶をいれた。それからノートパソコンで日記をつけ、文庫本を読む。謎の女からもらったバラをコップに挿して枕元に置き、就寝した。文彦たちが帰って来たことは知らなかったし、気にもかけていなかった。二〇八号室は、それから朝まで、暗い海のような夜を静かに漂っていた。


 文彦と悠一郎がもどったのは、一〇時過ぎである。門限は一一時でまだ間はあったが、悠一郎はビールを一杯飲んで、気が済んだらしかった。

 二人はフロントでリリーから部屋の鍵を受け取り、階段を上がってホールに出た。談話室は明るく、中から話声が洩れている。フランス人夫妻のようだ。二人はそれぞれの部屋に入り、それから二人ともまたシャワーを使うため、ホールに出て来た。

 悠一郎がシャワー室から出ると、談話室からはまだ話声がしていた。テレビもラジオもなく、旧い雑誌しか置いてない部屋で、本を読むでもなく、夫婦だけでおしゃべりしているなんて、なんだかフランス人らしい。そう思いつつ、部屋にもどった。それから荷物を少し整理して、本を読み、一二時頃就寝した。

 文彦が悠一郎より遅れてシャワー室を出た時も、談話室の話声はまだ続いていた。文彦は部屋に戻ってから、しばらくガイドブックを読んだ。それから夜中に咽が渇いた時の用心に、飲料水を補充しておこうと、上は襟付きのパジャマのまま、談話室へ向かった。

 すると、二〇一号室の靴のラックが動いているのが目にとまった。昼はドア脇に在ったのに、今はドア前中央に置いてある。ドアは外開きであるから、これでは宿泊客が外に出る時、ラックが邪魔になる。誰か談話室から出る時に、蹴飛ばしでもしたのだろうか。それにしては、ずれるというよりもきちんと置き直したように見える。妙だ。

 談話室に入ると、中には中年のフランス人夫妻とオーナーがいた。文彦の姿を見て、二人は少し気まずそうに口をつぐんだ。それでもオーナーは文彦に会釈する。文彦も軽く会釈を返してからそそくさと給水し、また、誰にともなく会釈して部屋を出た。パジャマがまずかったのだろうか。上下とも着替えて出るべきであった。室内にいた時間はほんの数十秒にすぎなかったが、その間、三人は何故か押し黙ったままであった。

 部屋にもどると、一一時を過ぎている。もう門限なのに、オーナーは戸締りに回らなくてもよいのだろうか。今しがたの雰囲気を考え合わせると、どうも落ち着かない。

 それから、昼に着たポロシャツのボタンが取れかけていたのを思い出し、クリーニングに出す前に付け直す。また、マッサージの時少し気になった足の爪を摘んだりして、ベッドに入った。

 気のせいか、昼間オイルを刷り込まれた脚がつやつやして見えたので、文彦はいい気持ちで眠りに就いた。


六 オーナーのカップ

          シエン・ミエンは毒杯を飲み干しました。そして死にました。

          妻は泣いて泣いて、泣き崩れました。それからシエン・ミエンが言い遺した

          ことを思い出し、笑って笑って、笑い転げました。


 翌朝、いつものように、庭の洗い場から響いてくる調理器具や食器を洗う音で、文彦は目覚めた。従業員は自分たちの食事はもちろん、托鉢のお坊さまへのお布施も、すでに済ませてしまったようである。

 ベッドに横になったまま、今日は悠一郎がルアンパバーンへ発つ日だ、と思いだし、淋しかった。自分も数日後には行くのだから、下調べがてら飛行場まで見送りに行こうか。六時半になったら起きだし、着替えて朝食に出よう、と思いながら、再び目を閉じた。

 うつらうつらしていると、鳥のさえずりや従業員の話声が聞こえてくる。しかし、何だか様子が変だ。声の調子が険しい。それに従業員の声は下の庭からではなく、屋内からだ。ホールをバタバタ行き来する気配もする。

 起き上がって時計を見ると、すでに六時半であった。着替えて洗面用具を手に取ると、ドアがノックされた。

 「霊芝寺くん」

 ドアの向うで、七葉子の緊張のこもった声がする。ドアを開けた。

 「ごめんなさい。今、大丈夫? 出られる? 一緒に朝食に出ない?」

 矢継ぎ早に、ささやくように訊いてくる。

 「まだ顔洗ってないんだ」

 「大丈夫、わからないわよ」

 「でも、髯だけは、どうしたって剃らないと」

 「それじゃ早くして。ロビーで待っているから」

 「ロビー? 談話室は?」

 「今、使えないの」

 え。何か有ったのか、談話室で?

 「じゃあ、早くね」

 七葉子は、訊ねようとした文彦に背を向けて、行ってしまった。

 ホールに出ると、談話室のドアは閉まっていた。おまけに南京錠がかけられている。談話室のドアが閉まっているのを見たのは初めてだ。何かあったのだろうか。

 文彦は昨晩給水した時のことを思い出しながら、大車輪で髭剃りと洗顔を済ませた。部屋にもどってショルダーバッグを摑むと、一目散に一階へ駆け下りた。

 ロビーの椅子にかけていた七葉子と悠一郎は、文彦を見ると同時に立ち上がった。七葉子はフロントに、「私たち三人、フレンチカフェに朝食に行きます」とことわって出口に向かう。フロントではパムが制服姿の人と何か話していたが、七葉子の挨拶に応えてかすかに頷いた。

 文彦も慌ててパムに、「モーニン」と言って鍵を渡し、後を追った。悠一郎が髭を剃っていないのに気づき、緊張する。

 二人の後から訊ねる。

 「どうしたの? 何かあったの?」

 七葉子は振り向いて、あやすように言った。

 「カフェで話すから。ね」

 悠一郎も、もくもくと歩いて行く。何か知っているようだ。それより、ルアンパバーンへ行く準備はしなくて良いのだろうか。二人とも、まだおはようとも言っていない。


 七時前だったが、フレンチカフェは六時半から開いていた。ヴィエンチャンは朝が早く、外国人相手のカフェでも早くからやっている店がたくさんある。

 三人はテラスの隅のテーブルを囲み、毎度おなじみのバゲットの野菜サンドイッチと飲み物に、七葉子はヨーグルトを頼んだ。

 「ごめんなさいね、急いでいたから、ここにしちゃったけど」

 七葉子が文彦に謝った。

 洋式より、ベトナム系や中国系のレストランの方が安いし、メニューにも麺やご飯がある。しかし、今はそれどころではない。好奇心で頭が爆発しそうだ。今朝は前髪のワックスも省略したが、髪がつんつん逆立っているようだ。

 注文を終えるのを待ちかねて訊ねた。

 「ねえ、何があったの?」

 ようやく得られた答は、意外なものであった。

 「オーナーが亡くなったの」

 「へっ? ルビーホテルの?」

 驚く文彦を、七葉子がそっとたしなめる。

 「小さい声でね」

 日本人はこの三人だけだが、ルビーホテルという固有名詞は誰でも聞き取れる。

 「ごめん。でも、なんで? 病気? 事故?」

 「まだはっきりしないけど、どうも自然死じゃないらしいの」

 「朝六時前に従業員が談話室で発見したって言うんだけど、外傷が無く、椅子から転げ落ちたような格好で、椅子とテーブルの間に倒れていたんですって。それで、空のマグカップとピルケースがテーブルにあったんですって」

 あの琺瑯のカップだ。文彦は前日の昼と夜に見たカップを思い出した。昼の中身はウーロン茶のようだったけれど、夜の中身は何だったのだろう? それに、ピルケースって、何か持薬でも入っていたのだろうか。

 「霊芝寺くん、昨日の夜帰ってから、シャワー室使ったでしょ。鷲尾さんもシャワーの帰りに談話室の方から、フランス人夫妻の話し声が聞こえた、って言うの。霊芝寺くんは、何か知らない?」

 「見たよ僕。シャワーの後で給水に行ったら、オーナーとフランス人夫妻がいた」

 「それって、何時? 何話してた?」

 「一一時頃かな。でも、僕が入ったら三人ともぱたっと話をやめて、黙り込んじゃったし。何を話していたかなんて分からないよ。すぐ出て来たし」

 「そうすると、オーナーの最後の目撃者はフランス人夫妻かな」

 悠一郎が言うと、七葉子も言った。

 「その、ぱたっと話をやめたっていうのは、ちょっと気になるわね」

 文彦も言ってみる。

 「何か、密談でもしていたのかな?」

 すかさず悠一郎が返す。

 「密談なら、なにも談話室じゃなくて、夫妻の部屋でするとか、別に場所があると思うけどね」

 「そうかぁ。ねえ、心臓発作とか自然死じゃないなら、飲み物に何か毒でも入っていたってこと? 中毒死? ひょっとして自殺とか? 僕たち、ここにいてもいいの?」

 「朝食に出るって言ったら、構わないと言われたわ。外国人だからパスポートで身元は分かっているし、これくらいはいいんじゃないの? どこにいたって朝食は採らないといけないんだし。それに、もし本当に飲み物に毒が入っていたとしたら、帰ってから聴取されるんじゃないかしら」

 「俺たち、容疑者なの?」

 「だって、悠一郎さん、ルアンパバーンへ行かなくちゃ」

 「いいよ。延期する」

 「へ? 飛行機のチケットは?」

 「買ってない。今の時期、朝飛行場へ行けば、その日の便には必ず乗れるって聞いていたから」

 「なんだ、そうだったんだ」

 食事を終えてからも、三人はしばらくコーヒーで話し合った。

 外傷が無いということからは、中毒死が疑われる。そうだとしたら、投毒者は誰か。内部の者か。外部の者か。門限の一一時過ぎにオーナーはフランス人夫妻と話しており、生存が確認されている。外部の者なら、ホテルの出入り口が全て戸締りされた後、どうやって中に入ったのか。

 ホテル内は、三階への階段の踊り場にも扉があり、やはり夜間は二階側から閂を掛けられている。しかし、オーナーは二階の談話室で亡くなっていた。昨晩、二階と三階の踊り場の扉には、閂はかけられていたのだろうか。

 七葉子は、九時四〇分に、ベランダのガラスドアの掛け金が下りていたことを、確認している。それなら、踊り場の扉の閂はかかっていたのかどうか。まず、それを確かめることが先決だ。

① 三階と二階、共にかけられていなかった場合。ホテル内の全員が容疑者となる。

② 三階にかけられ、二階にかけられていなかった場合。二階宿泊客と、一階に住むリリーを含む住込み従業員全員が容疑者となる。

③ 三階と二階、共にかけられていた場合。容疑者は二階の宿泊客に絞られる。

 三階の客については良く知らないが、二階の客なら全員知っている。日本人三人と、フランス人夫妻。それから台湾の青年が男性ばかり三人、それぞれシングルルームに入っていた。それにもう一人、談話室寄りの二〇一号室の眼鏡の青年。

 帰った後、聴取されなかったら、出来れば従業員から情報を仕入れ、ツインルームをシングルユースしている七葉子の部屋で続きを話そう、ということになった。


七 薬物の女王

         妻は、すぐさま、シエン・ミエンの遺体を揺り椅子に安置し、眼鏡を掛け、

         手にヴィエンチャン・タイムスを持たせ、テーブルには彼の好きなお茶を

         入れたカップを置きました。


 三人はホテルにもどった。フロントで鍵を受け取る時、やはり協力を要請された。それぞれ、自室に待機し、呼ばれたら一人ずつ三階の談話室で、聴取を受けるように言われる。

パムの話では、三階に長期滞在客はなく、グループ客が幾組か残っていたが、みな午前中にチェックアウト予定とのことであった。三階への踊り場の扉には今朝、閂がかかっていたことが確認されており、先の②の場合に当たる状態であったので、容疑の対象から外されたようであった。

 しかし二階の宿泊客も、台湾の青年三人は容疑が晴れているのか、すでにチェックアウトが済んでいた。実際に呼ばれたのは日本人三人と、フランス人夫妻、それに二〇一号室の青年の六人のようであった。

 日本人は七葉子から呼ばれた。文彦は自室の二〇三号室で落ち着かずに待っていた。生まれて初めて死の絡む事件に遭遇したのだ。旅の目的の一つは非日常を経験することに在るとはいえ、あんまり非日常的だ。夢の中を漂っているような気分。

 ぼーっとしていたはずなのに、くず籠が目についた。

 何か違和感がある。そう思って見直すと、カロリーメイトの空き箱が逆さになっていた。朝食に出た間に、部屋の中を調べられたのかもしれない。だが、それならそれで構わない。事件と無関係なことがはっきりした方が気が楽だ。

 それにしても暑くて頭が覚醒しない。こんな時はやっぱり、冷房付の部屋がいいな。そう思いつつ、前髪をワックスで整え、その手を携帯用濡れティッシュで拭いていると、悠一郎が呼びに来た。年齢順だったらしい。

 「高山さんの部屋で待っているから」

 悠一郎はそう言うと、廊下をそのまま七葉子の部屋に通ずる奥に進み、文彦はホールに出て、三階への階段を上った。

 三階も二階と同じプランである。三階の談話室のドアは開いていた。文彦は就職の面接試験でも受けるような気持ちになった。外側に開かれた木のドアをノックし、「プリーズ」という声を聞き、入口で一礼して中に入った。顔を上げると、係りが三人も並んでいた。

 早速、昨晩の行動を聞かれる。一一時頃給水に行った時、談話室にはフランス人夫妻とオーナーがいて、一言も口をきかなかったことを含め、聞かれたことには、何でも知っているだけ答えた。

 こちらからも二、三、訊いてみる。死因をあっさり教えてくれたのには驚いた。やはり、毒物による中毒死と思われるが、自殺か事故かはまだ断定できないと言う。

 そうか。事故死の可能性もあったのだ。真っ先にそれを思いつかなかったのは、どうかしていた。事故なら、不幸なことではあるけれど、これ以上、誰かが不幸になるわけではない。別に何も怪しいことはないのだ。

 これからの予定を聞かれ、ヴィエンチャンにいる間、あるいはまた、事情聴取をすることがあるかもしれないので、その時は宜しく、と協力を感謝された。この後も、自由に行動して構わないし、ホテルにこのまま滞在していて構わないということだったので、文彦は少し拍子抜けした。

 そのまま二階に下り、自室を素通りして、七葉子の部屋へ向った。


 二〇八号室は、冷房が効いていて、こんなふうに落ち着かない時にはやはり有りがたかった。七葉子は三人分のカップを用意して、ティーバッグの紅茶をいれてくれた。しかも、昨日、スカンジナビアン・ベーカリーで買ったという、クッキーの詰まった紙袋を拡げている。

 干天の慈雨。何故か唐突にこんな言葉が浮かんだ。暑いからだろうか。バターをたっぷり吸いこんで、紙袋が半透明になっているのを見ても、文彦はつい手を伸ばしてしまった。普段は、こんなにカロリーの高いお菓子を、むさぼるように食べたりはしないのに。

 「うーん、おいしいや。涼しい部屋で熱い紅茶にクッキーだなんて。すごいじゃない。全く生き返る感じ。最近、脳みそが霜降り気味で、ちっともまわらなかったんだ」

 文彦が言うと、七葉子がまぜっかえした。

 「暑い方が脂が落ちて、しまるんじゃない?」

 「筋肉質の脳みそ?」

 悠一郎もくつくつ笑って言う。

 「脳みそって本来はぶよぶよしている状態が良いと思うけど、文彦くんには筋肉質の脳みそが似合いそうね」

 二人に瞬殺されて、とっさに切り返すことができぬまま、文彦はとりあえず、話題を変えてみた。

 「それにしてもこのティーカップ、三人分もどうしたの?」

 「お台所から借りてきたのよ。こんな時はやっぱり、携帯用のカップじゃなくって、ちゃんとした磁器のカップで飲みたいでしょ」

 「さすがだね」

 「あ。そう言えば、お台所の人がね、磁器のマグカップが一脚見当たらない、って言ってたわ。霊芝寺くんたち、知らない?」

 「知らない。僕はいつも、自分のステンレスボトルのカップ使ってるもん」

 「俺も」と、悠一郎。

 「そうよね、私たちじゃないわよね」

 文彦は、ピーカンをほおばりながら言った。

 「それにしても、事故死なら何も問題は無いのに。朝からずいぶん興奮しちゃったよ。無駄に体力と頭脳を消耗してしまったような気がする」

 また二人が、同時に笑った。

 「事故死だなんて、考えられないわ。ヘロイン摂取の急性心不全よ。中毒でもないのに、どうして大量摂取しなければならないのよ」

 「毒物って、ヘロインだったの?」

 「そうらしいわ」

 「どこから聞いたの?」

 「さっき、聴取の時に」

 「え。どうやって聞き出したの?」

 「あら。聞き出したわけじゃないわ。あちらが親切に教えて下さったのよ」

 心外そうに七葉子が言った。

 「親切?」

 文彦は絶句した。自分は親切にされなかった。一瞬へこんでいると、慰めるつもりか、悠一郎が言った。

 「女性だからでしょ」

 そう言えば、七葉子は目鼻立ちが整い、まるで日本人形のようだ。ただ七葉子の場合、整っている=美人、ではなく、整っている=中性的、となるのだから、不思議だ。

 当人は、文彦の心中を見透かしたように、言った。

 「一番、年上だからじゃない?」

 なるほど。その方がまだしも納得ができる。文彦が考えていると、悠一郎が言った。

 「そう言えば、ラオスって、ゴールデン・トライアングルの一角だったね」

 「ゴールデン・トライアングル? 黄金の三角地帯か。聞いたことある。でも何だかすごい昔の話のような気がする」

 文彦が言うと、七葉子が答えた。

 「規模は縮小されたでしょうけれど、まだ残っているんじゃない? ケシ畑」

 「あ。そうなんだ。ヘロインって、ケシから作るんだ。あれ? ケシから作るのってアヘンじゃなかったっけ。アヘン戦争とかのアヘン」

 「そう。ケシからアヘンを作って、アヘンからヘロインを作るのよ。ヘロインはアヘンや他の薬物より幸福感が強いそうで、毒物の女王と言われているわ」

 「へー。そうなんだ。高山さん、詳しいね」

 「あら。こんなこと、海外一人旅の常識よ。彼を知り、己れを知らば、百戦して殆うからず、よ」

 「やったことあるの?」

 「ないわ、一度も。大麻を吸引している人を見たことは何度かあるけど。留学中に。でも、ヘロインは見たこともないわ」

 「だって、留学先って、北京でしょ。中国人がやっていたの?」

 「いえ、外国人。留学生の集まるパーティーなんかで回し飲みするの」

 「そうなんだ。でも、高山さん、みんながやっているのに自分だけやらないなんて、よくそれで済んだね」

 「済むも済まないも、できないものはしょうがないわ。もともと煙草嫌いだから、葉っぱを紙に巻き込んだタイプのは、吸えないのよ。でも、吸えないと分かってからは、学部生が私のこと、『ベイビー』とか『赤ずきんちゃん』って呼び出したのには閉口したわ。英語で赤ずきんちゃんて長いのよ」

 「リトル・レッド・ライディング・フッド?」

 悠一郎がにやにやして言った。

 「赤ずきんちゃんかぁ」

 七葉子が赤いフードをかぶった姿を思い浮かべた。うーん。案外似合うかもしれん。

 「霊芝寺くんはやったことある?」

 「とんでもない。僕はこう見えても健康オタク入っているから、煙草も吸わないんだ。お酒やコーヒーは飲むけどね」

 文彦は堂々と薄い胸を張った。自慢じゃないが、霜降りなのは脳みそだけだ。

 「鷲尾さんは?」

 「文彦くんに同じく」

 「ふうん」

 「何? なんかつまんなそうね」

 「煙草も吸わないの?」

 「吸ってたけど、二年前に禁煙してからは、一本も吸ってないよ」

 「それは偉いわ。禁煙に成功するなんて。それにしても、こんなところで薬も煙草もやらない品行方正な若者が三人も揃ったなんて、奇遇だわ」

 「確かに。しかも全員一人旅で、誘惑の多い身の上だというのに。それとも曲が無いと言うべきか」

 悠一郎がまた、笑いながら言った。

 曲が無い、ってどういう意味かしらん。文彦が考え込んでいると、二人は倦まずに自画自賛を重ねている。文彦も曲が無いことは措いてそれに加わり、気分よく褒め合っているところに、ドアがノックされた。


八 ルビーホテルの謎

          一時間後、王さまの兵士がやって来て、訊ねました。

          「シエン・ミエンの具合はどうですか? 王さまはシエン・ミエンが病と聴いて

          います」


 七葉子がドアを開けると、そこにはフランス人夫妻が立っていた。

 夫が言った。

 「こちらに二〇三号室の日本人の青年はいませんか? 私たちは今日の午後帰国するのですが、その前にぜひ、彼に話したいことがあるんです」

 七葉子が体を引いて、椅子にかけていた文彦を振り向いた。文彦の姿を見た夫は、ぎこちなく笑った。

 「グッモーニン」

 夫はそう言って、一歩室内に足を踏み入れた。妻もその後に付いてくる。

 文彦も立ち上がって挨拶した。

 「グッモーニン」

 七葉子がツインベッドの使っていない方にかけるよう、夫妻に示した。夫妻はフランス人なのに英語も話し、夫はシャルル、妻はエレーヌと名のった。

 その話によると、彼らも事情聴取され、昨晩文彦が談話室に入った時、急に話を止めたのは何故か、何を話していたのか、と訊かれたと言う。そこで、文彦が何か誤解をしているのではないかと恐れ、釈明に訪れたのであった。

 昨晩は、旅先で出会う外国人の噂話をしていた。文彦が入って来た時には、たまたま日本人の話題であった。特定の個人の話をしていたわけではなく、決して悪口を言っていたわけでもないのだが、何となくきまりが悪くなり、とっさに話題を変えることもできずに、黙り込んでしまったのだと言う。

 夫妻は五年前から毎年この宿に滞在する常連で、オーナーとも顔なじみであった。広い談話室でゆったりと、何をするでもない夜の時間を楽しんでいた。そこへオーナーが湯気の揚がるカップを手にして入ってきたので、三人でとりとめもない話をしていただけである。海外旅行中に、外国人の噂話をするのは、どの国の人も同じだ。

 文彦が部屋に戻った後、夫妻も続いて部屋にもどり、就寝した。オーナーには、自殺を考えているような様子は、まったく見られなかった。

 自分たちが席を立った時、オーナーも飲みかけのカップをテーブルに置いたまま立ち上がり、三階の方へ上がって行った。一一時を過ぎていたので、踊り場の扉の閂をかけに行ったのだろう。当然、その後カップを持って、二階の踊り場の扉の閂をかけ、一階の住居にもどるのだろう。そう思っていた。ベランダへ出るドアは内側から掛け金を下してあった。それは夫妻が、入室した際に確認した。

 ただ、今朝、従業員が遺体を発見した時は、ベランダのドアの掛け金は外れていたと言う。つまり、夫妻が退室してから、オーナーか、あるいは別の誰かが外したということだ。それでも非常階段のドアの掛け金は内側から下りていたので、不審者がホテルの外から侵入することは出来なかった、と思われる。

 悠一郎が口を挟んだ。

 「三階の談話室にも、二階と同じように非常階段に通ずるベランダへ出るドアがありましたね。そちらには、今朝、掛け金が下りていたかどうか、ご存じありませんか?」

 するとシャルルは二度、ゆっくり頷いてから言った。

 「かかっていたんです。結局、三階の客は全員身元の確認がとれ、オーナーとの接点も無いので、容疑からは外れたようですね。それは、二階の三人の台湾人も同じようですよ」

 文彦は二人の会話の意味を消化できないままに、ひと言も聞き洩らすまいとしていた。そこへ、今度は七葉子が口を挟んだ。

 「今朝は、リリーさんの姿を見かけませんが、どうなさったのか、ご存じですか?」

 夫妻は顔を見合わせた。七葉子はなおも訊ねた。

 「リリーさんのお母さまは昨年事故死されたとのことですが、それについては何かご存じありませんか?」

 「オーナー夫人の事故死のことを、よくご存じですね」

 夫妻も、七葉子の情報収集能力に驚いたようだ。知っていることを問われるままに、話してくれた。

 オーナー夫人は、奇しくも一年前の同じ三月三日(土)に、ヘロイン中毒で亡くなった。その時も、自分たちは偶然泊まり合わせていた。夫人は、ノイローゼを噂されていたこともあり、自殺とも事故とも見定めがつかないようであったが、客商売であることが作用したのか、はたまた袖の下でも渡ったのか、ひょっとして当局が立件を面倒がったのか、結局は当人の誤飲ということで事故死扱いになった。

 今回は同じヘロインで、日にちも同じなので、後追い自殺の可能性もある。ただ、ヘロインはカップのお茶ではなく、カプセルに入っていたと当局は見ている。そして、従業員の証言から、オーナーが就寝前に飲む漢方薬のカプセルの入ったピルケースをリリーが手渡したことがわかっている。その為、母親のノイローゼを見過ごしにして死に追い込んだ父親に対する復讐を疑われ、事情聴取されているのではないか。

 他には三人の容疑者がいる。一人はマッサージ店のマダム。一人はその息子。もう一人は元従業員の未亡人。

 オーナーの両親はすでに亡く、兄弟は妹のマダムだけである。未亡人のマダムには息子が一人いる。その一人息子陳大威は、談話室隣の二〇一号室を使っている眼鏡の青年である。

 何故、甥が自宅でなく客室に泊まっていたのか。実はオーナーは彼に商売を継がせようと考えて、平素から可愛がっており、彼の方では受験勉強をするには、自宅よりホテルの方が集中できるので、昨年末から二〇一号室で起居していたのである。

 マダムは、オーナーからマッサージ店を任されていることもあり、以前からよく出入りしていた。今は大威の食事や洗濯物の面倒を見る必要から、毎日のように訪れている。

 オーナーが亡くなれば、財産はリリーの物である。そしてそれは、後見人となる妹のマダムの自由になる。マダムの物は甥の物。と考えると、当日利害関係のある人物が三人、オーナーの周囲にいたことになる。

 しかし謎は多い。リリーが渡したカプセルにヘロインが入っていたとしても、実の娘の犯行とは、にわかには信じがたい。通常なら事故死を疑うところなのに。それどころか、従業員の中には、同じ日に同じ死因ということで、お国柄か、精霊の仕業ではないか、と恐れている者すらいるらしい。

 ただ、事故死であるとするなら、なぜカプセルの中にヘロインが入っていたのかが謎だ。そもそも、一年前、オーナー夫人がヘロインを誤飲したことからして謎である。

 七葉子が言った。

 「二〇一号室は彼が住んでいたから、靴用ラックが部屋の前に置いてあったのね。日本人じゃなくとも、室内で靴を脱ぐ習慣の人っているのね」

 文彦は、昨晩のことを思い出した。

 「そう言えば昨日の夜、給水に行った時、ラックがドア前に置いてあって、あれじゃ部屋から出る時邪魔になるから妙だなって思ったんだけど。誰か談話室から出て来た人が蹴飛ばしてしまったのかな」

 すると、それについてはシャルルが遠慮そうに、しかしはっきりと説明してくれた。

 何でも大威は以前、マッサージ店の従業員の女の子に手を出そうとしたことがあり、それもあって、母親よりも厳しい伯父のいるルビーホテルに移ったらしい。しかし、ここでも万一、夜など女性客を訪問するなどというようなことが有ってはならない、とオーナーが毎晩戸締りの序でに、ラックをドア前に置き、朝、戻していたとのことであった。

 昨晩も、オーナーは一一時に二階に上がった時、談話室に入る前、二〇一号室をノックして大威にお休みの挨拶をした。ドアが閉められてから、右手にカップを持ったまま、腰を屈めて左手でラックをドア前に移動させ、それから談話室に入ってきたのであった。

 外からドアに施錠するのはあまりに大仰であるし、非常時に避難できない。そこで大威の習慣を利用し、ラックを鍵代わりにしたようである。

 今朝、オーナーの遺体を発見した従業員は、スニーカーの載ったラックがドア前に置いてあったのを見ているので、大威には容疑がかかっていない。

 マダムは昨日、夕方七時半頃、手製の料理を持って訪れた。マッサージ店からホテルまでは、徒歩で十数分であるが、平素から極端に日焼けを恐れ、陽が暮れてから訪ねてくるのである。中国系婦人の色白には、日頃の入念な日焼け対策が与かっている。

 オーナー一家はその料理を加え、オーナーとリリー、マダムと大威四人で夕食を採った。それからマダムは大威の洗濯物を抱えて、八時頃帰宅したとのことであった。

 そこで、投毒のチャンスが有ったのは、宿泊客と従業員と娘のリリーということになる。しかし、宿泊客にも従業員にも、動機が無い。誰もオーナーとトラブルを抱えていた者はいなかった。

 フランス人夫妻と日本人三人が聴取されたのは、何か参考になりそうなことを知っているのではないか、と、三泊以上していた長逗留の客に協力を要請しただけであり、嫌疑をかけているというわけではないのだ。また、カプセルをすり替えることは、カップに投毒するより、まだチャンスを選ぶので、身近な人物でなければ難しい。

 結局、容疑がかかっているのは三人の遺産相続人と、元従業員の未亡人の四人ということになり、三人の遺産相続人の中でアリバイが成立しないのは、リリーだけなのであった。

 もう一人の容疑者というのは、数年前事故死した従業員の未亡人である。夫の生前、夫婦でホテルの下働きをしていた。しかし、夫の死後、未亡人は自分がホテルを解雇されたことに不満を持ち、それ以来気鬱を患い、オーナーを怨んでいたというのである。

 動機としては弱いし、カプセルをすり替えるチャンスが有ったとも考えにくい。今さらということもあるのだが、普段から職に就かず、よくホテルの周囲をうろついており、昨晩もホテルの入り口まで入って来たので、一応参考人ということらしかった。

 またこの未亡人の一人娘は、オーナーが妹に経営させているマッサージ店で働いており、母娘はそこに住みこんでいた。ところが、先だって、大威が娘に手を出そうとした為に、未亡人は気鬱がぶり返したようであった。

 その未亡人とは、七葉子にバラを渡した女性であり、パムはその間の事情を知っていたので、フロントに入って来た時、無碍に咎めることをしなかったのだ。また、娘は、文彦たちのチップを合掌して受け取った可憐な女の子であった。

 そんな話を交換して、フランス人夫妻は、帰国前に買い物もあるから、と言って部屋を辞した。


 ドアが閉まると文彦が言った。

 「なんだか興奮するな。これってひょっとして密室殺人事件? あ。談話室のドアは開いていたんだから、違うか」

 現実に人が亡くなっているというのに、遺体を目にしていないせいか、オーナーが亡くなったという実感がわかない。こんな言い方をして(たしな)められるかと思いきや、思いのほか真面目な顔で、悠一郎が言った。

 「ホテルの出入り口が、全て内側から施錠されていたとなると、被害者も犯人もホテルの中、という密室の、密室殺人事件ということになるね」

 「玄関も、裏口も、非常口も、内側から施錠されていたんですものね」

 七葉子が相槌を打つ。文彦は気になっていたシャルルとの会話について訊ねた。悠一郎の答はこうである。

 三階の非常口は、二階同様、談話室のベランダのドアであり、非常時にはベランダに出て階段を下り、二階のベランダに出る。そこからまた階段を下りて、庭に面した非常口のドアに出るのである。

 つまり、三階の踊り場の閂が下りていたとしても、二階の談話室からベランダへのドアが開いていた場合、三階の宿泊客も、理論上は、犯行後、二階のベランダの階段から三階へもどり、三階談話室のガラスドアを内側から閉めて、自室へもどることができる。

 だが、シャルルも言ったように、現実には犯行に通じるような接点が無いと見なされ、容疑から外されたのであろう。

 なるほど。それで、シャルルもああ言っていたのか。文彦はようやく納得した。

 「初めての海外旅行で、こんな大事件に出くわすなんて、夢にも思わなかったよ」

 こうなれば、現場検証などとはおこがましいが、事件現場に居合わせた以上、自分の目で見てみたい。だが、談話室はすでに立ち入り禁止だ。

 その時、悠一郎が七葉子に訊ねた。

 「談話室のベランダへ出るガラスドアの掛け金って、きつくなかった?」

 「きつかったわ。ドアをぎゅっと押さないと、掛け金が下りないの」

 「非常階段のドアはどうだったか、知ってる?」

 「知らないわ。階段の上から見下ろして、あそこから庭に出て、庭から裏口に出るというルートは目で確認したんだけど、実際には下りてないからわからないの」

 ベランダのドアすら確認していなかった文彦は、ひたすら感心して聴いていた。言葉も覚束ない上に、投宿したホテルの非常口も確認していないような注意力では、自分はとてもスパイにはなれない。それどころか、突然の火災などに巻込まれて被災者になるタイプかもしれない。

ぶるぶる。自分がそんな人間だったとは、思ってもみなかった。旅先で客死するなんて嫌だ。これからはきっと改めよう。きちんと非常路を確認しよう。また一つ、決意が増えた。

悠一郎が言った。

「談話室は立ち入り禁止だろうから確認できないけど、これからみんなで非常階段のドア、見に行かない?」

「あら。だって、お庭からしか見られないわよ」

そう七葉子は言ったものの、すぐに何か思い当たったようである。

「そうね、行ってみましょう」

そう言うと、真っ先に立ち上がった。


九 ルビーホテルの庭

          妻はドア越しに答えました。

          「シエン・ミエンでしたら、元気にしております。今、揺り椅子で新聞を読んで

          います。大好きなお茶を飲みながら。その目でご覧になって来ては如何?」

          兵士が窓から覗くと、シエン・ミエンは揺り椅子にかけ、新聞を読んでいま

          した。そして、テーブルにはお茶が置いてありました。


 三人は庭に出た。昼食の仕度には間があるのか、事件を慮って従業員が自粛しているのか、誰の姿も見えなかった。

 庭は中央が煉瓦敷きで、周囲は土だった。隣の建物との間には、色とりどりの花が植わっているが、ホテル側は雑草が生い茂って、ほとんど藪のようになっていた。

 建物寄りの、道路からは奥になる東北隅に、洗い場が有った。その手前から道路よりに、何の樹だろう。五本の樹が並んで枝葉を茂らせている。この樹があるから、朝から鳥のさえずりが賑やかなのだ。

 文彦は、近くの寺院の庭の樹を思い出した。高い二本の樹の同じ高さの枝に綱を渡し、青年たちがセパタクロウを楽しんでいたのだ。あの時は、ずいぶんうまい場所に樹があるものだ、と思ったが、ひょっとしてセパタクロウの為に植えたのかもしれない。この庭は、中央の一本が大きいだけである。両側の四本は小さいので、綱は渡せない。

 悠一郎は、ざっと庭を見渡すと、非常階段のドアを確認した。ドアは鉄製で、枠側には受け枠が付いている。内側から掛け金が下りていた。揺すると、ドアと受け枠の間に遊びがあって、カタカタ鳴るものの、枠があるので隙間は見えず、外から内側の掛け金を見ることはできなかった。

 「これ、外から開けられそうだね」

 悠一郎がそう言うと、文彦が言った。

 「え。でも、枠が邪魔だから 何も差し込めないじゃないの?」

 「いや。これだけ遊びがあれば、薄い金属の栞だったら曲がるから、外から差し入れて、掛け金を持ち上げられると思う」

 「へえ。そうかあ」

 感心する文彦に、七葉子が言った。

 「今は関係ないんじゃない? ここは開いていたんじゃなくって、閉まっていたんだから。誰かが中に入ったことを隠すためだとしても、ベランダの掛け金を下さなかったとしたら、あまり意味ないと思うわ」

 なるほど、と文彦は思わずへこんだが、悠一郎は少しも堪えた様子はなく、ぶらぶら庭を歩きまわっていた。それからまた中ほどで立ち止まると、二階の客室を見上げた。文彦と七葉子も、引き寄せられるように旁に寄り、並んで見上げた。

 二階は通路側の南から、非常階段と談話室に続いて、二〇一号室(陳大威)、二〇二号室(台湾青年、チェックアウト済み)、二〇三号室(文彦)、二〇四号室(台湾青年、チェックアウト済み)、二〇五号室(台湾青年、チェックアウト済み)、二〇八号室(七葉子)が窓を並べている。悠一郎とフランス人夫妻の部屋は、こちら側からは見えない。

 「私のお部屋、下に洗い場があるから、窓から食器やお野菜を洗う音や、おしゃべりの声がよく聞こえるのよ」

 そう七葉子が言い、文彦も言った。

 「僕の部屋は、樹が近いせいか、鳥の鳴き声がすごいよ」

 その時、黙って二人の話を聞いていた悠一郎は、すうっと中央の樹に歩み寄り、幹に手をあて、何か考え込む様子だったが、ふと根元の藪にしゃがみ込むと、両手で草を掻き分け、中をじっと見下ろした。そして、七葉子の方を振り向いた。

 「紛失したマグカップって、これのことじゃない?」

 七葉子と文彦が駆け寄って見ると、草の中には使用済みのティーバッグの入ったマグカップが有った。七葉子が言った。

 「蓮の葉茶だわ」

 「蓮の葉茶?」

 「飲んだことない? 香りが桜餅の葉に似ているから、すぐわかるわよ。精神安定効果があるの」

 マッサージ店で飲んだ冷茶だ。文彦は思った。


一〇 鍵の問題

          兵士は王宮に駆け戻り、見て来たことを王さまに報告しました。

          王さまはそれを聞くや、怒り狂って叫びました。

          「なぜ、毒を飲んだシエン・ミエンが生きているのだ? おのれ!

          壺の中身は、ただの蜂蜜であったに違いない!」


 文彦が三階の談話室へ上がると、大威が事情聴取を受けているところであった。文彦は警官の一人を呼び出し、庭に案内した。庭に残って見張っていた悠一郎と七葉子が、カップを示して説明する。

 それから悠一郎は、三階の責任者に、ベランダと非常ドアの掛け金のこと、靴のラックのことも説明した。二〇一号室を捜索すると、大威が昨日着用していたスラックスのポケットに、蓮の葉茶の香りのするしみがあった。また、室内用のサンダルに土が付いていた。

 スラックスとサンダルは証拠物件として押収され、大威は容疑者として、三階の談話室からそのまま連行されていった。


 その日の昼である。

 三人は、ランサンホテルのメインダイニングで、少し遅い昼食を採った。お得なランチセットに「メコン川の魚のステーキ」などという、お上りさんの心をくすぐるメニューがあったのだ。全員、それにする。セットの飲み物はグラスワインであった。魚は泥臭く大味であった。しかし、興奮していた文彦はその泥臭さを、ああ、これがラオスやタイの文化を育んだ悠久の大河メコンの味か、と大いに感激してペロリと平らげた。感動は、空腹に次ぐ調味料である。らしい。

 七葉子は悠一郎をせっついて、何故大威を犯人と特定したのか、詳しい説明を求めた。悠一郎の話はこうである。

 ヘロインはカップではなく、カプセルに入っていたという当局の見解は首肯できる。なぜなら、カップに入っていたなら、フランス人夫妻とお茶を飲みながら談笑していた時に、中毒症状が出るはずだからである。

 そして、カプセルに投毒が可能だった人物は、容疑者の中では大威とリリーの二人である。

 マダムは夕食後帰宅しているので、ピルケースに入れられたカプセルをすり替えることはできない。また、薬箱の中のカプセルは、いつどれが選ばれるのか予期できないので、予めそれをすり替えておくことは考えられない。なぜなら、マダムが犯人であるならば、大威のアリバイを確保できる時間に服用させる、と考えられるからである。

 リリーは、オーナーが二階の談話室へ上がる直前、一階のオーナーの寝室の薬箱からピルケースに取り分けて持って来た漢方薬のカプセルを渡した。それは、他の従業員が見ている。

 しかし、リリーがオーナー殺害を計画したなら、まず、自殺と見せかける工夫をするだろう。もし、投毒したとしても、従業員の面前でカプセル入りのピルケースを渡すようなことはしないだろう。また、外部の人間の仕業と見せかけるなら、ベランダの扉だけではなく、非常階段の掛け金を外し、裏通りに出るドアも開錠しておいただろう。

 そもそも、なぜ、ベランダの掛け金が下りていなかったのに、非常階段の掛け金は下りていたのか。二枚のドアの掛け金の状態は先に考えたように、三通り考えられる。①両方、施錠してある。②両方、開錠してある。③片方開錠、片方施錠。この中で、現場の状態は③の片方開錠、片方施錠であった。

 前と後ろのドアの間には、ベランダ(通路)と非常階段しかないこと、ベランダの掛け金が固く、外からかけることはできないが、非常階段の掛け金は甘いので、外から落としてかけられることを考え合わせると、犯人は①を意図して、現実には③の片方だけで済ませたと思われる。

 それはなぜか? ホテル内部の者の犯行と思わせたかったからである。

 内部の者の犯行と思わせながら、自分自身はアリバイを確保できる人物。それは、ラックでアリバイが成立する大威である。非常階段の掛け金を下して庭に出た後、全ての出入り口に内側から鍵のかかっているホテルの中に戻れたのは、庭の大木の枝から自室の窓に飛び移れた大威しかいない。

 大威は、フランス人夫妻が自室に引き上げ、オーナーが一人で雑誌を見ている時間を見計らって、談話室を訪れた。そして例えば、疲れているのに眠れない、などの口実を設け、オーナーに飲み物を取りに行かせる。予想通りオーナーは、一階の厨房に下り、蓮の葉茶をいれてきてくれた。

 大威はその間に、テーブルの上に置いてあったピルケースを開け、まだ飲んでいなかったカプセルを、かねて用意のヘロイン粉末を詰めたカプセルと入れ替えたのだ。

 オーナーはいつも、一一時に大威の部屋のドアの前にラックを置き、三階の閂をかけてから、二階の談話室でお茶とカプセルを飲んでしばらく一人で過ごし、一一時半、あるいは一二時頃、二階の踊り場の閂を下して一階の自室に戻り、就寝する習慣だったのではないか。少なくとも、事件当夜はそのように行動するつもりでいたのであろう。大威はそれを知っていた。

 もし、自分が談話室に行った時、オーナーが既にカプセルを飲んだ後であったとしても、かまわない。また日をおいて、望む条件が揃うまで、何度でも繰り返すことができるからだ。

 厨房に下りたオーナーは、ティーバッグをいれたカップにお湯を注ぎ、ティーバッグを取り出さずに入れたまま、カップを持って談話室にもどってきた。

 大威はオーナーの目の前でそれを飲み、オーナーもカプセルを飲んだ。予想通り、マグカップはオーナーが戻しておくと言うので、それをテーブルに置いたまま大威は二〇一号室に戻った。オーナーが、押し除けられた靴のラックを再びドアの前に置いた。

 オーナーが談話室にもどり、一人になってしばらく過ごしている間に、体内でカプセルが溶ける。急性ヘロイン中毒に陥ったオーナーはもがき苦しんで、椅子から転げ落ちる。

 隣室で耳を澄ませていた大威はその物音が止んでから、サンダル履きのまま、ドアを開けて部屋を出る。まず、ドアを閉めて押しのけたラックをドア前に置き直す。次に談話室へ入り、自分のカップを回収して厨房に下りる。

 厨房でカップを洗って引き返そうとしたのだが、ここで思いがけず、厨房からリリーとパムの話し声がしたので、慌てて二階へ戻った。姿を見られてはラックのアリバイが成立しなくなる。そう思って気が動転したのであろう。

 もしそこで、カップを自室に置いてまたラックを置き直し、後で隙を見て厨房にカップを戻せば証拠は無事に湮滅できたかもしれない。しかし、大威はすでに何十回となく頭の中でアリバイ工作のシミュレーションを繰り返しており、とっさに予想外の事態に対応することが出来なかった。パニックになったばかりに、そんな何でもないことも思いつけず、ほとんど無意識のうちに、シミュレーションの行動から一番外れない解決法をとってしまった。

 つまり、一階から二階へ上がる間に、カップをティーカップごとスラックスのポケットに突っこんでしまったのである。そして、カップは既に厨房に戻したような錯覚に陥ったまま、予定のアリバイ工作を続けたのだ。

 談話室に入ってベランダへ出る扉を開け、非常階段を下り、非常階段の扉の掛け金を下しながら庭に出た。こちらの扉の掛け金は甘いので、上に上げた掛け金を手で押えながら庭に出て、素早く手を引いて掛け金を下しながら扉を閉めた。一度でできなければ、成功するまで何度でも繰り返せばよい。

 それから二〇一号室の窓際にある大木をよじ登ったが、その際、上りやすいように、サンダルを脱いでベルトに挟んだらしい。そうして部屋の窓に飛び移る時に、ポケットのマグカップを落としてしまった。

 この時も、落ちたカップが幸い藪の中に隠れて上から見えなかったので、後で回収するつもりで窓を閉めた。それから朝、遺体が発見され、ドア前に置かれた靴のラックを誰かが目撃してくれるまで、室内から出なかったのである。

 隙を見て、落としたカップを回収すれば計画の破たんは免れると考えていたであろうに、悠一郎が先に発見してしまったのであった。


一一 百万の象の国

         そう叫ぶと王さまは、手ずから毒入り蜂蜜のカップを取り、それを飲み

         干しました。

         ほどなくして王さまは斃れ、再び眼を覚ますことはありませんでした。

                           「ラオス民話」(Steve Epstein 収集)より


 悠一郎は結局、午後、宿から車を雇い、一人でルアンパバーン行きの飛行場へ行くと言って、先に帰った。事件の概要が明らかになったわけではないのに、疑問に思っていたことの説明はついて、自分としてはすっきりしたから、と言い遺して。事件そのものに対する興味はさほどなさそうであった。文彦は、辛うじて、帰国したら東京で続きを話そうと約束して、携帯番号だけは交換した。

 それから、七葉子と暫くお茶を飲みながら話した。七葉子は七葉子で、少しでも詳しいことが知りたいし、早く母親の容疑が晴れたことを伝えてマッサージ店の女の子を安心させたいので、午後からマッサージに出かけると言った。

 文彦はここにきて疲労感が激しかったので、先にホテルの自室にもどって昼寝をし、また四時過ぎくらいからぶらぶらすることにした。

 そこで、夜は落日を見ながら川床で夕食を採り、その時マッサージ店の情報収集の結果を教えてもらうことにして、二人は六時に再びランサンホテルのロビーで待ち合わせることにした。


 文彦がルビーホテルにもどると、悠一郎はすでに飛行場に出発した後であった。ベッドでだらだら本を読み、昼寝をして、四時過ぎにホテルを出た。町へは向かわずに、川へ向った。

 一四世紀の王さまの名前を冠したファーグム通りに出て、川沿いを歩いた。乾季なので、土手から河川床が砂浜のように広がり、その広い砂場のあちこちで大勢の人が遊んでいる。

 サッカーをやっているグループもあれば、ただ連れ立って、川に向かいふざけ合いながら歩いて行くグループもある。文彦も砂場に下りて、川に向かった。砂場に降りると、足をとられて思うように前に進めないせいか、川はますます遠くに在るように感じられる

 昨日、マッサージ店の帰りに砂場に降りた時には、悠一郎は途中で足元に転がって来たボールを蹴り返すと、そのまま青年たちの仲間にするりと入っていった。どっちが味方かわかるのか、と文彦が呆気にとられていると、ラオス人の方で、こっちにパスを廻せというように声をかけたり合図をするからだろう、敵味方はなんとかわかるらしかった。あっと言う間にギアチェンジをして、走り去って行った。

 ひょろひょろしているのに、健康オタクの文彦より、体力があるようであった。夕食前に汗だくになるなんてまっぴらだと思った文彦は、一人で流木を捜したのだ。しかし、いくら目を凝らして捜しても、危ないから集められてしまうのか、つまらない形のものが二三本しか見当たらなかった。今日も、良さそうな物は目に入らない。

 川では子供たちが気持ちよさそうに泳いでいる。文彦も夕食の約束さえなければ泳ぎたいところだ。男の子が三人並んで甲羅干しをしている。三人共、裏も表も見分けがつかないくらいにまっ黒で、まるで三匹の仲良しの蠅だ。

 まん中の目のくりくりした男の子が、通りかかった文彦を、目ざとく外国人と見分け、こちらの顔を見上げて大きな声で言った。

 「グッド・イーヴニング!」

 両手で砂に頬杖を着き、好奇心いっぱいの目で、わくわくして返事を待っている。

 あれ? もうイーヴニングなのか、アフタヌーンじゃないのか。そう思ったのに、ついつられて返した。

 「グッイーヴニン!」

 すると彼は、まっ白な歯を見せて笑い、隣の男の子に向い、どうだ見たか、とでもいうような得意そうな表情をした。初めて外国人に話しかけたのだろうか。まだ、外国人と口をきくのが珍しいのだ。

 文彦は自分が彼の初めて口を利いた外国人にしてもらえたように思い、何故だかとても光栄なことに思えた。そして、声を出して笑いたい衝動に駆られた。


 文彦が六時にランサンホテルのロビーに行くと、マッサージの効用であろうか、ピカピカの脛を出し、ストライプ柄のニットワンピースを着た七葉子がいた。

 二人は川沿いの土手を歩いて、川床の屋台へ向った。岸辺の大木に懸けたブランコを子供たちが順番に漕いでいる。この子供たちも象使いの子孫なのだろうか。

 ランサンは百万の象、という意味である。一四世紀、ラオス初の統一国家を建設した王朝の名であり、旧いホテルにも目抜き通りにも、この名が冠されている。昔むかし、シエン・ミエンの頃のヴィエンチャンでは、象の群れが闊歩していたのだろうか。この、土手の道でも。

 二人はせっかくなら他の屋台が見えないようにと、一番遠い先端の店まで歩いた。七葉子はもう、一週間もヴィエンチャンに滞在しているのに、川床の屋台は初めてだと言いながら、揺れて隙間だらけの板床にもたじろがずについて来た。

 二人はその店の中でも一番川寄りの隅の席に陣取った。お互い、標準体重におさまっているようであるし、危険度は低いはずだ。ここなら、メコン川と対岸しか見えない。まるで、川の上に宙吊りになっているようだ。

 七葉子はバッグから虫除けスプレーを取り出して手足にこすりつけ、有りがたいことに、文彦にも勧めてくれた。ホテルやカフェと比べると割安な料理を何品か頼み、ビールを注文した。七葉子はビールが飲めず、ワインは無いので、炭酸飲料を頼んだ。

 マッサージ店の女の子は、七葉子から母親の容疑が晴れたことを聞くと、ほっとするよりも、息子が連行されてしまったマダムの方を気遣っていた、と言う。ホテルを解雇された未亡人ともども、行き場のない母娘を店に引き取ったのであるから、マダムにも、外国人観光客に見せる顔とは別の顔があるのだろう。

 大威は、海外留学の望みを持っていたが、それをオーナーに反対されて、思い詰めていたらしい。出来の良いリリーとも、子供の頃から反りが合わず、折に触れて比較されていた。たった一人の従姉なのに、憎しみを募らせていたらしい。あわよくばリリーに殺人の濡れ衣を被せて相続権を取りあげ、伯父の財産を自分に甘い母親に独り占めさせようと、一石二鳥を企んだのであった。濡れ衣を被せることに失敗しても、母親が後見人になれば、大差は無いと考えたようだ。

 文彦はじっと七葉子の話に耳を傾けた。

 川面一面に、金波をさざめかせて夕陽が沈んでゆく。

 こんなに美しいメコンを見て育ったのに、ひどいよ。文彦はそう思いながら、先刻の甲羅干しをしていた男の子を思い出した。そして、本当は自分に一番必要な人を、それとは気づかぬままに殺してしまい、その為に自分の身までも滅ぼしてしまった、残酷で孤独で、かわいそうな王さまのことを思った。


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