01
白いふわふわした空間。心地よい微睡みの中、その声は突然聞こえた。
「…見つけました」
驚きに溢れた声。
「こんなところに…。これは幸運なことですね。私以外はまだ誰も気づいていないようです」
姿は見えないまま、声は続く。
「はてさて、一体どうやってコレを手に入れたものでしょうね」
わくわくとした企みを含んだ声。
「とりあえずはしばらく観察してみましょうか」
声は続いたが、ゆっくりと目覚める意識の中で、次第にその声は遠のいていった。
目覚まし時計がなる十分前に、いつものように望月今日華は目を覚ました。そのまますっきりと起きあがり、すぐに身支度を始める。
有名私立高校の制服。生徒の模範になりそうな規則に従った膝丈のスカート。ひだも美しく整っている。真っ白なしわ一つないブラウス。タイも慣れた手つきできっちり歪みもなく結ぶ。姿見の前でくるりと回って、何か気になるところはないか点検する。背中までの長いまっすぐな黒髪が、ふんわりと広がった。
「よし。今日も完璧」
と、満足したところでいきなり目覚まし時計の耳障りな音が鳴り響く。
「ギャー」
慌ててベッドに近寄ると目覚まし時計を叩きつける。
「また、やってしまった…」
今日華はがっくり肩を落とす。寝起きはいいのだが、どうしても何故か毎回目覚まし時計を止めるのはすっかり忘れてしまう。
「完璧な姉を目指したいのにー」
今日華は今日も朝からのささやかな失敗にため息をついた。
失敗から立ち直って、階下の食堂に向かう。テーブルには小学生の妹がすでに席について、朝食のパンをくわえていた。
今日華は、鏡の前で訓練した慈しみに満ちた笑顔でにっこりと妹に話しかける。
「おはよう、明日実」
「…おはよ、今日華」
ちらりと目だけ動かして返事をする明日実。
「今日華じゃないでしょう。お姉ちゃんって呼んでっていつも言ってるでしょう。明日実、お願いだからお姉ちゃんと呼んでー」
よよよと今日華は妹に泣きつくが、毎朝のことながら明日実は見事に聞き流して食事に専念している。
「どうしてお姉ちゃんと呼んでくれないのー」
食卓には今日華の声だけがむなしく響いた。
望月今日華は、子供の頃はやんちゃで活発な少女だった。こんがりと日に焼けた肌に短い髪。スカートなんてはいたこともなく、ズボン姿でいつも元気に外を駆け回っていた。とても女の子には見えない有様だったが、子供は元気なのが一番という両親の教育方針で今日華は、見事に自分の好きなように自由に伸び伸びと育っていた。
それが一転して変わったのは妹の明日実が生まれてからだった。母親の妊娠には実感が沸かなかったのかあまり興味を示さなかったのだが、出産で入院していたのが赤ん坊と一緒に退院してきて、初めて妹と対面したとき、今日華の人生が変わった。
赤ん坊は圧倒的に可愛かった。小さな小さな手。眠そうな、でも円らで黒々とした瞳。柔らかくて脆い生き物。見つめられて今日華は一目で妹に心を奪われた。
この子を大切にしたい。可愛がりたい。そして自分を好きになって欲しい。
止めが母親の言葉だった。
「あなたの妹よ。いいお姉ちゃんになってね」
いいお姉ちゃん…。それになれば、この可愛い生き物に好かれることが出来るのだろうか。そのためなら何でもしてみせる。
それから、今日華はいいお姉ちゃんというものについて、初めて考えてみた。好き勝手自由に生きてきた今日華の思考の中には、残念ながらそのようなものは存在しなかったので、周囲の意見を参考にすることにした。
そして見つけた近所で評判のお姉さん。有名私立に通う才色兼備な優等生。お淑やかで誰にでも優しく品行方正な女子高校生。誰もが口をそろえて、良くできたお嬢さんだと誉め讃えていた。
そうか、あのお姉さんみたいになれば、妹に好かれる姉になれるのだと考えた今日華は、その日から彼女を目標にすることにした。
それから数年。今日華は、それまでの自分をきっぱり捨て、目標のいいお姉さんを目指して爆進した。
「…ふぅ」
カバーを掛けた読みかけの本のページをめくって、今日華はため息を落とした。学校の休み時間。教室はにぎやかにざわめいている。
確かに自分は目標としたいいお姉さんに近づいているはずなのだが、妹の反応はあまり芳しいものではなかった。
外を駆け回るのをやめて勉学にいそしみ、髪を長くのばして、仕草や言葉使いにも注意した。完璧とはいえないものの、あのお姉さんにかなり似てきているはずだと思っていた。
「望月さん」
クラスメイトの女の子が声を掛けてきた。
「何かしら?」
「この間のテストの成績が張り出されたの見ました。また、望月さんが一番でしたよ」
「まぁ、ありがとうございます」
「さすが我が校一の才女ですわね。次期生徒会長も望月さんで決まりだと評判ですわ」
「そんな…」
「才色兼備という言葉は望月さんの為にある言葉ですわね」
今日華を誉め讃える言葉はまだまだ続きそうだった。
実際、学内で今日華を知らない生徒はいなかった。もちろん良い意味で。今日華の努力は実を結び、近隣では有名なレベルの高いお嬢様学校を一番で合格し、そのままテストでも一番をキープし続けていた。学級委員を任されて、それもそつなくこなして、クラスメイトからも信頼されているし、先生方の覚えもめでたい。
確かに、目指したあのお姉さんに近づいているはずなのだが、妹はどこまでもクールだった。生まれてこの方、お姉ちゃんと呼ばれたためしがない。きっぱり呼び捨ててである。姉としての威厳は地の底である。
お姉ちゃんと呼んで懐いて欲しいのに。妹に好かれるためだったはずなのに、何が足りないのか。まだまだ完璧ではないのは自覚している。もっともっと努力しなければと、ぐっと手を握りしめる。
「そういえば、何を読んでらっしゃるの?」
と、クラスメイトが本をのぞき込んできた。
「えっ」
慌てて今日華は本を閉じた。
「た、たいしたものではありませんわ」
「そうですわね。望月さんのことですから、何か純文学ですかしら」
「ま、まぁ、そんなところですわ」
にこやかな笑顔を張り付けて、何とか誤魔化そうとする。そこにちょうど鐘の音がなり、クラスメイトは自分の席に戻っていった。今日華は本についてこれ以上追求されずにすんで、ほっとした。
学内一の才女の愛読書が、冒険ファンタジーのライトノベルだとは知られるわけにはいかなかったから。
妹に姉として好かれるために、外見は確かに劇的に変わったけれど、本質はそう簡単には変わるものではない。外見はお淑やかなお嬢様を繕っているが、本来は自由活発な性格。それを必死で押さえてお嬢様を演じていることにストレスが生じない訳がない。
というわけで今日華は、勇者が派手に活躍する冒険ファンタジーを読みあさっては、ストレスを発散させていたのだった。
異世界で、お姫様を国を正義を民を守るために、剣を手に悪の魔法使いを魔王を残虐な侵略者を相手に華麗に戦う勇者。定番といわれようが、ワンパターンといわれようが、勧善懲悪は読んでいてすっきりする。本の世界の中だけでは、今日華は昔のように自由に伸び伸びとしていられた。
完璧なお嬢様を目指しながらも、内心では昔の自由な子供のままの今日華だった。それは、今の自分の評判を守るためには決して誰にも知られてはならないことだったけれども。
「…そうですか。それが貴女ですか。ふむふむ」
冷静な観察者の声がどこかで響いた。
「はぁ。今回も格好良かったー」
本を読み終えて、今日華は満足のため息をもらした。お気に入りのシリーズの最新巻。早く読みたくて、つい学校にまで持って行ってしまった。
ライトノベルなんて読んでいると知られたくなくて、本を書うときも誰に見られるか分からない本屋に行くわけにもいかず、本はすべてネットで注文。ライトノベルだと分からないように、カラフルな表紙にはしっかりカバーを掛けて隠してある。家族にも知られないように、本はベッドの下のケースに鍵をかけてしまい込んである。
両親はともかく妹には絶対知られないように、本を読むのはいつも夜中に自室でこっそりなのだが、今回は久しぶりの新刊で続きがどうにも気になって我慢できず、ついつい学校にまで持って行ってしまった。
今回も主人公の勇者の冒険をしっかり堪能出来た。すぐに読み返すのも勿体なくて、しばらくはこの余韻に心地よく浸っていたかった。
「こんな冒険が出来たらなぁ」
と、思わず声にでたが、現実世界でそんなことがかなうわけがないことももちろん理解していた。本の中でハラハラドキドキの冒険を味わうのがせいぜいである。それでも、夢に見ずにいられなかった。
どこまでも自由でスリルに溢れた冒険。仲間たちとの友情。お姫様との淡い恋愛。どれも自分にはかなわない夢だけど、だからこそ惹かれた。
が、そんなことが望みだなんて、品行方正で才色兼備な理想のお嬢様に似合うわけがない。妹に慕われる姉になるためには、望んではいけない夢だった。
今日華は本をベッドの下に片づけると、明日こそは理想の姉にもっと近づいて妹の敬愛を勝ち取るのだと、ぐっと手を握りしめてベッドの中に潜り込んだ。
白い雲の中のような霧の中のような空間。パジャマ姿で今日華は宙に漂っていた。
現実ではない。自分は眠っている。夢の中にいる。ぼんやりとそう感じられた。意識がはっきりしなくて、思考も夢の中だ。
「貴女の夢を叶えてあげますよ」
突然、声が聞こえた。声の主を求めて首を回してみたが、姿は見えない。たぶんまだ若い男の声だとは思うが、それもはっきりとはしない。
「誰?」
「誰でも良いでしょう。そんなことは大したことではありせん」
「そ、そうかな」
ぼやけた意識の中では、そうはっきり言いきられるとそれでも良いような気がしてしまう。
「そうですとも。大切なのは、私が貴女の夢を叶えることが出来ると言うことです」
「私の夢?」
「ええ、そうです。貴女の夢。貴女が本当に望んでいること。わたしはそれを叶えることが出来ます」
夢を叶える。その響きは心地良く聞こえた。
「でも、夢の中で夢だなんて」
今日華はちょっとおかしくなって笑ってしまった。
「ここは夢の中ですが、夢を叶えるのは現実ですよ。叶えてほしいとは思いませんか」
歌うような声が今日華を誘惑する。
「夢が叶うならそれは素敵なことね」
「そうでしょう。そうでしょうとも」
勢い込む声。
「素敵な夢が貴女を待っていますよ」
「夢かぁ」
眠る前に読んでいた本を思い出す。ハラハラドキドキに溢れた夢の世界。それを本の中だけでなく、自分で本当に味わうことが出来たら。
「出来ますよ。私なら現実にしてあげられます」
「良いかもしれないわね」
「ええ。貴女の夢が叶うよう私は何でもしてあげますよ。そのご褒美に、ちょっとしたものを貴女から頂ければ、たったそれだけで」
「ご褒美?」
「たいしたものではありません。私が望んでいるのは、ほんのささやかなものですよ」
わずかに欲望が透けるような声色だったが、夢の中で夢を見ている今日華には聞き取ることは出来なかった。
「約束してくれますか? 私が貴女の夢を叶えることと引き替えに、貴女が持っているものを一つ下さると」
「一体何がほしいの?」
自分が持っているもの。まだ高校生の今日華が所有しているものなど、確かにたいしたものではないかもしれない。貯金などたかがしれているし、物欲はあまりないので、愛読しているライトノベルの本くらいしか集めていない。一体何がほしいのか分からないが、自分が差し出せるものなどほとんどないよう思えた。
「それは、内緒です。貴女の夢が叶ったときまでのひ・み・つ」
ここが現実の世界で、頭がすっきり冴えていたなら、こんなそれこそ夢みたいな話がある訳ないと判断できたのだろうが、ここは夢の中で、今日華の頭も夢の中で、思考はあまりに朦朧としすぎていた。
「うん、いいわね」
新刊を読み終えた高揚感がまだ残っていたのかもしれない。陽気な気分になって、何だかこれがとても良い約束のようにそのときの今日華には思えてしまった。
「それでは、約束しましたよ。契約です」
高らかに声が響きわたると白い空間が急に灰色に曇り、渦を巻いていく。
「きゃあ」
強い風がおこり今日華に吹きつける。その激しさに反射的に目を瞑る。
「さあ、貴女の夢を叶えますよ」
風にかき消されそうになりながらも、その声はしっかり今日華に届いた。
そして、夢の世界は灰色から黒に染まり、今日華は支えを失ったように急激に落下し始めた。
「いやぁーーーーーーーー」
底なしに落下する感覚に恐怖を覚えて悲鳴を上げたが、それで落下が止まるわけもなく、どこまでもドンドンとただ落ちていく。というか、何かに強烈に引き寄せられているような感じでもあった。
ふわふわの夢の世界からの急な変化についていけずに、悲鳴を上げる以外のことが何も思い浮かばない。冷静になる暇がなかった。真っ暗な何も見えない闇の中、ただひたすらに落ち続ける。
が、恐怖のあまりパニック陥る前に急に落下速度が低下した。
「えっ」
加速が緩やかになったかと思ったら、何か堅いものの上にどさりと投げ出された。冷たい石のような感触。とにかく落下が止まったことに安堵して、半身だけ起きあがってゆっくり目を開けてみると、そこは今まで居たはずの夢の世界ではなかった。
薄暗い空間。でも自分の周りだけがほんのりと光っていた。何が光っているのかと体の下を見回すと、見たことのない不思議な図形の中に自分の体があった。円形や星形の組み合わせ。文字らしきたくさんの模様。
何の図形か全く分からなかったが、現実のものを見たことはないけれど、何となく似たようなものが記憶に引っかかった。本の中の世界。ファンタジーで良く出てくる魔法陣が、こんな感じだったような気がする。それが、ほのかに光を発していた。
「何、これ? というか、ここどこ?」
暗さに目が慣れてくると、図形の外、光の向こうの視界がはっきりしてきた。
少し広めの空間。窓がなく周囲を壁に囲まれている。魔法陣らしきものが描かれた床から離れたところに、二つの人影を見つけた。
一人はマントで体を覆われていてフードで半分以上顔が隠れているのでよく見えないが、体格からして男の人のように思えた。そしてその側にもうひとり、若い男性が立っていた。日本の現代人が着ている服とは全く違う服装だった。コスプレではない限りは。
今日華の知識からすると、遠い昔のヨーロッパの貴族の服装がイメージ的に近い感じだった。金色の髪、目の色まではよく見えないが、顔立ちも日本人のものではなく、彫りの深い整った端正な顔立ちだった。その青年がいきなり近寄ってきて今日華に向かって話し始めた。
「な、何言ってるの? 全然分からないーーー」
それは、もちろん日本語ではなかったし、唯一理解できるかもしれない英語でもなかった。聞き覚えのない音の羅列を叩きつけられて混乱してくる。
「落ち着いて、落ち着いてー。分からないのよー」
手を振って聞き取れないのだとせめて態度で示そうとする。すると、はたと、青年の声が数舜止まった。青年は少し考え込んだ後、急に片膝をついて今日華に頭を下げると、恭しく何かを差し出した。
青年の腕にあったのは、鞘に入った一振りの剣だった。青年の豪華な服装とは似合わない、それはとてもシンプルで飾り気のない無骨なものだった。青年はその剣を差し出したまま、じっとしている。
剣などというものを普通の高校生が普通の生活をしていて、実物にお目にかかる機会なんてあり得なかった。アクション映画か何かの中で、武芸にたけた主人公が振り回すのを見る程度だ。実際に女子高校生が日常でそんなものを手にしたら、銃刀法違反だ。
それでも、青年のその態度は、自分にその剣を手にするように示しているようにしか見えない。このままずっと青年を眺めていても埒があきそうもないし、この剣で切りかかられるならともかく、とりあえず手にするだけならしても大丈夫ではないだろうか。
今日華は恐る恐る両手を伸ばすと、青年から剣を受け取った。
それは思ったよりずいぶんと軽かった。自分の腕の長さくらいあるし、剣なら金属で出来ているのだろうから、女の手にはもっと重く感じられるはずだと両手を出したが、片手ですら持ち上げられそうだった。
「で、これをどうしろと?」
剣を手にしたものの、それからどうしたらいいのか、その先が分からない今日華に、青年は握りしめくっつけた両手をゆっくりと離していく仕草をした。
「? この剣を抜けと言うこと?」
思っていたより軽かったので、抜くことも難しいことではなさそうだった。やれというなら、やるだけはやってみるかと覚悟を決めて、今日華は剣の柄をしっかりと握りしめて、ゆっくりと鞘から引き出してみた。
その瞬間、目映い光が刀身からこぼれ出した。強い光だったが、何故か目を閉じられなかった。その輝きに目を奪われてしまった。
柄を握りしめた右手から、何かが伝わってくる。それは腕から体全体に、足先まで、体の隅々まで届いた。そして何かを塗り替えていった。体が変わっていくのを感じた。力がみなぎり体が軽くなる。羽があったらそのまま空も飛べそうだった。
そして、目に焼き付いた光は頭にまで急激に浸透していった。頭の中のまだ空いている領域に、何かか勢いよく書き込まれていく。ほんの数舜で今まで知らなかった知識がカチリとはまりこんだ。
それは、決して気持ち悪い体験ではなかった。むしろ心地よい変貌だった。頭も体もすっきりと研ぎ澄まされていくような、清らかな水で洗い流されていくような感覚。今日華は目を閉じて、その変化していく感覚に身をゆだねた。
いつにまにか目映かった光がおさまると、今日華は剣を片手に立っていた。刀身は、まだ微かに光っていた。暗闇を照らす灯りのように。
剣を眺めていると、それをどう扱えばいいのか今の今日華には理解できた。体もそれを知っていた。
剣を構えると、まっすぐに剣を振り下ろした。軽々と体が動く。剣も羽のように軽い。どんな風にでも振り回せる。右に左に舞うように剣を振り払い、剣がまるで自分の体の一部のように自由に扱えることを実感した。
それを確認してからするりと剣を鞘に戻した。この剣と自分は今深く固く結ばれたのだと感じた。
「勇者様」
後ろから声が聞こえた。音は相変わらず全く知らない羅列なのに、今度は意味がはっきり分かった。
今日華が振り返ると、青年が右手を胸に当てて深く頭を下げた。
「勇者様、どうか我が国をお救い下さい」
「ウィルリート王子。もっと初めから説明なさらないと。この方は異なる世界からいらっしゃったのですから…」
いつの間にか青年の後ろに立っていたマントの男が口を差し挟んだ。
「サーセラス殿。確かにそうですね。勇者の剣の選択の儀式を初めてこの目で見て、興奮してしまいました」
男の言葉に反省したように返事をした。
「私はこの国の第一王子で、ウィルリートといいます。こちらは、王室付きの魔導師のサーセラス殿です」
王子に紹介されてマントの男が今日華に向かって軽く頭を下げた。
「その剣は光の剣。勇者だけが扱えるこの国に古くから伝わる神剣です」
王子は苦しみを含んだ瞳で視線を落とした。
「でも、今この国には、いえ、この世界のどこにもこの剣を抜ける勇者は存在しなかったのです。だから、サーセラス殿に頼んであなたをこの世界にお呼びしたのです。異なる世界から、この剣を扱える勇者であるあなたを。この国を救っていただくために」
剣を手にしたときから、何となくこんな展開を想像していたような気がする。剣が与えてくれた知識なのかもしれない。ここが自分のいた世界だとは今更到底思えないし、この剣が何か特別なものであることは先程体で理解した。そして特別な剣を手にする事は、特別な何かを期待される事になるだろうと。
「今この国は危機にあります。数日前に悪しき魔導師バルイドが突然城に現れ、王と后を眠らせて、私の妹のマリアーネと婚姻し国王を退位させ、自分がこの国を支配すると宣言したのです…」
「魔導師バルイドは美しい女性に執着しているのです。今までも何度も若く美しい乙女を手に入れるために、色々と問題を起こしてきました。マリアーネ様は近隣でも評判の美女で、バルイドは評判を聞きつけて王女を見に来て、一目でマリアーネ様を気に入ってしまったのです。国の方はほんのおまけですね。気まぐれでおもちゃにして遊ぶつもりなのでしょう」
サーセラスが淡々と語る。
「人を力ずくで手に入れるのは魔導師には簡単な事ですが、人の心を動かすことは魔導の力では出来ません。それは神ですら出来ないことですから。人の心を縛るには本人の意志での契約が必要なのです。マリアーネに自分に従うという契約をしなければ、我が国の民を毎日殺し続けていくと脅したのです。そしてマリアーネを守ろうとした騎士を魔導の力を使って、一瞬で切り刻みました。マリアーネの目の前で」
ウィルリートはその場面を思い出したのか、微かに震えていた。
「妹は騎士たちの血にまみれて、ショックで今も寝台についたまま悪夢に魘されています」
「そしてバルイドは毎日、貴族も平民も関係なく、城や王都にいる人間の命を奪い続けているのです。バルイドは自分よりもずっと長い間に闇に染まっているため、残念ながら私ではその力には及びません。私には王子を守るだけで精一杯でした」
サーセラムが静かに続けた。
「闇の魔導師は人外のもの。人の手では倒すことは出来ません。でも、唯一、光の剣だけが闇の魔導師を滅ぼすことが出来ます。そしてその剣を振るえるのは選ばれた勇者だけ」
「そうなのです。剣に選ばれた勇者だけが闇の魔導師を倒せるのです」
希望に緑の目を輝かせてウィルリートが今日華を見つめる。
「勇者様、どうかマリアーネを、この国をお救い下さい」
決断するのは難しいことではなかったかもしれないが、この状況に慣れる時間はもう少し欲しかったかもしれない。
ここは自分の世界とは全く別の世界で、自分は闇の魔導師を倒す勇者として召還されてしまったこと。そして、剣の選択はすでに済んでしまい、自分はもう勇者と呼ばれる何かに変わってしまったこと。一つ一つ落ち着いて噛み砕いて飲み込もうとする。
この世界にもこの国にも何の縁もゆかりもないが、王女を守るために殺された騎士や、たぶん今も殺されているだろう誰かのことを思うと、とても頼みを断る気にはなれなかった。自分がバルイドを止めなければ、マリアーネが生け贄になるまで、これからも多くの人が死んでいくのだろう。それは平和な日本で生きてきた今日華には現実的ではないことだったが、想像することは出来た。人の命はそんなに安いものじゃないことくらいは、平和ボケした女子高校生にも理解できることだった。バルイドのしていることは許されることではないし、誰かが必ず止めなければいけないことだった。
それが出来るのが自分だけなら、出来るだけ協力したいと思った。それに目の前の青年のたぶん唯一の希望らしい自分が、青年の最後の希望を打つ砕くのはとても出来そうになかった。こんな目で頼られているのに、断るのは今日華の性格的に不可能だった。
「えっと、うーん。じゃあ、出来るだけ頑張ってみます!」
出来るかどうかまだ分からないが、その決断に手の中の勇者の剣が力を与えてくれるような気がした。
とりあえず、パジャマ姿で魔導師退治に出かけるのは抵抗があったので、この世界の服を調達してもらうことにした。何着か用意された男物らしい服は肌触りの良い生地で、上質なものなのだろうと感じた。王子の服は飾りが色々ついた豪華な代物だったが、それも戦いに出かけるには不向きだろうし、とにかく動きやすいシンプルなものを選んだ。
金属の重厚な甲冑も運んでこられたのだが、それを着込んで自由に動ける気がとてもしなかったので、丁重にお断りした。魔導師相手にどれだけ役に立つのか疑問だったが、軽い胸当てと腕当てだけを装着してもらった。あとはもちろん裸足だったので、丈夫でしっかりした革のブーツが仕上げだった。
魔導師退治にはこれでは軽装すぎるかもとは思ったが、相手は魔導師なのでどれだけ着込んでいこうと意味はないだろう。どうせ勇者の剣の力だけが頼りに出来るものなのだから。
「それで、バルイドはどこにいるの?」
今日華は支度を終えてサーセラスに尋ねた。この世界の人間と会話できるようになったのはいいのだが、考えたことを口にしたら、どこでどう変換されるのか、自分の口からこぼれるときには耳慣れない音になるのは、なかなか慣れづらいことだった。自分が話す言葉が知らない音であることと、それでも内容がしっかり理解できることの、矛盾した不思議な感覚。考え出すとめまいがしてきそうだったので、今は深く考えるのはやめて、ただ便利だと素直に受け入れることにした。
「バルイドは、今は王都の北の森の古い塔にいます」
相変わらず顔が見えないままサーセラスが答えた。
「魔法陣で北の森とこことを繋ぎますから、一瞬で行くことが可能です」
「…魔導って、便利なのねぇ」
バルイドが遠いところにいて、歩いてそこまでいく羽目にならなくてすんだのは良かったが、一瞬でたどり着けるのは少々便利すぎるかもしれない。戦いに向けて心を落ち着かせる時間がない。確かに覚悟は決めたが、今すぐ戦闘と言われるとまだ戸惑うものがないわけではなかった。
そんな乙女の気持ちは残念ながら分かってもらえそうもなく、サーセラスは部屋の中央にある魔法陣を指し示して、その中に立つように促した。
行くしかない。時間を掛ければ掛けるほど、どんどんと誰かの命が消えていくのだから。戸惑っている暇はないのだ。
今日華は、ふぅと深く息を吐いてから、ぴしっと体に力を入れ直した。大股で魔法陣の中央までザクザク歩くと、その真ん中で立ち止まった。そして振り返って、サーセラスに声をかけた。
「さぁ、いいわ。送って」
サーセラスの後ろにはウィルリート王子が祈るように今日華を見つめていた。
「ご武運をお祈りします」
サーセラスがそう答えると、魔法陣が輝きだした。目を開けていられなくなるほど光が強くなったとたん、部屋が消えた。




