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三月企画「卒業と恋愛」

「卒業と恋愛」教習所で始まるもの@丹羽庭子

作者: 丹羽庭子




 「はい残念。もう一回仮免試験だな」

 「ううう」


 坂道発進がどうしてもできず、千代子は今日仮免許不合格となった。


 「紅林教官オマケしてくださいよー!」

 「あんな運転で公道出せるか」

 「口わるーい! ケーチ!」

 「なんとでも言え」


 教習指導教官の紅林(くればやし)へ、周囲の目を気にすることなくぎゃんぎゃん噛み付くのは高校三年生の江間千代子(えま ちよこ)

 整った顔立ちで眼鏡をした紅林は、イケメン・若手・長身・スーツ眼鏡男子! と、受講生女子のみならず外部からも人気は非常に高い。しかし眼鏡で多少隠れてはいるがその視線は感情が見えず、相対すると悪いことをしているわけでないのにパトカーが通ると動悸がするような緊張感をもたらす。

 現に指導が厳しいとの評判もあり、事務仕事や休憩時間は紅林目当てに着飾った女性がそこかしこに見受けられるが、教習指導を指名する者はあまりない。

 対して千代子は高校三年生。夏休み中という事もあり黒のキャミソールに白シャツを合わせ、赤のハーフパンツに黒いスニーカーという無難なカジュアルにまとめてある。ハーフパンツに少しだけレースがついているのは、すこしでもオンナノコらしさをといったように、千代子は自動車学校に行く朝はクローゼットの前であーでもないこーでもないと細かな点を工夫する。

 それも理由あっての事だ。

 


 高校生の内に車の免許が取りたい! そう一念発起し、ずっとずっと溜めていたお年玉貯金を使うことを条件に両親を説得した千代子は、高校と自宅の間にあるこの自動車学校を選んだ。

 高校まで片道四十分を自転車で通学しているが、その中間地点にあるこの自動車学校ならば時間も距離も都合がいいからだ。

 学校の許可は意外にあっさり下りた。高卒で就職する者も何人かいるし、たとえ在学中取れたとしても免許証は学校預かりとなり、実際に運転できるのは卒業後なので免許取得は構わないそうだ。


 なにより。

 千代子には、どうしても免許が取りたい理由があった。


 「せんぱーい。せんぱーい。いいなあ~、もう第二段階の学科終わっちゃったんですかー?」

 「チヨは? なんだ仮免落ちたのか。なにやったんだよお前」

 「うー……。坂道発進……と、クランクで脱輪……」

 「ばっかでー! だからチヨはAT限定にしろって言ったんだよ!」

 「だってーせんぱいと同じが良かったんです!」

 「まーたそんな可愛い事言って」


 紅林にあっさり断られ、自動車学校ロビーにあるソファで仮免不合格の通知を手に持ちしょんぼりする千代子に声をかけてきたのは向島。千代子の部活の先輩で、今は大学生だが夏休みの間にと手続きをしにきた日にバッタリ会ったのだ。以来顔をあわせるたびに千代子を構い、千代子も憧れの先輩と距離が近くなって嬉しくてたまらない。先輩がMT車を選んだから自分もMT車を選び、免許取得という同じ目標もあって話しかけるツカミができた。今も仮免を落ちたことを愚痴り少しでも向島との距離を縮めようと必死だ。


 「紅林教官は冷たい! くれないといいつつ血は青く出来ているんですよ絶対!」


 ぷぅっとむくれる千代子は、元々幼い顔立ちがより一層顕著になる。

 千代子としては、向島に「そうだよな」って同調してもらいたいが、この先輩はそういった面倒なやりとりが好きではない。頼られるその場のノリは好きなくせに、本当に相談する段になると厄介事は御免だとばかりに逃げてしまう。向島の性格は在学中から色々調べてあったので気をつけているつもりだ。他にも注意点があって――。

 

 肌の露出しすぎるのは好みじゃない。

 いかにも女子然とした服装を好まない。

 メイクする子は苦手。


 どんな女子だよ! と千代子は内心激しく突っ込みをいれた。

 今時ファッションに気を使わず、メイクすら許されないって何事だと。しかし相手は憧れの先輩。在学当時から密かにファンクラブが存在していて、後輩の千代子が近づく機会など皆無。今この二人きりで話すチャンスを活かし、どうにか彼女の座に納まりたい!

 千代子は好きなファッションとメイクを封印して向島好みの女になろうと努力し、密かに学科や技能の教習時間を調べて自分もそれにあわせ教習を受けた。偶然を装い、何気なく話しかけ、自分を密かにアピールするという地道な努力。

 最近では向島から話しかけてくれるから、千代子の事をちゃんと気にしているようだ。しかし学科も技能も向島の方が早く進んで行き、千代子は焦りを感じていた。その上今回の不合格。

 駄目な子って思われちゃうな――。

 千代子は紅林の融通の利かなさに腹が立って仕方がない。ちょっと位のオマケをしてくれたっていいじゃないか、と。


 「次は合格するさ。頑張れよ、チヨ」

 「はいっ!」


 先輩に『チヨ』と呼んでもらえて、それだけで気持ちが軽くなるって現金なものだ。

 先輩は「またな」と帰り、千代子は技能の補習予約をするため受付付近にある機械を操作する。

 そうだ、指名にしよう。指名にすれば紅林に当たることもないだろう。

 千代子は最短で受講しようと思い時間だけで予約を入れていたが、技能教習で不人気な紅林が当たる機会がとても多かった。確かに教えるのは上手いが課題クリアの判子を押してくれないことが多い。すでに第一段階で五時限はオーバーしていたから、これ以上伸びるのは自分の財布もかなり痛い。

 なるべく紅林から離れ、なるべく向島に被るよう予約を入れて帰宅した。


 「ふーん。じゃあ江間さんは紅林教官が厳しすぎるっていうのね」

 「そうですよ! あの教官いちいち細かいし、ちょっとぐらい見逃してくれてもいいと思うんです。いつも出来てるのに、たまたまですよ? 坂道発進少しだけ下がってクランクでは後輪ちょっぴり落ちたけど、その位で仮免失格とか酷いです」


 実技補習に指名したのは女性の赤堀教官。おそらく二十代前半で、妙に色気のある容姿をしているのに気安く生徒に声を掛けるため、男女問わず――いや、特に男子から人気が高い。

 紅林と並んでいると、二人とも雑誌モデルのように一枚の絵になって目の保養になる。

 その赤堀は、千代子の言葉に美しく整った眉をひそめた。


 「紅林教官ちょっと厳しい面もあるけど、第二段階で公道出るみきわめの責任があるからね。江間さんが気を引き締めて出来る様になれば問題ないと思うけれど」

 「えー。赤堀教官もキビシー。私、出来るだけ早く免許欲しいんですよ? ちゃんと出来てる時もあるんだからいいじゃないですか」

 「江間さん……?」

 「クラッチだって難しすぎますよ。免許取って学校卒業してからうーんと練習するし、今はこの程度でいいわーってオマケして欲しいな」

 「……」

 

 す、と赤堀が黙ったことにより空気が変わったのが分かった。

 千代子は自分が失言したことには気づいたが、何が悪かったのかが分からない。その日は緊張感に包まれたせいか一度も失敗せず終われ、判子も押してもらえた。

 車庫に止め、ギクシャクしながらもありがとうございましたと礼を言って帰ろうとすると、「ちょっと時間いいかな、江間さん」と赤堀に呼び止められる。いい話でないことは雰囲気から知れて千代子は腰が引けたが、それを許さないだけの迫力があった。



 ――江間さん、すごく頑張っているのは分かるのよ。でも焦っているのかな? 早く免許取りたいからってこちら側が大目に見ることなんて出来ないの。

 でね、ここからが本題。

 紅林教官、生徒さんで仲良くしている子がいたのよね。指名でずっと受け持ってて。

 でもその子……免許とってすぐ重大な事故を起こしたの。勿論紅林教官は公正にみきわめをしたわ。けれど、彼はもっと厳しく教えておけばと後悔しててね……。

 それから紅林君一層妥協を許さなくなって。元々要領悪い人で立ち回りも上手じゃないから伝わらないかもだけど、彼は人に厳しいだけじゃなく自分にはもっと厳しくしているからね。

 私達はそれについて何も言えないわ。

 だからって訳じゃないけど、覚悟と責任を持ってあなた達生徒を教えてるんだって事は覚えていて欲しいの。

 

 

 ロビー傍の休憩室で二人腰掛け、赤堀に教えられたのはそんな紅林の厳しい姿勢の訳。

 「じゃあ私は行くわね。次の仮免、気をつけていれば受かると思うから頑張ってね」と赤堀は次の授業の為離れていった。 

 赤堀が行った後も、千代子は重石がついたようにその場から動けない。


 その時千代子を呼ぶ声がしたからのろのろと顔を上げると、玄関ロビーから向島が入ってくるところだった。それもそうだ、千代子は必ず向島が技能や学科を受ける前後に入るようにしているから。

 しかし、今日は様子が違う。


 「ああ……先輩」


 ぼんやりと向島の姿をとらえた千代子の視線は、その隣に注がれた。

 向島の腕に絡む細い手。寄り添う二人の距離で関係はおのずと知れる。


 「チヨ、補習どうだった?」

 「ん……なんとかクリアです」

 「そっか。仮免今度こそ受かるといいな」


 彼女ですか。

 その隣にいるのは、彼女ですか。


 千代子は二人の間にある甘い雰囲気で分かってしまった。

 フルメイクで、夏だからとでもいうように肌を露出した派手な服。鼻にかかったような甘えた声で向島にねだるイマドキの女子。


 「ね~、学科始まっちゃうわ。いきましょ?」

 「ああ。じゃな、チヨ」


 その様子を視界に捉えながら、今まで自分がしてきた努力はなんだったのかと怒るより先に笑いがこみ上げてきた。

 なんて道化なんだろう。最初から向島の視界にも入っていなかったんじゃないか。

 

 けれど思ったよりショックが少なかったのは、紅林の件があったからだ。

 受け持った生徒が事故。責任を感じているからこそ人一倍の厳しさを持っているのは、そういう理由があるからだ。

 人にも厳しいが、自分にも厳しい。

 己を律するあまり生徒との間に壁ができ、冷たくて厳しい先生だと噂され。よって指名不人気という、誤解から生まれた不名誉。

 

 ガンッ、と頭を叩かれた気がした。


 紅林教官。


 私、なんて事を言ってしまったのだろう。撃ってしまった言葉の弾丸はもう二度と返ってこない。

 オマケ? ケチ? 冷たい?

 知らぬとはいえ、千代子は紅林の傷を抉っていたのだ。

 紅林に合わせる顔がない。千代子はその日から、ピタリと自動車学校に行かなくなった。




 それから秋が来て、冬が来て、年を越し。

 部活も引退し、専門学校に進むのが決まっていた千代子はお気楽な身分だった。

 同級生は大学受験一色で、一抜けたをした千代子と一緒に遊ぶ友達はいなかった。

 バイトは親の許可が下りず、時間は腐るほどある。

 しかし千代子の脳裏を掠めるのは、いつだって自動車学校での出来事だった。紅林に酷いことを言っていた、その事が深い後悔となり心の澱となっていつまでも晴れることはない。

 何かにつけあの時こんな事を言ってしまい、教官傷ついたよね、無神経だったよねと、記憶の中の紅林に懺悔を続けている。

 後悔ばかりが先に立ち、想像力の足りなさに気持ちが潰れる。

 かといって直接謝る勇気が湧いてこない千代子は、もう免許を取るのもまたの機会でいいかな、と思い始めていた。


 そんなある日のこと。

 学校帰り、相変わらず一人になった千代子はプラプラと繁華街にある大きな書店へ立ち寄った。特に求めるものはなかったのだが、暇つぶしになればと雑誌をペラペラ捲る。


 「……江間?」


 背後から、千代子に


 「く、紅林、教……か……」

 「お前何やってんだよ。ずっと来てないよな。どうした、体調でも悪かったのか?」


 冷たいと評していたシルバーフレームの奥にある目は、ちゃんと千代子を案じていた。

 久し振りに見る紅林は、相変わらずのイケメン・若手・長身・スーツ眼鏡男子! だったが、今日は仕事が休みのためかジャケットを羽織ってはいるもののカジュアルな装いが隙を見せるのか、チラチラと女性の視線が向けられている。

 千代子は心の準備もなく更にただ逃げ回っていた後ろめたさから、雑誌を元に戻すと紅林に背を向け「失礼します!」と逃げ出した。

 無理だって! 

 本屋を飛び出し目抜き通りを一ブロック程走った所で、くんっと腕を後に掴まれた。


 「江間、待てよ」

 「嫌です無理です離して下さい!」


 ギャンギャンと繁華街で喚いてしまい、平日とはいえ人通りの多い場所では悪目立ちしてしまう。紅林は小さく舌打ちすると千代子の反応を待たずグイグイとある場所まで引っ張って行った。




 「落ち着いたか」

 「……はい。すみませんでした」


 紅林から手渡されたミルクティーを半分ほど飲んだところで、ようやく緊張が溶けてきた。


 繁華街の中央にある市役所から南に大きく伸びるこの公園は、ベンチやモニュメントなどが配置されイベントに使われたりする市民の憩いの場所だ。

 紅林に手を引かれてベンチに有無を言わさず座らされ、完全に逃げる機会が失われた。千代子はじっと靴の先を見つめ黙っていると、目の前にペットボトルが差し出された。

 受け取らずじっと見ていると、今度は千代子の手を掴み無理矢理渡された。飲め、ということらしい。

 意図は分からないものの、千代子は栓を開けて一口飲む。それを確認してから紅林は千代子の隣にどかりと腰を下ろし、自身は缶コーヒーを開けた。

 そして暫くの間、二人は黙って飲む。

 ベンチのすぐ傍にある大きな広葉樹が日光を遮り、そよそよと通り抜ける風が頬を撫でた。



 「あの……」


 千代子は冷たいペットボトルを両手でぎゅうっと持った。


 「紅林教官、今まで本当にごめんなさい!」


 意を決して、千代子は紅林に向かって深く頭を下げる。いつか言わなければとは思っていたが、明日、来週、来月と、ズルズル先延ばしにしてしまった。

 何度も心の中で繰り返されてきた後悔の数々。あわせる顔なく逃げていた日々。

 謝罪を口にするものの、紅林からはなんの反応も得られなかった。不審に思い顔を上げると、紅林は困ったように頭を掻いていた。


 「一体何の話だ?」


 紅林はどうして千代子が謝るのかが全く理解できていなかったらしい。千代子が赤堀に教えてもらったといえば、ああ、と一言洩らした。


 「それはお前が気にすることじゃないだろ。俺は――いや、俺達教官は生徒達に責任を持って育てる義務がある。それだけのことだ」

 「でも私は、ちょっとだけ、ちょっとくらい、ってズルをしようとしたんです。そういう甘えが事故を引き起こすんですよね」

 「そうだな」

 「教官、ありがとうございます。今気付けてよかった」


 千代子はベンチから立ち上がり、くるりと振り向いてにっこり笑った。

 免許を取る、それは大きな責任を生む資格。便利だが少しの油断で大きな事故が起こる可能性があるのだ。緩みきった気持ちを正すのに、今回の反省期間は無駄じゃない。

 それを気付かせてくれた紅林に感謝を伝えたかった。

 真っ直ぐ眼鏡越しに目を見つめると、戸惑ったように紅林の瞳がゆれた。


 「――俺は何もしていないさ。しかし江間が自覚をもてたのはいい事だ。いい加減戻ってこいよ?」


 ふい、と手元の空き缶に視線を落とし、千代子を見ることもなく立ち上がる。

 千代子は反省や感謝を言えただけで満足し、紅林の態度に気付かなかった。


 「はい! 最初の目標通り、高校卒業までには免許取れるよう頑張ります!」

 「卒業まで……それはかなり厳しいぞ? おそらく三月末まで掛かると思うが」

 「えっ」

 「卒業検定は週に二回はやっている。必死になれば間に合うだろう」


 ペラペラと胸ポケットから手帳を取り出して教習所のスケジュールを調べてくれた紅林は、再び手帳を胸ポケットへ仕舞うと千代子に向かって今度はしっかり目を合わせて微笑む。


 「頑張れよ」


 柔らかく細められた双眸は真っ直ぐに千代子の心に入った。

 厳しくて冷たいと評される紅林だが、実はすごく熱い人なんじゃないかな?

 千代子は唐突にそう理解した。受け持った生徒にずっと後悔している事といい、今も千代子を見かけて声をかけてきた。知らない振りをすることも出来たのに、わざわざ追いかけてまで。

 紅林はくしゃくしゃっと千代子の髪を撫でた。

 

 「放課後でも休日でも、待ってるからな」


 約束だぞ、と紅林は言い残して去っていった。

 千代子は髪の乱れを直そうと頭に手を置いたけれど、大きな手の感触が忘れられず――。千代子は長い時間その場から動けなかった。



 翌日から、千代子は自動車学校通いを再開した。

 予約だけのつもりが、たまたま実車に紅林が空いていた為そのまま技能教習へ入る事に。


 「いいか? マニュアル選んだからにはクラッチをちゃんとモノにしろ。回転数を耳で拾え。足の感触で覚えろ。……あとは慣れだ」


 紅林はそう言うと、自動車学校敷地内にある教習コースを外れた端にある直線道路で千代子に一速にギアを入れたままクラッチの繋ぐ練習をさせた。前進して止まり、バックギアに入れて後退し、止まる。

 久し振りの教習という事もあり、千代子はもうちょっとコースを広々走ってみたかった。地味なこの時間が早く過ぎてくれないかなーとすぐに飽きてしまったが、紅林が「繋ぐあたりで音が変わったの聞こえるか?」「よし、そのまま右足キープだ」と根気強く教えてくれるので、前後に動くだけの教習だけどなんとかクラッチの繋ぎ方を覚えることが出来た所で終わった。

 翌日も紅林が空いていたので再び教習に。

 今度はコース全体を使って行われたが、前日紅林がじっくりと教えてくれた為、クランクやS字カーブも慌てず、坂道発進も落ち着いて出来た。 


 「よく頑張ったな」


 紅林は教習が終わって車を降りたところで千代子の頭を撫でる。


 「やめてくださいよ子供じゃないんだから!」


 語気を荒げる千代子だが、実はこの行為が好きだった。千代子を褒めてくれるこの瞬間だけは『優しい紅林教官を独り占め』できるから。


 そして仮免許試験当日。

 学科は合格していたので第一段階の終了検定を教習所コースで行った。

 千代子は前に受けたときと違い、一つ一つ丁寧にこなしていく。


 「紅林教官! 受かりました! 私、受かりましたよ!」

 合否が伝えられ、その足で真っ先に千代子が向かったのは紅林の所だった。嬉しさからはち切れんばかりの笑顔で報告すると「そうか、頑張ったな」と、紅林のシルバーフレーム越しに柔らかく眦を下げ僅かに口元が緩む姿を見た。


 あっ。


 千代子は急に胸が締め付けられるように痛くなった。

 紅林の笑みを見た途端、自覚してしまったのだ。

 どうして自分の失言で落ち込んだのか。

 どうして向島の彼女にショックを受けなかったのか。

 どうして一番に合格を知らせたかったのか。



 紅林教官が、好き。



 自覚は熱を持って頬を染め上げた。



 その日から、千代子は紅林の一挙手一投足から目が離せなくなった。全ての行動に視線が行き、熱に浮かされたようにぽぅっとなることが増えた。

 紅林と赤堀が二人で話しこむ姿を何度か見かけたし、何人かの女生徒に囲まれている場面も多く見た。その度に胸の痛みは酷くなるが、千代子は耐えた。

 想う事はこっちの勝手な都合であり、紅林を困らせるつもりは全くないから。好き、といってこちら側の気持ちを押し付けたとしても、相手が同じだけの想いを持っていないのならそれはただのひとり相撲。紅林が千代子の事を生徒以上の関係と位置づけているなら告白もいいけれど、今まで少しも紅林は教官と生徒のラインを違えたことがない。

 自分が紅林とどうこうなるとは思えない。けれど己の持つ恋心だけは本物なので、3月末までの期限を守ることで紅林にせめて失望されないようにしようと揺れ動く心を千代子は叱咤した。

 学科も技能も真面目に取り組む。学校のテスト前ですらこんなに真剣になった事はないほど。

 お陰で学科は毎回満点が取れるほどになった。時間のやりくりをして教程をバンバン取り、第二段階の学科は全て終え。技能教習は指名で紅林だけを抑えたかったが、下心よりも時間が優先。最短時間となると教官を選んでいる場合ではなかった。

 そうしてあっという間に高校の卒業式を終え、専門学校の入学式を待つばかりの三月。

 大学受験していた友達はプレッシャーからの解放から遊びまわり、じゃあそろそろ免許でもと動き出していた。

 千代子は自分で決めたことだからと、遊びよりも自動車学校を最優先で通う。

 路上走行、縦列駐車、方向転換と真剣に取り組み、お陰で判子を貰えないという日は無かった。



 自動車学校での教習は今日ですべて終わる。

 卒業検定もすんなりと合格し、あとは免許センターでの学科試験を受けるばかりとなった。

 ずっと胸に秘めた想い……再開できたのは紅林教官のお陰で、更にいいところを見せたいと頑張ったからここまでこれたんだ。


 千代子は、意を決して雑談中の紅林に声をかけた。


 「紅林教官……あの、お願いがあります」


 きゅっと唇を固く引き締めた千代子の様子に何かを感じたのだろう。紅林は相手――赤堀に断ってから千代子に近づきロビー端のソファへと一旦は誘導したものの、結局たどり着いたのは空き教室。二階にあるこの教室は学科などで使われるのだが、この時間は授業が無く人の気配が無い。


 「どうした、今日卒業検定合格したんだろ? なにか不安な点でもあったのか?」


 いよいよ本免だから緊張でもしてるのか、と紅林は千代子が不安を抱えていると考えたようだ。

 確かに不安は不安だ。三月末のギリギリになってやっと免許が取れるか取れないかの瀬戸際。再会してから一つも落とさず最短で来れたとはいえ三月以内ではもう後がないのだ。


 「不安……そうですね。不安です、すごく」


 学科が通るかどうかもそうだが、免許を取ったらいよいよ一人で車の運転が出来る。大きな責任を一人ぼっちで負うのだ。本当にいいのか、本当に自分なんかが運転していいものか。

 でも。


 「学科の卒検前テストだって満点だったじゃないか。落ち着いて問題を読めば大丈夫だ。江間なら合格するって、俺が保証する」


 千代子が俯いているから、紅林は屈んだ姿勢で励ました。

 ここでもやっぱり教官と生徒の境界を越えないんだな、と千代子は目線が同じになった紅林にドキドキと心臓を高らかに鳴り響かせながらその間合いを計った。


 「保証……というか、おまじないをお願いしたいんです」

 「おまじない?」

 「“合格するように”って、撫でて下さい」

 「撫でる? 頭を、か?」

 「はい。私の頭を撫でてください。そうすると絶対合格できる気がするんです」


 まあいいけど、と紅林は一つ息を吐いておもむろに手を千代子の頭に乗せた。いつものように、ぐしゃぐしゃっと髪を掻き乱して手を離す――かと思ったら。


 「江間が、無事免許証交付されますように!」


 言い終えると、軽くペちんと頭を叩かれて手を下ろされた。

 

 「ちょっと! 紅林教官、頭叩くなんて信じらんない! もー、これで少し問題文忘れましたよ絶対」

 

 たいして痛くなかったくせに、千代子は恥ずかしさも相まって猛抗議をする。紅林は「また覚えれば問題ないさ」なんて整った顔立ちを笑うことで冷たさから人懐こさに変えた。

 千代子はその笑顔に魅入られ、じっと紅林の顔の造作から目が離せなくなった。シルバーフレームの眼鏡という壁に隠された相貌は、実は感情豊かで優しげにこちらを見つめ返してくる。

 ひと時の間――見詰め合っていたらしい。

 ハッと気づき慌てて目をそらした千代子へ、紅林は「そうだ」と何か思いついたように口に出す。


 「本免取れたら、ここ寄ってけ」


 ここ、とはこの自動車学校の事らしい。紅林がいうのだから、学校から何かお知らせというか卒業における書類でも配られるのかな。そう思ったのが顔に出ていたのか、紅林は学校の事じゃない、と続けた。


 「俺のところにちょっとこい。合格祝いやるから」

 「えっ!?」

 「だから、受かって来い」


 合格祝い? 紅林から個人的ってこと?

 何か分からないけれど、紅林が少しだけこちら側にラインを超えたのが嬉しくて、二つ返事で了承した。




 ――――そして。



 「教官! 紅林教官いますか!?」


 息せき切って自動車学校に駆け込んだ千代子は、受付カウンター越しに紅林を探す。

 今の時間だったら事務仕事をしているはずだとスケジュールをみながら来たのに、紅林の姿が見えなかった。


 「あ、ひょっとして江間さん? 紅林教官ならあそこに。ほら」


 受付の職員が指差す方向を見ると、紅林は何台か並ぶ教習者の後で何かを調べながら話し合っていた。――赤堀と。


 思いを抱く千代子にとって面白くない場面ではあったが、もしかしたら二人付き合っているのかもしれないという予想はしていたので、ぎゅうと胸が押しつぶされるのを無視した。大体ここに寄れと言ったのは紅林だ。堂々と呼び出せばいい。

 千代子はすうっと息を軽く吸い、ハッキリとした声を出した。


 「紅林教官!」

 

 その声に気付き、紅林はぱっと千代子を見た。そして赤堀に断りをいれ「ちょっとこっちへ来い」と千代子を促す。

 いわれるがまま千代子は紅林の背を追うが、教習所を出て近くの駐車場へとたどり着いた。

 

 「江間、合格したんだろ? 見せてみろ免許証」 

 「はいっ!」


 即日交付されたぴかぴかの免許証は、期限の所に緑の色が入っている初心者の証。

 

 「教官のお陰です! 紅林教官が私の甘ったれた所を直してくれたから、こうして三月中に免許を取ることができました!」

 「ギリギリの三月だけどな」

 「それでも、です!」


 大事に両手で掲げて見せる千代子へ、紅林は「よくやった」と、ガシガシと荒々しく頭を撫でる。紅林に会うからと折角時間かけて髪のセットをキメてきたのにもうグチャグチャだ。

 でも、自分の事のように喜んでくれる紅林の嬉しそうな笑顔を見ることができて、千代子は胸が一杯になった。


 ――好きになれて良かった。


 例え片思いでも、免許を取る為のやる気を導き出してくれたから。

 この想いは卒業と共に小さく畳んで記憶の片隅ににしまおうか、と考えたら切なくて苦しくて目頭がじんわりとする。

 駄目。今日は報告に来たんだし、笑ってありがとうっていうんだから。

 千代子は「やだな、髪の毛またこんななっちゃった!」と乱れた髪を直す振りをして軽く滲んだ目元を拭う。

 

 「そうだ、紅林教官。合格祝いってなんですか?」

 「ああ、それは――これだ」


 小さな恋から目を背けるため千代子は話を促すと、紅林はズボンのポケットから鍵を出した。


 「さ、行くか」

 「え? どこへですか?」

 「路上教習」

 

 キョトンと鍵を見る千代子に、紅林は「早く乗れよ」と駐車場にある一台に乗り込んだ――助手席へ。


 「え、え、え? ちょっと、紅林教官!?」

 

 何がなんだか分からない千代子は助手席に座る紅林に問いかけるが、運転席をポンポンと叩きここに座れと無言で強要した。

 混乱しながらも、千代子は運転席に座る。教習車と違って随分乗り心地がいいなとキョロキョロ見渡した。


 「紅林教官、あの……」


 紅林に体ごと顔を向けると技能教習の時と同じ様な距離なのに――どこか違って見えた。教習車じゃないから? 違う、雰囲気だ。

 紅林が生徒と接する際の見えない壁が取り払われた、ような。


 「個人授業だ」

 「は、はい?」

 「俺からの合格祝い。この車でドライブしよう」

 「えええええっ!!」

 「俺、今日休みなんだ。ああそうだ、補助ブレーキないから気をつけろよ」


 そういって、紅林はシートベルトをして長い足を組んだ。

 まじですか、まじですか、えええええ

 千代子の『初運転』は、紅林の車となった。



 一時間ほど助手席の紅林のナビで千代子が運転してたどり着いたのは――。


 「富士山綺麗に見えるな」

 「――そ、そうですね……」


 日本平パークウェイを走り、やっとの事で頂上にたどり着いた。何度かハンドルを切り返しながら車庫入れをし、ようやく千代子はホッと息を吐いた。

 この日本平からは駿河湾越しに伊豆半島と富士山が眺めることができる。ロープウェイで下ると久能山東照宮があり、その麓にはイチゴ狩りが出来たりとこの地方で有名な観光地である。

 とても景色なんて眺めるどころではなく、千代子はガチガチに緊張していた気持ちをため息と共に吐き出した。


 二人でベンチに座り、紅林が買ってくれたお茶を飲んだ。


 個人教習……ビックリしたけれど、二人きりでこんな場所にいるなんて信じられない気持ちでいっぱいだった。

 自動車学校を卒業したら、もう紅林の下に会う理由がなくなってしまう。だから、もう忘れようと決めたのに。

 千代子は隣に座る紅林を、チラリと見上げた。

 整った顔立ちにシルバーフレームがキラリと映える。こんな素敵な人が、どうして私なんかを連れ出してくれたんだろう。

 分からない分からない。

 グルグルと答えの見えない思考に囚われていると、紅林が千代子を見た。


 「悪かったな」

 「え?」

 「ちょっと強引すぎたな、と反省している」

 

 運転の事かな……?

 千代子はブンブンと首を横に振り、違いますよ、と反論した。


 「初めての運転が紅林教官で良かったです。隣に座っててくれて、安心したというか……嬉しいです。合格祝い、ありがとうございます」


 まさかのお祝いに、天にも昇る気持ちだ。

 にこにことそう伝えると、紅林は頭をガリガリと掻いた。


 「いや、違うんだ」

 「何がですか?」

 「……もう会えないと思ったらいてもたってもいられず……無理矢理連れて来て、悪い」

 

 どういうことなの?

 ぽかんと紅林を見ると、耳が赤く染まっていた。


 「江間、俺と付き合って欲しい」


 紅林が千代子と視線を合わせ、ハッキリとそう言った。

 その言葉を聞いて、千代子の頬にじわじわと熱が集まる。

 まさか、まさか――?


 「俺はお前と八歳も離れているし、生徒に手を出すのも体面が悪いかと押さえていた。けれど――」

 「卒業したから。卒業したらもう教官じゃないわ」

 「……江間?」

 「教官、あの……赤堀教官と付きあって……?」

 「そんなわけあるか。あの人は人妻だぞ」

 「なんだ、年の差と生徒ってだけを気にしてたんですか?」

 

 急に肩の荷が降りた気がした。

 なんだ、なんだ、なんだ……! そうなの? そういうことなの?

 千代子と違い、紅林は未だ一歩境界を越えるのを躊躇しているようだ。


 「それは……お前、高校生だったろ」

 「そっちももう卒業しました。――あの、私の事が好きなんですか?」

 

 ハッキリと聞きたい。千代子はズバリそう尋ねると紅林はゆっくりと頷いた。


 「江間、千代子の事が好きだ」

 「私も、です」


 驚く紅林に、千代子は満面の笑みで即座に答えた。


 「私も好きなんです!」


 


 帰りの運転は紅林がハンドルを握った。

 滑らかなギアチェンジ、そしてギアを握る大きな手をぽうっと見つめる。


 「ね、教官」

 

 千代子は助手席から声を掛けると「違うだろ」と言われた。


 「俺はお前の、なんだ?」


 からかうような声に、千代子は赤面しつつ答えた。


 「彼氏、です」


 「教官呼びも卒業だな、千代子」


 



 

 


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