「洞窟のハイデ」
電車に揺られている。
朝の七時四十三分。
私はいつものように、窓際の席に座っていた。
窓の外には、ビルが並んでいる。
最初は低かった建物が、駅をいくつか過ぎるたびに高くなっていく。
灰色の壁面。四角い窓。規則正しく並んだベランダ。
空調機の室外機。広告。
空は、細い。
建物と建物の隙間から、申し訳程度に見えている。
私は、それを眺めながら、毎朝同じことを考えていた。
ここは洞窟なのではないか。
もちろん、本物の洞窟ではない。
天井はないし、壁も岩ではない。
けれど、私たちは地下鉄に乗り、高層ビルに入り、エレベーターで上へ運ばれ、決められた机に座る。
その間、ほとんど空を見ない。
見なくても困らない。
必要な情報は、全部スマートフォンに届く。
天気も、ニュースも、給料も、株価も、誰かの感情さえも。
だから、空を見る必要がなくなった。
私は、そういう世界を洞窟と呼んでいた。
別に誰かに話したことはない。
話したところで、変な人だと思われるだけだからだ。
車内には、たくさんの人がいる。
スーツ姿の男。
化粧をする女。
眠っている老人。
制服の学生。
誰もがスマートフォンを見ている。
画面の中には、それぞれ違う世界がある。
ニュースを見る人。
動画を見る人。
仕事のメールを見る人。
ゲームをする人。
誰かの写真を見る人。
けれど、画面を閉じれば、同じ電車の中にいる。
私は、ふと考えた。
これも洞窟なのではないか。
人間は、自分に割り当てられた小さな画面を見ながら、同じ方向へ運ばれている。
誰も、それを不思議だと思わない。
私も思わない。
電車が駅に到着した。
人が降りる。
人が乗る。
ドアが閉まる。
そして、また走り出す。
そのときだった。
向かい側の窓に、女が映った。
赤い髪をしている。
黒い服。
年齢は、二十代くらいだろうか。
私は振り返った。
そこには誰もいない。
もう一度、窓を見る。
女はいる。
私の隣に立っているように見える。
けれど、実際にはいない。
私は少し身を乗り出した。
女も同じように動いた。
窓の中の女は、私を見ている。
そして、笑った。
私は目をそらした。
疲れているのだろう。
最近、よく変なものを見る。
会社では、数字が人間の顔に見えることもある。
売上。
利益。
評価。
人件費。
それらが、誰かの名前の代わりに人間を表している。
だから私は、数字を見るたびに、人間が少しずつ消えていくような気がしていた。
次の駅に着いた。
私は電車を降りた。
女のことは忘れていた。
駅から会社までは、徒歩で七分。
地下道を通り、交差点を渡り、高層ビルの入口に入る。
エレベーターに乗る。
十二階。
私の会社は、十二階にある。
エレベーターの扉が開く。
そこには、いつもの光景があった。
白い壁。
白い床。
白い照明。
同じ高さの机。
同じ形の椅子。
同じような服装の人間。
私は自分の席に座った。
パソコンを起動する。
画面にログイン画面が表示された。
社員番号。
パスワード。
認証。
私は入力した。
画面が開く。
最初に表示されたのは、今日の予定だった。
九時。
朝礼。
十時。
会議。
十二時。
昼休み。
十三時。
会議。
十八時。
退勤予定。
その下に、小さな文字があった。
本日の推奨行動。
私は、それを見て笑った。
推奨行動。
そんなものまで会社が決めるのか。
けれど、よく見ると、それは会社のシステムではなかった。
私個人の生活データから生成されたものだった。
睡眠時間。
心拍数。
歩数。
メールの返信速度。
過去の勤務記録。
購買履歴。
検索履歴。
それらを分析して、今日一日の行動を推奨している。
昼食は、消化の良いもの。
午後三時に五分間の休憩。
十八時二十分に帰宅。
帰宅後は三十分の読書。
睡眠は二十三時四十分。
私は画面を閉じた。
便利だと思った。
そのことに、自分で少し驚いた。
便利。
それは間違いない。
自分で考えなくていい。
自分で選ばなくていい。
迷わなくていい。
何を食べるか。
何時に寝るか。
何を見るか。
誰と会うか。
どこへ行くか。
すべて、ある程度は教えてくれる。
人間は、選択することで疲れる。
だから、選択肢を減らしてもらうことは、むしろ親切なのかもしれない。
私はそう考えた。
そのとき、パソコンの画面が一瞬だけ暗くなった。
黒い画面の中央に、文字が浮かんだ。
あなたは、ここにいたいですか。
私はキーボードを叩いた。
画面が元に戻る。
誰かが悪戯したのだろう。
そう思った。
昼休みになった。
私は一人で食堂へ向かった。
窓際の席に座る。
外を見る。
高層ビルが並んでいる。
その向こうに、さらに高いビルがある。
空はほとんど見えない。
食堂のテレビでは、ニュースが流れていた。
新しい都市計画。
新しい人工知能。
新しい交通システム。
新しい働き方。
新しい生活。
どれも、人間の生活を便利にするものだった。
私は箸を置いた。
全部、同じだ。
人間は、生活を便利にするために、生活そのものを設計している。
そして、設計された生活の中で、
「自由になった」
と言っている。
私は、ふと笑った。
すると、向かいの席に女が座っていた。
赤い髪。
黒い服。
朝の電車で見た女だった。
「ここ、いい?」
私は答えなかった。
女は勝手に座った。
「あなた、いつも一人ね」
「そうですね」
「寂しくない?」
「別に」
「嘘」
女は笑った。
私は女を見た。
「あなたは誰ですか」
「ハイデ」
「ハイデ?」
「そう」
「外国人ですか」
「名前の話?」
女は首を傾げた。
「名前なんて、どうでもいいじゃない」
そして、窓の外を指差した。
「見て」
私は見た。
高層ビル。
道路。
車。
歩道。
交差点。
人。
全部、いつも通りだった。
「何を?」
「壁」
「壁?」
「ほら」
女が言った。
「あなた、洞窟にいるでしょう」
私は黙った。
「どうして知っているんですか」
「あなたがそう思っているから」
意味が分からなかった。
「私が?」
「そう」
女は笑った。
「洞窟って、何?」
私は答えられなかった。
壁。
天井。
暗闇。
そういうものだと思っていた。
けれど、ここには壁がある。
ビルがある。
電車がある。
会社がある。
スマートフォンがある。
全部、壁と言えば壁だった。
「じゃあ、外は?」
私は聞いた。
女は答えなかった。
その代わり、立ち上がった。
「明日の朝、電車に乗って」
「いつもの電車ですか」
「そう」
「何かあるんですか」
「ある」
「何が?」
女は笑った。
「外」
翌朝。
私は電車に乗った。
いつもの時間。
いつもの車両。
いつもの人々。
何も変わっていない。
私は窓の外を見た。
ビルが並んでいる。
灰色の壁。
四角い窓。
空調機。
広告。
私は女を探した。
いない。
電車が走る。
駅を通過する。
トンネルに入った。
窓の外が暗くなった。
その瞬間、車内の照明が消えた。
乗客のスマートフォンが、一斉に点灯した。
全員が同じ画面を見ている。
黒い背景。
白い文字。
そこには、こう表示されていた。
「現在地:洞窟」
私は息を呑んだ。
隣の男が画面を見ている。
前の女も。
老人も。
学生も。
誰も驚いていない。
私は立ち上がった。
「見えますか?」
誰も答えない。
私は一人ずつ顔を見た。
全員、画面を見ている。
まるで、それが当たり前であるかのように。
突然、車内放送が流れた。
「まもなく、洞窟駅です」
私は笑った。
おかしい。
そんな駅はない。
そのとき、女の声が聞こえた。
「やっと気づいたね」
振り向く。
赤い髪。
黒い服。
ハイデが立っていた。
「あなたは誰なんですか」
「さあ」
「ここは本当に洞窟なんですか」
「あなたがそう思えば」
「外はどこですか」
ハイデは窓を指差した。
暗闇だった。
何も見えない。
「そこ」
「暗いですよ」
「そうだね」
「外なのに?」
「外だから」
私は窓に顔を近づけた。
暗闇の奥に、何かが見えた。
小さな光。
それが、少しずつ大きくなる。
やがて、光の中に一人の人間が現れた。
こちらを見ている。
私は目を凝らした。
それは私だった。
窓の向こうに、私が立っている。
こちらの私と、向こうの私。
二人が向かい合っている。
私は後ずさった。
「どういうことですか」
ハイデは答えなかった。
向こうの私が、窓を叩いた。
コン。
コン。
コン。
私は手を伸ばした。
窓に触れる。
冷たい。
向こうの私も、同じ場所に手を置いた。
ガラス一枚を挟んで、手のひらが重なった。
その瞬間、電車の照明がついた。
乗客が一斉に顔を上げた。
何事もなかったように、電車は走っている。
私は窓を見た。
向こうには、いつもの都市があった。
高層ビル。
道路。
車。
人。
空。
私は驚いた。
空が見える。
青い。
こんなに広かったのか。
私は窓に顔を近づけた。
すると、ガラスに文字が浮かんだ。
「洞窟の外へようこそ」
私は笑った。
やっと出られた。
そう思った。
電車が駅に着いた。
私は降りた。
ホームに立つ。
空を見上げる。
青い。
確かに青い。
私は深呼吸した。
空気が違う。
自由だ。
私はそう思った。
駅を出る。
街を歩く。
人々が歩いている。
車が走っている。
ビルが立っている。
信号が変わる。
広告が流れる。
スマートフォンが鳴る。
私は立ち止まった。
何かがおかしい。
さっきまでの洞窟とは違う。
空がある。
太陽がある。
だから、ここは外だ。
私はそう考えた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
画面を見る。
通知が一件。
「本日の推奨行動が更新されました」
私は画面を閉じた。
閉じても、また通知が来る。
昼食の推奨。
歩数の推奨。
睡眠時間の推奨。
ニュースの推奨。
人間関係の推奨。
画面の下に、小さな文字が表示された。
「あなたは自由です」
私は顔を上げた。
目の前には、高層ビルがあった。
さっきまでのビルと同じだった。
いや。
違う。
私は初めて、そのビルの壁をじっと見た。
窓。
窓。
窓。
窓。
無数の窓。
その一つ一つに、人間がいる。
机に向かっている。
スマートフォンを見ている。
食事をしている。
眠っている。
笑っている。
泣いている。
そして、こちらを見ている。
私は後ずさった。
ビルの壁が、巨大な洞窟の壁に見えた。
では、空は?
私は空を見上げた。
青い。
どこまでも青い。
けれど、その青色さえ、誰かが私に見せているものかもしれない。
私は初めて、自分の足元を見た。
道路。
白線。
信号。
駅。
ビル。
電車。
すべてが、私の周囲にある。
私は気づいた。
洞窟とは、壁のことではない。
暗闇のことでもない。
外側に何があるのかを、自分で決めてしまうことだ。
だから、外へ出たと思った瞬間、
そこもまた洞窟になる。
スマートフォンが、もう一度鳴った。
私は画面を見た。
新しい通知だった。
「洞窟の外に出ました」
その下に、もう一行。
「おめでとうございます。あなたは、より快適な洞窟へ移動しました」
私は笑った。
笑いながら、スマートフォンの電源を切った。
何も変わらなかった。
街は動いている。
人々は歩いている。
電車は走っている。
ビルは立っている。
世界は、私がスマートフォンを切ったことなど知らない。
私は歩き始めた。
どこへ行くのかは決めなかった。
しばらく歩いてから、振り返った。
駅の入口に、赤い髪の女が立っていた。
ハイデ。
彼女は笑っていた。
私は手を振った。
彼女も手を振った。
そして、彼女の姿は人混みの中へ消えていった。
私は空を見上げた。
青い空だった。
私は思った。
もしかすると、空を見ることさえ、洞窟の中で教えられた行為なのかもしれない。
そう考えたところで、私は考えるのをやめた。
そのことだけは、
誰にも推奨されていなかった。




