レモン肌
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
体温は一日の中で常に変化を続けている。これまでどこかしらで、聞いたことがあることだろう。
起床したときには低めの体温が、活動を始める日中にかけてじょじょに高まっていき、夜に差し掛かるとまた下降気味になっていく。
夕方ごろが最も体温が高くなるとされるが、ホルモンもろもろの関係でこの時間帯になることが多いのだとか。
昼間と夜の境目に位置する夕方。そこに横たわるものを思うと、体も自然とほてってきてしまうのかもしれない。たとえ感じ取りづらいものであってもね。
以前に私が体験したことなのだけど、耳に入れてみないか?
私の住んでいたところでは、俗に「レモン肌」と呼ばれる現象が知られていた。
夕方ごろになって、ふと自分の服の袖をみると、やたらと湿っていることに気付くことがある。
これがただの汗とは限らない。ツンとしたレモンの酸味が漂うことがある。特にレモン汁などを浴びるようなことがなくてもだ。
ぬぐってもぬぐっても、あとからあとからにじんでくる。試しになめてみると、これまたレモンを想起させる柑橘類特有の酸味が舌に転がった。
このレモン肌が見られると、ビタミンやミネラルを積極的に摂取することが求められる。
レモン肌は、体内の栄養を大胆に使い、急速に量を作るものであって、もたもたしていると手足がつる症状に始まり、ついには失神にまで至るケースまであるからだ。
これらは医学的にまだ解明されていない現象のひとつとされているが、門外漢の私は良く知らない。ひょっとしたら一部の人は理解しているが、公にされていないだけかもしれない。
私自身も、これまで何度かレモン肌を体験したことがある。
はじめては、5歳のときだったかな。幼稚園で母を待っているときだった。
その日、母は急用ができてしまって迎えに来るのに時間がかかってね。私は幼稚園としては遅い時間まで園内で待っていたんだ。
適当に遊具で遊んでいたところ、にわかにめまいを覚えてね。見ると、園服の袖にみるみる濡れシミが浮かんできてね。先生に話したところ、レモン肌のことをしることになったわけだ。
子供の時分だし、ことの重大さは今一つ分からず、普段は飲むことがあまりないレモンやオレンジのジュースなどをガンガン飲めてラッキー! 程度の認識だったんだ。
母が迎えに来てくれてからも、ジュースを飲んでいた私は、それからも帰りの時間が遅くなりそうなときは水筒を持たされることになる。
ジュース大好きな子供にとっては、おおっぴらに甘い飲み物を持ち歩けるというのは、たいへん魅力的なものだ。
「レモン肌が出る時以外は、飲むのを控えなさい」と注意されても、素直にそれを守れるのは真面目なおりこうさんであろう。
あいにく、私は不真面目な悪い子ちゃんであって。話を知っている先生たちの目を盗み、こっそり一杯、こっそり二杯。ぐびぐび飲みすぎてほぼ空になっちゃうこともあり、ただ重さだけでごまかそうと、水でかさ増ししたときもあったっけなあ。
そうやって、うまくいくうちは誰だって調子に乗るし、相手も世の中もなめくさるものだ。
そこへズバンと尻を叩かれるか否か。これもまた天命といえるかもしれない。
不幸か……いや、幸というべきかな。
私も早い段階で、尻を叩かれるときがやってきた。
その日も、幼稚園へ行く午前中ですっかり水筒の中身を開けてしまっていたんだ。
この日は園で出されるお弁当を食べる日でね。食事に飲み物はつきものだが、先生からお弁当と一緒に出される牛乳を飲むのが大多数の流れ。
ここでひとり、ジュースなぞ飲み出したときにはどのような眼で見られるか分からない。これはこれで助かったと思ったが、問題はそのあとにやってきた。
例のレモン肌だ。
しかも、これまでの夕方近い時間帯よりもずっと早く、これはあらわれた。
正直、油断もあった。あれからもレモン肌があらわれることは何度かあったが、いずれも遅い時間帯であり、自宅へすでに帰ってからということがほとんど。ビタミン・ミネラルの補充に困ることはなかったんだ。
それがこうも真っ昼間から、園服ごしにその存在をアピールしてくるとは思わなかった。
今度は両腕の袖に限らない。肩から、胸から、背中から、身体のありとあらゆるところから、ぬるりと染み出てきたんだ。
当然、めまいもくる。
箇所が多いせいか、あのときよりもずっと強い。何歩もまともに歩けそうになかった。
幸いにも、お昼休みの時間だった。
私は空いている教室へ倒れこんでしまう。人を呼ぶべきなのだろうけれども、だるさと眠気がそれに勝った。
お昼寝の時間は過ぎたばかりだというのに、またもウトウトしかける視界。
どうにか眠らないようにしながら、うつらうつらとしていくうちに、耳に入ってきていた、あたりの音もどんどんと遠ざかっていく……。
その半ば夢を見ている意識の中で、私は新たにすぐ間近で繊維が引き裂かれる音と、無数の布切れが宙を舞うのを、あたかも川の対岸の景色であるかのごとく、他人事のような心地でぼんやり眺めていたんだ……。
先生が私を見つけたとき、周囲に園服の破片が散らばり私はほぼ全裸体だった。
私は体中からレモンの匂いを発しており、それはレモン肌の症状に相違なかったが、周囲に散らばっている私が着ていた服の生地は、いずれもわずかな湿り気すら残していなかったという。
服か、レモン肌か、私のコンディションによるものか。
こうして服をひん剥かれるだけで済んだのは、相当運がいいものらしくてね。ローティーンが過ぎるあたりまでは、このレモン肌をずっと警戒していたよ。
大人になるとほとんど見られなくなる、と聞いていた通りに、ここ十数年間はおとなしいが用心だけはしているつもりだ。