第2章:開かれる旅路(4)
午後、四人は村の入り口に集まった。
それぞれが旅の装備を整え、森へ向かう準備は整っていた。
エリスは研究機材と古代文献を詰めた特殊な鞄を背負い、魔力を集める銀の杖を手にしていた。
彼女の表情は真剣そのもので、研究者としての決意が感じられる。
「これから向かう『迷いの大森林』は、その名の通り空間が歪んでいる特殊な場所です」
エリスが出発前に説明した。
「通常の地図では道に迷うことになります。クロエさんの持つ古代の地図と、私の魔法知識を組み合わせれば、『聖域』へたどり着けるはずです」
「森の中では、不思議な現象が起きると聞いています」
シルフィアが補足した。
「時間の流れが変わったり、同じ場所をぐるぐる回ったりすることもあるそうだ」
「その通りです」
エリスが頷いた。
「森には古代から続く『結界』があり、それが空間を歪めています。おそらく『古代の封印』を守るための仕組みでしょう」
「心配しないで」
クロエが自信満々に言った。
「この地図があれば大丈夫よ。それに、精霊石のおかげで、森の道も開けるはずよ」
老人から貰った緑の果実の欠片が、クロエの言葉に呼応するように、袋の中で微かに光った。
「さあ、行こう」
俺たちは村を後にし、迷いの大森林への道を歩き始めた。
◇
前方に広がる鬱蒼とした森は、その名にふさわしく不気味で神秘的な雰囲気を漂わせていた。
木々は巨大で、枝葉が空を覆い尽くし、内部は薄暗い。
風が木々を揺らし、まるで森全体が呼吸しているかのような錯覚を覚える。
「森の入口に到着しました」
エリスが立ち止まった。
彼女は杖を取り出し、何やら呪文を唱えた。
杖の先端が青白く光り、森の方向に向かって光線が伸びていく。
「森の魔力の流れを確認しています」
彼女は集中した表情で杖を操る。
「予想通り、かなり乱れています。中には強い魔力の渦も見受けられます。慎重に進む必要があります」
「さあ、いよいよ本格的な冒険の始まりね!」
クロエは興奮した様子で言った。
彼女の耳と尻尾が嬉しそうに動いている。
「油断するな」
シルフィアが剣の柄に手をやりながら言った。
「森の中では、常に警戒を怠らないこと。特に夜間は交代で見張りを立てよう」
俺たちは最後の確認を済ませ、いよいよ森の中へと足を踏み入れた。
一歩踏み入れた瞬間、空気が変わったことを感じた。
外界とは明らかに異なる、魔力に満ちた空気。
木々が発する独特の匂い。
そして、どこからともなく聞こえてくる生き物たちの気配。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
ここは確かに普通の森ではない。
木々は途方もなく巨大で、中には幹の直径が家一軒分ほどもあるものも見られる。
地面には様々な色の苔や小さな花が咲き、足元を小さな生物たちが行き交っている。
「この森は太古の昔から存在し、独自の生態系を形成しています」
エリスが解説した。
「多くの珍しい生物や植物が生息しており、中には他では見られない魔法的な種も……」
彼女の言葉通り、木の幹を這う光る苔や、空中を漂う小さな光の球など、不思議な現象が至る所で見られる。
「地図によれば、まずこの小道を進み、大きな古木のある広場に出るのが最初の目印よ」
クロエが地図を広げながら道案内した。
森の中を進むにつれ、外界との違いがより一層際立ってきた。
木々の間から差し込む光は緑色に濾過され、幻想的な雰囲気を作り出している。
時折、誰かに見られているような気配を感じるが、振り返っても誰もいない。
「この森には、精霊や妖精が住んでいるという伝説があります」
エリスが静かに言った。
「科学的に証明されたわけではありませんが、私自身、何度か不思議な存在を垣間見たことがあります」
「精霊か……」
シルフィアも周囲を警戒しながら呟いた。
「故郷の森でも、似たような伝説があったな」
「森で暮らす獣人族は、精霊と交流があるって噂よ」
クロエが付け加えた。
「でも、めったに姿を現さないって言われてるわ」
俺は右手の紋様を見つめた。
不思議なことに、森に入ってから紋様がより鮮明になった気がする。
この『万物解錠』の力と、森の魔力には何か関係があるのだろうか。
数時間歩き続けた後、クロエの言っていた「大きな古木のある広場」に到着した。
中央には見上げるほど巨大な樹が一本、空へと伸びている。
その幹は少なくとも家十軒分はある巨大さで、根元は複雑に絡み合い、小さな洞窟のようになっていた。
「ここで休憩しましょう」
シルフィアが提案した。
「そうね。夕方になってきたわ。ここでキャンプを張って、明日また出発しましょう」
クロエも同意した。森の中では時間感覚が狂いやすい。
実際、外界よりも早く日が暮れてきたように感じられた。
俺たちは古木の根元近くに簡易的なキャンプを設営した。
シルフィアが周囲に警戒の魔法石を置き、エリスが保護の結界を張る。
クロエは手際よく食料を準備し、俺は焚き火を起こした。
「これからの行程はどうなってる?」
夕食を取りながら、俺はクロエに尋ねた。
「地図によれば、この古木から更に北西に進むと、『霧の谷』という場所に出るわ。そこを抜けると、森の中心部に近づいていくの」
「『霧の谷』……聞いたことがある」
シルフィアが思い出したように言った。
「危険な場所だという噂だ。幻覚を見せる霧があるとか」
「その通りです」
エリスが真剣な表情で頷いた。
「『霧の谷』は森の防衛機構の一部と考えられています。侵入者を惑わせ、森の外へ追い返す仕組みです」
「地図があれば大丈夫……だと思うけど」
クロエの声に少し不安が混じった。
「念のため、私も防護の魔法を準備しておきます」
エリスが言った。
「幻覚に対抗する精神安定の魔法があります。効果は完全ではありませんが、多少の助けにはなるでしょう」
焚き火を囲みながら、四人はしばらく静かに食事を続けた。
森の夜は想像以上に暗く、焚き火の光が届く範囲外は漆黒の闇に包まれている。
時折、木々の間から奇妙な鳴き声や物音が聞こえてくる。
「ねえ、トオルくん」
クロエが突然話しかけてきた。
「あなたの世界はどんなところなの? 話してみてよ」
「そうだな……」
俺は少し考えてから、元の世界のことを語り始めた。
高層ビル、電車、スマートフォン……この世界の人々にとっては想像もつかない光景だろう。
「すごーい! 空を飛ぶ乗り物があるなんて!」
クロエは目を輝かせて聞いていた。
シルフィアも興味深そうに耳を傾けている。
エリスに至っては、まるで研究対象を観察するかのような真剣な眼差しだった。
「しかし、魔法は存在しないんだな」
シルフィアが不思議そうに言った。
「ああ。その代わり、科学と技術が発達している」
「科学と技術で魔法の代わりをするなんて、興味深いですね」
エリスの目が好奇心で輝いていた。
「ぜひそういった『技術』について、もっと詳しく教えていただきたいです」
「ねえ、トオルくんは鍵師だったんでしょ?」
クロエが身を乗り出した。
「元の世界でも特殊な能力があったの?」
「いや、特殊な能力はなかったよ。ただの職人だった」
俺は右手の紋様を見つめた。
「この『万物解錠』の力は、この世界に来てから授かったものなんだ」
「なぜトオルが選ばれたのか……」
シルフィアが静かに呟いた。
「それが気になるところだ」
「きっと理由があるはずよ」
クロエが笑顔で言った。
「村の祭りでも、老人はトオルくんのことを『開く者』と認めたわ。それって運命みたいなものじゃない?」
「『開く者』の伝説……」
エリスが思索に耽るように言った。
「古代の文献によれば、世界の均衡が崩れかけた時、『開く者』が現れるとされています。しかし、その役割は諸説あり……」
彼女はやや躊躇いがちに続けた。
「救世主という説もあれば、破壊者という説もあります」
その言葉に、一瞬の沈黙が流れた。
「俺は破壊者になるつもりはない」
キッパリと言い切った。
「この力は、人を助けるために使いたい」
「私もそう思います」
エリスが真剣な表情で同意した。
「あなたの能力を見て、私は『開く者』は救世主だと確信しました。石板を解放したことで、重要な情報を得ることができた。あなたの力がなければ、私たちは今も暗闇の中にいたはずです」
「そうね!」
クロエも元気よく同意した。
「トオルくんの力があったから、私たちはここまで来れたんだもの!」
「確かに」
シルフィアも静かに頷いた。
「あなたの力のおかげで、私の『領界の鍵』も解放された。今はまだ全てが見えないが、きっとよい方向に進んでいると信じている」
彼女の言葉には、珍しく素直な感謝の気持ちが込められていた。
それは彼女らしくない素直さで、少し照れくさそうに視線を逸らしている。
「ありがとう、みんな」
なぜか胸が熱くなった。
異世界に来て孤独だった俺にとって、この三人の言葉は大きな支えになる。
夜も更けてきたため、交代で見張りをすることに決めた。
最初はシルフィア、次にエリス、それからクロエ、最後に俺という順番だ。
「では、おやすみなさい」
それぞれが寝床に就いた。
森の夜の静けさの中、葉の揺れる音と遠くからの生き物の鳴き声だけが聞こえる。
俺は空を見上げた。
木々の隙間から見える星空は、元の世界とは違う星座が輝いていた。
本当に異世界なんだと、改めて実感する。
そんな考えに耽りながら、いつしか眠りに落ちていった。