第1章:鍵師、異世界に立つ(3)
コトミネの店の二階にある簡素な客間。
俺とシルフィアはそれぞれ別の部屋に案内された。
ベッドに腰掛け、右手の紋様を見つめる。
『万物解錠』……今日一日で、この能力がどれほど特別なものかが少しずつ分かってきた。
そして、自分が巻き込まれた状況も。
シルフィアの問題は、単なる家の名誉回復ではなく、もっと大きな陰謀に関わっているようだ。
ノック音がして、ドアが開いた。
「話があるんだが……」
シルフィアだった。
彼女は普段の凛とした態度から少し柔らかな表情に変わっていた。
「どうぞ」
俺は彼女を招き入れた。
シルフィアは少し戸惑いながらも、部屋に入り、椅子に腰掛けた。
「クロエという女性の件だが……」
「信用できないのか?」
シルフィアは少し考えてから答えた。
「完全には信用できない。だが、彼女の持つ情報は価値がある。それに……」
彼女は少し言いづらそうに続けた。
「私一人では、ロード・Xに立ち向かうのは難しい。だから……」
「だから、俺とクロエの力も借りたいと?」
シルフィアは小さく頷いた。
その姿は、誇り高い騎士というよりも、助けを求める一人の少女のようだった。
「協力するよ」
俺は迷わず答えた。
「元々、君を助けると約束したんだ。それに、俺自身もこの世界のことをもっと知る必要がある。クロエは確かに胡散臭いところもあるけど、情報源としては貴重だろう」
シルフィアの表情が少し明るくなった。
「感謝する、トオル」
「ただ、一つ気になることがある」
「何だ?」
「『施錠騎士団』って何だ? クロエもコトミネも、それを聞いたとき、妙な反応をしていた」
シルフィアは腕を組んで考え込んだ。
「私も詳しくは知らない。ただ、騎士としての教育の中で、一度だけ耳にしたことがある。世界の『秩序』を守るため、古代から続く秘密結社だと……」
「秩序か……」
俺は考え込んだ。
ロード・X、『領界の鍵』、『森の心臓』、そして『施錠騎士団』……それらは一体どう繋がっているのか。
「ところで、俺の能力のことだけど」
「ああ、それについても話したかった」
シルフィアは姿勢を正した。
「あの能力は確かに驚異的だ。しかし、もっと慎重に使うべきだ。この世界では、『鍵』と『錠』は単なる道具ではなく、権利や秩序そのものを表す。それを無差別に開けることで、思わぬ禍を招くかもしれない」
彼女の忠告は的確だった。
俺も鍵師として、同じ倫理観を持っている。
「わかってる。俺も元の世界では鍵師としての倫理を持っていた。正当な理由なしに鍵を開けない。それは今でも変わらないよ」
その言葉に、シルフィアは安心したように微笑んだ。
「それを聞いて安心した」
彼女はふと思い出したように言った。
「そういえば、あなたの世界の鍵師とは、具体的にどんな仕事をしていたのだ?」
「主に、鍵を失くした人のための解錠作業だな。あとは、古い金庫や貴重品を保管するための特殊な錠前の製作も」
シルフィアは興味深そうに聞いていた。
彼女との会話は意外と自然だった。
最初に会った時の緊張感は、いつの間にか和らいでいた。
「最後の質問だ」
彼女は少し迷うような表情を浮かべた。
「なぜ……私を助けようと? 見ず知らずの私のために危険を冒す理由は?」
その質問は意外だった。
答えを考える前に、言葉が自然と口から出た。
「理由なんて必要か? 困っている人を助けるのは当然のことじゃないか」
シルフィアは少し驚いたように目を見開いた。
そして、微かに頬を赤らめた。
「そ、そうか……」
彼女は立ち上がり、窓の外を見た。
月明かりが彼女の横顔を美しく照らしている。
「明日からの旅は危険が伴うだろう。十分に休むといい」
そう言って、彼女は部屋を出ようとした。
が、ドアの前で立ち止まり、振り返った。
「トオル」
「なんだ?」
「……ありがとう」
小さな声でそう言うと、彼女は素早く部屋を出ていった。
その夜、俺は様々な思いを巡らせながら眠りについた。
異世界に来て二日目。
既に深い事件に巻き込まれ、協力者も増えた。
明日からどんな冒険が待っているのか、全く見当もつかないが、今はただ、シルフィアとクロエという不思議な二人と共に旅を続けるしかない。
◇
翌朝、早めに目を覚ますと、既に誰かが動いている気配がした。
下に降りると、コトミネが朝食の準備をしていた。
「おはよう、トオル殿。よく眠れたかな?」
「ああ、ありがとう」
テーブルについて、彼が出してくれた朝食――パンとチーズ、それに香りの良い温かい飲み物(前世の世界のコーヒーに似ているが、少し違う)を口にする。
「他の二人は?」
「シルフィア殿は、もう起きて外で軽く鍛錬をしている。クロエは……まだ来ていないな」
コトミネは笑いながら言った。
「彼女は商人としては一流だが、朝は少し弱いんだ」
そう言って間もなく、店の扉が開き、クロエが現れた。
昨日とは違う、旅装らしい服装に身を包んでいた。
茶色い革のベストに短めのズボン、そして編み上げブーツ。
肩からは様々なポーチが下がっている。
「おはよう〜!」
元気な声で挨拶するクロエだが、目はまだ少し眠そうだった。
「準備はできてるわよ。必要な物資も集めてきたわ」
彼女はテーブルに座り、コトミネが出した食事に手を伸ばした。
「いただきま〜す!」
軽快にパンを頬張るクロエを見ていると、彼女がシルフィアとは対照的な性格だということが改めて感じられた。
「ところで、トオルくん」
クロエは口の中にパンを含んだまま話しかけてきた。
「あなたのその『万物解錠』、他にはどんなことができるの?」
「実は、まだよく分からないんだ」
俺は正直に答えた。
「へえ〜」
クロエの目が興味深そうに輝いた。
「面白いわね。私も『鍵』の収集家として、あなたの能力には大いに興味があるわ」
彼女はニヤリと笑った。
その表情には何か企みがありそうだった。
「クロエは何のために旅に同行するんだ? 単なる好奇心?」
「もちろん、商売よ!」
彼女は迷わず答えた。
「『森の心臓』はそれ自体が価値ある品。それに、旅の途中で珍しい素材を集めることもできるし、トオルくんの能力で古代の宝箱が開けられれば、大儲けできるわ!」
彼女は計算高そうに指を折った。
「それだけじゃなく、ロード・Xの悪事を暴けば、彼の敵対者から報酬を得られるかもしれない。一石二鳥……いいえ、三鳥くらいね!」
あまりに正直な打算に、思わず笑ってしまった。
少なくとも、彼女は目的を隠さない。
それはそれで、ある種の誠実さだろう。
「そういえば、シルフィアはどこだ?」
「中庭で鍛錬していたわ。もうすぐ戻ってくるでしょ」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、店の扉が開き、シルフィアが入ってきた。
彼女は軽く汗ばんでいて、表情は引き締まっていた。
「おはよう」
簡潔な挨拶をして、彼女はテーブルについた。
クロエとは対照的に、淑やかに食事を始める。
「出発の準備はできている。全員揃ったところで、行程を決めよう」
シルフィアの言葉に、クロエが地図を広げた。
「ここが現在地。『聖域』はここ……迷いの大森林の最深部よ」
彼女は指で示した。
「直線距離なら数日の旅だけど、森の中は通常の時間感覚が通用しないわ。空間が歪んでいるから」
「どういうことだ?」
シルフィアが眉をひそめる。
「迷いの大森林は、名前の通り人を惑わせる場所なの。普通の地図じゃ役に立たない。でも……」
クロエは得意げに地図を指さした。
「この地図には『正しい道』が示されている。古代の印が、森の歪みを避ける道を教えてくれるわ」
彼女は自信満々に言った。
「私ならこの地図を読める。迷いの大森林を横断する最短ルートで『森の心臓』まで案内するわ」
「あなたは本当に信頼できるのか?」
シルフィアが疑わしげに尋ねた。
クロエは肩をすくめた。
「商売人として嘘はつかないわ。契約は神聖だもの」
彼女はウインクした。
「それに、私も『森の心臓』が欲しいの。ロード・Xに先を越されたくないわ」
シルフィアはまだ納得していないようだったが、現状ではクロエの協力が必要なのは明らかだった。
「よし、では出発の準備を」
コトミネが立ち上がった。
「私からも少しばかり装備を分けよう」
彼は奥の部屋から、いくつかの道具を持ってきた。
「トオル殿、これはあなたに」
渡されたのは、見慣れない素材でできた特殊なピッキングツールのセットだった。
「これは『魔力感応ピック』のセットだ。あなたの能力と相性がいいはずだ」
「ありがとう」
手に取ると、確かに右手の紋様が反応するように感じた。
「シルフィア殿には、これを」
コトミネは小さな青い結晶を渡した。
「緊急時の通信用の魔導具だ。壊せば、強い光と音を発する。危険な時の合図に使うといい」
シルフィアは感謝の意を示した。
「クロエには……」
「私はいいわ」
クロエは手を振った。
「自分の商品は自分で用意してるから」
彼女は満足げに肩のポーチを叩いた。
中には何やら怪しげな道具が詰まっているようだ。
「では、行こうか」
三人はコトミネに別れを告げ、店を出た。
村の入り口で、旅の準備が整っているかを最終確認する。
「遠回りにはなるが、王道を避けて森に向かおう」
シルフィアが提案した。
「ロード・Xの手下が追っている可能性がある」
「賛成よ」
クロエが地図を見ながら言った。
「こっちのルートなら、人目につかずに森に入れるわ」
俺は二人の提案に同意した。
こうして、鍵師のトオル、騎士のシルフィア、そして情報屋のクロエという奇妙な三人組の旅が始まった。
世界の謎、ロード・Xの陰謀、そして『森の心臓』。すべてが未知の冒険だった。
しかし、右手の紋様を見つめながら、俺は確信していた。
この『万物解錠』という力は、単なる偶然ではない。
何か大きな目的のために、俺はこの世界に呼ばれたのだと。
そして、その扉を開く鍵は、まだ見ぬ旅の先にあるのだろう。