第1章:鍵師、異世界に立つ(2)
「これが『領界の鍵』か……」
食事を終えた後、コトミネはシルフィアのペンダントを興味深げに見つめていた。
彼女は少し警戒しながらも、その正体を明かしていた。
「ヴァレンタイン家に代々伝わる宝だ。単なる装飾品ではなく、我が領地の地脈を安定させる機能を持つ」
「ほう、そうした『鍵』は希少だな……」
コトミネは感心したように見つめた。
「しかし、確かに何者かによる強力な『施錠』の痕跡がある。それをトオル殿が解いたというのは……驚くべきことだ」
彼はニヤリと笑った。
「普通なら、『鍵師協会』の上級会員でも数日はかかるだろう」
「『鍵師協会』?」
俺は興味を引かれ、尋ねた。
「ああ、この国では『鍵』に関する職業はすべて協会に管理されているんだ。鍵師、錠前師、鍵彫師……みな協会の免許がなければ開業できない」
なるほど。
これも「鍵社会」の一面か。
コトミネは続けた。
「とはいえ、ここは辺境。私のような小さな店はそれほど厳しく監視されていないがね」
彼はウインクした。
どうやら多少は規則に縛られない生き方を好む人物らしい。
「で、お二人はこれからどうするつもりだ?」
真剣な顔に戻り、コトミネが尋ねた。
シルフィアが答える。
「ロード・Xという貴族が私の家に濡れ衣を着せ、この『領界の鍵』を狙っている。しかし、直接証拠がない……」
「それで王都に行くか、証拠を探すか、迷っているというわけだな」
コトミネが整理した。
「ふむ……難しい問題だ」
彼は少し考え込み、突然立ち上がった。
「一人紹介したい者がいる」
「誰だ?」
「この村にいる商人だ。情報通で、時々珍しい品も扱っている。あんたたちの問題解決の糸口になるかもしれない」
シルフィアと俺は顔を見合わせた。
協力者が増えるのは心強いが、信用していいのか迷う。
「心配するな。私の古い知り合いだ」
コトミネは笑って付け加えた。
「それに、あんたたちの正体は明かさない。単なる旅人として紹介しよう」
その提案に、俺たちは同意した。
外は既に夜の帳が下りていた。
三人は静かに暗い通りを歩いた。
村は思ったよりも静かで、灯りの少ない家々が点在するだけだった。
「あそこだ」
コトミネが指差したのは、村の外れにある少し大きめの建物だった。
『旅人の宿』と看板が掲げられている。
「商人なのに、宿を?」
疑問に思う俺に、コトミネは小声で説明した。
「表向きは宿屋だ。でも、本当の商売は別なんだよ」
入り口のドアには、小さな錠前がついていた。
コトミネはノックをせず、何か特殊な順序でドアを叩いた。
カンカン、カン、カンカンカン。
すると、中から応答があり、ドアが開いた。
「おや、コトミネじゃないか。珍しいね、こんな時間に」
ドアを開けたのは、明るい茶髪の若い女性だった。
彼女は華奢な体つきながら、目は鋭く、狐のような耳と尻尾を持っていた。
獣人――この世界には存在するのか。
「クロエ、ちょっと相談があってな。この二人を紹介したいんだ」
獣人の女性――クロエは、俺たちを値踏みするような鋭い目で見た後、にっこりと笑った。
「素敵なお客様ね! さあ、どうぞ中へ」
彼女の態度は一転して、陽気で人懐っこいものに変わった。
しかし、その目は依然として鋭い光を宿している。
この女性は、表面上の愛想と内面の鋭さを併せ持っているようだ。
中に入ると、普通の宿屋のような造りだった。
しかし、客はほとんど見当たらない。
「奥へどうぞ。人目につかない場所で話しましょう」
クロエは俺たちを案内した。
その歩き方は軽やかで、尻尾がリズミカルに揺れている。
奥の個室に案内され、四人は席についた。
クロエはテーブルの下から、錠のかかった小さな箱を取り出した。
「さて、どんなご用件かしら?」
コトミネがざっと状況を説明すると、クロエは興味深そうに目を輝かせた。
「なるほど〜。追われている貴族のお嬢様と、腕利きの……職人さん?」
彼女の鋭い目が俺を値踏みする。
まるで、本当の姿を見透かされているようだ。
「情報が必要なのね。それなら任せてよ! クロエ・フォックステイルは情報屋兼商人として、この辺りでは一番のコネを持っているんだから」
彼女は胸を張った。
シルフィアはその態度に少し眉をひそめたが、黙っていた。
「ただし〜」
クロエは人差し指を立てた。
「情報にはお代が必要。現金でも、物々交換でもいいわ〜」
シルフィアが緊張した様子で財布に手をやる。
しかし、クロエは首を振った。
「いいえ、そうじゃないの。あなたたち、何か面白いものを持ってるでしょ?」
彼女の目が俺の右手に向けられた。
一瞬、背筋が凍る思いがした。
「クロエ、それは……」
コトミネが制止しようとしたが、クロエは笑った。
「安心して。彼の秘密は漏らさないわ。でも、『開く者』が現れたなんて、かなり価値のある情報よね」
彼女はウインクした。
「コトミネから聞いたわけじゃないわ。私には『嗅覚』があるの。この村に特別な存在が現れたって、市場の空気ですぐに分かったわ」
彼女は獣人特有の五感の鋭さを持っているようだった。
「情報を知りたいなら、あなたにちょっとだけ力を貸してもらおうかしら、トオルくん」
クロエの声には甘い響きがあったが、目は冷静に計算していた。
彼女は俺とコトミネを見比べて小さく笑った。
「何かを『開ける』能力があるなら、私の商売にも役立つわ。もちろん、その代わりロード・Xに関する情報をたっぷり提供するわよ」
シルフィアは不信感をあらわにして身を乗り出した。
「待て。トオルの能力は、そんな軽々しく使うべきではない。それに、あなたはどうやって彼の力のことを……」
「まあまあ、落ち着いて、お騎士様」
クロエはシルフィアをなだめるように手を振った。
彼女の茶色い耳がぴくぴくと動く。
「悪用するつもりはないわ。私が扱うのは情報と商品だけ。中には『特殊な錠』がかかったものもあるの。それを調査するための協力をお願いしたいだけよ」
彼女はテーブルの下から、もう一つ小さな箱を取り出した。
黒檀でできたその箱には、見たこともない複雑な錠前が取り付けられていた。
「これは?」
俺は思わず身を乗り出した。
職業病だろうか、複雑な錠前を見ると血が騒ぐ。
「古代の遺跡から見つかったものよ。どんな鍵師も開けられなかった。中に何があるのかも分からない……でも、きっと価値あるものね」
クロエの声には期待が込められていた。
彼女は商売人として、未知の宝を前にしての興奮を隠せないようだった。
シルフィアは明らかに警戒していたが、コトミネは穏やかに頷いた。
「クロエは信頼できる。そして、彼女の情報網は本物だ。ロード・Xのことなら、何か知っているかもしれない」
「わかった」
俺は決断した。
シルフィアの不安そうな表情を横目に、黒檀の箱に手を伸ばす。
箱に触れた瞬間、右手の紋様が反応した。
頭の中に、錠前の複雑な構造が浮かび上がる。
それは物理的な機構だけでなく、何かエネルギーのようなものも流れていた。
「これは……魔力のロックもかかっているな」
「へえ、そこまで分かるの?」
クロエが驚いた様子で身を乗り出してきた。
彼女の顔が近すぎて、少し動揺する。
「あ、ああ。でも……」
集中して、錠前の内部構造をさらに探る。
すると、あることに気づいた。
「これ、罠が仕掛けられてる」
「え?」
クロエの表情が変わった。
「もし暴力的に開けようとすると、中身が燃えてしまう仕組みだ。それに……」
さらに指先から感じ取った情報を整理する。
「この箱、二重構造になっている。表面の錠を解くだけじゃ開かない」
「そこまで分かるなんて……すごいわ!」
クロエの目が輝いた。
獣人特有の尻尾が興奮して左右に振れている。
「じゃあ、開けられる?」
「開ける前に、約束を。この協力の見返りに、ロード・Xの情報を提供してくれるんだな?」
クロエはにっこりと笑った。
「もちろん。情報屋としての誇りにかけて約束するわ」
そう言って、彼女は右手を差し出した。
握手を求めている。
俺はその手を取った。
彼女の手は小さいが、しっかりとしていた。
「よし、じゃあ開けるぞ」
箱に向き直り、集中する。
右手の紋様が明るく光り始めた。
「万物解錠」
小さく呟くと、箱からかすかな振動が伝わってきた。
ピンが一つずつ上がっていく感覚。
そして、魔力の流れを感じ取り、それを迂回させる。
さらに、二重構造の内側にある隠された錠も同時に解いていく。
カチリ。
柔らかな音と共に、箱の蓋が少し持ち上がった。
「開いた……」
クロエが息を呑んだ。
シルフィアも思わず身を乗り出していた。
「中身を確認してもいいかな?」
クロエに尋ねると、彼女は熱心に頷いた。
「もちろん!」
慎重に蓋を開けると、中には古びた羊皮紙が一枚。
それを広げると、何かの地図のようだった。
「これは……!」
クロエが小さな悲鳴を上げた。
「『聖域への道』の地図じゃない?! 本当に存在したのね!」
彼女は興奮して言葉を続けた。
「『聖域』は、迷いの大森林の最深部にあるとされる神秘的な場所。そこには『森の心臓』と呼ばれる、純粋な魔力の結晶があるって言われてるの!」
シルフィアも目を見開いた。
「『森の心臓』……? 伝説の品だ。本当に存在するのか……」
「そう、でもそれよりもっと重要なことがあるわ」
クロエは冷静さを取り戻したように、声のトーンを落とした。
「ロード・Xは、『森の心臓』を狙っているの」
「何だって?」
シルフィアが身を乗り出した。
「私の情報筋によると、ロード・Xは古代の特殊な鍵を集めている。そして、『領界の鍵』もその一つ。さらに、『森の心臓』を使って何かを実行しようとしているみたい」
クロエは真剣な表情で続けた。
「彼は単なる悪徳貴族じゃない。もっと大きな組織とつながりがあるかもしれないわ」
「大きな組織?」
コトミネが眉をひそめた。
「ええ。彼の屋敷には、時々銀髪の女性が訪れるという噂があるの。彼女は『施錠騎士団』とかいう組織の人間らしい」
「『施錠騎士団』……」
コトミネの表情が硬くなった。
「それは……昔から噂に聞く秘密結社だ。世界の『秩序』を守るため、危険な『鍵』を管理したり、特定の場所や物に『施錠』をかけたりしているという……」
クロエが頷いた。
「その通り。でもこれは確かな情報じゃないわ。ただの噂かもしれない」
シルフィアは深く考え込んでいた。
「ロード・Xが私の家の『領界の鍵』を狙ったのは……『森の心臓』を手に入れるためなのか?」
「可能性は高いわね。『領界の鍵』には、地脈を操る力があるでしょう? それが『森の心臓』への鍵になるのかも」
クロエの推測に、シルフィアは頷いた。
「確かに……『領界の鍵』には特殊な力がある。だが、それを使って何をするつもりだ?」
「それはまだ分からないわ。もっと調査が必要ね」
クロエは地図を見つめ直した。
「この地図は本物っぽいわね。迷いの大森林の最深部への道が記されている。もし『森の心臓』を確保できれば、ロード・Xの計画を阻止できるかもしれない」
彼女は俺たちを見た。
「私も一緒に行くわ。この地図を解読できるのは私だけだし、森での素材収集も私の商売の一つなの」
シルフィアが驚いた表情を浮かべる。
「一緒に? 危険だぞ?」
「大丈夫よ。私だって無力じゃない」
クロエは軽く笑った。
その表情には、自信と計算高さが混ざっていた。
「それに……」
彼女は俺の方をちらりと見た。
「この『開く者』の能力、もっと見てみたいしね」
俺は少し戸惑った。
クロエという女性は、明らかに自分の利益のために動いている。
しかし同時に、彼女の情報は価値があるようだ。
「シルフィア、どう思う?」
彼女に判断を委ねると、シルフィアは少し考えてから答えた。
「……情報と地図は確かに必要だ。だが、全面的に信用はできない」
クロエは傷ついたふりをして胸に手を当てた。
「ひどいわ〜。私はビジネスパートナーを裏切ったりしないのに」
彼女のオーバーな仕草に、思わず笑いそうになる。
「とりあえず、明日の朝、詳細を話し合おう」
コトミネが提案した。
「今夜は私の店で休め。明日に備えて体力を回復することだ」
その提案に全員が同意した。
これから先の旅は、さらに困難になるだろう。