第4章:銀髪の執行官(7)
アルカニアに戻った一行を出迎えたのは、混乱から回復し始めた街だった。
緑の光は消え、建物や道路も元の形に戻りつつあった。
しかし、遠くの森の方角には黒い雲のようなものが見えている。新たな危機の予兆だ。
『賢者の休息』に戻った俺たちは、シルフィアの手当てを最優先した。
彼女の怪我は深く、すぐに治療が必要だった。
「大丈夫だろうか……」
エリスが彼女の傷口に魔法をかけながら、心配そうに言った。
「彼女は強い。必ず回復する」
クロエが珍しく真剣な表情で応えた。
「それより……あの黒い霧は何なの?」
「古代の封印に閉じ込められていた『混沌の力』でしょう」
エリスが説明した。
「施錠騎士団が守っていた封印が、セラフィナの消失によって弱まったのです」
「つまり……」
「一つの問題を解決したら、別の問題が生まれてしまったということだ」
俺は疲れた表情で言った。
「『森の心臓』は安定させたが、今度は古代の力に対処しなければならない」
「それが『開く者』の宿命かもね」
クロエが少し皮肉っぽく、しかし温かみのある声で言った。
「一つの扉を開ければ、別の扉も開いてしまう」
「でも、私たちならきっと大丈夫!」
ミーシャが元気よく言った。
彼女の無邪気な笑顔が、重苦しい空気を少し和らげる。
「ミーシャ、一緒に頑張るよ! トオルさんとみんながいれば、どんな問題も解決できるの!」
「ありがとう、ミーシャ」
彼女の純粋な信頼に、心が温かくなった。
シルフィアの治療が一段落し、彼女は眠りについた。
その顔は穏やかで、強い意志を感じさせる美しさがあった。
クロエが窓辺に立ち、遠くに見える黒い雲を見つめていた。
「トオルくん、次はどうするつもり?」
「まずは情報収集だ」
俺はエリスを見た。
「『施錠の書』に何か役立つことは書かれていないか?」
「確認してみます」
彼女は本を開き、ページをめくり始めた。
「ここに……『混沌の力』についての記述があります」
エリスは眼鏡を直しながら読み上げた。
「太古の昔、世界を脅かした大いなる力。それは形を持たず、触れるものすべてを変質させる。賢者たちはこの力を『森の心臓』の力で封じ込めた」
「それが今、漏れ出しているということか」
「ええ。しかし……」
彼女は少し考え込んだ後、続けた。
「ここに興味深い記述があります。『混沌の力』は完全に破壊することはできず、ただ封じ込めることしかできない。しかし、その力を『変換』することは可能だとされています」
「変換?」
「破壊的な力を、創造的な力に変えることができる……らしいのです。そのためには……」
彼女はしばらくページを探してから、小さな図を指差した。
「『開く者』の力が必要だと」
全員の視線が俺に集まった。
「俺の『万物解錠』で?」
「理論上は可能です。『万物解錠』は単に錠を開けるだけでなく、物事の本質を変える力も持っているのかもしれません」
「でも、どうやって?」
クロエが疑問を投げかけた。
「黒い霧のようなものに、どうやってトオルくんの力を使うの?」
「それが……」
エリスは困惑した表情を見せた。
「詳しくは書かれていません。ただ、『開く者』の力と『領界の鍵』、そして『森の心臓』の三つが揃えば可能だとだけ……」
「三つが揃えば……」
考え込んでいると、シルフィアが目を覚ました。
彼女はまだ弱々しかったが、意識ははっきりしていた。
「私にも話は……聞こえていた」
「シルフィア、無理をするな」
「大丈夫だ」
彼女は少し体を起こした。
「『領界の鍵』は私が持っている。トオルが『開く者』の力を持つ。あとは『森の心臓』に再びアクセスする方法を見つければいい」
「だけど、今の状態では無理よ」
クロエが心配そうに言った。
「シルフィア、あなたはまだ回復していないわ」
「それに、黒い霧が森全体を覆い始めています」
エリスが窓の外を指差した。
「このままでは『森の心臓』に近づくこともできません」
「時間をかけて考えよう」
俺は提案した。
「まずはシルフィアの回復を待ち、その間に対策を練る。エリス、『施錠の書』をさらに調べてくれ。クロエは街の情報を集めてほしい」
全員が頷き、それぞれの役割に取り組み始めた。
◇
数日が過ぎ、シルフィアの容体は徐々に回復していった。
彼女は騎士としての訓練のおかげか、驚くほど回復力が高かった。
その間、状況はさらに悪化していた。
黒い霧は森を完全に覆い、その縁がアルカニア近郊まで迫っていた。
霧に触れた植物は奇妙に変形し、動物は姿を消した。
エリスは『施錠の書』を徹底的に研究し、クロエは街の情報屋から様々な話を集めていた。
ミーシャは森の変化を観察するために、安全な範囲で偵察を行っていた。
そして約一週間後、全員が再び集まった。
シルフィアも完全ではないが、歩けるほどに回復していた。
「何か分かったか?」
シルフィアが尋ねた。
「いくつか情報があります」
エリスが報告を始めた。
「『施錠の書』によれば、『混沌の力』は七日周期で強まり、その頂点で『変換』が可能になるとされています。つまり……」
「今日か明日が最適なタイミングということだな」
「ええ。しかし、より重要な発見がありました」
彼女は古い図面を広げた。
「『施錠の書』の最後のページに隠されていた図です。これは『変換儀式』の方法を示しています」
図面には複雑な魔法陣と、三つの要素が配置されていた。
「『開く者』、『領界の鍵』、そして『森の心臓』。これらを特定の配置で並べることで、『混沌の力』を『創造の力』に変換できるようです」
「私も興味深い話を聞いてきたわ」
クロエが加わった。
「街の古老によれば、昔、同じような黒い霧が現れたことがあったらしいの。そのとき、『銀色の守護者』が現れて霧を鎮めたというわ」
「『銀色の守護者』?」
「そう。それが誰かは分からないけど、施錠騎士団の前身ではないかって噂よ」
「セラフィナが言っていたことと繋がるかもしれません」
エリスが考え込んだ。
「彼女は『過去の悲劇』について触れていました。おそらく、以前にも同様の事態があり、施錠騎士団がそれを鎮めたのでしょう」
「でも今回は、セラフィナはいない」
俺は窓の外の黒い霧を見つめた。
「俺たちが何とかするしかない」
「ミーシャは?」
「森の様子が変だよ……」
ミーシャは耳をピクピクさせながら報告した。
「木々が動くようになって、地面からは変な植物が生えてきてる。でも……」
彼女は少し考え込んだ後、続けた。
「森の中心、『森の心臓』がある場所だけは、まだ黒い霧に覆われてないみたい。光の柱みたいなのが見えるの」
「『森の心臓』が抵抗しているのか」
エリスが驚いた表情で言った。
「『施錠の書』に書かれていた通りです。『森の心臓』は『混沌の力』と相反する性質を持っている」
「つまり、あそこまで行ければ……」
「儀式ができる可能性があります」
「だが、黒い霧を通り抜けるのは至難の業だぞ」
シルフィアが現実的な問題を指摘した。
「触れれば腐食するような力に満ちているんだろう?」
「そこで、これです」
エリスは別の魔法書を取り出した。
「防御の魔法を強化した『霧の外套』。一時的ですが、黒い霧から身を守れるでしょう」
「それで全員が安全に通れるの?」
クロエが不安そうに尋ねた。
「……いいえ」
エリスは申し訳なさそうに首を振った。
「私の力では、最大でも三人分しか作れません」
「つまり、誰かが残るということか」
シルフィアが厳しい表情で言った。
「そうなりますね」
重苦しい沈黙が部屋を包んだ。
五人全員で行けないならば、誰が行き、誰が残るべきか。
「俺とシルフィアは必須だな」
俺が決断した。
「『開く者』と『領界の鍵』の持ち主として」
「そして儀式の知識を持つ私も必要でしょう」
エリスが付け加えた。
クロエとミーシャが顔を見合わせた。
彼女たちが残ることになる。
「そういうことね……」
クロエは少し寂しそうに笑った。
「トオルくん、絶対に無事に戻ってきてね」
「 みんな、頑張って!」
ミーシャも明るく振る舞おうとしていたが、目には不安の色が浮かんでいた。
「必ず成功させて戻ってくる。約束する」
俺は二人の肩に手を置いた。
「お前たちがいてくれたからこそ、ここまで来れたんだ。最後の力を貸してくれ」
「もちろんよ!」
クロエは強がりながらも、眼には涙が浮かんでいた。
「街が危険になったら、すぐに避難するのよ。無理はしないで」
「ミーシャも街の人たちを案内するの! 森のことなら任せて!」
全員の決意が固まり、最後の準備が始まった。
エリスは「霧の外套」の魔法の詠唱に集中し、シルフィアは「領界の鍵」の力を高めるための瞑想を行った。
俺は「万物解錠」の力を最大限に引き出すため、集中していた。
夕暮れ時、三人は出発の準備を整えた。
クロエとミーシャが見送る中、俺たちは最後の任務に向けて宿を後にした。
「気をつけてね……」
クロエの声が風に乗って届いた。




