第4章:銀髪の執行官(6)
アルカニアに戻った頃には、既に街は混乱に陥っていた。
緑の光と共に、街の各所で奇妙な現象が起きていたのだ。
噴水が逆流したり、建物の一部が浮いたり、道が歪んだり……まるで現実そのものが狂い始めているようだった。
街の人々は恐怖に怯え、多くが避難を始めていた。
「想像以上に状況が悪化している……」
エリスが青白い顔で言った。
彼女自身も疲労困憊の状態だったが、冷静さを失ってはいなかった。
「『森の心臓』の力が現実世界に干渉し始めています。このままでは……」
「急いで『究極ツール』を作るぞ」
俺たちは「賢者の休息」に戻った。
幸い、宿はまだ営業していたが、宿主も旅行客も半数以上が逃げ出したようだった。
部屋に戻り、さっそく道具の製作に取り掛かる。
俺とエリスが中心となり、他のみんなも協力した。
「『封印の欠片』は?」
エリスが俺の右手を調べた。
紋様の中に取り込まれた『封印の欠片』のパターンが依然として輝いていた。
「どうやって取り出せばいいのだろう?」
「ちょっと試してみます」
エリスは魔法陣を描き、俺の手の上に杖を置いた。
「『顕現』」
杖から青い光が放たれ、紋様と交わる。
すると、右手から青白い光の粒子が集まり始め、俺の掌の上に小さな欠片が現れた。
「成功しました」
エリスは欠片を大事そうに受け取った。
それは半透明の結晶のようなもので、中に複雑な模様が浮かんでいる。
「これで材料は揃いました。あとは……」
「『究極ツール』の設計図だな」
俺は頭の中で設計を練り始めた。
今までのツールよりも遥かに複雑な構造が必要だ。
『万物解錠』の力を最大限に引き出し、『領界の鍵』と『封印の欠片』の力を結びつけるツール……。
「直感的には分かるが、形にするのは難しい……」
「私の魔法理論が助けになるかもしれません」
エリスは古代の魔法書を参照しながら、設計の補助をしてくれる。
「『領界の鍵』は地脈と繋がり、『封印の欠片』は『森の心臓』と共鳴する。それらを繋ぐには……」
二人で議論を重ねながら、少しずつ設計が固まっていった。
「星屑鋼で基本フレームを作り、そこに『封印の欠片』を埋め込む。そして、『領界の鍵』を差し込む溝を設ける……」
シルフィアは自分のペンダントを見つめながら、議論に耳を傾けていた。
「私の鍵が本当に役に立つならば……」
「ヴァレンタイン家の『領界の鍵』は不可欠だ」
俺は彼女を見つめた。
その青い瞳には、決意と覚悟が宿っていた。
「お前がいなければ、このツールは完成しない」
彼女は小さく頷いた。
「分かった。全力で協力する」
クロエは市場から追加の材料を集め、ミーシャは自分の持つ珍しい素材を提供してくれた。
全員が一丸となって、究極ツールの製作に取り組んだ。
外では、異変がますます激しくなっていた。
宿の窓から見える街並みは緑色の霧に覆われ、時折、現実が歪むような波動が走る。
窓ガラスさえも震えるほどだった。
「時間がない……」
俺は必死で作業を進めた。
右手の紋様の力を使い、通常なら何日もかかるような精密な加工を数時間で行う。
エリスの魔法も全面的に役立った。
夜が更けるにつれ、『究極ツール』の姿が見えてきた。
それは腕に装着するタイプの装置で、中央に『封印の欠片』が埋め込まれ、『領界の鍵』を差し込む特殊な溝がある。
全体が星屑鋼で作られ、複雑な魔法の回路が刻まれている。
「もう少しで……」
最後の調整を終え、俺は『究極ツール』を掲げた。
「できた……」
完成した装置は淡く青白い光を放っていた。
機能するかどうかは、実際に使ってみるまで分からないが、理論上は問題ないはずだ。
「素晴らしい……」
エリスが感嘆の声を上げた。
彼女の紫色の瞳には純粋な学術的興味が灯っていた。
「トオルさんの技術と『万物解錠』の力が融合した完璧な作品です」
「これで『森の心臓』を安定させられるの?」
ミーシャが不安そうに尋ねた。
彼女のリスの耳がぴくぴくと動いている。
「理論上はね」
クロエが深刻な表情で言った。
「でも、実際に『森の心臓』のところまで行けるかどうかが問題よ。森の状態はきっと最悪になってるわ」
「それに……」
シルフィアが窓の外を見ながら言った。
「セラフィナが生きていれば、再び邪魔をしてくるだろう」
「彼女が生きているとして……今は『森の心臓』を安定させることが先決だ」
俺は決意を固めた。
「明日の夜明けとともに出発しよう。一度だけ休息を取り、万全の状態で向かう」
みんなも同意し、交代で休むことにした。
しかし、外の状況は刻一刻と悪化していた。
建物が揺れ、時折、奇妙な音が聞こえてくる。
俺の番の休息時間、どうしても眠れず、窓辺に立っていた。
緑色に染まった夜空を見上げながら、明日の任務に思いを馳せる。
「眠れないの?」
振り返ると、シルフィアが立っていた。
いつもの毅然とした表情ではなく、少し疲れた、しかし決意に満ちた表情だった。
「ああ、少し考え事を」
「……私も眠れなかった」
彼女は窓辺に並んで立った。
二人で外の光景を見つめる。
「明日、うまくいくと思うか?」
彼女が静かに尋ねた。
「必ずうまくいく。うまくいかせる」
俺は強い口調で答えた。
シルフィアは小さく笑った。
普段は見せないような、柔らかい笑顔だった。
「そうだな……その自信が頼もしい」
彼女は少し言葉を詰まらせ、何か言いたげな表情をした後、決意したように口を開いた。
「トオル、あなたに言っておきたいことがある」
「何だ?」
彼女は俺をまっすぐに見つめた。
青い瞳が月明かりに照らされ、美しく輝いている。
「あなたに出会えて、本当に良かった」
その言葉は、彼女の普段の態度からは想像できないほど素直なもので、一瞬言葉を失った。
「俺も同じだ、シルフィア」
彼女の表情が明るくなり、でも少し照れたようにすぐに視線を外した。
「それだけ言いたかった。おやすみ」
シルフィアは急いで自分のベッドに戻っていった。
彼女の言葉が心に残る。
確かに俺も、この世界でシルフィアたちに出会えたことを心から感謝している。
もし明日、全てが上手くいかなくても……。
いや、絶対に成功させるんだ。
全員で無事に帰ってくる。その決意を胸に、俺はようやく眠りについた。
◇
夜明け前、俺たちは宿を出発した。
街の状況は一晩でさらに悪化していた。
建物が歪み、道が波打ち、空には緑色の渦が渦巻いている。
もはや人の姿はほとんど見えず、避難が完了したようだった。
「急ごう」
五人は急いで街を出て、迷いの大森林に向かった。
前回と同じ道を通ろうとしたが、地形が変わっていた。
「道が……違う」
クロエが困惑した表情で言った。
「前に通った場所のはずなのに」
「『森の心臓』の力で現実が歪んでいるのでしょう」
エリスが説明した。
「地形そのものが変化しています」
「でも、ミーシャなら森の中でも道が分かるよね?」
ミーシャは少し不安げに耳を動かしたが、勇敢に頷いた。
「ミーシャ、頑張る! 森の感覚はまだあるよ!」
彼女の先導で森に入ると、想像以上の変化が広がっていた。
木々が緑色に輝き、中には逆さまに生えているものもある。
動物たちは姿を消し、代わりに奇妙な光の玉が空中を漂っていた。
「気をつけろ、あれは危険だ」
シルフィアが光の玉を指差した。
それは触れるものを焼き尽くすらしく、通過した草木が炭化していた。
一行は慎重に進んだが、森の状態は進むにつれてより危険になっていった。
地面が突然陥没したり、木々が動いて道を塞いだりする。
「『森の心臓』に近づくほど、異変が激しくなっている」
エリスが観察した。
「聖域まで行けるだろうか……」
その懸念は的中し、『霧の谷』に到達する前に、一行は大きな障害に直面した。
前方の森が完全に変質し、緑色の炎のようなもので覆われていたのだ。
「これ以上先に進めない……」
クロエが顔をしかめた。
「別のルートを探すべきか?」
「時間がないぞ」
シルフィアが空を見上げた。
緑の渦は激しさを増し、轟音さえ響いていた。
「どうする、トオル?」
全員の視線が俺に向けられた。
「……やるしかない」
俺は『究極ツール』を腕に装着した。
まだ『領界の鍵』は差し込んでいないが、このツール自体にも強力な力がある。
「『封印の欠片』の力で、一時的に道を開けるかもしれない」
『究極ツール』を緑の炎に向け、『万物解錠』の力を込めた。
「開け!」
ツールが強く輝き、炎の中に細い道が開いた。
しかし、それはすぐに閉じようとしている。
「急げ!」
全員で細い道を駆け抜ける。
最後尾だった俺が通過した瞬間、道は閉じた。
「何とか突破できたわね……」
クロエが安堵の息を吐いた。
しかし、前方はさらに異様な光景が広がっていた。
木々は完全に歪み、上空には巨大な緑の渦が見える。
それはまるで天空に開いた穴のようだった。
「あれが……『森の心臓』の力の中心か」
先を急ぐうちに、見慣れた場所に出た。
前回、『聖域』への道を発見した湖だ。
しかし、その姿は大きく変わっていた。
湖の水は緑色に染まり、渦を巻いている。
中央にあるはずの島は見えず、代わりに巨大な緑の柱が湖から天空へと伸びていた。
「これは……想像を超えている」
エリスが驚きの声を上げた。
「『森の心臓』の力が完全に暴走しています」
「どうやって島に行けばいいんだ?」
湖は渦巻き、通常の方法では渡れそうにない。
「シルフィア、『領界の鍵』を使ってみてくれ」
シルフィアはペンダントを取り出し、湖に向けて掲げた。
「領地に続く道よ、目の前に現れよ……!」
ペンダントが輝くが、何も変化はなかった。
「駄目だ……湖の力が強すぎる」
「『究極ツール』と組み合わせてみよう」
俺は腕の装置を彼女に差し出した。
「ペンダントを差し込むんだ」
シルフィアは『領界の鍵』を『究極ツール』の溝に差し込んだ。
ピタリとはまり、装置全体が強く輝き始めた。
「これは……!」
装置から青白い光が放たれ、湖に向かって飛んでいった。
光が湖面に触れると、緑の渦の中から水晶のような道が現れ始めた。
「成功だ!」
まだ不安定ではあるが、道ができた。
一行は急いで水晶の道を進み始めた。
道は揺れ動き、時折ひびが入るが、何とか持ちこたえている。
湖の中央に近づくにつれ、緑の柱の正体が見えてきた。
それは『森の心臓』そのものだった。
今や宝玉は巨大化し、制御を失って力を放出している。
その周りには、かつての島の遺跡が浮かんでいた。
「あれが目標だ」
道の終点は、浮かんだ遺跡の一部だった。
そこにたどり着くと、一行は圧倒的な魔力の波動に押しつぶされそうになる。
「この力……尋常じゃない」
シルフィアが顔をしかめた。
「どうやって安定させる?」
「『究極ツール』を『森の心臓』に直接触れさせる必要があります」
エリスが説明した。
「それによって、『領界の鍵』と『封印の欠片』の力が融合し、暴走を止められるはずです」
「でも、あんな強力な魔力の渦に近づくのは……」
クロエの言葉が途切れた時、突然空間が歪み、一人の人影が現れた。
「やはり来たな、『開く者』よ」
氷のような冷たい声。
それはセラフィナだった。
彼女は負傷しながらも、その姿は依然として威厳に満ちていた。
「セラフィナ!」
シルフィアが剣を抜いた。
「なぜここに……塔は崩壊したはずだ」
「私を甘く見るな」
セラフィナの表情には怒りが見えた。
「『施錠』の力があれば、どこへでも行ける。お前たちが『森の心臓』に向かうことは分かっていた」
彼女は一歩前に出た。
「これ以上は進ません。世界の混沌は、私が止める」
「違う!」
俺は反論した。
「お前の『施錠』こそが世界を歪めている! 自然な流れを止め、全てを固定しようとするから、このような反動が起きるんだ!」
「黙れ!」
セラフィナの怒りが爆発した。
「無知な『開く者』が何を知っている! 混沌を放置すれば、過去の悲劇が繰り返されるだけだ!」
彼女の目に、一瞬だけ悲しみの色が浮かんだ。
何か深い傷を抱えているようだった。
「過去の悲劇……?」
「知る必要はない。今ここで、お前たちの妨害は終わらせる」
セラフィナは両手を広げ、強大な力を集め始めた。
「シルフィア、みんな、セラフィナを引き付けていてくれ! 俺が『森の心臓』に近づく!」
俺の指示に、全員が頷いた。
シルフィアとクロエがセラフィナに向かって突進し、エリスが後方から魔法の援護を始めた。
ミーシャは高速で動き回り、注意を分散させる。
「無駄な抵抗だ!」
セラフィナの『施錠』の力がシルフィアに向かって飛んでいく。
しかし、今回の彼女は前回より弱っているようだ。シルフィアは素早く身をかわし、剣で反撃する。
「トオル、今だ!」
クロエが叫んだ。
俺は『究極ツール』を掲げ、『森の心臓』に向かって走り出した。
緑の渦の強烈な力に抗いながら、一歩ずつ前進する。
「させるか!」
セラフィナが気づき、俺に向かって攻撃を放った。
「トオル!」
シルフィアが身を挺して攻撃を受け止める。
彼女は強烈な衝撃を受け、膝をついた。
「シルフィア!」
「行け……トオル……」
彼女は苦しみながらも、剣で身を支え、立ち上がった。
「私たちが……時間を稼ぐ……!」
その言葉に、勇気をもらった。
俺は再び『森の心臓』に向かって突進した。
渦の力が強くなり、体がどんどん重くなる。
それでも、一歩ずつ前に進む。
ついに『森の心臓』のすぐ近くまで来た。
それは巨大な緑色の宝玉で、内部で無数の光が渦巻いている。
その力は圧倒的で、近づくだけで体が押しつぶされそうになる。
「これが……『森の心臓』……」
『究極ツール』を掲げ、宝玉に向けた。
装置全体が強く輝き、『領界の鍵』と『封印の欠片』が共鳴し始める。
「万物解錠……!」
右手の紋様から強烈な光が放たれ、『究極ツール』を通じて『森の心臓』に向かった。
光が宝玉に触れると、激しい反応が起きた。
緑の渦と青白い光がぶつかり合い、空間そのものが歪む。
「くっ……」
余りの力に、体が後ろに押し戻される。
しかし、ここで諦めるわけにはいかない。
「やれ、トオル!」
シルフィアの声が聞こえた。
彼女は傷つきながらも、セラフィナと戦い続けている。
クロエ、エリス、ミーシャも全力で援護していた。
「みんなのためにも……!」
俺は渾身の力を込めて、『究極ツール』を押し進めた。
ツールが『森の心臓』に触れた瞬間、眩い光が広がった。
宝玉の中の渦が徐々に落ち着き始め、緑色の光が安定していく。
渦は収まり、『森の心臓』は元の大きさに戻りつつあった。
「成功したのか……?」
突然、背後から悲鳴が聞こえた。
振り返ると、シルフィアがセラフィナの攻撃を受け、大きく吹き飛ばされていた。
「シルフィア!」
その瞬間、俺の注意が逸れ、『究極ツール』の制御が一瞬崩れた。
『森の心臓』が再び不安定になり、強烈な力の波動が放出される。
「まずい!」
波動がセラフィナを直撃した。
彼女は悲鳴を上げ、光に包まれた。
光が消えると、彼女の姿はなく、代わりに銀色の粉が降り注いでいた。
「セラフィナが……消えた?」
クロエが驚きの声を上げた。
「いいえ、『施錠』されたのです」
エリスが震える声で言った。
「彼女自身の力が反転して……」
しかし、状況は依然として危機的だった。
『森の心臓』はまだ完全に安定しておらず、渦は小さくなったものの、依然として強い力を放っている。
「シルフィア!」
俺はシルフィアのもとに駆け寄った。
彼女は重傷を負っていたが、意識はあった。
「トオル……『森の心臓』は……?」
「まだ完全には安定していない。もう一度試す」
俺は再び『究極ツール』を『森の心臓』に向けた。
しかし、装置は損傷し、完全な力を出せなくなっていた。
「駄目だ……力が足りない」
「私の力を……使え……」
シルフィアが弱々しく言った。
彼女はペンダントを握りしめている。
「でも、お前の状態では……」
「大丈夫だ……私はヴァレンタイン家の騎士……使命を果たす……」
彼女の決意に満ちた青い瞳に、迷いはなかった。
「分かった……一緒にやろう」
俺はシルフィアを支え、共に『森の心臓』に近づいた。
彼女のペンダントと俺の『究極ツール』を一緒に掲げる。
「万物解錠!」
「領界の力よ、目覚めよ!」
二つの力が融合し、強力な光の柱となって『森の心臓』に向かった。
宝玉は光を吸収し、内部の渦が完全に収まっていく。
緑色の光は穏やかになり、安定した輝きを放ち始めた。
「成功した……?」
周囲の異常な現象が徐々に収まっていく。
浮かんでいた遺跡の破片が元の位置に戻り始め、湖の水も通常の色に戻りつつあった。
「やったぞ、トオル!」
クロエが喜びの声を上げた。
エリスとミーシャも安堵の表情を浮かべている。
しかし、その安堵も束の間だった。
「トオルさん、見て!」
ミーシャが空を指差した。
緑の渦は消えたが、代わりに黒い穴のようなものが現れていた。
「あれは……!」
エリスの表情が変わった。
「『封印』が弱まっています! セラフィナの消失が影響したのでしょう……彼女の『施錠』の力が封印を支えていたのかもしれません」
「どういうことだ?」
「危険です……古代の『混沌の力』が漏れ出す可能性が……」
彼女の言葉が終わらないうちに、黒い穴から何かが降り注ぎ始めた。
それは黒い霧のようなもので、触れたものを腐食させていく。
「撤退するぞ!」
シルフィアを支えながら、俺は全員に退却を命じた。
『森の心臓』は安定したが、新たな危機が生まれたのだ。
「どうすれば……」
クロエが不安そうに黒い霧を見上げた。
「今は一旦撤退だ。状況を整理してから対策を考える」
一行は急いで湖を渡り、森を抜けた。
異変は収まりつつあったが、黒い霧は徐々に広がっている。
この新たな脅威にどう立ち向かうか……それは次なる挑戦だった。




