第4章:銀髪の執行官(1)
アルカニアへの帰路、森の異変は既に始まっていた。
空が緑色に染まり、木々が不自然に揺れ、時折地面が小刻みに震える。
『森の心臓』の力が周囲に漏れ出した影響だろう。
「なんだか変な感じだね……」
ミーシャが不安そうに耳をピクピクと動かしながら呟いた。
小柄なリス系獣人の彼女は、栗色の短い髪と大きなくりくりとした茶色の瞳が特徴的だ。
普段は作業用のサロペットスカートに革のベストという出で立ちで、肩からは素材を入れる小袋をいくつも下げている。
いつもは無邪気に弾けるような明るさの持ち主だが、今は珍しく緊張した面持ちだった。
「森が……苦しんでるような気がする」
「確かに、魔力の流れが乱れています」
エリスが杖を掲げ、周囲の魔力の状態を確認した。
銀髪を三つ編みにし、薄いフレームの眼鏡をかけた彼女は、いつもの紺色のローブを身にまとっている。
その紫色の瞳には、研究者らしい冷静な分析の光が宿っていた。
「セラフィナの儀式が中断されたことで、本来制御されるべき魔力が無秩序に放出されています。このままでは森全体に異変が広がるおそれがあります」
「一刻も早くアルカニアに戻り、対策を考えるべきだな」
シルフィアが断固とした口調で言った。
金髪を後ろでまとめ、青い瞳が凛と輝く彼女は、アストリア王国の騎士らしく常に背筋を伸ばし、白と青を基調とした軽装の騎士服を着ている。
腰には『アストレア』という名の長剣を佩き、その姿からは強い使命感と誇りが感じられた。
「でも、このままじゃ危ないんじゃない?」
クロエが周囲を見回しながら言った。
明るい茶髪にキツネのような耳と尻尾を持つ彼女は、街での情報収集を終えた時のまま。
動きやすい革のベストと短いパンツ姿だ。
肩から下げた小さな袋には、情報屋兼商人としての様々な道具が収められている。
「この森、どんどん不安定になっていくわ。できれば別ルートを探した方が……」
彼女の言葉が終わらないうちに、突然地面が大きく揺れた。
数メートル先の地面が隆起し、割れ始める。
「退け!」
シルフィアの警告に従い、全員が後ろに飛びのいた。
地面から緑色の光を放つ何かが飛び出してきた。
それは石のように固い鎧を持ち、六本の脚と鋭い牙を持つ巨大な虫のような生き物だった。
「これは……地底虫!?」
エリスが驚きの声を上げた。
「通常、ここまで大きくなることはありません。しかも、体から魔力が溢れています……」
地底虫は緑色の粘液を滴らせながら、俺たちに向かって突進してきた。
「みんな、散れ!」
シルフィアの掛け声と同時に、全員が別々の方向に飛び散った。
シルフィアは素早く剣を抜き、虫の側面に一撃を加えたが、その硬い外殻を完全に貫くことはできなかった。
「硬すぎる!」
彼女が歯を食いしばる。
虫は身をよじらせ、巨大な前脚でシルフィアを払いのけようとする。
彼女は咄嗟に身を屈め、攻撃をかわした。
「エリス、奴の弱点は?」
俺が叫ぶと、エリスは素早く分析を始めた。
「関節部分と……腹部の下側が比較的脆いはずです!」
「了解!」
クロエが木に登り、上からナイフを投げる。
ナイフは見事に虫の関節部分に命中したが、深く刺さるには至らなかった。
「うわぁ……硬いわね、これ」
「ミーシャ、後ろに下がっていろ!」
俺はミーシャに指示を出しながら、右手の紋様を確認した。
『万物解錠』の力は、セラフィナとの対決で弱っていたが、少しずつ回復してきていた。
使えるかどうかは微妙だが……。
「やってみるしかない!」
地底虫に近づこうとした瞬間、さらに地面が揺れ、別の場所からも同じような虫が現れた。
一匹、また一匹と、次々に地面から姿を現す。
「こ、これは……」
周りを見渡すと、既に五匹以上の地底虫に囲まれていた。
「逃げるぞ!」
シルフィアが決断した。
今の状態では、全ての虫と戦うのは不可能だ。
みんなは彼女の指示に従い、森の中へと走り出した。
地底虫たちは執拗に追いかけてくる。
「こっちよ!」
ミーシャが先導し、俺たちは密集した木々の間を縫うように走った。
獣人である彼女は森での移動に長けており、地底虫が通れないような狭い場所を選んで進んでいく。
「このまま森を抜けられるかな?」
「ダメよ!」
クロエが叫んだ。
「前方に崖があるわ!」
果たして、木々の向こうには深い崖が広がっていた。
行き止まりだ。
「罠にはまったな……」
シルフィアが剣を構え直す。
地底虫たちが徐々に近づいてきていた。
「打つ手は?」
「……あります」
エリスが一歩前に出て、杖を掲げた。
「強力な魔法を使いますが、反動が大きいです。皆さん、私の後ろに」
彼女の杖が青く輝き始め、魔力が集中していく。
地底虫たちも警戒したのか、少し動きを止めた。
「『凍結の檻』」
エリスの言葉と共に、杖から強烈な青白い光が放たれ、地底虫たちを包み込んだ。
光が収まると、虫たちは厚い氷の層に閉じ込められていた。
「すごい……」
ミーシャが目を丸くして見つめる。
「これで少し時間が稼げます」
エリスは息を切らせながら言った。
かなりの魔力を消費したようで、少し膝が震えている。
「だが、どうやって崖を……」
シルフィアの言葉が終わらないうちに、氷に閉じ込められていた地底虫が動き始めた。
緑色の光を放ちながら、氷のひび割れていく。
「もう効果が切れる!?」
クロエが驚いた声を上げた。
「魔力が強すぎて……」
エリスは苦しそうに説明する。
「通常の魔法では長く抑えられません」
「ここは……俺の出番かな」
右手の紋様を見つめながら、俺は前に進み出た。
まだ完全に回復しているわけではないが、仲間たちを守るためには力を振り絞るしかない。
「何をするつもりだ?」
シルフィアが心配そうに尋ねる。
「崖を調べる。何か隠された道があるかもしれない」
崖の縁に立ち、下を覗き込んだ。
そこには深い霧がかかっており、底は見えなかった。
しかし、右手の紋様がかすかに反応している。
「何かある……」
紋様に意識を集中させると、霧の中に隠された何かが見えてきた。
崖の壁に沿って伸びる細い道。
それは通常なら目には見えないはずのものだ。
「見つけた! ここに隠された道がある」
「え? どこ?」
クロエは怪訝な表情を浮かべた。
「見えないけど、信じてくれ。俺の右手が反応している」
「……分かった」
シルフィアが決断した。
「トオルを信じよう。氷が完全に割れる前に行くぞ」
みんなは頷き、俺の後に続いた。
まず俺が崖を降り始め、見えない道の上に足を置いた。
感触はあるが、目には見えない道。
『万物解錠』の力で隠された道を「開いた」のかもしれない。
「一人ずつ、慎重に」
シルフィアが指示し、次にミーシャが降りてきた。
彼女は身軽に道の上を歩く。
続いてクロエ、エリス、そしてシルフィアと続いた。
背後では地底虫たちが氷を破り、こちらに向かってくる音が聞こえる。
「急ごう!」
隠された道は崖の壁に沿って下へと続いていた。
霧が濃くなるにつれ、視界は悪くなったが、右手の感覚を頼りに進む。
突然、ミーシャが足を滑らせた。
「きゃっ!」
「ミーシャ!」
俺は咄嗟に手を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。
彼女は崖から半分身を乗り出してしまっていたが、なんとか引き戻すことができた。
「あ……ありがとう、トオルさん……」
彼女は震えながら俺にしがみついてきた。
「大丈夫だ。気をつけて」
全員がさらに慎重に歩みを進めた。
どれくらい下ったのだろうか……やがて霧が晴れはじめ、視界が開けてきた。
そこには広い平地があり、その先には……。
「アルカニア!」
クロエが嬉しそうに声を上げた。
確かに、遠くに学究都市の輪郭が見えている。
「ここまで来れば安全よね?」
ミーシャが周囲を確認する。
地底虫の姿はもう見えなかった。
「とりあえず、都市まで急ごう」
シルフィアの言葉に全員が頷いた。
◇
アルカニアに戻った俺たちは、まず宿に向かった。
森での激しい戦いと逃走で、全員が疲労困憊だった。
『賢者の休息』の部屋に戻ると、みんなは一斉にそれぞれのベッドに倒れ込んだ。
「はぁ……生きて戻れて良かったぁ……」
クロエが大げさにため息をつく。
「森の状態はどんどん悪化しているようね」
「急速に異変が広がっています」
エリスが疲れた表情ながらも冷静に分析した。
「『森の心臓』の力が制御されず放出されれば、アルカニア周辺にも影響が及ぶでしょう」
「対策を考えなければ」
シルフィアが真剣な表情で言った。
「だが、その前に……」
彼女はロード・Xの言葉を思い出したように立ち上がった。
「彼の屋敷に行く必要がある。家の名誉を回復するための証拠が、そこにあるはずだ」
「今から行くの?」
クロエが驚いた様子で訊いた。
「みんな疲れてるわよ。少し休んでからでも……」
「いや、すぐに行くべきだ」
シルフィアの表情は決意に満ちていた。
「ロード・Xは自首するつもりだが、彼の手下たちがまだ残っている可能性がある。証拠を隠滅されては困る」
「それもそうね……」
「俺も行こう」
俺は立ち上がった。
シルフィアの懸念は正しい。
それに……。
「『万物解錠』の力が必要になるだろう」
シルフィアは少し驚いたように俺を見た後、小さく頷いた。
「……ありがとう」
「残りのみんなは?」
「私も行くわ!」
すぐさまクロエが手を挙げた。
「情報屋としては見逃せないわ。それに……」
彼女は意味ありげな笑みを浮かべた。
「貴族屋敷には売れる情報がたくさんあるかもしれないしね」
「私も同行します」
エリスも静かに立ち上がった。
「ロード・Xの屋敷には、施錠騎士団に関する資料があるかもしれません。研究者として調査したいのです」
「ミーシャは?」
リス耳の少女は少し戸惑った様子だったが、すぐに決心したように頷いた。
「みんなといっしょに行くよ! ミーシャ、お手伝いするの!」
こうして、五人全員でロード・Xの屋敷に向かうことになった。




