第3章:陰謀の輪郭(1)
霧の谷を抜けて二日目、森の深部へと続く道を進みながら、俺たちは祭りのように美しく咲き誇る青い花の群生地に出くわした。
小さな流れに沿って敷き詰められたその花は、まるで天空の鏡のように鮮やかだった。
「綺麗……」
クロエの茶色い耳がぴくぴくと動き、彼女の瞳には純粋な感動が浮かんでいる。
彼女はすっかり花に魅了されたようで、獣人特有の好奇心からすぐさま花畑の中へと飛び込んだ。
「待て、クロエ!」
シルフィアが警告の声を上げたが、時すでに遅し。
クロエは無邪気に花の中を駆け回り始めていた。
「危険かもしれないだろう! まず調査してからにするべきだ!」
シルフィアの厳しい声には、心配が滲んでいる。
彼女は旅の間中、常に仲間を守るという意識を最優先にしていた。
金色に輝く髪を揺らしながら、彼女は不満げに腕を組む。
その凛とした佇まいには、いつもの騎士としての威厳が漂っていた。
「平気よ、シルフィア。この花は『天空の涙』といって、毒性はありません」
意外にもエリスが静かな口調で言った。
彼女は少し遠くから花を観察しており、眼鏡の奥の紫色の瞳には学術的な興味が浮かんでいる。
「むしろ、浄化作用のある魔力を持つ貴重な花です。研究所でも栽培を試みていましたが、この規模の群生は非常に珍しい」
彼女は研究者らしい冷静な分析眼で周囲を見回していた。
銀色の長い髪を三つ編みにし、紺色のローブを身にまとった姿は、どこか儚げでありながら、知的な魅力に溢れている。
「ふん……それならいいが」
シルフィアは納得したものの、まだ警戒心を解こうとはしない。
「トオル、あなたも未知の環境ではまず安全を確認すべきだと、そう思うだろう?」
彼女が俺に同意を求めてきたので、少し困惑しながら頷いた。
「確かにそうだな。クロエは少し無鉄砲すぎるかもしれない」
「そう言わないでよ、トオルくん!」
花畑の中からクロエの抗議の声が上がった。
彼女は両手に青い花を抱え、花びらが頬に触れる様子は童話の挿絵のようだった。
「こんな素敵な場所を見つけたんだから、少しは褒めてもいいじゃない」
「褒めるも何も、偶然見つかっただけだろう」
シルフィアが呆れたように言った。
「まあまあ、せっかくのきれいな場所だ。少し休憩したらどうだろう?」
俺が仲裁に入ると、シルフィアは一瞬ためらったが、渋々同意した。
確かに、ここ数日の緊張した旅の後には、束の間の休息も必要だろう。
エリスは学術的興味から花を観察しはじめ、クロエは花冠を作り始めた。
シルフィアは相変わらず周囲を警戒しながらも、少しずつ緊張を解いていく様子が見て取れた。
俺は少し離れた岩に腰かけ、右手の紋様を見つめていた。
霧の谷での出来事以来、『万物解錠』の力についてより深く考えるようになっていた。
単なる錠を解くだけではなく、魔力の束縛さえも解き放つこの力は、いったい何のために俺に与えられたのだろうか。
「何を考えているの?」
気づけばクロエが俺の隣に座っていた。
彼女の手には見事な花冠があり、それを俺の頭に載せようとしている。
「べ、別に似合わないだろ……」
「そんなことないわよ! 」
クロエが無理やり花冠を被せてくる。
彼女の無邪気な笑顔に抵抗するのは難しい。
「ねえ、重苦しい顔してたけど、何か悩みでもあるの?」
「ああ、少しな」
思わず本音が漏れた。
クロエには不思議と心を開きやすい雰囲気がある。
「この力のこと。俺がなぜこの世界に来て、この能力を持つことになったのか。そのために何をすべきなのか……」
「そんなに考え込まなくていいのよ」
クロエは柔らかな笑顔を向けた。
「未来はきっと開けるわ。だって、トオルくんは『開く者』なんだから」
彼女の素直な励ましに、思わず笑みがこぼれた。
「そうだな。とりあえず目の前のことから、一歩ずつ進んでいこう」
「そうそう! それでこそトオルくんよ!」
クロエが嬉しそうに獣人の尻尾を揺らす。
そんな二人を、少し離れた場所から見つめる二つの視線があることには気づかなかった。
◇
休息の後、俺たちは再び歩き始めた。
地図によれば、もうすぐ大都市アルカニアに到着するはずだ。
シルフィアの件の調査と、『森の心臓』の謎を解くために、まずは情報収集が必要だった。
「アルカニアは魔術師の都と呼ばれています」
エリスが説明した。
「魔法研究の中心地で、古代文明の研究も盛んです。ロード・Xに関する情報も、きっと見つかるでしょう」
「本当にロード・Xの陰謀を暴けるかな?」
俺が不安を口にすると、シルフィアが断固とした声で答えた。
「必ず見つけてみせる。あの男が私の家に濡れ衣を着せ、『領界の鍵』を奪おうとした証拠を」
彼女の青い瞳には固い決意が宿っていた。
その潔さは時に頑固にも見えるが、それこそが彼女の強さの源なのだろう。
「アルカニアには私の知り合いがいます」
エリスが言った。
「魔術ギルドの長老に紹介状を書いていただければ、王立図書館の特別室にも入れるかもしれません。そこには通常は閲覧できない古文書もあります」
「私も情報屋としてのコネを使うわ」
クロエが自信満々に言った。
「裏社会の情報も侮れないものよ。特に権力者の醜聞なんかは、表には出ないことが多いもの」
「それはありがたい」
シルフィアも素直に感謝の言葉を口にした。
「あなたたちの協力があれば……」
彼女の言葉が途中で途切れた。
前方から、何かが猛スピードで近づいてくる気配がした。
「伏せろ!」
シルフィアの警告と同時に、頭上を何かが掠めていった。
見上げると、それは鋭い爪と牙を持つ翼竜のような生き物だった。
漆黒の鱗に覆われたその姿は、明らかに通常の生物ではない。
「『影竜』!?」
エリスが驚きの声を上げた。
「この地域では見られないはずの生物です!」
影竜は空中で旋回し、再び俺たちに向かって急降下してきた。
シルフィアが瞬時に剣を抜き、その攻撃を受け止める。鋼の衝突音が森に響き渡った。
「気をつけろ! 毒を持っている!」
シルフィアの警告に、全員が散り散りに避ける。
影竜は俺たちの周りを旋回しながら、次の攻撃の機会を窺っているようだった。
「これも魔力の影響を受けているの?」
クロエが緊張した声で尋ねた。
「いいえ、違います」
エリスが杖を構えながら答えた。
「これは誰かに操られています。自然な行動パターンではありません」
操られている?
それは誰かが俺たちを狙っているということか。
「トオル、下がっていろ!」
シルフィアが俺の前に立ちはだかり、再び降りかかる影竜の攻撃を受け止めた。
彼女の剣と竜の爪がぶつかり合い、火花が散る。
シルフィアの動きは見事だったが、相手の力は強大だ。
彼女は少しずつ押されていた。
「協力します!」
エリスが杖を振り上げ、青白い魔法の光を放った。
光は影竜に命中したが、その黒い鱗に吸収されてしまう。
「魔法が効きません!」
「物理攻撃も通じにくい!」
シルフィアが歯を食いしばりながら言った。
彼女は何度も剣を振るうが、竜の鱗はほとんど傷つかない。
「こうなったら……」
クロエが木の上から特殊な粉の入った袋を投げつけた。
粉が竜の目に入り、一瞬動きが止まる。
「今だ!」
シルフィアが剣を構え直し、一気に突進した。
剣は竜の腹部の柔らかい部分を狙っている。
しかし、竜は彼女の動きを予測したかのように、尾を振り回してシルフィアを吹き飛ばした。
「シルフィア!」
俺は思わず叫んだ。
彼女は木に激突し、地面に倒れ込んだ。
すぐに立ち上がろうとしたが、足を痛めたようで顔をしかめている。
「くっ……」
竜は今度は俺を狙ってきた。
その赤い目は明らかに知性を宿しており、単なる獣の行動ではない。
これは誰かの意思だ。
間一髪のところでその爪をかわすが、竜の攻撃は止まらない。
次から次へと襲いかかってくる。
「トオル!」
クロエが別の道具袋を投げてよこした。
中には煙玉らしきものが入っている。
「目をそらすのに使って!」
彼女の指示通り、竜が近づいたところで煙玉を投げつけた。
白い煙が辺りを包み、竜の視界を奪う。
一瞬の隙を突いて、エリスが詠唱を始めた。
「封縛せよ、大地の力……」
彼女の杖から緑色の光が放たれ、地面から蔦が伸び始める。
それは瞬く間に影竜の四肢を絡め取った。
しかし竜は強大な力でそれを引きちぎろうとしている。
時間の問題だ。
俺は右手の紋様を見つめた。
『万物解錠』の力が使えないか。
操られているということは、何かの「鍵」や「束縛」があるはずだ。
竜に近づき、右手を掲げる。
紋様が淡く光り始めた。
「万物解錠」
光が竜を包み込む。
しかし、すぐに分かったことがある。
この竜は先日の狼たちとは違う。
魔力による単純な操作ではなく、何か別の力で縛られている。
もっと強固な「鍵」だ。
「通常の解錠では効かない……!」
竜が蔦を引きちぎり、俺に向かって飛びかかってきた。
「トオル!」
シルフィアが叫び、痛みを押して立ち上がり、竜との間に割って入った。
彼女は咄嗟に防御姿勢を取ったが、竜の力は強大すぎる。
シルフィアはその衝撃で再び吹き飛ばされた。
「シルフィア!」
彼女は地面に倒れ、うめき声を上げている。
彼女の腕から血が滲み出ているのが見えた。
その光景に、胸に熱いものが込み上げてきた。
シルフィアを、仲間たちを守らなければ。
「もう一度……」
俺は再び右手を掲げた。
今度はもっと深く、竜を縛る「鍵」の本質を見極めようとする。
紋様が強く輝き始め、その光は前よりも明るくなった。
竜の周りに赤い糸のような魔力が見える。
それが竜を操っているのだ。
「万物解錠!」
今度の光は眩いほどだった。
竜の体から赤い糸が溶けるように消えていく。
竜は苦しそうに唸り、空中で身もだえした。
そして、何かが竜の体から飛び出した。
小さな赤い結晶だ。
それは空中で粉々に砕け散り、影竜はぐったりと地面に落ちた。
「やった……」
息を切らしながら呟く。
こうした強力な施錠を解くのは、想像以上に体力を消耗する。
膝がガクガクと震えた。
「トオル、大丈夫か?」
シルフィアが心配そうに近づいてきた。
彼女自身も怪我をしているというのに。
「こっちのセリフだ。腕は?」
「これくらい、何でもない」
彼女は強がったが、明らかに痛そうだった。
「エリス、治療魔法を」
エリスはすぐに駆け寄り、シルフィアの腕に魔法をかけ始めた。
青白い光が傷を包み込み、少しずつ出血が止まっていく。
「これは一時的な処置です。きちんと手当てが必要です」
クロエが木から降りてきて、倒れた影竜を覗き込んだ。
「死んでないわね。ただ気絶してるだけ」
エリスが影竜に近づき、赤い結晶の破片を拾い上げた。
「これは……『操竜石』です。古代魔法の品で、竜類を操るためのもの。滅多に見られません」
「誰かが意図的に俺たちを狙ったということか」
「間違いありません」
エリスが真剣な表情で言った。
「しかも、相当な力を持つ者です。こんな希少な魔法品を使えるのは、並の魔術師ではありません」
「ロード・Xか……」
シルフィアが低い声で言った。
「いいえ、彼は魔術の才能がないと聞いています」
エリスが首を振った。
「彼の背後にいる、銀髪の女性かもしれません」
四人は顔を見合わせた。
状況は想像以上に複雑で危険なようだ。
単なる貴族の陰謀ではなく、もっと大きな力が絡んでいるのかもしれない。
「とにかく、早くアルカニアに着いた方がいい」
クロエが地図を広げた。
「あと半日ほどで都市の外周に着くはずよ」
「出発するぞ」
シルフィアが立ち上がった。
彼女は痛みをこらえているようだったが、その姿勢は凛としていた。
「……大丈夫か?」
俺が心配すると、彼女は少し照れたような表情で答えた。
「心配するな。これくらいの怪我で倒れるような軟弱者ではない」
クロエが小さくクスクスと笑い、エリスはため息をついた。
シルフィアはますます頬を赤らめる。
「何だ?」
「何でもないわ」
クロエが茶目っ気たっぷりに答えた。
俺たちは足早に歩き始めた。
影竜の件で改めて危険性を認識し、警戒心を強めながら前進する。
竜を操っていた者の目的は何なのか。
単に俺たちを排除したいのか、それとも『領界の鍵』を狙っているのか。
いずれにせよ、俺たちは既に敵の監視下にあるのかもしれない。
そんな緊張感の中、アルカニアの城壁が遠くに見え始めた時、俺たちは思わぬ出会いを経験することになる。




