プロローグ
まず感じたのは、異様な喉の渇きだった。
「…………ここは?」
自分の声が砂を噛んだように掠れて聞こえる。
目を開けるとそこは見知らぬ森の中。
頭上から木漏れ日が差し込み、周囲には見たこともない植物が生い茂っていた。
俺は結城徹。職業、鍵師。
…………いや、正確には「だった」のか?
最後に記憶しているのは、依頼を受けた古美術品店の保管庫にある、歴史的価値のある特殊な金庫を開けようとしていた時のことだ。
何百年も前の複雑な仕掛けに興奮を覚えながら、指先を通じて語りかけるように少しずつ内部構造を探っていった。
『開かない錠前はない』
それが俺の信条だった。
どんな複雑な錠前も、その構造を理解し、適切な道具と技術があれば必ず開く。
鍵師の仕事は単に扉を開けることじゃない。
時には古い宝箱や忘れられた金庫の中に眠る価値あるものを再び世に出すことでもある。
それが俺の誇りだった。
でも、あの金庫に触れた瞬間、突然の閃光と共に意識が途切れた。
そして気づいたらこの森の中だ。
荒唐無稽な話だが、どうやら俺は異世界に来てしまったらしい。
「まずは水場を探すか」
立ち上がろうとして、足元に何かがあることに気がついた。
鞄だ。しかも見覚えがある。
間違いなく俺の工具ケースだ。
中を確認すると、いつも使っているピッキングツールやテンションレンチが一式入っていた。
「これは……ラッキーかな」
荷物を確認しながら呟いたその時、突然視界の端に何かが光った。
振り向くと、そこには樹齢数百年はあろうかという巨木がそびえ立っていた。
そして、その幹には……錠前がはめ込まれていた。
「なんだこれ……?」
好奇心に突き動かされるように近づいてみる。
まるで木と一体化したような、しかし明らかに人工物の錠前。
素材は見たことのない金属で、表面には独特の文様が刻まれている。
そしてその中心には、鍵穴があった。
職業病とでも言うべきか、鍵穴を見ると無意識に手が動く。
工具ケースから一番基本的なピックとテンションレンチを取り出し、鍵穴に挿入した。
「構造を探って……」
指先から伝わってくる感覚に意識を集中する。
内部機構を頭の中で描き出しながら、少しずつピックを動かす。
すると、予想以上に簡単に内部のピンが持ち上がり始めた。
「おや? こんなに素直なのか」
ちょっとした違和感を覚えながらも作業を続けていると、突然ピックの先から温かいものが流れ込んでくるような感覚を覚えた。
そして、全身に何かが広がっていく。
「なっ……!?」
次の瞬間、鍵穴の中の構造が頭の中に鮮明に浮かび上がった。
まるで透視しているかのように、錠前の内部機構が手に取るように分かる。
ピンの配置、スプリングの強さ、サイドバーの位置……すべてが完璧に把握できた。
そして同時に、この錠前が単なる物理的な機構だけではないことも理解した。
何か別の力、この世界特有の『エネルギー』とでも言うべきものが流れている。
その瞬間、カチリという小さな音と共に錠前が開いた。
「これは……一体……」
錠前の蓋が自然に開き、中から柔らかな光が漏れ出した。
それは徐々に強くなり、やがて俺を包み込む。
光の中で、何かの声が聞こえた気がした。
『万物解錠……その力、認めよう……』
次の瞬間、目の前の巨木が震え、まるで長い眠りから目覚めたかのように幹が割れ、中から清らかな水が湧き出した。
「水……!」
喉の渇きを思い出し、急いで両手ですくって飲む。
驚くほど美味い。
体に活力が戻ってくるのを感じた。
しかし、それよりも驚くべきは、水を飲んだ後に感じた変化だった。
周囲の森が違って見える。
目に見えない何かが感じられるのだ。
そして、ふと右手を見ると、掌に独特の文様が浮かび上がっていた。
さっき見た錠前の紋様に似ている。
「これは……」
試しに近くにあった小さな石の塊に手を伸ばす。
一見ただの岩だが、触れた瞬間にその「内部構造」が頭に浮かび、そこに隠された「仕組み」を理解した。
これは岩ではなく、精巧に作られた小さな石箱だ。
表面の模様をある順序で押すと開く仕掛けになっている。
迷わず、その「解法」通りに押していくと、カチッという小さな音と共に箱が開き、中から小さな結晶のようなものが現れた。
それはわずかに光を放ち、手に取ると温かい。
「俺は……この世界で何かの力を得たのか?」
錠前が見えるところには、必ず『開ける方法』が分かるようになった。
そう確信した瞬間だった。
ザザザッという物音と悲鳴が聞こえてきた。
直感的にその方向へ走り出す。
木々の間を駆け抜け、小さな空き地に出ると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
長い金髪を後ろで束ねた、青い目の少女が一人、木に追い詰められている。
彼女は白と青を基調とした、どこか軍服を思わせる整った服装をしている。
腰には剣を帯びているが、どうやら抜くことができない状況のようだ。
そして、彼女を取り囲むのは三人の男たち。
粗末な革鎧を身にまとい、それぞれ刀剣や斧といった武器を手にしている。
見るからに山賊か盗賊のような連中だ。
「おい嬢ちゃん、大人しく『領域の鍵』を渡しな。そうすれば命だけは助けてやるぜ」
一人の男が笑いながら近づいていく。
少女は毅然とした態度を崩さないが、青白い顔が恐怖を隠しきれていないことを物語っている。
「我が家の『領界の鍵』を汚れた手で触れることは許さない。騎士の誓いにかけて……!」
少女の声は震えていたが、覚悟は決まっているようだった。
しかし、三対一では勝ち目はない。
その時、少女の首元に掛かった青い鉱石のようなペンダントが目に入った。
そして、驚くべきことに俺にはそれが「鍵」であることが分かった。
そして、それが今「封印」されていることも。
「誰かが『施錠』したのか……?」
思わず呟いた声が男たちの耳に入ったらしい。
全員が俺の方を向いた。
「おっと、野次馬かよ。余計なもん見ちまったな」
笑いながら、一人の男が俺に向かって斧を振りかざした。
恐怖で足がすくむ。
が、同時に、何かを試したくなった。
右手をペンダントの方に向け、意識を集中する。
そこに『錠』があることは分かっている。
なら、それを『解錠』できるはずだ。
「開け」
小さく呟いた瞬間、掌の紋様が光を放ち、少女のペンダントが強く輝き始めた。
「な、なんだ!?」
男たちが驚いて後ずさる。
少女も目を見開いている。
「『領界の鍵』が……反応している……?」
彼女は驚きながらも、迷わずペンダントを掴み、高く掲げた。
すると、ペンダントからまばゆい光が放たれ、周囲の空気が一瞬揺らめいた。
「まずい! 『領域の鍵』が解放された! 撤退だ!」
男たちは慌てて森の中へ逃げ込んでいった。
場に残されたのは、俺と金髪の少女だけ。
彼女は警戒の目を緩めず、剣に手をかけたまま俺を見つめていた。
「何者だ……?」
その凛とした瞳に見つめられ、俺は異世界での最初の出会いを迎えることになったのだった。
「俺は……鍵師だ」
その答えが、この世界での俺の物語の始まりだった。