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恋愛小説オタクとの恋愛会議①

 東京の冬の午後3時。外はどんよりと雲が垂れこめ、

道路の先にそびえるビル群が白っぽくかすんで見える。

放課後の教室には、暖房の温もりが漂いながらも、どこか落ち着かない雰囲気があった。

 そんな中、窓際の席で哲学書を開いているのは高校2年生の絵里えり。読みかけのページに挟んだしおりをめくる指先が、どこか所在なげだ。

教壇の横では生徒会のメンバーが行事の打ち合わせをしているが、

絵里の耳にはその声はほとんど届いていないように見える。


 ――なぜわたしはこんな難しそうな本を読んでいるのか、自分でも少し不思議に思う。


もちろん、昔から本を読むことは嫌いじゃない。

けれど、ここ最近は特に「恋愛」や「人間の本質」について答えを探すように哲学書を手に取るようになった。きっかけは、親友の莉奈りなから聞いた恋愛の愚痴だった。


――先週、親友の莉奈りなは意気込んで計画していた週末のデートを、彼氏(大河)に急にドタキャンされてしまったらしい。


ディズニーランドに行って高校生なのに夕食のレストランまで予約して「完璧!」と張り切っていた分、

落胆は大きかったようだ。

涙ながらに


「大河の気持ちがわからない」「結局、わたしばっかり好きになってる気がする」


と打ち明けてきた莉奈の姿は、いつもの明るく元気な彼女とはまるで別人だった。


 絵里えりは最初こそ「大丈夫だよ、きっと事情があったんだって」と慰めながら彼氏の行動を好意的に解釈しようとした。だが、莉奈の話を聞けば聞くほど――


「大河が急なバイトのシフトを入れられたって言い訳をするんだけど、本当なのかどうかも自信がない」


「もし本当なら仕方ないかもって思うんだけど、わたしだけが彼を優先してるようでバランスがおかしいんじゃないかって……」


 そんな莉奈の言葉を受け止めながら、

絵里の頭の中には一つの大きな問いが生まれた。


「好きでいるはずなのに、どうして相手を疑ったり不安になったりするんだろう?」


 もし心から相手の幸せを願っているのなら、


「仕事やバイトが忙しいなら仕方ない、頑張って」

と素直に応援できるはずじゃないのか。


なのに、人は自分の思い通りに相手が動かないと途端にイライラしたり、

勝手に裏切られたように感じたりもする。

自分の幸せを相手に委ねているのに、

同時にその相手をどうにかコントロールしたくなるのはどうしてなのか――。


 その深い矛盾を意識すればするほど、恋愛というものがわからなくなる。

友達を支えたい気持ちが強い分、


「恋をするってそんなに不安定なことなの?」


と絵里は自分自身のことのように混乱し始めていたのだ。



 そんな彼女の背後から、ひょっこり声がかかる。


「絵里、また難しそうな本読んでるね。……なんだか元気なさそうだけど?」


 振り返ると、そこに立っていたのはクラスメイトのいつきだった。

小柄で細身、普段はあまり目立たないが、文芸部では“恋愛文学オタク”としてちょっと有名な存在だ。

海外の恋愛小説から日本の古典まで幅広く読み漁っているらしいけれど、

そのわりには樹自身が誰かと付き合っている話を聞いたことはない。


「まあ、ちょっと考えすぎて頭がパンク気味。……

友達に恋愛の愚痴を相談されてから、色々考えてるうちに訳が分からなくなってきて」


 絵里は哲学書を閉じ、表紙をそっと撫でる。

そこには有名な哲学者の名前が刻まれていた。

樹は隣の席に腰を下ろすと、鞄からしわの寄った小説を取り出す。

表紙を見るに、古典的な海外恋愛小説のようだ。


「恋愛って、良い面と悪い面が同時にあるからややこしいよね。

ここでもよく言われるんだけど、


『恋愛感情って二つのことが同時に成立する』


って話があるんだ。


『相手のために尽くしたい』って気持ちと『自分自身も満たされたい』って欲求が、同時に走る。


これが矛盾のようで、でも人を惹きつける不思議さでもあるんだよ」


 それはあくまでも樹が本を通して得た知識なのだろうけれど、熱量だけは本物のようだ。


「わたしも、莉奈の話を聞いてて思ったんだ。

好きだから苦しくなるってどういうことなんだろうって。

友達の愚痴を聞いたはずなのに、いつのまにかわたし自身の問題みたいに考えちゃってさ」


 絵里は苦笑いを浮かべると、今度は開いていた哲学書のページを指差した。


『人間は自分を愛するがゆえに、他者に向き合う』


「最初に見た時は“何それ、ただの自己中ってこと?”って思ったの。

でも読み進めていくと、


“自分にある程度の肯定感がないと、そもそも他者を愛することすら難しい”って解釈もあるみたいで。


自分の存在価値を確かめたいからこそ、人を好きになる……。

莉奈の彼氏も、莉奈自身も、もしかしたらそういう基盤が揺らいでるのかなぁって」


 その言葉に、樹はうんうんと頷く。


「そうなんだよ。恋愛って、自分を相対化するための手段とも言えるかもね。

……ま、僕は実際に付き合ったことがないから、偉そうには言えないんだけどさ。

それでも、本を読んでると“恋愛という矛盾を含んだ営みが、

いかに人を揺さぶるか”っていうのがすごく伝わってくるんだ」


 周囲を見渡すと、生徒会メンバーがちらほら集まりはじめ、

プリントを配る音や打ち合わせの声が耳に入ってくる。

その雑多な空気に混ざりながらも、

絵里の頭にはまだ“恋愛の矛盾”というテーマがぐるぐると渦巻いている。


「うーん、少し整理できたようで、でもまだモヤモヤしてる。

でもこれって、答えのないものだからこそ考えてしまうんだろうな。

哲学書を読んだり、恋愛小説を読んだり……

“やっぱり難しいな”って思いつつ、どこかで答えを探したくなるんだよね」


 そう言いながら、絵里は小さく息をついた。

友達の恋愛話を聞いたのが発端だったが、

いつしか自分自身のアイデンティティや価値観まで揺らされている気がする。

けれど、樹の言葉のおかげで


「矛盾があるからこそ、いろんな感情が生まれる」という視点を得られたのは大きい。


「たぶん、わたしは“割り切りたくない”んだろうな。


苦しいなら苦しいで、その理由をもう少し知りたいっていうか。……

あ、でもちょっとだけ、気が楽になったかも。

うまく言えないけど、“そういうものなんだ”って思えただけでも、頭の中が少し落ち着くね」


 考えれば考えるほど、恋愛や人間関係は複雑だ。

矛盾が解決されるどころか、新たな疑問が湧いてくる。

それでも、その問いを抱え続けることが、自分や他者を知るための一つの道になるのかもしれない。

そう思うと、絵里は少しだけ肩の力を抜くことができた。


 やがて、生徒会長の呼ぶ声が教室の前から響いてきた。次の行事に向けた準備を手伝ってほしいらしい。


「会長が呼んでるから手伝いに行くね。……樹も行く?」


「うん、手伝いが終わったら図書室に寄ろうかな。

よかったら、僕のお気に入りの恋愛小説、今度紹介するよ。

恋愛も哲学も“答えがなさそうであるような世界”って意味では、似てるところが多いと思うんだよね」


 樹は微笑みながらカバンの中からぐしゃぐしゃのプリントを取り出し、

教室の前へ歩き出す。絵里も立ち上がり、一度だけ外の灰色の空を眺めた。


――友達の悩みを聞いたはずが、いつのまにか自分自身の中の問いに変わっていた。

でもその問いが「正体のない不安」を少しだけ明るくするのかもしれない。

もやもやしながらも前に進む自分を、否定する必要はないのだろう。


 小さな変化ではあるけれど、先ほどまで重く感じていた冬の空が、なぜか今は少しだけ軽やかに見える。哲学書を抱きかかえて、絵里は“次の何か”へ踏み出すために歩き出した。

曖昧な矛盾を抱えながら、それでも人を好きになったり、誰かのために涙を流したりする


――そんな日常がほんの少しだけ愛おしく思えてきそうだったから。

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