62 均衡の問題(ナポレオンパイ)
パティスリーボードの上で、パイシートを測る。
何しろ、ナポレオンパイである。
パイとカスタードクリーム&いちごを三層に積み重ね、そのトップに丸ごといちごがドーンと乗る。
絶対うまい。
その名の通り、立派に三角のいちごを乗せたい。
それには、おそらく均衡が要であろう。
端もしっかり直角にすれば、美しい三層タワーになるはずだ。
かくして、パイの大きさをきっちり揃えたい。
パイシートを200度のオーブンで10分焼いて取り出す。
ふわふわと縦方向に膨らんでいるパイを、天板で一気にぐしゃっ!と潰す。
心が痛む。
パイシートを作っている会社の人に、大変申し訳ない。
サクサクでふわふわのパイシートにするために、日夜努力を重ねていらっしゃるに違いない。
けれど、潰さねばならぬ。
潰さねば、水平が崩れてしまう。
狙うはパーフェクト!
美しい三層のナポレオンパイのためには、心を鬼にするしかない。
再びパイシートを200度で8分焼き、焼き色が付いたところに、粉糖をふる。
最後に180度で8分焼く。
――と、表面がカリカリのキャラメル状になったパイのできあがり!
ふふふふふ。
甘くて苦い香りが漂う。
眼鏡が光る。
既に準備はできている。
手が温かく、心が冷たい人間なために、パイシートを折ることはできないが、カスタードクリームを作ることはできる。
卵黄3個に、小麦粉、牛乳、砂糖を雪平鍋に入れて、泡立て器でぐるぐるやればよい。
そこに俺はラム酒を仕込む。
バニラ風味もいいんだけれど、やはりそこは酒飲み。
ラムのこっくりと甘いクリームと、いちごの酸味を期待してしまう。
ホイップした生クリームも、スライスしたいちごも用意できている。
あとは積むだけ。
理屈の上では。
皿を出す。
ナポレオンパイが映えるように、黒い角皿にした。
中央に、パイを一枚。
正方形の角皿に、長方形のパイが乗って、とってもエレガント!
キャラメル色のパイの上に、薄卵色のカスタードをのせる。
とろりとろりと、垂れるパイから、ラムがふわっと立ち上る。
いちごを並べる。
断面が濡れて、赤が艶っぽい。
――いい。セ・ビアン!
知っているフランス語を駆使しながら、さらにカスタードクリームを乗せる。
二回目のカスタードは、接着のためだ。
盛るな。
はみ出したら負けだ。情けない。
パイをもう一枚。
カスタードクリーム、いちごと繰り返し、パイシートを重ねる。
うん?
妙に、パイが傾いているような……。
嫌な予感に、腰を落とす。
横からナポレオンパイを見てみる。
う~ん。
二段目がスライドしてやがる。
ここで打つ手は、何だろうか。
心の中で、ホイッスルを鳴らす。
ピピー! 整列!
豪快に、手で直角にパイをぐいっと戻す。
ダレてる場合じゃない! 並べぇ!
指揮官の気合虚しく、手を離せば、だる~んと元の位置に戻った。
水分をまとったいちごが、よりはみ出る。
ぐぅっ!
で、あれば……。
冷やしてやんよ!
冷やせば、クリームが固くなる。
固くなったクリームなら、手で強引に整列できるはずだ。
理屈の上では。
角皿ごと、ロシアのごとき冷蔵庫へそっと滑り込ませる。
音さえ出ないようにドアを閉める。
まるで爆弾処理班である。
十五分後。
冷蔵庫から取り出したナポレオンパイを、強引に直角タワーに戻す。
ナポレオンパイは、また斜めった。
「……なんでだよ」
ナポレオンは、極寒ロシアへ攻めるとき、兵に鼻水を袖口で拭かせぬようにボタンをつけたという。
俺は――。
肩の力を抜く。
もうわかっている。
このまま積み重ねれば、大惨事が起こる。
でも、こうなるって、わかっててやっている。
そうだろ?
やらねばならぬときがあるとしたら、それは――。
今だ!!
トップにまるごといちごを乗せ、ホイップクリームを飾る。
机へ運んで、写真をパチり。
画面には、斜めっているナポレオンパイ。
一段目からいちごがごろごろ飛び出し、カスタードクリームも垂れている。
焦って絞った生クリームも落下。
ナポレオン帝国が崩壊したように、パイも崩壊した。
完璧を目指すとこうなるよねぇ――。
あれやこれやそれやを思い出し、溜息が出る。
でも、いいよね。
これ、パイだし。
いれたての紅茶を一口飲む。
眼鏡が曇る。
フォークで崩れたナポレオンパイをすくう。
サクサクでふわふわのパイに、ラムの甘い匂い。
いちごの酸味と果汁が、口中に広がる。
うまいからよし!




