60 紅い物こと始め(アップルリング)
冷蔵庫が満杯になる幸せよ。
年末に買い込み、もう入りきらないほど詰め込むと、あぁ、新しい年を無事に迎えられそうだなと一安心する。
幼少期、盆暮れ正月はどのお店も休みだった。あの時の名残りが、今も潜在意識で働いている。
年中無休が当たり前になり、休みの日に休めない人々が増え、その人のために、また違う店が開く。最近は働き方改革で、この悪循環が少しずつ変わっている。
素晴らしい。
みんなで休めば怖くない。
さりとて……。
冷蔵庫の前で、腕組みする。
「入らないね」
生ものは冷蔵庫に入れ、入らなかった物といえば、ビールに炭酸、出汁に煮つけ、栗きんとん、焼き豚に、りんごのコンポートが6瓶。
「去年はどうしたっけな」
こんなことが起こるのは年イチで、去年のことなぞ、忘れている。
台所に出しっぱなしにしたような……。
幸い、居室と台所に分かれている。それにしても、このりんごの量よなぁ。
毎年、秋になって、スーパーに紅玉が並ぶと、カゴいっぱいにりんごを買い込む。そして、コンポートを作る。するてっと、一年かけてりんごが楽しめる。
瓶の一つを手に取る。
眼鏡が光る。
今日は、これで遊ぼうじゃない。
年末年始である。
今日も明日も休みである。
時間と手間がかかるやつ。
休みをAからZまで楽しめるやつ。
最初はAで、アップルリングに決まりである。
秤で、強力粉やら砂糖やらの粉ものを測り、パティスリーボードに輪になるように乗せる。真ん中に、とき卵、水の液体を入れる。
指二本で、周りの粉ものを崩しながら混ぜていく。
もう、この瞬間から楽しい。
粘土やお砂場遊びのようで、それでいて、気分だけは一丁前にイタリアのママンだ。私は家族の食事を、全て作っています。そんな誇らしい気持ちになれる。
ここで、水分量を間違っていると、指の間にべとべとの小麦粉が張り付いて、なんとも情けない気分になるが、もうそうなることも減った。ひとまとめになったら、今度はバターを入れて折り畳み、べちーん!と机に叩きつける。びよ~んと生地が伸びれば、パン生地がうまいこと練れている証拠。これも、スライムで遊んだのと同じ要領で、投げてはひとまとめにしていく。汗ばんできたら、大きな玉にして、オーブンレンジで発酵させる。40度で2時間。低めにしているのは、昼寝がしたいから。
お昼寝から目覚めたら、2倍ほどの大きさに膨らんだパン生地をやさしくこねる。
プスンプスンと、二酸化炭素が抜けていくのも楽しい。
平らに伸ばしたら、りんごのコンポートをまんべんなくのせて、巻く。これも気楽なものだ。ロールケーキに比べたら、巻き感やら割れやらを気にせずに巻ける。
巻けたら、8等分に切るだけ。
裁縫セットから、木綿糸を出してきて、意味もなく端を口にくわえる。30cmほどのばしたら、ピーンとはじくのがお約束である。言わずもがな、三味線の糸のつもりで、心はイタリアのママンから、必殺仕事人に変わっている。
眉をしかめ、パン生地に糸を絡める。ここって位置が決まれば、糸をクロスさせて、生地を切る。
これが包丁よりも何よりも綺麗に切れるのだからおもしろい。
8等分した生地は、断面が上になるように輪に並べ、またオーブンレンジで発酵させる。眠たいので、35度で1時間半。
ロングバケーション中のパン作りだ。心にも時間にも余裕がある。指定の温度、指定の時間なんてものはない。全て、俺の御心次第ってわけ。
ビールを片手に、デイリーをやっつけ。新しいガチャのSNSを眺める内に、うとうとする。
寒くて目が覚めた。
部屋の中は、真っ暗だ。何をしていたのかも定かではない。
トイレに立ち上がり、台所の寒さに震える。
ホットラテでも作ろうと、レンジを開ける――。
「んなぁぁ!?」
とっても発酵したアップルリングがあった。
やってもうたである。
大丈夫。案ずることなかれ。
後は焼くだけなのだから!
180度で20分。
その間に、風呂にでも入ればよろしい。
風呂から出れば、部屋中に甘いりんごとパンの香りが満ちている。
幸せである。
オーブンを開ける。
ふわふわでほわほわの環っかのパンが焼けている。
いいねぇいいねぇ。
ホットラテを淹れて、一口いただく。
眼鏡が曇る。
しっかり甘いのに、酸味も効いてる。
ほわほわしてて、温かい。
そいつを、引き立ての苦くて、まろやかなホットラテでリセットする。
ん~、こういう一年でいたいね。




