6 連鎖する匂い(鰆の西京焼き)
もう豚肉はいい。
仕事から逃避行するように作った1kg400gもの焼き豚から解放されたところだ。
美味しかった。
美味しかったが、やりすぎた。
肉ではない物を身体が欲している。
例えば、焼き魚とか……。
一人暮らしをしてからずっと、焼き魚に飢えている。
それまで、焼き魚にありがたみを感じたことはなかった。
魚は肉より高い。
そして、日持ちしない。
おまけに、魚臭さが抜けない。
高機能オーブンに、焼き魚機能はついている。
しかし、三つの苦と比べてしまう。
魚を食べますか?
高い思いをして、魚を買う。
その日の内に食べられるとは限らない。鮮度の落ちる魚は匂う。
次の日とて魚を食べられる余裕があるとは限らない。
こうして、どんどん肉料理に慣れていったなれの果てが今の俺だ。
スーパーやコンビニでできた魚を食べる気にはなれない程度には、魚料理に親しみのある地方で育っている。
何もかもが、俺を魚から遠ざけている。
世の中には、焼き魚用調理家電なるものがあるらしい。
何度も調べたから知っている。
両面焼き機能、タイマー機能、脱臭機能、一度に焼ける数、燻製までできるタイプ。
価格もお手軽価格から高額商品と様々だ。
そこまで調べて買わないのは、調理家電をこれ以上増やしたくないから。
ひとまず魚のことは忘れて、持ち帰り仕事に集中する。
が!
それなのに!
「んぁぁぁ!!」
近所から焼き魚の香りが漂ってきた。
俺の近所には匂いで飯テロするやつがいる。
匂いというのはやっかいだ。
カレーなんぞ匂った日は、連鎖するといわれている。
なぜ見知らぬ誰かは、俺の胃をピンポイントで刺激してくるのか?
負けぬ! 負けぬ!!
パチパチパチ! ターン!
部屋にキーボードの音が響く。
出社したら、魚。
出社したら、社食に出なくとも魚。
モチベーション維持のため、妙な目標が立ち始める。
端的にいうと、イライラしている。
なぜ、俺はゴールデンウイークに、持ち帰り仕事なぞしているのか。
既に今月の残業時間は六十時間を超えている。
勤務時間管理画面に真っ赤な警告が幾度も入るせいで、直属の上司から「早よ帰れ」の睨みが効かされているせいだ。
「これ以上、会社で仕事されると困るのは、中谷さんだけじゃないわけ」
だからと言って、仕事量が減るわけではない。
であれば、会社以外で仕事をせねばならぬわけだ。
顔がひくつく。
今の旬の魚は何だろうか?
地元だと、当たり前のように食べられた新鮮な魚は、東京ではそうはいかない。
あれもダメ。
これもダメ。
なら、何ならいいわけ?
もういいや!
俺の部屋が俺の食べたいもので匂って誰が困るか?
ぐぐれば、焼き魚の匂いを消す知恵くらいあるだろう。
まずは、決行するのみ!
水蒸気オーブンを開く。
眼鏡が曇る。
中から出てきたのは、鰆の西京焼き。
西京味噌が焼けるかぐわしい香りがたまらない。
近所のスーパーでは、味付きの魚の切り身はいつもならパック売りしている。
複数枚入っているパック売りは、独り暮らしの俺には手が出せない。
自分で味をつけようにも、そもそも一切れのために西京味噌を買うわけにもいかない。
しかし、今日という今日はパックを買った。
お盆に今日のメニューを丁寧に全部乗せる。
春キャベツと大根のサラダ、あとは味噌汁に炊き立てご飯。
そして、そこに鰆の西京焼きが、四切れ!
ドドーン!
本来なら、一人一切れ。
そこを四切れ。
豪華!
とっても豪華!!
いつものように撮影してSNSに投稿する。
夢にまでみた久しぶりの焼き魚に、喉が鳴る。
鰆は食べなれている。
地元では刺身で出されるほどで、馴染みのある魚だ。
焦るあまりに、先に味噌汁に手を出す。
いつもの味噌汁なのに、喉が鳴った。
恥ずかしい。
箸で切れば、あっさり身が離れた。
含む前から、涎がたまる。
西京味噌の甘く濃厚な味わいに、鰆の味が負けていない。
はぐはぐっ!
飢えたように、むさぼり。白米もかっこむ。
焼けた皮も、香ばしく、味噌に白米が進む。
なんといっても、この濃さがいい。
焼き魚特有の香ばしい香りもいい。
誰だ? 魚が匂うから料理したくなって言ったの。
四切れと、明らかに家族用の量を一人で平らげ、ちと罪悪感が沸いた。
しかし、身体の中から浄化されたような思いだ。
眼鏡を外して、目がしらを押さえる。
眼精疲労が取れる気がする。
食べたい物を食べる。
やはりこれに限る。
スマホを起動すると、通知が入っていた。
常連さんから来る通知には、一切イラつかないのは不思議だ。
「なにこの奥さんがいるような献立?」
「独身じゃなかった?」
「中谷! 俺と結婚しよう!」
なかなかにモテる。
俺の魅力ではなく、焼き魚の魅力である。