43 かいこう一番(パエリア)
「ううぅ。なんで6月には祝日がないんですかね」
前の席に座る後輩が、今日幾度目かの愚痴を吐き始めた。大きなため息がそれを迎える。
「あるじゃん」
「ないっすよ」
「あるわ。6月2日は開港記念日だっていってるだろ」
横浜市民限定で、6月には祝日がある。横浜開港記念日だ。
「休みなの市立学校だけでしょ? 僕には関係ないですよね」
朝から何度も繰り返された会話に、またしても心の底から激しく同意する。
開港記念日と銘打っておきながら、恩恵にあずかれるのは誰なのだろう。市立学校の子どもたちは休みになるが、企業は休みではない。なのに、みなとみらいでは土日と合わせてイベントが開かれ、さらに夜には3000発の花火が打ち上げられる。夏の走りであるイベントに、近郊から浴衣を着た若者が集まって賑わう。
だが、それは俺には関係がない。
別世界の話である。
ゴールデンウイークから7月後半まで祝日のない大人には、これが大打撃である。
休みたい心と体に鞭を打って働いているというのに、街は賑わい、電車は混雑し、花火の音は不可避。
せめてオフィスから花火だけでも見たいのだが、大都会横浜では高層ビルが夜空を遮る。見ることすら叶わず、音だけが心の諸行無常の鐘を打つ。これが例年の開港記念日だ。
なんで仕事してるんやろか。
お子さんがいる同僚は、休んだり、定時で上がっている。それを支えるのが、華の独身者であるのだが、――。耐えられない日もある。
よそにないオンリーワンな祭り、それが開港祭。
それを恨みがましく傍観し、果たして、それで真の横浜市民と言えるだろうか?
言えないじゃん?
「帰るわ」
「えー!」
絶叫を振り払って、会社を後にする。
いつもの開港記念日なら、帰りに同僚とビールでも飲むのだが、今日は余裕がない。
許せ。
生まれ育ったのが瀬戸内であろうと、横浜市に納税して幾数年。そろそろ横浜シティっ子を発揮してもいいじゃん。語尾に「じゃん」をつけられるようになったのだから、開港記念日を祝すべきである。
とはいえ、花火が見える場所を探すわけではない。俺が欲しいのは食べたいもんが作れる時間的、体力的余裕であって、花火ではないのだ。
最寄り駅で浴衣を着た若者とすれ違い、いつものスーパーに寄る。
何ぞ、お祭りにふさわしいもんないかな。
決めているのは、酒に合う食べ物ってだけ。
こんな日は酔うに限る。軽く一杯程度なら、いいだろう。
野菜コーナーに、青梅が行儀よく並んでいて、にやけてしまう。
そうか、もう梅雨の時期なわけだ。
春と夏を分けるような、そんな何かを求めて、鮮魚コーナーまで来た。
ホタルイカが安いとかけまして、――。
頭つきのエビも安いと続きます。
その心は?
回れ右して、野菜コーナーに戻ると、お目当て真っ赤なパプリカがあった。
整いました!
ホタルイカと有頭エビが安いとかけまして、パプリカとときます。
その心は、パエリアです。
開港記念日にはちょうどいい。
謎かけでも何でもないセリフが頭で飛び交うくらいには、はしゃいでしまう。
パエリアいいよね。
海鮮ブイヤベースにサフランの香り、具をたっぷり乗せて食べ応えがあるのもいい。昼休みに外に出てスペイン料理の店に行ってみたい気もするが、パエリアは時間がかかるから、なかなかチャレンジする気になれない。そう、パエリアは特別な食べ物だ。
電熱プレートを引っ張り出し、玉ねぎとパプリカをみじん切りにする。鶏肉は一口大に切り、エビは殻を剥いて、ワタを取る。このとき、頭は捨ててはいけない。パエリアは、ありていに言えば、炊き込みご飯だ。要するに、出汁の味がうまさの秘訣。その出汁ことブイヤベースにはエビの頭が不可欠だ。
玉ねぎを透明になるまで炒めたら、ちょうど花火の音が聞こえてきた。
「んじゃ、俺もいただこう」
スポンとコルクを抜いて、スパークリングワインを一口飲む。
シュワシュワした口当たりに、さわやかな果実味。
花火の音が響く。
いいね。これぞ大人の余裕ってやつだ。
鶏肉、エビの身と頭、ホタルイカにアサリを入れて、ぐつぐつと煮る。途中でトマトペーストを入れて、赤ワインで臭みを取るのも忘れない。
ブイヤベースができたら、サフランと一緒に計量して電熱プレートで白米と一緒に炊き始める。
「アレクサ、7分タイマー」
煮え立つ鍋を見ながら、さらにスパークリングワインを一口。
魚介類には赤ワインというのが定番だが、今日は爽やかに白が飲みたかった。開港記念祭に花火を見ずに帰り、一人で料理する。楽しみ方は人それぞれだ。
アラームが鳴り、グラスに残ったのをぐいっと煽る。ブイヤベースを取った残りの具を泡が立つ米の上に丁寧にかぶせていく。
「アレクサ、15分タイマー」
ふふ、しょせん俺の喋り相手はアレクサかジェミニだ。煮え立つパエリアを前に、眼鏡が曇る。
部屋に満ちる海鮮ブイヤベースとサフランの香り。ピチピチと米が炊ける音。外では騒がしく花火が上げられる中、スパークリングワインをいただく。何とも優雅な時間だ。
「わっが日の本は島国よ~♪」
横浜市民なら、全員が歌えるという横浜市歌。俺だって歌えますけど?
今日は開港記念日である。ちょっとくらい大きな声で歌ってもいいはずだ。
「朝日ただよう~」
ピンポーン
静寂が訪れる。インターフォンを覗く。
「来ちゃった~ん」
酒を片手に同僚の姿を認めたとき、アレクサが鳴った。