37 腰曲がるまで健康で(海老天そば)
皆さんのご家庭では、年越しそばはいつ食べるだろうか。除夜の鐘を聞きながらのまさに年を越そうとせん瞬間を狙う家庭、太く長く生きることからうどんを食べる家庭、いろいろあることだろう。俺の実家じゃ、大晦日の夕飯が年越しそばである。
「そろそろ揚げるか」
いそいそと台所に立つ。お歳暮の礼として、車海老を十二尾買ってきた。こいつをメインに天ぷらを作りたい。
普段、揚げ物はしない。使った油の処理に困るし、油の量が多すぎる。台所も汚れる。
だが、年末の実家なら話は別だ。大人四人分の天ぷらを揚げれば、些末な問題である。
「ふぅむ。ちっとも温度が上がらん」
天ぷらは油の温度がうまさの秘訣だとは知っている。
だが、知ってはいても、作り慣れていないとコツはつかめない。
菜箸で、衣を入れるが、ジュワっと上がってこない。
ここで火力を上げれば、想像以上に温度が上がりすぎてレアになるのも困りものだ。
なにせ、俺が買った車海老はたいへん立派だ。
ちっとおふくろさんを呼びたい気になり、やはりやめておいた。
発泡スチロールの箱を抱えて意気揚々と帰ったとき、おどろくおふくろに「今日は、俺が年越しそばを作るから、まぁゆっくりしときなよ」と大口を叩いてしまった。
もし、ここで、呼ぼうものなら、下処理した具材を見ては、あぁだこうだとこだわりを発揮されてしまう。
いらつくのは必至で、俺がしたいのは親孝行だ。
「まぁまぁ、最初は手慣らしだから」
おくらと玉ねぎを油へ投入!
期待したほどの音が上がらずに、眉根に皺が寄る。
からっとジューシーに仕上げたいのに、これはいかん。
次は薄く切った鳴門金時。
これは思ったような音が上がった。イカに小麦粉を叩きながら、手早くひっくり返していく。
「なるほど、この火力を維持ね」
入れる具材の量、もともとの温度によって火力を微調整せねばならぬのは理解できる。
だからこそ、微調整したい。
小麦粉で細工したイカに衣をつけて、油へ投入。
予想以上の音が立ってたじろいだ。
「あかん。このままじゃレアになっちまう」
急いで火力を落とすが、どうもうまくいかない。
使い慣れぬ実家の台所。火力ひとつとっても勝手が違う。
くそぉ、なかなかうまくいかないな。
次が大本命の車海老だ。
皮を剥いて、ワタを取り、しっぽの三角に切れ目を入れて油跳ねを防止。
酒で洗って、小麦粉をはたいてある。
下処理と言っても手間がかかっている。
お値段だってお高いのよ!
失敗するわけにはいかぬ。
自分でハードルを高めているが、揚げ油の温度だけが問題ではない。
今宵は大晦日。
平行して蕎麦を茹で、つゆも温めねばならない。
熱々の蕎麦に、揚げたての天ぷらをオンしたい。
実家のガスコンロは三口だ。
一つは今、イカが揚げられている。
さすれば、揚げ油の隣で蕎麦を茹で、奥のコンロで茶碗蒸しも蒸すのが最適解である。ただし、油の隣でそばを茹でる危険性は否めない。
頭の中で、黒背景に「警戒」の赤大文字が光り、警報が響く。
「作戦展開中! 集中せよ!」
蕎麦は茹で具合が肝要。
となれば、茹で始めるタイミング、車海老を揚げ始めるタイミングが勝負の分かれ目!
頭では理解できるが、実際はタイミングがわからない。
仕方なく、ぐらぐら湯を沸かす隣で車海老を油に入れた。
期待した音、黒い縞模様の尾が赤く染まっていく。
「いいねいいね」
つゆの雪平鍋に火をつける。
こいつだって出汁から手作りだ。ぐらぐら煮立てるわけにはいかぬ。
「第一海老隊、揚がります!」
「第二海老隊を投入せよ! 蕎麦も続け!」
一人司令官ごっこをしてはいるが、真剣そのもの。
そわそわしながら、蕎麦に気を配る。
揚げ物をしてて吹きこぼれば大惨事だ。
第三海老隊まで海老があるというのに、蕎麦が茹で上がった。
大急ぎで湯切りをし、つゆに泳がせる。
しかし、ここで第三海老隊を入れるタイミングが重なった。
ぬぅ。こうなったら、食べ始めてもらおう。第三海老隊は揚げたてを提供すればよい。
うん、いいぞ。天ぷら屋さんみたいじゃないか。
「できたぞ!」
隣のリビングで年末恒例の歌番組に熱中している家族に声をかける。
こっちは大忙しで腕が何本も欲しいくらいなのに、おふくろも妹も生返事でこたつから動こうともしない。
「のびちまうだろ」
「うるさい! いいとこなんだから!」
好きなアーティストが出ているらしく、妹はおふくろに解説するのに忙しい。
のそのそやってきたのは、年上の義弟。
このタイミングで、一番気を遣うだろ。
「凄い豪華ですね」
「のびる前に食べ始めちゃって」
義弟は、妹を一瞬見たが、肩をすくめて食べ始めた。
「うまい」
そうかそうか。どんどん食べなさい。
第三海老隊を油に泳がせながら、やっとこさ食べ始めた家族の反応をうかがう。
「それにしても大きな海老ねぇ。高かったでしょ」
「まだあるから」
一人三尾分買ってきた。それを俺が作るのだから、おふくろも婿殿に遠慮することなく食べられるはずだ。
揚げたての海老を配ると、期待通りの反応ににやついてしまう。
ようやく全てを揚げ終わって、食卓についた。
蕎麦をすするが、眼鏡は曇らない。
それもそのはず、家族分の揚げ物を作りながら蕎麦を茹でれば、己の分はのびてしまう。
まぁ、そんな幸せもいいか。
頬を赤くしながら食べ終わった妹が、表情を明るくした。
「ねぇ、今度から全部お兄ちゃんが作ってもらわない?」
「嫌だ。絵里こそお兄様に感謝の品はないのか」
「えー。やだケチ」
頬を膨らませるが、もうそれがかわいい歳ではないのだ。妹よ。




