16 魅惑の配合(チキンカレー)
電車が!
電車が空いているのは、なぁぜ? なぁぜ?
答えは知っている。
学生が夏休みに入ったから、だよー!
通勤電車歴十年は超えているのだ。甘くみてもらっちゃ困るよ。
通ぶってはいるが、何てことはない強がりだ。
できることなら、俺も一カ月程度の夏休みが欲しい。
国民全体で避暑するべきだ。交代制でもいい。
実現不可能な妄想虚しく、駅から排出される。
七時台だというのに、上からの照りつける太陽、下からのアスファルトの照り返し。空中でさえじりじりムワムワ体力を奪いにくる。
まるで、ゲームで毒の類をくらったかのように、じわじわと、しかし確実にヒットポイントが削れていく。
もうあかん。
ヒットポイントを回復せねば、今週を乗り超えられない。
暑さに負けずに食べられるもん。何か……。
こんなとき、すぐに案が浮かぶのが俺。
今日は、カレーにしよう!
脳内で、冷蔵庫にある材料を思い出す。
肉は、――、手羽元がある。100g60円のお買い得品。
玉ねぎヨーシ! ジャガイモヨーシ!
オレンジ色の根菜はナーシ!
カレー定番のアレは、一人暮らし始まって以来、我が家の敷居を跨がせたことはない。
あ、そうだ。アレの代わりにあれを入れよう!
家にはないが、なぁに、会社帰りに買えばいい。
普段ならしない企みに、ニヤついてしまう。
少々値が張るが、俺は夏休みもなく働いている社会人である。
いいだろう。暫し、仕事に勤しもう。
実現不可能な妄想よりも、俺は実現可能な現実に生きる!
急いでいそいでいそいで!
走って走って走って!
アパートの鍵を開けるのももどかしく、帰りのスーパーから我が家に入った。
今夜の夕食はチキンの夏野菜カレー!
であるならば、手羽元をほろっほろに仕上げたい!
そのためには、とにかく時間が必要だ。
リュックを放っぽらかして、玉ねぎ、なす、ズッキーニを切りまくる。
汗が、ぽたぽた落ちる。
あとちょっとの辛抱だ。
夏場のカレー作り、しかも煮込み時間が時間単位となれば、とにかく熱さとの闘いだと思うだろう。
しかし、俺には、スペシャルウェポンがある。
テッテレー!
取り出だしたるは、真空断熱保温鍋!
真空保温水筒で有名なメーカーが出している鍋なのだが、こいつは俺の相棒である。
何しろ、電気代もガス代もかからない。
しかも、焦げない。
最高だろ?
厚底のスペシャルウェポンを極弱火にかけ、油でたっぷりのショウガ、ニンニク、それに唐辛子、カルダモン、シナモン、クローブを炒める。
部屋中に、食欲をそそる香りが漂うだけで、鼻歌が出る。
なんかいっぱいスパイスを入れたが、何てことはない、ショウガとニンニク以外はスターターセットっていうセットになったものを入れただけ。
本格的なスパイスカレーを作った気持ちになれる、アイテムで重宝している。
スパイス類が黒く色づいてきたら、鶏手羽元をどっさり入れる。
ケチケチしてはいけない。
だいたい半分は骨なのだ。骨なのだから、食べられない。食べられない部分はゼロカロリー。
骨を入れる理由は、ズバリ! 出汁が出るから。
ただの鶏肉を入れるより断然おいしい。
手羽元の表面を焼いて、うま味を閉じ込めたら、切りまくった玉ねぎ、なすを入れて炒める。玉ねぎが半透明になったところで、焦げやすいズッキーニ、それにカットトマト缶を入れる。
そして、レッドペッパー、カレールゥを好きな辛さになるだけ投入!
シャツは汗を吸って重くなり、首に巻いたタオルもぐっしょり濡れているが、もうあと少しの辛抱である。
まだ弱火で、とにかく待つ。
真空断熱保存鍋は、たった一つだけ注意する点がある。
さっき、焦げないと言ったが、あれは嘘だ。
いや、半分嘘で、半分真実だ。
この段階で火力を上げると焦げる。あとは楽勝。
真空断熱鍋に十分な熱が伝わるまでの間に、オクラ、シシトウ、パプリカを細長く切って焼き目をつける。
米をたっぷり炊く。
くつくつくつ
真空断熱鍋の中が煮え始める。
水は一滴も入れていないのに、野菜の水分だけで煮える。
巷では無水カレーと呼ぶらしい。
素材の味が薄められることなく、煮詰められる。
鍋に蓋をして、保温容器の中へIN!
後は、のんびり風呂に入って待てばよい。
ガスを使わないから、火災の心配もなく、電気を使わないからエアコンもつけられる。
焦げる心配もないから、途中で混ぜなくてもいい。
エコで楽ちん。
真空断熱鍋がなければ、俺の飯テロ生活も大きく変わっていることだろう。
なんてったって、出勤している間も煮込める。
ふっふっふ。
怪しく光る眼鏡を、くいっと持ち上げる。
開けますゾ。
コンロに移動した真空断熱鍋の蓋を開ける。
眼鏡が曇る。
おたまで混ぜると、玉ねぎの形は既にない。トマトもなすもない。
トロトロに溶けたそこへ、フレークタイプの別のカレールゥ、ガラムマサラ、ほんの少量の醤油、蜂蜜、ヨーグルト、インスタントコーヒーの粉を入れる。
何てことはない、どこかで聞きかじったカレーをおいしくする秘訣を片っ端から入れて、好きなもんだけ残しているだけである。
エアコンの効いた部屋で、出来立てカレーをパシャリ。
手羽元の大きな塊肉、オクラとシシトウの緑、パプリカの赤と黄色のコントラストが効いている、
猫舌必須アイテムである木のスプーンでいただく。
ほろっと骨から外れる肉。
続いて骨と肉の間から、肉汁がじゅわっと溢れる。
よく煮込んだ鶏肉が、繊維っぽく崩れる食感。
肉を噛む合間に、骨から肉と一緒に外れた軟骨が混じる。
んま。うまぁ!
目を瞑り、至高のひと時を味わう。
スパイシーなルーを米に絡めて、豪快にはぐっと一口、二口、……、夢中でかきこむ。
刺激的な辛さ、鼻から抜ける芳醇な香り。
複雑な味わいと香りを楽しむなら、やはり香辛料にこだわるに限る。
一皿目を平らげ、おかわりからが本番。
腹がきつくなるまで食べてしまうのがカレーの魔力。
ヒットポイントは満タンに。
明日の電車も座れるのだから、夏休み様様だ。