11 鳴る前に(キャセロール)
腹が減った。
帰りの電車で、窓に映ったおっさんを見て、はっとした。
ひでぇ顔だと思ったのは、俺自身だ。
クマは濃く、目は半開き、口角が下がり、頬もこけている。
原因ははっきりしている。
先週の金曜から日曜夜までの地方出張のせいで、恒例の買い出しができていない。
おまけに、帰ってきてからの取引先との飲み会に、水曜の日帰り地方出張、新入社員へ向けての研修が木・金と続いた。
早く休んで、リフレッシュせねば!
風呂に入り、寝れるだけ寝る。
そんで、食いたいもんを作って食べる!
駅からアパートまでの道のりが長い。
台所の広さとガスコンロが必須条件、駅前の利便性は捨てている。それが、ここに来て裏目に出てしまう。
外食が続くと、やけに喉が渇くし、腹の調子が悪くなる。
するてっと、肌の調子まで悪くなる。
美肌を意識してはいないが、どこもかしこも調子が悪いと気分まで落ち込むもんだ。
何食べる?
ガツンと食べたい。
手間暇がかからず、数食分でボリュームがあって、肉も野菜も入ってて――。
カレーが浮かんだ。
いや、カレーより優しいもんがいい。
スパイシーさに耐えられる胃腸の具合ではない。
そうだ! キャセロールにしよう!
キャセロールってのは、ホワイトソースじゃないグラタンみたいなものだ。
食いでがあって、トマトが入る。
トマトは野菜、……。
野菜が入るのなら決まりである。
キャセロールの材料ならあるはずだ!
安物の鍵穴に部屋の鍵を突っ込むのもまどろっこしい。
靴を脱ぎ棄てて、リュックを落とす。
食糧庫を確かめる。
デミグラスソース缶、ダイスカットのトマト缶はいつも通りあった。
残りは、豚ヒレ肉だが……、あるか?
冷凍庫の残りは少ない。
豚ヒレ肉240gありましたー!!
トロフィーのごとく掲げて、勝利のポーズ。を、心の中で繰り広げる。
もうこうなったら、最後の力を振り絞って飯を作るしかない。
豚ヒレ肉をレンジで解凍、炊飯器で飯を炊く間に風呂に入った。
こざっぱりしたところで、調理開始だ。
デミグラスソースに赤ワイン、牛乳を加えて、雪平鍋でソースを作る。
コクを出すなら、牛乳よりも生クリームがいい。
しかし、今宵はあっさり目でいただきたい。
こういう風に味にわがままが通るところが、自炊の醍醐味だ。
豚ヒレ肉を薄く切って、、粉セージとコショウをたっぷり、塩をひとつまみふりまぶし、バターで焼く。
ここも一工夫して、最初はバター無しで焼いて、最後にほんの少しバターを追加した。
あとは、耐熱容器に焼いた豚ヒレ肉、チーズ、トマト、ソースと重ねていくだけだ。
ミルフィーユ状になって見た目もいいし、何よりも素材の味が混ざりやすくなる。
こいつを、優秀なオーブンにつっこんで、グラタンメニューで焼くだけだ。
電池が切れたように、ベッドに突っ伏した。
眼鏡はかけたまま、かすむ目を堪えて、最後にスマホを操作する。
ここまで堪えたんだ。食い逃がすわけには――、……。
ガバッと身体を起こした。
何が起こった!?
状況が飲み込めない内に、左手が振動した。
――、アラームか……。
どうやらアラームをかけた直後に寝落ちしたらしい。左手にスマホを握ったままだ。
それでアラームが鳴る前に飛び起きるのだから、世話はない。
仕事の緊張が解けてないのか、それとも、食いしん坊パワーか。
呆れながら、大あくびした。
鼻腔をかすめる芳醇な香りに、食いしん坊パワーだと納得する。
「どれどれ、できたかな」
オーブンを開けたら、眼鏡が曇った。
写真は撮ったが、いつものようにSNSに投稿する気になれず、エアコンの効いた部屋に耐熱皿ごと移動する。
丼には炊き立ての白米が山盛り。
そこにお玉ですくったデミグラスソースをたっぷりかける。
チーズがのびて糸を引く。
薄切りにした豚ヒレ肉もこれでもかっていうほど乗せる。
背徳感はトマトが全て帳消しにしてくれる。
食べだすと一杯目は味わう暇もない。
ガツガツ、ガツガツ。
人目もはばからず、カレースプーンでかきこむ。
喉につかえそうになるのを、麦茶で脱する。
二杯目のおかわりをつぎに台所に立ったところで、ようやく脳みそが仕事を始めた。
これ、二杯目もいっぱいついじゃっていいだろうか?
食べちゃえよ。今週どのくらい働いたと思ってンの?
いやいや、ダメでしょ。チーズに肉でハイカロリー、その上高コレステロールだよ。
食べることがリフレッシュ方法なんだろ? このくらい食べとかないと、身も心も持たないんじゃないの?
今、残しておけば、明日もキャセロールを楽しめるよ。作る手間も少なくなって、身体も休められるでしょ。
俺の中の天使と悪魔が互いの意見を主張する。
えぇい! おめーらさっきから黙って聴いてりゃ、調子に乗りゃーがって。
俺の心の中だけ、桜吹雪が舞う。
喧嘩両成敗だ!
丼に、半分だけご飯をよそい、キャセロールも半分より多めにかけた。
これが俺にできる精一杯である。