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性の歴史から人権を考えてみる  作者: だるっぱ
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ジェンダー

 国際的なスポーツ競技で、男性から女性に性転換した選手が試合に優勝して物議を醸しだす事例が時々ニュースになっています。性適合手術を受けて法律的にも女性になった選手は、制度的には女性としてスポーツに参加することは問題がない――ということになっています。ところが、もともと肉体的には男性だったので競技においては有利に働いているだろう――と周りの人々は判断をしています。スポーツ界では、この認識のズレを解消することが出来ていません。


 今年の4月に、「ジェンダーレストイレ」なるものが東京の歌舞伎町に設置されました。これまでのトイレは男女別になっていたのに、男性でも女性でも使えるトイレなのです。性別的な差別をなくそうというのが本来の意味だと思うのですが、その考え方とトイレを共同利用することが上手くリンクしていません。トイレを男性用と女性用で分けることは、不当な差別なのでしょうか。まずもって、何が差別なのかも定義が出来ていないままに箱モノだけが用意されたのです。当然のように多くの抗議が殺到して8月に廃止されました。


 今年の6月に、「LGBT理解増進法」が施行されました。性的マイノリティーに対する理解を広げる法律なのですが、LGBTの理解を訴える当事者や支援団体から批判が上がっているそうです。詳細は省きますが、法律の文言が差別する側に配慮しているというのが理由だそうです。今回は、このジェンダーという問題について、僕なりに感じたことを言葉にしてみたいと思います。


 以前、僕は性の歴史について記事を起こしたことがあります。男性と女性がセックスをすることが普通だと思っていたのに、古来から同性愛を始めとする様々な性行為があったよ――という話を紹介しました。後半では、大航海時代には現地住民の女性に対するレイプが合法化されていた事例を紹介し、人権に関する僕の思いも綴ってみました。現代という社会は、そうした歴史から反省して差別をなくそうと取り組んでいます。特に女性の参政権をはじめとして、女性に関する差別は段階的に解消されてきているのではないでしょうか。差別の禁止を法律で規定していく行為は、即効的な効果はありませんが僕たちの意識に段々と刷り込まれていきます。とても必要な政策でしょう。


 そうした中、今までの社会では表面化されなかった差別問題が浮上しました。それがジェンダー差別です。LGBTQは、LesbianレズビアンGayゲイBisexualバイセクシュアル、TransgenderトランスジェンダーQueerクィア/Questioningクエスチョニングの頭文字を取って名付けられているそうです。そうしたマイノリティの人権を考えることは非常に重要だと思います。ただ問題の本質は、LGBTQであるかどうかよりも僕たちの差別する心が問題なわけで、差別される対象は沢山あります。男女差別に始まり、病気や所得格差、年齢や社会的地位、出身地や犯罪、そうした差別問題は数えきれないほどあり、その中にLGBTQもあります。施行された法律の名称は、LGBT理解増進法になります。つまり、法律の骨子はLGBTQを正しく理解することだと僕は考えました。


 僕たちが何気なく理解している性的な概念は、様々な思い込みや先入観によって支えられています。例えば、男らしいという言葉から何を連想しますか。力強い、勇ましい、義理堅いといったイメージが思いつきます。反対に、女らしいはどうでしょうか。お淑やか、優しい、貞淑といったイメージの外に、すぐ泣く、女々しいといったマイナスなイメージも浮かんだりします。でも、優しい男の子もいますし、快活な女の子もいるわけです。僕たちが感じている男女のイメージと、実際の性格は全く違うことは良くあります。そうしたイメージの乖離は、これまでに理解されてきた範囲内なら十分に許容することが出来ました。ところが、LGBTQに分類される人々は、その理解されてきた範囲からはみ出していたわけです。ここで問題にしたいのは、理解されてきた範囲って何ですか?


 性の歴史で再三述べてきたことですが、過去からLGBTQの人々は当たり前に存在してきました。存在していたのに差別の対象にされてしまったのは、西欧のキリスト教社会から生まれた概念がベースになっていたからです。神話によれば、神様は土から男であるアダムを生み出します。協力者として、アダムの肋骨から、女であるイブを生み出しました。男と女が結ばれて子を成すことがスタンダードだと定義して、それ以外を異端だと認定します。中世ヨーロッパでは、同性愛者は悪魔の所業だとされ火あぶりの刑に処されました。そうした時代背景から、西欧ではスタンダードであることを人々に強く要求するようになったのです。その思想が、日本だけではなく世界に啓蒙されていったのが近代世界でした。


 僕たちが理解している性的な概念は、とても曖昧で不確かなものです。男らしさのイメージは、戦争行為から生まれたのではないでしょうか。男は体の構造から女よりも強い。社会は男に対して、戦う為のメンタリティーを求めたのです。対して女らしさのイメージは、政略結婚の商品としての価値を求められたと考えます。封建的な社会において女性は、美しさや処女であることを求められた。童話に登場するお姫様のイメージがまさにそれです。男らしさや女らしさというイメージは、社会からの要請だったわけです。そうした歴史的背景に左右される曖昧な概念ではなく、事実を整理してみたいと思います。


 もともと生物には、性差はありませんでした。ウィルス等は分裂することで繁殖します。しかし、コピーを繰り返すだけでは、環境の変化によって全滅する危険性があります。環境の変化に対応するためには、多様性が有効でした。その多様性を手に入れるために、オスとメスという仕組みを生物は手に入れるのです。今更僕が述べるでもなく、長い地球の歴史の中で生物は劇的に進化していきました。


 生物は、細胞の中に遺伝子情報を持っています。男と女の性差は染色体で規定されており、XY染色体なら男になり、XX染色体なら女になります。ただ、男女の交配にはエラーがつきものです。そのエラーが多様性を生み出す切っ掛けになるのですが、男とも女とも判別できない種を生み出すこともあります。つまり、大きくは男と女という性別がありながら、生物的にグラデーションな部分があるのです。そうした生物的な性差に対して、精神的な性差を認めるようになったのが現代になります。ジェンダーの問題を取り扱う時、この精神的な性差を問題にすることが多い。では精神的な性差とは何でしょうか?


 多くの動物の性交は繁殖期に行われます。それ以外では交尾をしません。ところが、人間と一部の動物は繁殖期がありません。いつでも性交が出来るのです。このいつでも性交が出来るという自由さが、人間の精神に大きく影響したと思うのです。性交は、基本的に二人で行うものです。パートナーがいなければ出来ません。欲望はあるのに出来ない。そんな状況に置かれた時、人はマスターベーションを行います。一人でするわけですから、そこは想像力が必要です。人間が人間たる所以は、この想像力になります。この想像の過程で僕たちは、何に対して性的な欲望を感じるのかという性的な嗜好を確定していきます。この想像的領域に関しては、人によってかなりの個人差が生まれます。


 男の視点で申し訳ないのですが、男が性欲を感じる女性のパーツに胸とお尻があります。特におっぱいが好きな人がいるかと思えば、お尻が好きな人もいます。中世のヨーロッパの貴族たちは、スカートに隠れている足に性欲を感じたそうです。他にも、SMだったり、ロリコンだったり、ショタコンだったり、人が性的な欲望を感じる部分は様々です。これらをひっくるめて性癖、もう少し上品に言うと性的嗜好といいます。


 性的嗜好は、性的欲望の対象を特化したものになります。かなり想像的な産物で、精神領域の話です。ここには男も女もありません。その人が、何が好きかという問題だけです。この性的嗜好の延長に、LGBTQがあると僕は考えます。ジェンダーの問題は、男か女の問題ではなく、何が好きな人なのかという分類に過ぎない。それなのに無理やり男と女の問題を上書きしようとするから、問題がややこしくなってしまう。


 体は男だけど、男を好きになってもいいじゃないですか。それは、その方の性的な嗜好なんです。ただここで注意したいのは、体は女だけど心は男という性同一性障害についての問題です。はっきり言います。男であるか女であるかという思い込みは、社会によって作られた幻想にすぎない。性的に自由になりつつある現代において、あまりにも古い考え方に囚われていると考えます。その原因をもとめると、学校制度が大きく影響しているのではないでしょうか。


 僕たちは幼いころから、学校に隔離され男というグループと女というグループに分けて生活する習慣を義務づけられてきました。段々とそうした性差を問わない制度にはなっていますが、それでも社会的な常識として、やはり男と女という固定概念は存在するわけです。その強迫観念にも似た思い込みが性同一性障害を引き起こすと思うのです。そもそも、このネーミングからして問題です。定義された男はいないし、女もいません。あるのは染色体に記されたプログラムだけです。その事実から逃れることは出来ませんが、後は好きにすればいい。自由に生きても良い環境が段々と整備されてきているのですから。


 スポーツ競技において、性転換が問題になっています。性別が変わるのは当事者の好みの問題です。ただ競技においては、本人の性的な思い込みまで考慮に入れると問題があります。ここは本来の染色体がXXなのかXYなのかを問えばよいだけです。そもそも男と女で分けている理由は、性的な違いよりも肉体的なハンデだと思うのです。肉体的なハンデがないのなら男女混合で競えばよいわけですから。ただ、グレーな性別に対しては例外認定すれば良いのです。それで何も問題は起きません。


 トイレの問題も、男と女の平等感覚を箱モノに無理やりこじつけようとするから問題になります。そもそも男と女の違いは存在しますし、排泄の手順も違うわけです。トイレに男用と女用があるのは、体の構造に配慮してのことです。それに、性的犯罪という部分も、全く考慮に入れていない。


 LGBT理解増進法は、その事を理解する象徴としては機能すると思います。LGBTQを差別しない社会を作りましょうということです。しかし、根本は差別をしない気持ちが大切です。それはLGBTQに限らない。


 ジェンダーを考えるということは、生物的な男と女、それから精神的な性的嗜好、それらが複合的に絡み合っていることを理解することだと思います。整理すればとても単純な話です。私たちの未来が、そうした多様性を認める社会になれば良いと思います。

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