性と人権
性の歴史の4回目。今回が最終回と宣言していましたが、次回が最終回になります。インプットした知識を文章化することで、僕のメタ的な認知力を磨いています。ただ、性の歴史はとても奥が深く、たった4回の文章化でまとめられるような浅い内容ではありません。ご興味のある方は、コテンラジオの「性の歴史」だけでも視聴してみてください。知見が大きく開かれるのは間違いないです。今回も、18歳未満はお断りの内容になっています。
性の歴史を俯瞰するときに注目したいことは、性的な倫理観は時代や地域性によって異なっており、且つその倫理観は時代の様々な要因を切っ掛けにして変化を繰り返してきたということです。例えば、最近ではLGBTQに関する話題が世間に散見されます。それは、僕にとって過去の時代の揺り戻しに見えるのです。それはまるで川の流れのようで、山間から始まった川の流れが右に曲がったり左に曲がったりしながら大河になっていくように、僕たちが生きているこの社会も、様々な変化を繰り返しながら大きな時代の流れに帰結するのかもしれない。そんな想像を働かせてしまったりします。そうした性倫理の変遷について、少し振り返ってみたいと思います。
紀元前のスパルタの社会でホモセクシャルな行為が奨励されていた話を、第一回で紹介させて頂きました。実は、日本の室町時代や戦国時代でも男色行為が盛んに行われていた事実をご存じでしょうか。織田信長が森蘭丸という小姓を愛していた説話は有名ですが、そうした男色行為は信長だけではなかったのです。あの頃に活躍した武田信玄や伊達政宗それから徳川家康といった有名どころの武将は勿論のこと、武家社会そのものに男色行為が浸透していました。
武家社会に男色行為を広めさせたのは仏教です。仏教では、出家した僧侶は妻を娶ることが許されません。そうした僧侶の元に、武士社会の子供たちが預けられます。当時のお寺は、ある意味学校のような教育機関でした。子供たちは、そこで読み書きを習い仏教的な思想も勉強します。妻帯しない僧侶は、そうした若い男の子を性の対象にしたのです。そうした行為が世代間で繰り返され、文化として広まり武家社会に根付いていくのです。この男色行為は江戸時代にも引き継がれ、美術や文学のテーマとして広く浸透しました。現代でいうところのBL物って感じですね。
庶民の生活を見てみましょう。例えば、母乳を必要とする稚児が人前で泣き出したら、お母さんはどうしますか。現代であれば、授乳室があればその中に隠れると思います。でも、当時は違いました。人前であろうとなかろうと、着物をはだけて胸を晒し、その場で授乳を始めるのです。胸を晒すということに、現代のような恥じらいがありませんでした。戦前の日本も似たようなもので、汽車の中であっても母親は普通に胸を晒して授乳を始めたという話を聞いたことがあります。
日本の伝統的な夏の風物に、盆踊りがあります。先祖を供養する宗教的な習わしが由来ですが、庶民にとっては男女の出会いの場でした。囃子に乗せられて盛り上がった男女は相手を見つけると、物陰や茂みに隠れます。そこかしこで性的な行為が始められたそうです。そうした盆踊りがあまりにも人気になり過ぎて、江戸時代では毎日のように盆踊りをしたという記述もありました。
銭湯は日本が誇るべき文化ですが、昔は混浴が当たり前だったのです。男と女が肌を見せ合いながら共同で風呂に入る。今では考えられない世界ですが、当時では常識でした。ただ、そこは男と女。盛り上がった二人がその場で行為を始めるということも、やっぱりあったようです。というか、江戸時代のセックスは非常に大らかでした。その気になった二人が昼間っから物陰に隠れて行為を始めるのは普通のことで、何なら人前であっても始めてしまうのです。そうした風紀の乱れを取り締まるために幕府が腰をあげた。そんな事実もあります。
子供がよく口にする悪口に「お前の母ちゃん、出べそ」があります。母親の悪口を言うことで相手を懲らしめるわけですが、そもそも何故出べそであることを知っていたのでしょうか。日本家屋は、壁が薄く引き戸も障子だったりします。そのような簡素な設えでは、性的な行為は子供に筒抜けです。もしかすると、のぞき見をしたのかもしれません。しかし、違う考察もあるのです。子供の筆おろしに大人の女性が関与したから、その子は出べそを知っていた。そんな話もあります。
しかし、現代の日本において、そうした大らかな性倫理は残っていません。それは、明治維新に日本が欧米の文化を進んで取り入れたからです。当時の知識人は、日本の文化を遅れたものだと考えました。日本語の基本である漢字ですらも、排斥される危機があったのです。そうした西欧に追い付け追い越せ的な気運が、日本人の性倫理を変えていきました。当時の西欧的な性倫理のベースはキリスト教です。次は、西欧でキリスト教的性倫理がどのように変遷していったのかを、人権を交えて振り返ってみたいと思います。ます。
キリスト教の性倫理は、とても禁欲的で、性的な快楽に耽ることは悪魔の証左だと考えられていました。キリスト教思想の社会に与える影響は大きく、政治的な拘束だけでなく、思想的にも民衆がその様に信じていました。そこから、お互いに性倫理を監視する社会が始まります。前回、そのような社会的背景から魔女狩りが始まった事実をご紹介しました。ここで注意することは、キリスト教にとって人間とは、キリスト教を信じている人のことをいいます。つまり、異教徒は人間ではないというロジックが生まれるのです。そうした思想的背景から、15世紀から始まる大航海時代をご紹介します。
当時、中東を制していたオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしました。その進撃は止まらず、オスマン帝国はバルカン半島やエジプト周辺にも勢力範囲を広げることになります。このことで、オスマン帝国は地中海の交易権を掌握しました。西欧諸国は、インドとの交易で香辛料や絹織物等を輸入しています。オスマン帝国はそれらの商品に高い関税をかけました。このことから、西欧諸国は新たなインドとの交易ルートの開拓を渇望するようになるのです。
西欧からの目線にはなりますが、大航海時代の到来からアメリカ大陸が発見されました。ポルトガルやスペインは、こぞって大陸に押しかけます。先住民から金をはじめとする様々な財宝を簒奪し、奴隷の交易まで始めるのでした。その簒奪の過程で多くの先住民が虐殺されましたが、同じように多くの女性がレイプされるのです。西欧諸国では、女性にフェラチオをさせるだけで死刑になる様なキリスト教世界です。ところが、新天地ではやりたい放題でした。航海に関する報告書に「先住民の女性が何でも言うことを聞いてくれる」との記述もあり、男たちの性欲は命を懸けて航海に飛び出す原動力でもあったようです。
航海は国家の一大事業です。実際に多くの富を国にもたらしました。その航海事業を円滑に運営するために、国家は現地での性の搾取を法律で容認します。また、海外への侵略を強力に支援したのがカトリック教会でした。当時のカトリック教会は、プロテスタントの誕生により権威が落ち、多くの信者が離反している状態です。現状回復の為に、新たな布教活動を新世界に求めました。
そうした中世ヨーロッパでは、14世紀ころからギリシャ古典を再考するルネッサンスの動きが始まっていました。これは人権思想の萌芽です。それまでの社会は神を中心とした封建的な思想でした。ところが、ルネッサンスは神と人間とを切り離し、人間そのものの価値や可能性を見つめようとしたのです。ルネッサンスの動きは有名な絵画や彫刻を残しましたが、哲学にも大きな影響を与えました。17世紀に活躍したデカルトは「我思う、ゆえに我あり」との明言を残します。これは自我の発見です。それまでのキリスト教世界では、人間の自由意思という概念がありません。元々は、デカルトは自我を見つめることで神の存在を証明しようとしました。ところが、この人間の自由意志の発見は、キリスト教に対するアンチテーゼとして「人間の生きる権利」という概念を生み出すことになるのです。
性の歴史を俯瞰するという行為は、人権が蹂躙されてきた歴史を認知するということでした。特に女性に対する仕打ちは、目を覆いたくなるものばかりです。次回は、性の歴史から少し離れます。啓蒙思想からはじまった人権思想について、僕なりの考察をまとめていきます。