機会があったから、つい
かつて、イザベル・ロアーナフィードは悪役令嬢であった。
いや、悪役令嬢という言い方はおかしい。
イザベルは高位貴族の令嬢に生まれ、その生まれに相応しい教育を施され、そうして同じく高位貴族である令息と婚約を結ぶに至った。
だがしかし、その婚約者に近づく娘に陥れられ婚約破棄をされてしまったのである。
自分はヒロイン、貴女は悪役令嬢なのよ、なんて言っていた令嬢の言う事をまんまと信じてイザベルはやってもいない虐めの主犯とされて、学院の卒業式の日に大衆の前で婚約破棄を突きつけられたのだ。
勿論やってもいないのだから、イザベルとしてはその相手に謝罪をするつもりなんかはこれっぽっちもなかった。だが、その態度が余計お気に召さなかったのだろう。婚約者は二度と顔も見たくないと吐き捨て、自称ヒロインの令嬢を新たな婚約者にするなんて宣言もしていた。
折角の卒業式という晴れの場を汚してしまった事に対しては、イザベルも周囲に謝罪はしたけれど元婚約者と自称ヒロインについてはどうでもいい。
謝る要素がどこにもない。
大体、婚約者がいる身でありながら、低位貴族の娘と二人きりになったり一緒に外出したりと、むしろそちらの方が不貞をしているではないか、とは言わなかった。そもそも言わなくても周囲は理解している。あえてそれを口に出して無駄な醜態を晒す必要はないと考えた結果だ。さながら悪を倒し真実の愛で結ばれた、なんていうお伽噺の一節のような状況に酔いしれている頭の中身ふわふわな二人はそのまま放置した方があとは周囲の目もあって勝手に落ちぶれていくだろう。イザベルはそう判断した。
屋敷に戻り、婚約破棄された事を親に伝える。
やってもいない虐めが原因です、となれば流石に親も黙ってはいなかった。
いなかったのだが、どうやらあの元婚約者はその場の勢いで婚約破棄を告げたわけでもなく、どうやら事前に一応やると伝えていたらしい。誰にって、それはもちろん婚約者の両親にである。
となると、新しい婚約者に彼女を、というのも織り込み済みであろうか。だが、家族が納得していても周囲はあれと関わろうとはしないだろう。
とりあえずあの家には抗議をするつもりではあったものの、いかんせん向こうの親もこれを機に、とどうやら我が家を陥れたい事情があるらしかった。
普段であれば、どうにかなったと思う。しかし今回は完全に後手に回ってしまった。
こちらに一切の非は無いと言い切れるものの、それでも大勢の前での婚約破棄。事情を把握していても、あえて面白そうだと自分には他人事だからと無責任な噂を振りまく人物も出るだろう――という予想は早々に当たり、面倒事がいくつか増えた。
とはいえ、そういう相手はある意味親切だ。そういう人間だと自分から暴露したも同然なのだから。
雑事も一つ一つは片付けるのに大した手間がかからなくとも、しかし一度に大量に押し寄せてくれば解決までの時間は当然それなりにかかる。
それもあって、イザベルの両親は一時的にイザベルを騒動の渦中から遠ざけるべく修道院へ避難させる事にした。
その決断は間違っていなかったはずだ。
だがしかし。
道中、イザベルを乗せた馬車は何者かに襲われて、イザベルは修道院へ辿り着くことができなかった。
――と、これだけを聞けばイザベルは儚くなってしまったのだ、と思われそうだが生きている。
命の危機に瀕した時、おもむろにイザベルは前世の記憶を思い出した。
あらやだ! このままじゃ死ぬわ私。
そんな感じで咄嗟に襲ってきた賊を殴り飛ばし――その拍子に腕を痛めた――倒れた賊の股間を容赦なく踏みつぶし悶絶している賊を徹底的に痛めつけ動かなくなってから馬車から馬を離しその馬に乗って移動を開始した。
共にいた御者や護衛だった者たちはお嬢様を守れとばかりに戦っていたが、健闘虚しく全員死んだ。というか、むしろ彼らが多少の時間を稼ぎ何人かは倒していたからこそ、イザベルは残っていた賊を自力で仕留められたといってもいい。
前世、イザベルはストリートファイトで稼いでいた女だった。とはいえ今の身体はそんな荒っぽい事をした事のない身。ちょっと前世のノリでやらかした結果腕を痛めてしまったけれど、生き延びる事には成功した。
馬に乗って逃げる前に一応賊が身に着けていた物で何か身分を示していそうな物を手に取ってきたけれど、相手の正体を確認するのはひとまず無事に逃げ切ってからだ。
そうして馬に乗り逃げに逃げて辿り着いたのは、港町だった。
修道院へ行く事を最初考えたけれど、もしそちらにも魔の手が迫っていたら、と考えたら行かない方がいいと思った結果だ。だがしかし、そのせいで全く別の町へ行く事になったのであと少し遅かったらイザベルは衰弱死していたかもしれない。水も食料もロクにないまま馬に乗って逃げ続けてきたのだ。途中、いっそ今乗ってる馬を潰して食料にするべきか、と真剣に悩んだくらいだ。
それをやると移動手段が徒歩になり、また現在自分がどこにいるかもよくわからない状態だったので更に状況は悪化すると判断して飢えを我慢する事を選んだわけだが。途中で馬が水場を見つけてくれたから、というのもあった。
どうにか辿り着いた港町には、イザベルを害そうという人間はいないようだった。
ただ、風の噂で自分の家が何やら大変な事になっているというのを知って、助けを求めるのは無理そうだというのは理解できた。イザベルのことは賊に襲われ亡くなった、と思われているらしい。
今イザベルが生きていると知れば家族は喜ぶとは思う。しかし、あの賊がたまたま金持ってそうな貴族の馬車を襲いに来ただけの相手ならともかく、何者かに雇われてやってきた刺客であったなら。
イザベルの生存を知らせるのは悪手ではないか、とも思えた。
賊が持っていた持ち物をいくつか調べてみたけれど、身元につながるような物や雇い主と繋がってそうな物は残念ながらなかった。
考えた末に、イザベルはここが港町なのを好都合だと捉えそのまま船で他国へ出る事にした。その直前に両親へと手紙を出す事だけは忘れない。生きてはいるが、このまま死んだことにしておいた方が恐らくは……
そうして辿り着いた隣国で、イザベルはとりあえず仕事を探す事にした。一応身に着けていた装飾品を少し売って金はあるが、それだって限りがある。貴族としての教養を活かせるような職があればいいが、なければないで仕方がない。そもそも、隣国の貴族の娘、と言っても恐らく向こうでは死んだことにされているだろう身の上だ。下手なことを言って身分を偽称していると思われるのも面倒な事になるだろう。
ちなみにドレスは早々に売り払って動きやすい服装へと変えた。ついでに丁寧に結い上げていた髪もざっくりと一つに纏めて結ぶ事にしたため、今のイザベルはどこからどうみても貴族の令嬢とは思われていないだろう。
さて、こうしてイザベルの根無し草生活が始まったわけだが。
その生活は意外と早くに終わりを迎えた。
定職に就く事がなかなかできず、あちらこちらをふらふらとしていたイザベルであったが、ある時道端で倒れている男を介抱したのが切っ掛けだった。
男は少し離れた海辺の村で生活している平民であったが、助けてもらった恩を返したいと是非にとイザベルを村へ誘い、ついでに定住していないイザベルを家に泊めてくれた。
定職に就けずとも、日雇いだろうとできる仕事はなんでもやっていたイザベルだが、身体を売るという事だけはしていない。
避妊をしたところで絶対ではないし、こんな状況で子を孕んだとしても育てられる生活基盤はない。子ができずとも、性病に罹ればそれを治すための治療費だとかを考えれば、どうしたってリスクの方が大きいからだ。
最初、イザベルは男に対して警戒していたけれど、男は本心から恩を返したいだけだったようでイザベルに対して不埒な真似をしようとはしなかった。
どうしてあんな場所で倒れていたのか、と聞けば町に買い物に行った帰りだったらしい。
荷物の類はなかったようだが、と思えば男はこれを買ったんだ、と懐から入手した品を見せてくれた。
海辺の近くでも育つ植物の種。
だが、帰りに盗賊に襲われて、どうにか命は助かったけれどこれ以外の荷物は全部盗られてしまったのだ、と言っていた。
うーん、今更だけどなんて物騒な世界。
いやでもな、前世も大概だったわ。すぐに思い直した。
大体ストリートファイトで稼いでいた時点で、自分の周囲が色々アレだというのは理解している。
行くアテも特になく、また男も好きなだけいていいと言ってくれたのでついその言葉に甘えてしまった。
そうして一緒に過ごしていくうちに、あ、私この人好きだわー、となって向こうも同じくこちらに好意を持ってくれたようなので、結婚することにした。
一応事前に家へ手紙を出した。結婚しようと思うの。相手は平民だけど、と。
それに対する返信は流石に少しばかり時間がかかってしまったが、一応ちゃんとやってきた。
好きにしていい、と。
というわけで遠慮なく結婚したのである。
手紙を読むかぎり、どうやら家の方は落ち着いたようだけど元婚約者とそのお相手の方でごたごたしたらしく、やはりイザベルが実は生きているとなると面倒な事になるから……と書かれてあった。家の後継ぎに関しては従弟を迎え入れる事にしたらしいので、なんだじゃあ安心ねとイザベルは気兼ねなく平民ライフを楽しむことにしたのだ。
というか、今更貴族に戻れと言われても気持ち的にちょっと無理だった。前世の記憶が蘇らなければむしろこうして平民の暮らしを送る事に難儀していただろうけれど、今となっては以前のような窮屈な暮らしはごめんだった。
――さて、そんなこんなで三年ほどが経過した。
夫は家の裏で浜風に強いタイプの植物を育てたり、小舟でもって漁に出たりしていた。今日はというか今日も漁に出ている。
イザベルは掃除と洗濯を済ませ、そろそろお昼にしようかと思い冷蔵庫を開けた。前世にある冷蔵庫と比べるととても貧相で、前世だったらこんなん缶ビール入れにしかならんわ、と思えるくらい小さなものだったが、それでもないよりはマシだ。
その中には昨日夫が獲ってきた魚が入っていた。新鮮なうちに〆てあるので、鮮度に関しては問題ない。というか既に切り分けてあるので食べようと思えば刺身でいける。醤油もあるし。米もある。
自宅では主にパンメインの洋食だったのでむしろこの国の食生活は懐かしく感じた程だ。
良かった。手紙に戻って来いとか書かれてなくて。洋食も嫌いじゃないけど前世を思い出してからというもの、自分の中のソウルフードは和食であったが故に。
さてご飯の支度を……と思った矢先に思い出す。
「そうだ、回覧板」
お隣さんに回すのをすっかり忘れていた。別に食後でもいいかと思わなくもないが、食後にコロッと忘れてしまうかもしれない事を考えると先に届けてくるべきだろう。
そう思って回覧板を引っ掴みお隣さんへ。そうしてそこでちょっとだけ世間話に花を咲かせ、さて帰ってご飯にしようと思ったところで。
「……イザベル……?」
どこか呆然としたような声がかけられた。
声のした方へと視線を向ければそこにいたのは一人の男。
旅人だろうか。だがしかし、一体どこからやって来たのか。男の外見はお世辞にも綺麗だとは言い難かった。街や村の外を移動していれば数日風呂に入れない事はままある。だが、そういった身を清める事ができないというのとはまた違った様子であった。
誰だこいつ。なんでアタシの名前を知ってるんだ……?
すっかり前世の人格が表に出てきてからというもの、お嬢様口調はなりを潜めてしまったので怪訝さを隠しもせずにイザベルは内心で独り言ちた。
明らかに不審がっているものの、男はそんなイザベルの様子に気付いた風でもなく、僕だよ、なんて言いだした。
「わからないかい……? 僕だよ、カイルだ」
「……カイル……?」
イザベルはその名を口にしたものの、すぐにはわからなかった。
カイル、という名に覚えはあった。あったけれどそれは、かつての婚約者だった男の名だ。
高位貴族であり誰がどう見てもお坊ちゃんだとしか言いようのないあの男と、目の前にいる男が同一人物だとは思えない。
今目の前にいる男はどう見たって浮浪者一歩手前の風貌をしている。
旅をして野宿ばかりですっかり汚れてしまったよ、なんてレベルではない。道中賊から逃げてるうちにズタボロになりました、といった具合なのだ。髪もボサボサ、数日身だしなみを整える余裕もなかったのか、髭も中途半端に伸びてきている。記憶の中のカイルは髭なんてなかったから余計に同一人物に見えるはずもない。
正直「なんだこいつ薄汚ねぇなぁ」としか思わなかった。
イザベルにとってカイルの存在はもうすっかり過去のものだ。
もしあのまま前世の記憶が蘇らずにいたのであれば、今でももしかしたら彼を想っていたかもしれない。よその女に現を抜かしていたとはいえ、失望もあったとはいえ、それでも。
それでもまだ好きなの……とか思えていた可能性はある。
だがしかし。
前世の記憶が蘇り、前世の人格が表に出るようになってからのイザベルの男の好みにカイルは当てはまらなかった。そりゃあ顔はいいけどさぁ、でもそれだけなら他にもたくさんいるだろ? となる。
そしてそもそも自分には今、最愛の旦那がいる。
なので余計に過去の男とかどうでもよかった。
もうちょっといい別れ方してたならまだしも、別れだってお世辞にも良い別れ方とは言えなかったし。
「ただいまイザベル……あれ? その人は?」
そしてそんなところへ漁に出ていた旦那が戻ってきた。今日は大漁という程でもなかったようで、見たところ身軽なものだ。
「おかえり、この人? 昔の知り合い。なんでかいて声をかけられただけだよ」
旦那の言葉にどうでもよさそうな声で返す。実際カイルがどうなっていようとも、どうでもいい。
「回覧板届けた帰りでこれから昼にしようと思ってたんだけど、お腹空いてる?」
「そうだなぁ、それなりに」
「ま、待ってくれイザベル」
「なんだい、話があるなら手短にしてくれ」
鋭い声に一瞬たじろいだ様子を見せたが、カイルはしかし退かなかった。
以前と違い口調だって随分と庶民のようだというのに、そこは気にならなかったのだろうか。
ともあれ、カイルはせめて話を聞いてくれ、ここじゃなんだから……とまるで周囲に聞かれるのを恐れるようにあたりを見回す。
イザベルからすれば旦那が今戻ってきたのはちょうど良かった。
いくらイザベルが結婚し夫がいるとはいえカイルというそれなりにまだ若い男と二人きりなど、一体どんな噂が駆け巡る事か。仕方ないが、旦那も仕方ないか、とばかりの態度なので家に案内する。
イザベルからすれば話す事など何もないと突っぱねても良かったのだ。
だって、旦那が戻ってきた時にカイルは彼を見て、かすかに笑ったのだ。まるで勝ち誇るように。
その笑みが何だか無性にむかつくのは、イザベルからすれば当たり前の事だった。
しぶしぶ。
本当にしぶしぶ家に案内してみれば、カイルはこちらの様子など知ったこっちゃないとばかりに話し始めた。
内容としてはあぁそうかい、としか言えないもの。
婚約破棄をして、あの低位貴族の娘と新たに結婚しようとしたもののそもそも冤罪吹っ掛けてくるような相手だ。周囲のまともな貴族が関わりたいと思うはずもなく、カイルは家にあった別の爵位を渡されて家を追い出されたのだとか。
爵位をくれるだけまだ親としての情はあったのだろう。カイルがそれを理解できているかは疑わしいが。
だがしかし、低位貴族の娘はカイルが得た爵位が低位貴族のものであった事に不満を抱いた。
どうやら高位貴族の仲間入りを果たして贅沢三昧をしたかったらしい。まぁよくある話というか、よく聞く話というか。
醜聞を大々的に晒してくれた結果、カイルの両親の家も落ちぶれかけてるし、そこら辺はイザベルの親からの手紙でふわっと知っているので別段驚く様子もない。
ただ、修道院へ行くはずだったイザベルたちを襲撃したのは元婚約者のカイルやその両親の手のものではなく、どうやら低位貴族の娘がした事だったらしい。
結果、その娘の家は潰された。
貴族ですらなくなった娘は低位貴族になったカイルに見切りをつけかけていたものの、カイルに捨てられれば行きつく先はロクでもないと知れている。
だが、自分が愛したはずの娘がそのような醜悪な存在であったと知ったカイルもまた娘と一緒になど思うはずもなかった。
盛大な修羅場を繰り広げた後、カイルはどうにもならなくなってあの国から逃げる事にしたようだ。
その後の苦労をお涙頂戴とばかりに語っていたカイルに、しかしイザベルの反応はといえば。
へー。ほー。ふーん。
相槌打ってるだけでも優しいと思える程の反応だった。
そして隣にいる旦那もまた似たような反応だった。
正直な話、どうでもいいのだ。
イザベルにとってはかつて確かに好きだったかもしれないけれど、今となってはどうでもいい相手。
イザベルの旦那からしても、イザベルの昔の知り合いと言えども、つい先ほどまでぐだぐだと話していた一連の身の上話から大体の事を察する程度の賢さは持ち合わせているため、彼もまたカイルの事などどうでもいい存在扱いだ。
むしろ家にあげてどうでもいい話に耳を傾けてやってるだけ優しいと言える。
その話の途中で、ぐーきゅるる、という自己主張の激しい音が響いた。同時にカイルの言葉も止まる。
どうやら彼の腹の音らしい。
確かにイザベルもそろそろお昼ご飯にしようと思っていたくらいだし、時間帯としてはお腹の音が鳴ろうとも別におかしくはない。それでなくともカイルはここ数日全く何も食べていないというわけではないが、その食生活は今までと比べるととても貧相だったようだ。
「あぁ、でも良かった。ここでイザベルと会う事ができたなんて。なんて幸運なんだ。
なぁイザベル、やり直さないか? そうしたら僕もまた貴族として再起できるはずなんだ」
何言ってるんだこいつ。
イザベルとその旦那は露骨に表情にそれを出していた。
「貴族に戻るも何も、爵位はあるんだろう? 勝手に努力すればいいじゃないか。アタシは旦那とここで生活して今の暮らしに何の不満もないよ。
それ以前になんで好きな相手と別れてどうでもいい相手と結婚しなおさないといけないんだい。起きてる時に寝言を言うなんてどうかしてるよ」
呆れたのを隠しもしないで言えば、カイルは信じられないとばかりにイザベルとその隣の男を見ていた。
カイルと比べれば確かに今の旦那は身分だとか、見た目だとかまぁ、パッとしないと言えるけれど。
しかし少なくとも人を陥れようとはしないし、誠実で真面目だ。人間としてどちらを選ぶと言われればイザベルは何度だって今隣に座っている旦那を選ぶだろう。
「イザベル、一先ずお昼ご飯にしようか。……一応食べていかれます? お刺身とか平気ですか?」
「あ? あぁ、刺身はこっちに来てから食べたけど美味いな……箸の使い方が少し難しいのが難点だが……」
こんな奴に食わせる飯なんてないよ、と言いたいところだったがイザベルは旦那の思惑を即座に理解した。
あぁ、うん。まぁ、こいつの話聞いてたら勝手な事ばっかり言ってたもんなぁ、と思えたのでカチンとくる部分があったな、とはわかる。
小さな冷蔵庫の中には既に切って後は食べるだけの状態になっている刺身が確かにある。あるけれど……
「食べたらさっさと出てってくださいね」
明らかに不満です、と言わんばかりの態度だがカイルはそれを、自分の妻に言い寄る昔の男とみたからだろうと判断した。
以前の自分であればこんな平民風情にそんな態度を取られればただじゃおかなかったけれど、今はすぐにこの場を追い出されたらロクな食べ物にもありつけなくなってしまう。それによく見ればイザベルも昔に比べて随分と所帯じみた気がして、仮に彼女とやり直せてもすぐに貴族として返り咲けるか、と言われれば無理な気もした。
彼女の実家では彼女の生存について何も言っていなかった。だからてっきり死んだものとばかり思っていたけれど。
もしかしたらイザベルの実家は彼女が生きていることを知ったうえで、あえて好きにさせているのかもしれない。そう考えると、死んだと思われていた彼女を連れて奇跡的に返り咲く、だとかそういった展開は望めそうにないなと思い直す。
ともあれ、飯を食わせてもらえるならそれで良しとしようかとカイルはふてぶてしくも開き直って、目の前に出されたそれに目をくぎ付けにさせた。
こちらの大陸に流れ流れてやってきて、まだ金に余裕があった時に食べた時の刺身は最初生で魚を食べるという事に抵抗がなかったわけではなかったものの、いざ食べてみれば新鮮な魚とはこうも美味いものなのか! とカイルに衝撃をもたらしたのだ。
あと普通の焼き魚と比べて刺身は骨が滅多にないというのもカイルにとっては好むべき点であった。
路銀が尽きて、どうにか所々で日雇い仕事で食いつないでいたわけだが、最近はロクな食事にありつけていない。
海の近くとはいえ、ロクな食事もなさそうなところで新鮮な刺身が出るとは思ってもみなかった。
ついでにほかほかのご飯もある。
カイルにとってそれはまさしくご馳走だったのだ。
そして目の前の皿の上に載っているのは、これでもかと脂の乗った魚であった。
何の魚だろうか。噂に聞くトロか? あれは脂がのってて美味いと聞いている。こんな、貧相な村で出るとは思わなかったが、漁に出て自分で獲ったのであればこういったご馳走が出る事もあるのかもしれない……!
イザベルが若干嫌そうな顔をしているが、成程、今日はご馳走だったというのに取り分が減る事を嫌がっているのだな、と理解する。とはいえ、ここで遠慮している場合ではない。
これを逃せば次にいつ刺身が食えるかはわかったものじゃないのだ。
温かいご飯が盛られた茶碗と箸を手に、カイルは豪快に皿の上の刺身を取り醤油につけ口へ運ぶ。
美味い……!!
その言葉が口から出ることはなかった。
そんな余計な事を言う暇があったら、ひたすら咀嚼して食べ、次の刺身を口に入れるべきだ。一瞬たりとて余計な無駄口を叩きたくない。
醤油をつけた途端、醤油皿には魚の脂が浮いたが、こんなに脂たっぷりだとそりゃそうなるだろう、なんて思いながら皿に醤油を追加して次の刺身を醤油につける。
ワサビは自分には厳しい、と思い醤油だけをたっぷりとつけて白米と共に口に運んでいく。
見ればイザベルとその夫だと言っていた男はあまり脂の乗っていない別の魚の刺身を食べているようだったが、カイルはそんな事もあまり気にしていなかった。むしろこの脂たっぷりの魚を全部自分が独り占めできると思ったほどだ。
そうしてカイルは、脂のたっぷりのった魚の刺身を見事完食してしまった。
久々に満足いくまで食べた。
食後のお茶として緑茶が出され、それも有り難くいただく。
「食べたんならさっさと出てってちょうだい。もう会う事もないでしょうし」
冷ややかなイザベルの言葉に、先程までとは打って変わってなんて冷たい女だ、なんて思いながらもカイルはしぶしぶ立ち上がり、世話になったな、なんて言いながらも小さな家から出て行った。
先程までは今後の人生の先行きに不安を感じるどころじゃなかったし、更には空腹でもあったから物事も悪い方に考えがちだったけれど、腹が満たされれば意外とどうにかなるような気がしてきたのだ。
イザベルに縋りつくよりも、どうせならこの大陸で新たに一旗揚げてやろうか、なんて思い始める。元々上流階級の人間だったのだから、それを活かした仕事を探せばいい。そうすればこんな毎日がギリギリの暮らしなんてしなくたっていい。
単純な話ではあったが腹が満たされた事でカイルは大分前向きな思考になっていた。だからこそ、さっさとイザベルたちの前から立ち去るという選択を選べたわけだが。
「……ぜぇんぶ食べてったねぇ……害獣用の撒き餌にしようと思ってたのに」
「それはまた別のやつで作ればいいからさ。……正直、あの人の話を聞いていていい気分がしなかったんだよ」
「そりゃアタシだって何言ってんだこいつ、って思ったし何なら一発ぶん殴ろうとも思ったけどねぇ……あれは、どうなんだろう」
「いいんじゃないかな。だって彼、一言も謝ってなかったじゃないか」
「言われてみればそうだったね」
カイルはいかに自分が大変な目に遭ったか、なんて話していたけれど、思い返してみれば一言もイザベルにかつてした事を謝罪してはいなかった。
かつての令嬢と一緒にこちらに冤罪吹っ掛けて婚約破棄までしたくせに、それに対する謝罪の言葉だって一言も出ていない。そのくせ、やり直そうとかどの口が言っていたんだという話だ。
「正直ぶん殴ってやりたかったけど、流石にそれは問題だろう?
落ちぶれたとはいえ、一応貴族みたいだし」
「実家の力ももう頼れないだろうとはいえ、貴族ではあるねぇ……」
「でも、黙って見送るのも癪じゃないか」
「そうかい?」
「そうだよ。あれが馬鹿な事したから、イザベルがこうしてここに来て、出会えて結婚できたとはいえ、でもあいつのせいで一瞬でもイザベルが不幸な目に遭ったのは確かじゃないか。
自分の妻を不幸にさせた相手を黙って接待する程、心は広くないよ」
「そりゃまぁ、アタシもあんまり鬱陶しく絡んで来るようなら殴って追い出そうとは思ったけど」
以前のイザベルならともかく、前世でストリートファイトで稼いでいた事を思い出し、あれから体の動かし方を思い出して昔のように動けるようになってきた今のイザベルなら、カイルをボッコボコにするのも容易だっただろう。もう最近じゃ下手に力をいれて筋を痛めるなんて事もしなくなったし。
だが、それで一時的にスッキリしたとしても、後でまたカイルが報復に出てこないとも限らないのだ。恐らくそんな事はないだろうとは思うけれど、絶対に安心できるというわけでもない。
「直接的な暴力に訴える事はできなくても、嫌がらせできる機会があったから、ついやっちゃったよね。
ま、本人気付いてないから、後から何か言われてもどうとでもなるさ」
そう言う夫の表情はとても晴れやかなものだ。
「うん、まぁ、そうだね。……別にマズイ飯だしたってわけでもないからね、うん……」
イザベルも思う部分はあるけれど、何も食事に毒を盛ったとかやったわけではないし、後から何か言われても確かにどうとでもできそうな気はしている。
本人も何を思うでもなくぺろりと完食してしまったわけだし。食べた時点でもう手遅れではあるけれども。
「でもまさか、何の魚かも聞かずに食べるとは思わなかったよ……それもあんなにこってり脂のついたやつを」
「美味しかったから余計な事喋る暇があるならとにかく食べようっていう感じだったね。……一応聞かれたらこたえるつもりだったんだけど」
「聞いたとして、理解できたかねぇ……」
「お店では出ない魚、知る人ぞ知る、とか言って誤魔化そうかなとも思ってたのに一切聞かれなかったってのもなぁ……」
「ま、この後の事考えるとご愁傷様としか言いようがないし、一発殴るよりもあっちの方が後々大変な事になるだろうし」
「気が済んだって事? イザベルは優しいね」
「優しいっていうかさ……あんなに大量にバラムツ食べたんだからさ、後からどう考えても大惨事じゃない。どっかの町や村でそうなったらって考えたら……ちょっとそっちの人たちに申し訳ないかなぁ、と思わなくもない」
「あぁ、それもそうか。うーん、じゃあやっぱりフグでも出すべきだったかな」
「それは流石に死ぬ」
とりあえず、あのまま居座られてたら我が家で大惨事の可能性もあったというのもあって早く出ていけと言ったけれど。
カイルがどこかの町や村に着いたあたりで大変な事になるよりは、その手前あたりの街道だとかでそうなってしまった方がマシに思えてくる。
どのみち彼の服装を見る限り随分ボロボロだったので、更に大変な事になっても今更感はある。あるけれども。
そもそも前世と異なる世界に生まれたようだぞ? と思いつつも、しかし食材だとかはほとんどが前世と同じ物。だからこそ、旦那が獲ってきた魚の中に見覚えがあるそれを見て、最初これも食べるつもりか? と聞いた。だってそれは、前世であれば美味しいと言われているものの、食べ過ぎると大惨事と言われる魚だったのだ。
旦那はこれを餌にしてそこらを荒らす害獣を捕獲するための罠に使うつもりだったと言っていた。だから一応、食べやすいサイズに切り分けておいただけで。
それをまさか、かつての元婚約者が食べることになるなんて、本当につい先ほどまでイザベルだって思っていなかったのだ。
バラムツ、またの名をオイルフィッシュ。あの身にたっぷりな脂を見ればまさしくといった感じの名である。だがしかし、あの脂は人間の腸内では消化できないものらしく、ではどうなるかというと、そのまま尻から出る。
しかも腹を壊した、とかそういう感じで腹痛を訴えるでもなく、気付けば尻からするっと流れてくるのだ。
なんかぬるっていう感触がしたな? とかそういう感覚があればまだいい。場合によってはそんな事に気付かないまま下着の中で大惨事になっているのだ。気付いた時には手遅れ。
前世でも、あれを食べるなら精々一切れか二切れくらいにしておけ、とか地元の漁師さんが言ってた気がするけれど、カイルはあれをほとんど全部食べてしまったわけで。
となると、消化できずに流れ出てくる脂の量は……正直考えたくもない。
もしかしたら。
カイルにとっては一発ぶん殴られて追い出された方がまだマシだったのかもしれないな、なんてイザベルは思ったけれど。
結局どっちがマシだったのか、なんてのをカイルに聞ける機会はない。
今から追いかけて、なんてイザベルだって思ってないのだ。
村を出て意気揚々と歩き始めていたカイルが一体どのあたりで人としての尊厳を消失する事になったかは……神のみぞ知る、といったところだろうか。
とりあえず気休めにイザベルは何となく十字を切るよりも両手を合わせて合掌する事にしておいた。
本当に気休めである。