④
――近くの街で祭があった日。
色とりどりの紙吹雪が舞い、その下を流れて行く笑いさざめく人々の波。
往来の両脇には数々の露店が並び、道行く人の目を惹きつけた。
飴細工師は創造神もかくやという手並みで、熱した飴を小鳥や仔犬の姿へと変えていく。楽師は手風琴の蛇腹をうねらせては軽やかな旋律を奏で、露店に並ぶ糖蜜のかかった果実が放つ輝きは宝石のよう。
風船売りは木と皮でできた鞴を踏み、空気を送っては風船を膨らませていた。
小さな風船は大きく膨らむにつれ、真紅から薄紅へと色を変える。
人の好さそうな彼は子供たちにせがまれ、旅の話に夢中。
余所見しながら踏み続ける鞴は、彼の持つ風船へ空気を送り続ける。限界を超えて膨れた風船は、目の前で大きな音を立てて破裂した。
どうして人は、ものすごくびっくりするほど全然関係の無い事を思い出してしまうんだろう?
サリューナは目を見開いて石のように動けなくなっていた。
目の前で赤い風船が割れた時、耳が痛かった。今も少し耳が痛い気がする。
あの後、一体どうなったのか。
つややかな短い黒髪、鈍色の瞳、紅い唇を引き結んだ美女は怒りに震えながらシャマイームを睨んでいた。
彼女の少しきつい香水の芳香が、夜気に混じり漂う。
ザビーネ・ユスト―― サリューナのルームメイト。そしてサリューナが自室に居たくない最たる理由でもある。
皆で楽しい夕食を終えた頃には夜も更けていた。街灯の灯りと月の光が石畳を照らす。
夜道は危ないとシャマイームが、サリューナを女子寮まで送ってきた。玄関先で別れを告げシャマイームが帰ろうとした途端、ザビーネが寮から出てきていきなり彼の頬を平手で打ったのだった。
「いったい、どういう事?」
「それはこっちが聞きたい、ザビーネ。何で急に殴られなければならないんだ?」
溜息交じりに低く唸り、シャマイームは頬を撫でた。
「戻って来ているのに私に真っ先に会いに来ない。その上、他の女を連れている恋人への罰としては可愛いものだわ」
三日月を横にしたような酷薄な笑みを真紅の唇に貼り付けて、ザビーネはシャマイームからサリューナへと視線を移した。冷たい瞳の奥には暗い憎しみの炎が燃えている。
身に覚えの無い敵意にサリューナは、出来る事ならシャマイームの背に隠れてしまいたくなった。だが、それはザビーネの怒りを余計に買うと、必死で耐える。
「やめろよ、怯えてるだろ。彼女は俺の新しいルームメイトの妹さんでサリューナ・グルカさんだよ」
シャマイームはザビーネの視線から、サリューナを庇うように体をずらした。
「ええ、知っているわ。入寮早々ほとんど男子寮に入り浸っている私のルームメイトよ」
ねめつけるように蛇蝎視しながら毒を吐くザビーネの声は、サリューナの耳から心まで浸透していく。温厚で快活なグルカ族しか知らないサリューナにとって、それは酷く恐ろしいものに思えた。
「そういうのもやめろ。慣れない環境の変化で兄妹一緒に居たいのは自然な事だろ? それに会いに来なかったのはイェクームに捕まっていたからで、彼女のせいじゃない」
「……いつ戻って来ていたの?」
怒気を孕み低くなっていくシャマイームの声に怯んだのか、ザビーネの声から力が失われていく。
代わりにどこか媚びるような甘さが滲んでいた。
「ついさっきだよ。それに会いに来ないって言うけど、どうせ用は無かったんだろ?」
「そうよね? 用が無いなら会わなくていいのよね?」
少し軟化しかけていたザビーネの声音に苛立ちが混じる。
(どうしよう……?)
自分がいるせいかも知れないと思うのだが、サリューナは傍観するのみで何も出来ない。
「何か話があるなら聞く。サリューナさん、ごめんね。お休み」
ザビーネを促し、サリューナに詫びながらシャマイームは踵を返す。
その後をザビーネは黙って追っていく。もちろん、ちらりとサリューナに侮蔑の眼差しを向けるのを彼女は忘れなかった。
―― シャマイームはウィンクルムのルームメイトで。
―― ザビーネはサリューナのルームメイトで。
―― その二人は恋人で。
「ザビーネさんとこれからも同室なんて、やっぱり嫌かも……」
折角楽しい夕食の時間を過ごしたというのにと、サリューナは憂欝な気分で呟く。
ただでさえ苦手なタイプのザビーネ。その上またこの件で睨まれてしまった。
「とりあえずシャワー浴びようっと」
シャワールームのドアを開け、またサリューナは憂欝になる。
「う~、ザビーネさんって絶対だらしないと思う」
数本とはいえ排水溝にザビーネの黒髪がいつも残っているのを見る度に、サリューナはうんざりした。
自分のものでも嫌なのに、他人の抜け髪には余計に嫌悪感が募る。紙で包んで脱衣所のゴミ箱に捨てると、とりあえず流水でシャワールームの床を流した。
ザビーネは光皇国の出身、どうやら資産家の子女らしい。身の回りの世話等は今まで他人にしてもらってきたのか、少しこういう事には無頓着でもある。
これもまた、サリューナがザビーネとあまり同じ部屋に居たくない理由でもあった。
(シャマイームさんはこういうとこ知っているのかな?)
イェクームも好き放題言ってるようで、意外と気を使ってくれているのがサリューナ達には分かった。そしてシャマイームも一見無愛想で無口だが、他人にはとても気を使うタイプに思えた。
他人に一切気を使わないザビーネと彼が恋人というのが、サリューナには不思議で仕方が無い。
とりあえず汗を流し終えた後、洗い髪を拭きながらサリューナは自室に戻り鍵をかける。
「早く寝よう。明日は学校を案内してもらうんだし」
サリューナは枕に顔を埋め、憂欝な気分を払うように呟く。
イェクームの提案で、明日はウィンクルムも図書館通いを休んで一緒に遊ぶ事になった。
まだ校内をあまり探索していなかったサリューナにとって、楽しみな明日の予定。
(あ、でもシャマイームさんも一緒なんだっけ)
あんな場面を見た後で、どんな顔をして会うべきなのか悩む。
――――こうしてシャマイームが戻ってきた日は、サリューナにとって災厄の日となったのである。