先輩と呼ぶのは惜しい
先輩と後輩、と一言で言ってもその関係は多岐にわたる。
職場とか、学校とかでもそうだけど部活動の先輩と後輩でもまた色々ある。
うちは文芸部だけど特に課題に熱心な人は少なくて、幽霊部員が多い。
そういう私も、友達と漫画の貸し借りができるから、という理由で入っただけで、友達は漫画を借りるためだけにこの文芸部に名前を置いて、兼部している卓球部に毎日通っている。
それくらい緩くて、しかも人の多い部だから、先輩と後輩みたいな関係はほとんどない。そもそもこの部で喋ることもなければ、先輩から何かを命令されることもないからだ。
ただ一人、やたらといろんな人に声をかける先輩がいた。二年生の人で、後輩が嬉しかったのだろう。邪険にされたり変な目で見られたりしているけど、その人はめげずにいろんな一年生にアタックしているみたいだった。
「あの人は? 同じ学年ですよね」
「ああ、あいつ? クラスでもずっとあんな感じ。ずっと一人で本を読んでるの。ねー宇連」
私が聞いたのは、宇連陽無という先輩のことだった。(その名前もこの時に知った)
たまに部活にきてはいつも本を読む宇連先輩は、すごく、クールだった。絵に描いたような大和撫子で、一人ぼっちというよりも、孤高で、誰もが声をかけられないのだと思っていた。
けれどこの先輩はあっさりと宇連と呼ぶと、宇連先輩はちらと本から目を逸らしてこっちを向いた。
「この子が宇連のこと知りたがってるよ」
「え、いや知りたがっているってほどでは」
ちょっと聞いてみたかっただけなのに、突然ストーカーみたいに言うから慌てて否定する。
「……読む?」
「い、いえ、めっそうもないです」
「そう」
先輩から直接、本を渡されそうになったけど、丁重にお断りした。お断り、できたと思う。本は受け取ってないし。
「えー、借りればいいのにー」
そう言われてもまだ恐れ多い気持ちで、宇連先輩から目を離すまで目を晒す気にもなれなかった。
でもそんな風に宇連先輩を意識しているのは私だけみたいで、他の人は単純に喋る機会がないから喋らないだけであるということもわかった。
―――――――――――――
「あー、あの先輩。美人ではあるよね」
「だよね。声かけづらいっていうか」
「いやそれは別問題じゃない? 卓球部の先輩は普通だし。なんていうか、人柄の問題だと思うけど」
友達に宇連先輩の話をすると、印象に残っている分、話は通じるけど私と意見は違っていた。
「同じ部の先輩って言うけど、普段からずっとあんなんだったら同じ学校の先輩っていう方が近いかも。二年生の全員と三年生の全員に先輩って呼ぶわけじゃないじゃん。卓球部は先輩三人だからわかりやすいけど、文芸部の先輩方が何人いるかなんて数えたこともないし」
しかも、特に関わりがないからね、と友達は付け加えた。
先輩と後輩なんてそんなものだと私も思う。実際に突然先輩と呼んでも反応すらされないだろう。あーそういえば同じ部活だったっけ、と思われて、滅多に会わないお正月にだけ会う親戚みたいな距離感で接されるだけだ。
この前ちょっとだけ話した、本を貸してくれようとした、なんていうのは、忘れられている可能性も高い。私がちゃんとしていなかったし忘れてもらっている方がありがたいような、悲しいような。
「で、なんでそんな恋愛相談みたいな話してくるの?」
「いや……なんていうか、憧れかな。私もああいうクールな人になりたいっていうか」
「そういうのはちょっとクールじゃないと思うけど、空木さん既にクールな人っぽいよ」
「そもそも漫画の貸し借りのために文芸部入る人はクールじゃないよ」
「じゃ辞めたら?」
「漫画貸せなくなるけど」
「ごめんって」
「それに宇連先輩を見て学ぼうと思ってるから。クールを」
「……そういうのクールっぽくないけどなぁ」
文芸部にいるとクールじゃない、と言うけれど、私にとって初めて指標のようなものができたのだ。
宇連先輩は、いわば私にとっての憧れというものだった。
以降、週に一日か二日くらいは文芸部で漫画を読むことにした。
「その感じはクールっぽい」
「どの感じ?」
「毎日行かない、熱中しすぎない感じ」
「私も忙しいから」
宇連先輩は、調子の変わらない人だった。
教室でも本を読んでいるといつぞやの先輩は言っていたけど、部室でもこれならきっと家でもこうなのだろうと思う。
その割に眼鏡はかけていないけれどコンタクトなのかなぁ、って目が悪い前提の想像をしたり。
国語以外の成績はいいのかなぁ、って国語の成績は良い前提の想像をしたり。
本を読んでいるのかいないのか、自分でもよくわからないことになっていた。
先輩は一心だった。始まってから終わるまで、とにかく本を読み続ける。必ず三冊はカバンの中にストックしていて、一ページずつしっかり読む。
帰る時間はまちまちで、必ず一時間は本を読むけれど、遅い時は最終下校手前まで、早い時は一時間ですぐに帰る時もある。本の読み進み次第で変わっているのか、他に何か用事があるからなのか、それさえわからないけれど。
とにかく部室に来てからは真剣だった。私は漫画だってあんな風に真剣には読まないのに、先輩は集中を切らさず、飲み物を飲んだりトイレに行くこともない様子で読み続ける。
それが春の頃。
夏になって先輩は腕を伸ばして本を読んでいた。
汗で額に張り付いた髪に、半袖で見える汗の滴る腕をこれでもかと伸ばして、読みづらそうに本を読んでいた。
たぶん、汗が本に垂れるのが嫌だからあんな変な読み方をしているのだろう。
文芸部にはクーラーがない。図書室にでも行けばいいものを、先輩は意地でも放課後はここで読もうとしているらしかった。
こうなると、もう先輩がクールかどうかより我慢比べみたいに感じていた。ただ先輩の表情は暑さを疎ましく思う様子でもなく、春から変わらない様子で黙々と真剣に本に取り組むだけで、帰る時に「はぁ」と短いため息を吐いてハンカチで汗を拭う動作が加わっただけである。
そういうところは、クールだなぁと思う。私は先輩が帰ると「どはぁ」と大きなため息を吐く。
そうして私は、毎度毎度、先輩が何を読んでいるのかが気になり始めていた。
新書サイズから教科書より少し小さいくらいのハードカバーまで、色々なものを読んでいるようだけれど、ジャンルが違うものをあんな風に集中して読めないと思う。何か共通点があると勝手に思っている。
もしも財テクとか節約術とかだったら嫌だな、と勝手に先輩に理想を押し付けながら、私は来週部室で読む漫画を選定したり。
もうこの頃には春に駄弁っていた生徒も部室に来なくなり、あの喋りかけてきた先輩も先輩活動に飽きたのかすっかり顔を見せなくなっていた。
文芸部には、活動的に執筆し、部のみんなで本を出そうとしている人もいて、そういう人たちのいくらかもいたけど、その集団も半分くらいは涼しいところで本を書いているとか。
私はこの部に先輩がいるから来ているけど、先輩はどうしてそこまで部に来るのか。
家でクーラーをつけるお金がない、だから財テク術を……、なんて失礼な想像はやめた。
そして夏休みが来た。
テストや文化祭の出し物のような晴れがましいイベントも、夏休みの前には霞んでしまう。
ただ私にとっては夏休みというのはどうにも厄介な代物のようであった。
週に一度か二度、先輩を見てきた。毎日というわけじゃないから夏休みになっても先輩への興味が尽きなかったのである。
一週間ずつというのは人を観察するのにちょうどいいかもしれなかった。他の曜日の先輩がどうなっているのか、気になるから。
そのせいで、夏休み最初の月曜日に、文芸部に来てしまった。
部活のためだけに学校に来る、なんて熱血な部活じゃないことはわかっていたし、先輩がいるわけないと考えてもいたのに。
でも想像と違って、そこには十人にも満たない生徒が紙束を前に集まっていた。
活動中だったことにむしろ、やってしまったと後悔が芽生える。
「空木さん、だったっけ? 今日製本って知ってたの?」
「あ、えーと、セイホン? 知りませんでした」
「だよね、みんなには伝えてないし。えーっと……普段通り、本でも読んでおいてくれる? あんまり場所ないけど」
声をかけてきたのは、確か部長だった。眼鏡をかけているけど柔道の選手かと思うくらい体が大きくて、いるだけで少し怖い。
他の生徒も、いわゆる熱心組の人たちで、意外や意外、いつぞやの先輩もいれば、宇連先輩もそこにいた。
「セイホンって何をするんですか?」
「えっ……と、原稿を半分に折ってまとめて本にする、んだけど」
「……お手伝いしてもいいですか?」
「うん! 正直助かるよ、人が多い方が楽になるから! じゃあ、宇連とか湖南の作業を見て、できるって思ったらやってみて。別に失敗しても印刷すればいいだけだから、気楽にね」
部長が言うと、宇連先輩がちらっとこっちを見た。
どうにも感情が読めない人だった。初めて目が合った時の、本を貸してくれると言った時は何を思っていたんだろう。
「よーし、じゃ私の動き見ててね。ま、こっちからこっちの紙を半分に折ってまとめていくだけだけど!」
「は、はい」
いつぞや先輩が湖南先輩という名前を得た瞬間でもあった。欠けていた連帯感のようなものを得た以上に、面倒なことになってしまったという後悔が続く。
言葉の通りに、宇連先輩と湖南先輩は紙を丁寧に折っていく。真ん中で折られた紙が、積み重なって本になる。
普段読んでいる教科書や漫画と比べると、それ自体少し読みづらい。
それなのに、中身は小説ばかりで、しかも素人が書いた内容になっている。それを作っている。
ここまで興味がない自分に少し愕然として、また反省した。
「来てよかったねー宇連」
「……そう?」
どういう意味の「来てよかったねー」と「そう?」なんだろう。宇連先輩は普段通り、黙々と一心に作業をしながら、湖南先輩は知る限り普段通りのどこか軽薄な感じで作業をしながら、喋ったり喋らなかったり。
微妙に気まずい中に、私を混ぜないでほしい。もっと気まずくなる。
私は、私が宇連先輩と喋りたくないということに気付いた。
私にとって宇連先輩は、観察対象でしかない。憧れて先輩みたいになりたいと思って、髪も少しずつ伸ばしているけど、要するにそこまでだ。
もっと仲良くなりたいとか喋りたいとか、思っているならそうしている。
そうしていないのは、別に宇連先輩と仲良くなりたいわけじゃないからだ、先輩みたいになりたいというだけ。
もしも先輩が、仲良くなってクールじゃない姿なんて見せようものなら、きっとこの部活に来なくなるし、ざっと三ヵ月ほど通った時間を無駄に感じてしまうだろう。
先輩に対する理想の押し付けは、もう私にとってそれだけ大きなものになっていた。
別に嫌いになるわけではないけど、ただクールな女性としての目標を見失うのを避けたい。
幸い、宇連先輩は黙って作業するのも苦にならないようで、私も黙っていたから湖南先輩もやがて黙って、作業は進みに進んだ。
紙と紙の擦れる細やかな音の中、見たこともないような大きいホッチキスの本を綴じる音が挟まる。
工場の機械みたいに動くこと二時間弱、作業は滞りなく終わった。
「みんなお疲れ。空木さんもありがとうね。じゃあ僕はこの部誌を配置してから戸締りをするから。あ、空木さんは本を読みにきたのかな。基本的に夏休みは活動しないから部室は閉めているんだけど」
「そうでしたか。全然、閉めていただいて大丈夫です。あの、ちょっと、忘れ物を取りに来ただけなので」
活動しているかどうか確認しにきた、なんて言えるはずもなく適当な嘘をついて誤魔化した。夏休みは部室を使えない、それがわかったのが一番の収穫だ。
「宇連さんもありがとうね。じゃ、行ってきます」
「……」
そんな部長の短い言葉に反応することもなく、宇連先輩の無言に何を感じることもなく、他の部員と同じように帰路に着く。
夏休みの間、先輩はどこで本を読んでいるのか、そんなことが気になっていた。
私は、別に影響されたりすることもなく、毎日本や漫画を読むこともなく、夏休みらしくはしゃぐ日々を送っていた。
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「はぁ」
「悩み事?」
「久しぶりに部室に行くのに緊張して」
「へー珍しい。毎週くらい行ってたのに」
夏休みの二ヶ月近くを過ごして九月、まだまだ暑さが残る初秋、登校初日から部活動は行われていた。
そもそも夏休みに部活がないというのが文芸部のゆるいところだ。他の生徒は関係なく部活していたし、こいつも卓球部に出ずっぱりだった。
「じゃ一緒に行く?」
「貸す漫画もないのに?」
「読む漫画を貸すって体で」
いつも部室で本を読み続けるのは大変だから普通に漫画も数冊持ち合わせている。それを貸す、という形でついてきてくれるという。
優しいといえば優しい、ただそんな回りくどい演技をするなら普通に部に参加するなり、何はなくともついてきてくれればいいと思う。
ただ、言っても仕方ないから部室に向かうことにした。
文芸部の部室に入る前に、例の湖南先輩がいた。
彼女は私たちの方を見るとにかっと白い歯を見せて小走りで近づいてくる。
「なみパイ!」
「ひよハイ!」
「……は?」
近づいてきた湖南先輩と、ひよこが何故か抱き合った。積年の再会、というには空気感は軽いけど、そもそも理解できないことが多すぎる。
「どういう、こと?」
「なみパイも卓球部で遊んでたから仲良くなったんだ」
「そうそう。もうなみパイひよハイの仲なんだよ、空木ちゃん」
「その、それなに? なみパイとかひよハイって」
「湖南琳寂だからなみパイ」
「その名前呼ぶのはやめてよ〜。あ、ひよハイは逆町ひよこ後輩の略でひよハイ」
名前と、先輩後輩を略して呼び名にしているらしい。知ってしまえばとてもくだらなく、聞く必要のない情報だった。
この二人が夏休みの間に仲良くなっていることも驚きだけど、卓球と文芸部で同じ部に入り浸っているところで気が合うのかもしれない。二人とも、明るくてやんちゃっぽいし。
「……わかりづらい、その呼び方」
「えー、いいじゃんひよハイ。私これ呼ばれて嬉しいよ。まあ一番仲の良い先輩と後輩ってこういうものだと思うし」
「ないない、産まれて初めて聞いたよ。ひよハイって。なみパイって」
「別に空木ちゃんもなみパイって呼んでいいんだよ。ううん……うつハイ」
「本当にわかりづらいですって」
名前になってないし呼び方としても気持ちよくない。渾名はせめてわかりやすい方が良い。
過去に呼ばれたのはウツギ博士かウツギンチャクくらいだったから、そもそも渾名に良い思い出がないのかもしれないけど。
部室に入って、既に読書をしている宇連先輩を見て、私はどこか安心したように、夏休み前と変わらない場所で漫画本を読み始めた。
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宇連先輩と仲良くなりたくない、と思っていたのは案外私の正直な気持ちのようだった。
ひよこも部に入ったり別の交友関係を作って、湖南先輩はいろんな情報が付与されて名前を覚えるに至ってしまった。
それらは別に悪いことじゃないし、むしろそういう学生生活の変化を、自分が楽しんでいることも感じている。
ただその中で、宇連先輩は私にとって特別なように思えた。
私の中の特別の位置に鎮座しながら、夏の様子や、夏休みの作業を経ても、この人は変わっていないなぁ、と思う。
部室での姿しか見ていないだけで、きっと受験のことを考えたり、二年目の文芸部員としての立場もあったりするだろう、内面では大きな変化があるだろう、なんて想像をしても宇連先輩はそんな姿を億尾も見せない。
ただ、来て、本を読んで、帰る。
それがクールだった。
夏の残滓をわずかに感じさせる十月のこと。
白い着物を身につけた宇連先輩がいた。
怖い話で定番の、女性の幽霊そのものといった姿で。
変わらない様子の、どこか物憂げな雰囲気を帯びた表情と、手の甲が隠れるほどの着物の中で、白い肌が病的なまでに美しく見える。そのラインに流れる黒い髪はどこか濡れているように艶やかに滑らかで。
「……空木さん」
「っ……、は、はい」
名前を呼ばれたことに、いやその前からずっと心臓は鳴り響いている。本当に、お化けを見た時みたいに。
「文化祭の、お化けをするんだ。どうかな」
「こ、ゾクっとしました、すごく」
「そう。よかった」
宇連先輩は、はにかんだ。
そんな風に照れ笑うのか。
止まったままの息が動き出さない。バクバク鳴り響く心臓はいまだに止まらないのに。
今まで築き上げてきた何か、見習おうとしていた気持ちとか、つかず離れずの距離感だとか。
そうした秩序だった何かが全て崩れ落ちて、混沌の瓦礫の山がかえって渾然一体となったかのような感覚。
可愛い。とても。
それしか考えられなかった。
「……ずるいですよ」
「……何が?」
「……いえ」
宇連先輩が照れたのはそんな一瞬のことで、私の言葉に返事する姿はまた恐ろしいほどに美しい幽霊のようだった。
だから、会話が怖くて以前のような距離感に引っ込もうとしてしまった。
途端に鳴り響いていた心臓が私に訴えかける。力をくれる。
それでいいのか、空木心。
宇連陽無の何を見たいのか。
私は、空木心は先輩が可愛く照れるところが見たい。
「いえその、照れ笑いするところが、すごく可愛いのがずるいです」
「……えっ? ……何を言ってるの?」
自分でも何を言っているかなんてわからない。
ただ先輩の顔がまた赤らんできて、口元を強く結ぶように表情を変えるのを、それを見るとまたたまらなくなってきて。
「宇連先輩がそんな風に笑うなんて、思いもしなかった」
「わ、笑ってた? 私? そ……っかぁ」
忙しなく自分の髪をいじりながら、目を逸らして、恥ずかしがる、先輩がまた、良くて。
「先輩は、どういう時に照れるんですか」
「なに、その質問」
「もっと照れさせたいと思います」
「えぇ……? ……でも、先輩って呼ばれるだけで、少し恥ずかしいかも……私、後輩がいなかったから」
混乱しているのか、どうしたら照れるかまで素直に答えて、それを答えたことがまた恥ずかしいようで、今や幽霊の衣装とはミスマッチなくらいになっていた。
先輩なんて何度でも呼べる。そんな簡単なことで宇連先輩をこんな風にできるなんて。
「宇連先輩」
「う、うん」
「宇連先輩、宇連先輩、宇連先輩、宇連先輩」
「わかったから」
呆れるように叱っていながらも、確かにまだ表情は固くて、照れた様子が伝わってくる。
けれど最高潮なのは宇連先輩ではなく私の方だった。いまだかつて、これほど満たされた感覚になったことはない。
うすぼんやりと、普通にしていられることが幸せなんだよ、なんて言うけれどそれは違うと確信した。幸せというのはこの宇連先輩のことなんだと思う。
そんな飛躍をするほどなのに、一抹の不安がよぎった。
先輩なんて何度でも呼べるし、そんなのは誰にでも呼べる。
文芸部の十人ほどの一年生でも、全校生徒の百人をも超える生徒がそれをできる。
それじゃすぐ慣れるし、誰に対しても恥ずかしがるようじゃ、ダメだ。もったいない。先輩と呼ぶのが惜しいような。
「それじゃダメだと思います。先輩呼びには慣れてください」
「……どういうこと?」
「もっと照れる呼び方を考えます!」
「さっきからずっとどういうこと?」
「陽無」
一度だけ聞いた宇連先輩の下の名前を呼んでみる。
先輩が困った風に顔を赤くしているのを見ると、自分でも凄まじい勢いで熱がこもっていくのがわかった。
私は今まで何をしていたんだろう、急に冷静に現実が見えてくるのに反比例するように体は心臓の音が響くたびに温度が上昇していくようだった。
秋も中頃なこの季節、夏のように汗をかいて紅葉のように朱に染まる。
「……パイ」
「……え?」
「ひなパイ」
天啓を得たり、と思った。呼び方を変えて空気を変えようと思ってちょうどいいとさえ思った。
けれど呼んでみた結果はますます恥ずかしくて変な空気になるだけだった。
「あ、あの、ころハイとか呼んでくださいよ」
「なんでそんなバカみたいな……」
バカ!? 私のことをバカって宇連先輩は言いましたか!?
頭が揺れるようなショックを受けながらも、反論の言葉が一切浮かばずにただ宇連先輩を見つめることしかできなかった。
だってバカみたいでしょう、私。
互いに硬直していると、石を割ったみたいに第三者の笑い声が響いた。
「ぶはっ! ぐははははっ! ひっ、ひーっ! 何やってんの二人とも! さっきからコントみたいにしてもう笑うの我慢するの大変だったよー!」
「こ、湖南先輩……」
「あ、なみパイでいいよ。それより宇連は何やってんの。着替えるの恥ずかしいからってこんな端っこの空き教室に来たんでしょ?」
そう、たまたま廊下の端の方の教室からコスプレした宇連先輩が出てきたのが事の発端だった。あまりに幻想的ですここが学校であることさえ忘れそうだった。
「それは……、この子が急に変なことを言うから」
「そうなの? まあどっちでもいいや。ころハイちゃん、今文化祭のお化け屋敷の最終調整だからまた今度ね」
「お化け屋敷……でしたか」
宇連先輩のコスプレの理由を知って、湖南先輩の登場で、高まり続けた熱がようやく引いていく。
けれど冷めやらない。湖南先輩に手を引かれて、去っていく宇連先輩がこちらを見ていて、そのまま廊下の角を曲がって見えなくなったけど、私の熱は冷めやらない。
そんな放課後のことだった。
ーーーーーーーーーーー
「なんか朝から元気なくない? どしたん」
「部活行きたくない」
「ええっ! 最近部活行く日増やしそうな勢いで楽しそうにしてたのに!」
こいつの目にはそう映っていたのか。さもありなん実際楽しかったと思う。
けれど今はどのツラ下げて部室に行けばいいのかと、それがわからなくて動けないでいる。
何か言われようものなら泣きながら逃げてしまいそう、だけれどそれは自分を過大評価しているようでもあった。
あの宇連先輩が私に何か言うだろうか、いつもと変わらず黙って本を読むだけということも大いにある。
それはそれで、寂しい気もした。
『そんなバカみたいな……』
厳しい言葉を言われる方が辛そうだ。先輩の数少ない私に向けられた言葉が、私に恐怖を与えていた。もはや恐怖だ。
「ほら勇気出していこ? 私に漫画貸してよ」
「別にここでも家でも渡せるし」
「えーなみパイとの憩いの場にしようと思ってたのに」
「一人で行けば?」
「冷たい!」
あのゆるい部活は、そもそもそういうものだ。部員の半分以上は出ていない、私も不定期に出席して欠席して、行ったところで漫画を読むだけ。
いれば落ち着くぬるま湯みたいな場所が、急に熱くなってしまったのだから、寄り付かなくなっても無理はないだろう。
行きたくない、という気持ちは本物だった。宇連先輩のことを思い出すだけで、あの時の苦しい熱さが蘇る。
むりだぁ。
「話は聞かせてもらった! 任せてもらおう!」
「その声は、なみパイ!」
「じゃ、また明日」
「いや待って待って。待ってよぅ」
なぜか湖南先輩が一年の教室にやってきて、いつものように騒々しくしている。
話を聞いていたかどうかも定かじゃないけど、そもそも任せるってなんだろう。何をする気なんだろう。何かできると思えないけど。
部活行きたくないしか言ってないし。
「宇連に会うのが気まずいんでしょ」
「な、なんでそれを……」
「いやこないだのあれ見てたし、それ以外に理由ないでしょ」
その通りだった。考えるほどのことでもないのに、宇連先輩の名前を出されただけで少し取り乱してしまった。
でも、なおさら湖南先輩に任せる気にはならない。そもそもこの先輩が宇連先輩と仲がいい風に見えないから、余計なことをしそうで。
「湖南先輩、すみませんが私にその気はないので……」
「そっちがなくてもこっちはその気なの! ほらカモンカモン!」
「すみません失礼します」
「ひよハイ、そっち捕まえて!」
「え、いや私は空木さんの意志を尊重しますけど」
「あっ、そうなんだ……」
ひよこに見放されて、湖南先輩も毒気を抜かれてやる気の火が消えたらしく、私が横を通り過ぎても捕まえたりはしなかった。
「宇連がねぇ」
足を止めてしまうのはなんでだろう。
いやただの興味なんだけど、今更に宇連先輩の話を聞いてどうしようもないと思う。それで何か変わるとは思えないし、会いたいと思ったりするだろうか。
……会いたいなんて言葉が自分の中に出ることも、不思議な感覚だ。
「宇連が変でねぇ。教室でも部活でもなんか最近集中できてなくて、珍しいんだよねぇ」
「……そ、そうですか」
「最近宇連に何かあったかな〜、ころハイは心当たりとかないかね?」
「そ、それは……」
「行きたくなってきたんじゃないの〜? 文芸部に行きたくなってきたんじゃな〜い?」
「うぐぐ……」
絶対にないとさえ思っていたはずなのに、こんなにも簡単に、もう私は文芸部に行きたいと思っている。
会いたいと思っている。
「いやほんと、宇連が変になってるからちょっと会って話してよ。あんなんじゃ私の拍子が狂っちゃうって」
「そ、う、で、す、ね。宇連先輩も困っているようでしたら……」
「いやー助かる。じゃ先に行くから覚悟決まったら来てね」
なんとか言葉を絞り出すと、湖南先輩は飄々とした態度で教室から出ていった。
「いい先輩でしょ、こなパイ」
「……半々かなぁ」
宇連先輩を心配しているのか、面白半分なのか掴みづらい人だ。夏休みに文芸部に行く程度には、真面目な人なんだろうけど。
私がどういうタイミングで部活に行くかとか、部活に来そうな日にわざわざこの教室を覗きに来るくらいには几帳面なんだろうけど。
「じゃあいい先輩ってことにしといてあげる」
「別に嫌なら変な先輩でいいよ」
「ひよこ、そういうところあるよね」
ひよこの方がよっぽど不真面目だ。
ただ、二人の義理には付き合おう。
「じゃ、覚悟決まったから行くよ。ひよこに漫画貸さないとだし」
「やった。行こう行こう」
そうして奇妙な緊張感を抱えながら、既に行き慣れた文芸部に改めて向かう。
ーーーーーーーーーーー
文芸部につき、早速いつもの場所に座った。
宇連先輩とあんなことがあってから、ここに来るのに何日か経っているけれど、別に毎日来ているわけじゃないからだいたい普段通りだ。
宇連先輩もいつもの場所にいて、変わらず本を読んでいる。
とっととひよこに漫画を貸して、そのまま卓球部に向かうのを見届け、漫画本を開いて読むフリをする。
湖南先輩も宇連先輩の近くで様子を伺っている様子で、あの人が静かにしていると言う点では普段と少し違う。
少しすると、宇連先輩と目が合った。
これまで、足繁く通った文芸部で一度たりともなかった気がする、宇連先輩と目が合うなんて。
驚いてじっと見ていると、やがて二度、三度と先輩はちらちらこっちを見て、ついには本を閉じた。
「あの」
先輩が声をかけてきて、青天の霹靂に言葉を失うと。
「ころはい……」
青天の霹靂に言葉を失う。
予想できる霹靂と予想できない霹靂が同時に襲いかかってきた。
リアクションとは。どう反応すればいいのか。そもそもこれはなに。
めちゃくちゃな難題を出されたのは私の方だというのに、困り果てた宇連先輩がみるみる顔を赤くして、ついには本を置き立ち上がった。
「失礼します」
「ぶひゃっ! ちょ、宇連……ひっ! 可笑し……だめ死ぬ……笑い死……かっ……」
宇連先輩が部室を出て、笑っているのか呼吸困難で悶えているのかわからない湖南先輩がしばらくして起き上がる。
「はー、一生分笑ったかも。でキミ、追いかけなくていいの?」
「あ、あっ! 追いかけます!」
嗚呼、宇連先輩を求めて走るこの時間、なんと奇妙な。
幸い文芸部は突き当たりだからしばらくはただ走るだけ。
曲がり道の階段は上か下か、それともまだ廊下をまっすぐ進むのか。
動揺している生徒の反応を見て方向を決めて、まっすぐ行って、左に曲がって、適当に道をきめていく。
先輩の足跡は手に取るようにわかった、大きな足音と、時折驚く人の声が、少しずつ近づいている。接近している。
「宇連先輩!」
やっと背中が見えて、叫ぶように声をかけた。
でも先輩は止まらない。
「宇連先輩! 宇連先輩!」
「わかったから! ……ここ」
返事をしたかと思えば、先輩は図書準備室という場所の前に立っていた。息を切らしながら、そこに入っていく。
私もそこについていく。中は図書室に通じる扉と、書架に収まりきらない本が無造作に置かれていた。
「たまに、来るの。司書さんに許可をもらって。静かに、本を読めるから」
切らした息を整えるように、言葉を小刻みに切りながら、先輩は深いため息を吐く。
「……それで、なに? 突然追いかけてきて」
「突然走り出したのは先輩の方じゃ……」
「ちゃんと失礼しますって言った」
「じゃあ、ころはいって」
走って顔が赤かった先輩も、ころはいの四文字を聞くと口を開けたまま言葉が出てこないで。
「あ、あ、あ、あれは、あれは、その」
「一番仲の良い先輩と後輩がそうやって呼び合うんですよ」
と、確かひよこと湖南先輩が言っていた気がする。湖南先輩は誰彼構わずそんな風に人を呼んでいるし、その場の出まかせだろうけど。
「いちば……」
また先輩が、あわあわと口を開けたまま押し黙った。
こんなに顔に出る人なんだ。こんなに。
こんなにも。
先日の興奮とは違う、静かな昏い興奮が、どくん、どくん、と静かながら深い心臓の鼓動が知らしめる。
心臓をうるさく感じるのは、きっと何も聞こえなくなるからだ。何も見えなくなるからだ。
目の前の先輩以外の全てが意識からなくなって、唯一この鼓動と先輩だけを感じられる。
ともすれば、先輩は私の命そのものなのかもしれない。
なんて、言い過ぎだろうけど。
「宇連先輩、可愛過ぎません?」
「あ、あのねぇ……、そ、そもそも、ひな、パイ、みたいなバカみたいな呼び方をもうしてないじゃない」
「だってバカみたいな呼び方ですし」
「じゃあ、別に仲良くも、ない……ていうことで、いい?」
「いえ、そんな言葉じゃ表せられないほど大切に思っています」
「な、何急に」
先輩が少しずつ落ち着きを取り戻してきたのに対して、私は冷静に自分を受け止めて、落ち着きを捨てた。
二度目ともなれば慣れる。オーバーヒートした感情に慣れて、自分がどうしたいか、何を言いたいかを受け止めて上手く扱えるようになった。
「先輩と仲良くなりたいって思ってました」
「そ、そう……それは……、やぶさかではない、けど」
「じゃあ、これからよろしくお願いします。陽無先輩」
近づくと、一歩下がる陽無先輩の手をとって握る。熱い手を握って、その赤く染まった顔を見つめた。
「ちょっと、あくまで先輩として敬うくらいは……」
「はい、陽無先輩、わかっています」
「……あんまり、名前を呼ばないで」
「嫌です」
「なんで」
「陽無」
そこだけは譲らない。
「……押せば通ると思っている? そんなわけには……」
「二人の時だけ、じゃダメですか」
「……年下の子に、呼び捨てなんて」
「私も心でいいですよ」
「それ、譲歩になっている?」
「いえ、呼んでもらいたいだけでした」
「もう……」
まだ恥ずかしそうに目を逸らすけれど、先輩も少しずつ慣れてきて会話をこなしている。
私なんて意味わかんないやつを相手にしてくれる懐の深さに今は甘える。この人は引いたらどこかへ走り去ってしまうから。
「抱きしめていいですか?」
「だからなんで」
答えを待たずに疲弊した様子の先輩に思い切り抱きしめた。古書の匂いの中でほのかに藺草の香りがする。
体は熱くて、秋の中こもった部屋の温度は私たちのせいでますます熱を帯びているようだった。
「……自分勝手な人も、距離感のわからない人も好きではないの」
言いながら、先輩は私の背に手を回す。
「これは?」
「……聞かないで」
より強く、陽無先輩を抱きしめた。
ーーーーーーーーーーー
「あ、おかえり宇連。ころハイちゃん。どうだった?」
「どうってなんですか?」
「……まあ、仲良くなれたけど」
部室に二人で戻ると、湖南先輩以外は不思議そうな顔をしていた。
湖南先輩は何をどう予想していたのか想像もつかないけど、にやにや嬉しそうに笑っているのを見るとだいたい予想通りにいったのかもしれない。
にしても、仲良くなれたって、あの先輩が言うなんて。
「宇連ねぇ、同級生とか年上はどうでもいいくせに後輩には慕われたり尊敬されたいって思ってんだよね。ロリコンだ」
「湖南さん……もう二度とあなたとは口を聞かないから」
「や、それは困る! いやここまで宇連が熱入るとは……本当に拍子が外れるよ」
二人が仲が良いというのも、案外本当なのかもしれないと思った。
陽無先輩がロリコンかぁ。それは私が困らないならいいけど。年下に好かれたいというのは割と誰にでもある気持ちだと思う。
でも私みたいなわけわからないやつでも嬉しいのだろうか。
「私、意味わかんなくないですか?」
「ええ、本当にわけがわからない」
「いいんですか?」
「……いいの。受け入れるのも先輩の度量だから」
本当に、先輩という立場に重みを感じて大事にしている様子だった。あるいはその立場を楽しむかのような物言い。
先輩という立場が先輩の気を引き締めている、とすればやっぱり先輩と呼ぶのは惜しい。
私は可愛い先輩が好きだから。