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僕が満員電車に乗る理由

作者: すずめじろ

 週に二度、通学に使う満員電車で、奏大(かなた)はリュックを胸の前でぎゅっと抱き、つり革も掴めない中で目を閉じて、無意識にバランスを取りながら不安定な揺れに身を任せていた。

 最初は駅から続く人の波に圧倒され、ストレスでどうにかなるかもしれないとまで思ったが、それも段々と日常になり、茹だるような夏の盛りを迎える頃には、半ば寝ぼけたままで電車に揺られるのにもすっかり慣れている自分に驚く。

 ひとつひとつ新しい環境に馴染んでいくうち、目に見えた変化があるわけではないけれど、自分も大学生らしくなってきたと実感できているのが素直に嬉しい。

 それは他人にとってはごく些細で、喜びを感じるような事ではないのかもしれない。でも奏大にとっては大きな進歩で、良い兆候だった。

 幸と不幸は平等だ、なんていう俗説をほんの少し信じても良い気がしてくる。もし本当にそうなら、奏大にはきっとこれから良い事ばかりがあるはずなのだ。

 そう思っていた矢先だった。


「…えっ?」


 腕を引っ張られた奏大が、はっとしてその大きな目を開いた時、目の前に立っていた見ず知らずの女の唇の動きがスローに見えた。

 ただ、寝ぼけていたせいか、或いは暑さにやられていたのか、ぼんやりした意識はそれが放った言葉を理解できない。

 不思議と、嗅覚だけははっきりしている。

 混じり合う様々な匂いの中に、知り合いが以前付けていた香水と似た香りがして、そういえば「後で返す」と言っていたジュース代、まだ返してもらってないや──なんて、呑気に思い出したのは一瞬だった。


「──っ!」


 掴まれた部分からゾッと這い上がる猛烈な焦燥感に追い立てられる。本能が警告を鳴らすように、一気にぶわっと汗が吹き出してくる。

 再び赤いリップを歪ませながら叫んだ声を、ようやく奏大の脳は理解した。


「この人痴漢です!!」


 目眩を感じながらもぐるりと見回した満員電車の中で、視線を集めていたのはその女と、女に腕を掴まれている自分。

 細い指が食い込んで痛いのか、全身の体温を奪い去る悪寒に震えているのか、指先がぶるぶると痙攣していた。


「…お、俺?」


 奏大は痴漢なんてした事は勿論ないし、しようと思った事だってない。

 ──当然、していない。するはずがない。そもそも居眠りしていた間、両手はずっとリュックを抱いていた。目を閉じていたから、正面に女の人がいた事にも今初めて気が付いた。

 それに、何より──。


「…いや、あのっ、」


 電車がゆっくりと速度を落とし、ホームで停止する。誰かが奏大の二の腕をがっしりと掴んで、混み合う車内から奏大を外へ連れ出そうとする。

 竦む足がもつれた。弁解したいのに、掠れて声がまともに上げられない。

 車内から湿り気を帯びた不快な熱気の纏わり付くホームに引っ張り出されても、解放感は少しもなかった。

 まるで無力になったようで、ただただ恐ろしくなる。ひたすらに悪い想像が奏大の裾の下からじわりじわりと染み込んでくる。

 恐ろしさと、憤りと、怒りと、情けなさと、心細さが溢れ出して、泣き出したくなった。


「待って下さい」


 ホームに立つ奏大が背後からその声を聞いた瞬間の感情は、スイッチを入れてひっくり返るミキサーの中のようにぐちゃぐちゃで、ただ大きな瞳を見開いて、声の主を呆然と見つめる事しかできなかった。


「彼じゃありません」


 青年が追い掛けるようにホームへ降りたのと同時に、電車のドアが閉じる音を聞いた。




「奏大が痴漢…? ぶ…っふは! 何それ!?」

「ありえね~!」

「いや、これマジで笑い事じゃないっすから」


 げっそりした奏大をとは対照的に、見目麗しい二人の先輩達が無神経にも騒々しくゲラゲラと腹を抱えて笑っている。

 もう少し労るような、慰めるような言葉を期待していた奏大は、子供っぽくつんと口を尖らせて二人を睨み付けた。


「いや、だって…ふ、ふふ…」

「お前が痴漢てありえね…そもそも見るからにしそうにないじゃん、なあ?」

「性犯罪って、女受けの良い男のが多いらしいですよ」


 ──と、疑いの目を向けてきた駅員の言を、まるで自分の知識かのようにトレースしてみたものの、それが自分を自白させるための与太話だったのか、事実だったのか、奏大には分からない。

 分からないからといって、詳しく調べる気にもならない。今はあまり考えたくない。

 善意の第三者のおかげで、奏大の冤罪はすぐに晴らせたが、思った以上に精神的疲労が胃の辺りにずっしりとのしかかり、普段は呆れられる程旺盛な食欲も振るわなかった。いつもならすっかり平らげているだろう大盛りのあんかけ焼きそばは、まだ半分ほど残っている。


「しかし親切な人がいるもんだ」

「ほんとほんと、ラッキーだったね」


 それは全くその通りで、実際は何一つ悪い事はしていないのに、突然犯罪者扱いされた奏大の挙動不審さといったらなく、もし自分が第三者であれば女性の言い分を鵜呑みにしていたかもしれないとすら思う。

 結果的に無実は証明できた、とは思うけれど、もしもあのスーツの男性が助けてくれなければ、今頃はまだ駅か、或いは警察署で詰問されていて、今日はこうして大学に来る事すらできなかった可能性もある。


「まぁ、そうなんですけど…」


 けれど、奏大は内心複雑だった。

 あの男性の親切心と正義感に、心底感謝しているのは間違いない。でも、それは──。


「赤の他人を助けに入るのって勇気いるよなぁ」

「社会人だったら尚更じゃない? 通勤途中でしょー、遅刻確定だもんね」

「でも、北原は真っ先に飛び出していきそう」

「え~、篠野(しのの)、僕の評価高すぎ?」

「んひひ〜」

「へへへ〜」

「…」

「なに奏大、何か言いたい事でもある?」

「いいえ~なんにも~」


 そうなのだ。奏大も、被害を訴えた女性も、親切に冤罪を晴らしてくれた男性も、決して短くない時間その場に拘束される事になった。当事者である奏大と女性はともかく、男性は全くの無関係だったにも関わらず、それに付き合ってくれたのだ。

 引き止めてしまったという申し訳なさで、決まり悪く俯いていた奏大が辛うじて礼を言うと、彼は非礼を咎めるどころか優しく微笑んで、挙げ句に「余計なお節介だったらすまなかった」なんて言い残して、恨み言ひとつ口にせず去って行った。


 事実、それは余計なお節介だった。奏大は本当なら、彼に助けてもらう必要などなかった。自分だけで、十分に冤罪は晴らせたに違いない。冷静になればそう思う。

 それでも奏大はその時、彼に差し伸べられた手に、掛けられた言葉に、救われた。

 あの状況下で、唐突に、強烈な疑いの視線を浴びせられ、やっていないと確信のあるはずの事さえ自信がなくなるほどパニックになりかけた──いや、なっていた。そこに、たった一人でも味方がいるという事が、どれほど有り難かったか。

 けれど同時に、奏大はそんな自分が酷く情けなかった。情けなくて、申し訳なくて、恥ずかしかった。


「うわ、有名企業だ」

「エリートやぁ」


 貰った名刺を代わる代わる覗き込む先輩二人が、感心したような声を上げる。

 きっと彼には自信があったのだろう。自分が社会的に信用に足る人間だと。だからすぐさま素性を明かし、その場に居合わせた第三者として冷静に証言してくれた。彼は腕を掴まれるまで、ずっとリュックを抱いて寝ていました──と。

 駅員も被害者女性も、最終的には彼の意見に納得し、奏大は無事に無罪放免となった。


「でも、実際その女の人は痴漢に遭ってたんだろ?」

「みたいですね、頻繁に狙われてたらしくて、神経質になってたっぽくて」


 理不尽な冤罪を掛けられそうになり最初は憤りもしたが、女性もパニックになっていた結果起こってしまった不幸な勘違いだったのだと、話を聞くうちに同情の気持ちすら抱いた。

 何度も屈辱的な目に遭い、恐怖心を肥大化させていた彼女には、奏大も、他の男性も、犯人も、全て等しく悪意ある他人に見えていたに違いない。それを、今となっては責める気など少しもなかった。

 というよりも、奏大だからこそ、その気持ちが理解できるのかもしれない。

 寧ろ奏大にとっては痴漢に疑われた事よりも、こんなにも身近でのうのうと犯罪行為が行われているという現実を目の当たりにした事の方がずっとショックだった。


「ホント許せねえ」

「人間のクズだわ」


 恐らく奏大のすぐ傍にいたであろう本当の犯罪者は、無関係の人間を装って今も普通に社会に紛れ込んでいる。あまりに、卑劣で許しがたい。同じ空気を吸っていると思うだけで胃がむかむかしてくる。こんな目に遭ったから尚更だ。


「まぁまぁ、そう落ち込むなって」

「そうそう、もしまた疑われたら、僕らがちゃーんと無実を証明してやるって。な?」

「うんうん」

「証明って…」


 全く真逆の路線で通学している先輩達がその場に居合わせる事はあり得ないのに、一体どうやって証明する気なのだろう。

 無茶苦茶を言っているとは思いながらも、ただ、後輩を思いやる優しさは辛うじて伝わってきて、奏大は歪なりにも笑顔を浮かべた。

 二人の手を渡って一周してきた名刺をもう一度見下ろし、丁寧に財布の中にしまう。


「…お礼とか、した方がいいですよね…菓子折とか…」


 学生のセンスで選んだ手土産程度で、お礼になるかどうか。わざわざお礼がしたいなんて連絡したら、その方がよっぽど迷惑なのではないか。

 ぶつぶつ呟く奏大は「ようは気持ちが大事だから」という、先輩からの曖昧なアドバイスにふうと溜め息を吐いて、残りの焼きそばをかき込んだ頬を膨らませた。


 奏大は後ろめたさからなのか、それ以来、朧気なその人の姿が時折脳裏をチラついて離れなくなった。




 大学から離れた場所に住んでいる奏大が一時限目の講義を受けるには、嫌でも満員電車を避ける術はない。だから、奏大は今日もぎゅうぎゅう詰めの電車に恐る恐る乗り込んだ。

 出来る限り女性のいない場所を探して一度はほっと息を吐くけれど、隣にいる人間が、無害な一般市民を装った人間が、卑劣な犯罪者でないという保証はどこにもない。そう思うと、逃げ場をなくしたような、絶望的な気持ちにすらなる。

 ようやく慣れたはずの通学時間、奏大はピンと神経を張り詰め、両手を強く握り、以前よりもぎゅっとリュックを抱きしめ、電車に揺られる。

 ──また最初に逆戻りだ。

 それが憂鬱で、数日もすると朝起きるのが明らかに辛くなった。


 その頃になってようやく、奏大は名刺に書かれた連絡先に電話を掛ける決心ができた。

 会社の番号と並んで個人の電話番号も書かれていたが、奏大は知らない電話番号からの電話を取るのが嫌いだ。考えた末、会社に電話を掛けて取り次いでもらった。

 会社に電話を掛けたら、恐らく遅刻で咎められたであろう彼のフォローに、多少はなるかもしれない、なればいい、という打算もあった。

 電話口でどういうやり取りをしたかは、もうあまり思い出したくない。慣れないとはいえ何度もどもってしまった事を思い返すと、恥ずかしさのあまり消えたくなる。

 それに比べて彼は──凪生知幸(なぎおともゆき)という男性は、やはり冷静で、大人びていて、優しかった。

 改めて場を設けようかと提案してもらったが、それはあまりに申し訳なく──菓子折を渡してお礼をするだけなのだから、どう考えても場を持たせる事ができそうもない、という結論に至った──結局、せめてお礼の菓子折だけ手渡したいからと、通勤途中の駅で待ち合わせる事になったのは良いものの、やっぱり迷惑だったかもしれないなんて考え始めると際限なく落ち込んで、うだうだとベッドでのたうっている間に朝が来た。




 奏大は大学へ行くまでに二度電車を乗り換えるのだが、凪生とは丁度一つ目の乗換駅が被っていた。所謂ハブ駅というやつで、混雑していない時間帯がないのではないかと思うくらい、常に人が多い。

 いつもより一本早い時間の電車で駅に着くと、ベンチに座っている会社員はほどなくして見つける事ができた。ちゃんと目を合わせられたのは、二度あったかどうか。正直分からないかもしれないと不安だったが、何て事はない。一目見て彼だと確信した。

 つい足を止め、スマホと睨めっこしている姿を遠目に窺う。

 丁寧にセットされたアッシュブラウンのオールバックは、会社員にしては明るい色合いだが軽薄さは微塵もなく、寧ろ垢抜けていて洗練された雰囲気があった。

 眉のキリとした知的な横顔の中にちょこんと乗っかる鼻の曲線と、ぽってりしていて少し突き出した下唇は愛らしいギャップだと思う。そのせいだろうか。鋭い目元がクールには見えるが、怖い印象はあまりない。

 先日の一件で彼が優しい人だというのは分かっているし、勿論、怖くはないのだが──何せ奏大は人見知りする方だった。兄弟の後ろに隠れていた幼少期に比べればマシになったが、あまり面識のない相手と一対一で会うのは今でも苦手意識がある。

 しかし、そうも言ってはいられない。

 ごくりと喉が鳴った。深呼吸は少し空回りしていた。奏大は三度足を止めながら、ようやくその人の正面に立った。


「…お…おはようございます!」


 意を決して──決しすぎて、がばっと頭を下げた勢いそのまま、バネのように起き上がった奏大は、行き交う人からちらちらと視線を向けられ、すぐさまいたたまれなくなる。内心、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、かといって逃げ出す勇気もなかった。

 しかし、スマホの画面に集中していた当の凪生は、そんな端から見ると滑稽でぎこちない奏大の様子もさして気にする事はない。突然声を掛けられた事に驚きはしたものの、明るい表情を見せてすくと立ち上がると、あっという間に視線の高さが逆転してしまった。


「あぁ、おはよう」


 あの日の事を思い返すと、暗いスラックスの色ばかり記憶に残っていたけれど──いや、それは奏大がずっと俯いていたせいで、他の部分をろくに視界に入れる事ができなかっただけなのだが──今日は涼しげなライトグレーだ。

 一瞬ぼうっとしかけたが慌ててお礼と謝罪を、やたら選ぶのに時間が掛かったデパートの菓子折と共に差し出すと、凪生は照れくさそうに微笑んでから、それらを快く受け取った。

 そうして頬に現れた愛嬌あるえくぼを確認した途端、奏大は急にどこを見ていいか分からなくなって、自分の爪先を覗き込んだけれど、頭の中は今しがた見た映像が勝手にリプレイ再生し始めている。

 顎が小さくて、顔も小さい。モデルみたいな等身だ。素直にかっこいい、と思った。

 ナマモノじゃないから大丈夫です、とか、ご迷惑をお掛けしたので会社の皆さんと食べて下さい、とか、一生懸命考えた言葉を一通り言い終えて顔を上げたが、切れ長の目元と視線がぶつかると、やはり堪えきれず逸らしてしまう。


「…大丈夫?」


 不意に尋ねられて再び怖ず怖ず見上げると、愛嬌のあるえくぼは残念ながら消えていて、どこか心配そうに眉尻を下げた凪生が、数センチ高い位置から猫背の奏大を見つめていた。


「え、あ…何が、ですか?」

「顔色、良くないように見えるから」

「そ、ですかね…」


 それなら、まだいい。茹で蛸みたいになっていないだけマシだ。いや、なっているのかもしれない。確かにそれはそれで良くないだろう。


「あんな事があったら、神経質にもなるよね」


 ですかね、なんて、また曖昧に返事をした。間が抜けている返事だと心底呆れた。

 そうこうしているうち、乗車率が既に二百パーセントほどありそうな通勤電車がホームへと滑り込んできて、成り行きで並んで電車を待っていた二人が一緒に乗り合う事になったのは、ごく自然な流れだった。

 周りを意識してそわそわしながら、落ち着かない身体をできるだけ小さくするように、やはりリュックをぎゅっと抱き寄せる。


「端に寄りなよ、こっち」


 そんな奏大を見て凪生は何を思ったのか、そっと肩を押して壁際の方へと誘導した。全体はすらりとしているが、男らしい厚みのある凪生の体躯に人混みが遮られる。

 改めて間近に見る半袖から覗く二の腕は思ったより筋肉質で、ほどよく日に焼けたような小麦色だったが、もしかすると地の色なのかもしれない。色白を良く褒められる奏大だから余計に、男性的で羨ましいと思う。


「あの…」

「大丈夫、キミの無罪は俺がちゃんと見てるから」


 だから俺の無罪も証明してくれよ、と、彼は茶目っ気たっぷりに笑った。



 その後は何か、取り留めの無い事をいくつか話したような気もするが、あまり覚えていない。グリーンとオフホワイトのストライプが入った凪生のネクタイの先が、電車の揺れに合わせて時折、手の甲を撫でるのが気になって仕方がなくて、話しかけられても上手く答えられなかった。

 すぐ傍に立つ凪生は香水らしきものは付けていないようで、だからといって男性的な体臭もしない。傍で呼吸する度、お日様で乾かした洗濯物みたいな、優しくてほっとする匂いが肺を満たす。

 しかし奏大は安心するどころか、終始緊張して身体を強ばらせていた。

 今まで感じていた恐怖心や羞恥心とは、きっと違う。ただ無性に、心臓がキリキリとしていた。




 それからというもの、平日の朝、この満員電車に乗る時はいつも凪生と顔を合わせた。示し合わせたわけでもないのに、凪生は奏大と隣り合わせで電車を待ち、並んで電車に揺られ、次の乗換駅で降りる奏大をにこやかに見送るのがお約束になった。

 時折女性が傍に来るとさりげなく場所を入れ替えたりして、奏大を気遣ってくれるのは素直に有り難い。時間と共に不安な気持ちは薄れていったものの、女性の傍に近寄るのは抵抗感は消えないままだったからだ。

 いっそ電車という空間それ自体もトラウマになる寸前だった奏大は、凪生がいなければ真面目に大学に通うのを諦めていたかもしれない。


 けれど、親しくなるどころか会う度奏大の緊張感は増していった。

 電車の中だからというのもあったが、未だにろくすっぽ会話らしい会話もできずにいるのは、いくらなんでもおかしいと思う。人見知りはするけれど、ここまで内向的ではないはずだった。

 親しくなくたって、愛想笑いくらいはできる。他愛のない会話を交わすのも、大学生活で必要な生存スキルとして、多少は身に付けた、はずだった。

 変だ。おかしい──いや、分かっている。いい加減、その違和感の正体には、気が付いている。

 だから、そのルーティーンに慣れれば慣れるほど、考えてしまう。果たして”これはいつまで続くんだろう”と。

 毎朝顔を合わせるだけ。ただ少し、名前を知っている程度で、他人以上、友人未満、もしかすると知人以下の関係だった。

 明確に約束した始まりがなかったばかりに、やめるキッカケもなかったが、もし気まぐれに電車を一本変えてしまえば、それだけで何事もなかったかのように終わるだろう。

 それがもどかしく、口惜しく思ってしまう。


「そりゃ恋だわ」

「ですか」


 北原は殆ど殻になったビールの缶を軽く振って中身を確かめると、残りを一気に煽って流し込んだ。

 ビールって、どうして最初の一口が一番美味しくて、最後の一口は最悪に不味いんだろう。そんな事をぼやきながら次の缶に手を伸ばしている。

 背中の下にクッションを積み上げたり、靴下を放ってだらしなく裸足を投げ出したり、勝手にテレビのチャンネルを切り替えて、まるで家主のようなくつろぎ具合だが、生憎とここは奏大の実家だし、奏大の部屋だ。


「いやぁ、僕だって、もしそんなお兄さんいたら惚れちゃうって」


 寧ろそんなお兄さんになりたい、なんて冗談をぼやく男に軽蔑の眼差しを向けるが、本人は痛くも痒くもなさそうだった。

 とてもじゃないがこんな話、外では落ち着いてできそうもなくて、奏大は思い切って自腹でビールやチューハイを用意し、先輩を部屋に招いた。相手は酒豪だ。結構な量のアルコールを買い込むのは、学生にはかなりの痛手である。


「あ、僕この俳優さん好き」

「北原さんって面食いですよね」

「いや、イケメンは皆好きでしょ」

「俺はしのさんの顔に慣れてからは、テレビ観ててもイケメンだなーって思う事あんまないですけど」

「あれはイケメンの括りからはみ出してるからノーカンで」


 ──というのに、肝心の話題はそれであっさりと終わってしまった。

 それもそうだ。話を広げようにも相手を知らなすぎる。奏大に至っては彼の名刺をちらりと見ただけで、顔すら知らないのだ。


「しかしまぁ、通勤時間とかぶるなんて、早い時間から大変だねえ」

「遠いんですもん、しょうがないじゃないですか」

「うち来る? 楽だぞ~、ギリギリまで寝れるし、全然混んでない」

「先輩と一緒にいたら素行悪くなりそうなんで遠慮しときます」

「つれないなぁ」

「それに、邪魔でしょ。俺がいたら」

「なぁに言ってんの、そんなわけないじゃん」


 ふ、と笑った横顔が、細まった目が、気にしてませんって涼しい顔をして、本当のところはいつも一緒にいるもう一人の先輩の事を考えているなんて、奏大でも察しが付く。

 残念ながらアルバイトで予定が合わず、今日ここにはいないけれど、二人の先輩は奏大でも呆れるくらい四六時中一緒にいた。四六時中一緒にいない奏大に何故それが分かるかというと、二人の話は別々に聞いても大体同じ内容で、常にお互いの名前が出てくるからだ。

 北原が「目に入れても痛くない」と豪語するほど可愛がられている奏大ですら、その間には絶対に割り込めないと思う程なのだから、そこに混じって暮らすなんて想像しただけでも気疲れしてしまう。

 でもそれが、憎たらしいほど羨ましい。笑ってしまうほど愛おしい。

 自分もいつか、そんな人に巡り会うのだろうか。会えるのだろうか。それとも、もう会っているのだろうか──それが、あの人なら良いのに。


「…奏大」


 そうして取り留めのない会話に花を咲かせ、大いに酔いが回ってきた頃、北原は不意に思い出したかのように表情を引き締めて言った。


「やっぱり、もう告白するっきゃない」

「いや無理です、ほんと、絶対、無理」

「じゃあさ、こう、さりげなくボディタッチとかして、アピールするとか」

「それ、痴漢と同じじゃないですか。犯罪ですよ」

「でも、満員電車で密着してる間にちゃっかり匂い嗅いじゃったりして、きゅん、ってなってる時点で結構ヤバイと思うけど」

「不可抗力ですし」


 否定はしないの、というツッコミは、ぷいっと顔を背けて無視をする。


「…わざわざ用もないのに通勤ラッシュの時間に通学しといて?」


 しかし、続く言葉に「ぐう」と短く呻き声を上げた。


「ふ…ふかこうりょくです…」


 大学へ行く度に満員電車に乗る必要など、本当はない。一番早い時間に講義が入っているのは、週にたった二日だけしかない。それなのに最近の奏大は、通学日になるといつも早く起きて電車に乗った。

 それが、何の意味も無い事は分かっている。分かっていても、身体は勝手に決まった時間に目覚めるようになり、足は勝手に駅へ向かう。やめようと思っても、心臓がキリキリとして、苦しくて、いてもたってもいられなくなる。

 ──つまり、不可抗力なのだ。


「思考がモロ童貞…あ、ごめんごめん、童貞だもんねしょうがないね~、ヨチヨチ」

「あ~、何なのこの人」

「それで? いつまでもずっとそんなままでいる気? 友達でも何でもない相手に、そこまで尻込みしてどうすんの」


 それは、自分で自分に何度も繰り返し尋ねてきた質問だった。しかし何度尋ねても、奏大はちゃんとした答えを出せずにいる。


「はぁ~、まどろっこし、めんどくさ、寝よ~!」


 ごろごろと床の上に身を投げ出し、クッションを抱き寄せて目を閉じる先輩を見下ろし、溜め息を吐きながら奏大もまた、酔いに任せてベッドに身を投げる。

 手探りで枕元のリモコンを掴みボタンを押すと、”ピ”という短い音と共に明るかった電気は常夜灯の小さなオレンジ色に切り替わり、途端シンとする部屋には、エアコンの小さな駆動音と二つの微かな呼吸音だけが揺蕩っていた。


「…明日、楽しみだなぁ、早起きできるかなぁ~」


 酔っていつもよりワントーン低い、甘い掠れ声で北原が呟く。ふふふ、という笑い方が不気味だ。


「…変な事しないで下さいね」

「しないよ、お前じゃあるまいし…」


 失礼だ。いくら片想いを拗らせているとて、変な事などした覚えはない。

 でも、アルコールではない何かが胸に焼け焦げ付いて、奏大は今日もぎゅうと唇を引き結んで薄いタオルケットを頭からかぶる。

 次第に、まるで酸素の薄くなった電車内にいるみたいに息苦しくなると、やはり思い出すのはあの匂いだったし、うとうとする奏大の遠のく意識に呼びかけてくるのは、少し早口だけど優しいあの声だった。

 タオルケットの向こうで、スマホのバックライトがぼんやり光っているのが見える。それが消え、北原の小さな吐息が細く、長く吐き出されたのを耳にしてから、奏大はゆっくり眠りへと落ちた。




 二日酔いでいつもより丸くなった顔をした北原と、対照的にすっかりアルコールが抜けきってスッキリしている奏大が駅で電車を待っていると、やはり程なくして凪生はやってきた。

 今日はベージュのチノパンに濃紺と青褐色のポロシャツ。ビジネスバッグを持っているから辛うじて出勤途中なのだと分かるが、クールビズとはいえここまでカジュアルなのは珍しい。それにしても相変わらず、腰の位置が高すぎやしないか。


「わ、足長! モデル!?」


 二人がいつも通り挨拶を交わす傍から、ひょっこり顔を出した北原が上げた大きな声に、凪生は一瞬たじろいだ。しかし驚きながら「お?」と首を傾げる表情から、不快感を感じている様子はなくてほっとする。


「友達?」

「あ、こちら、僕の先輩です」

「どもー、後輩の家で宅飲みして雑魚寝した二日酔いの先輩です~」

「はは、どうも。仲良いんだね」


 二日酔いでもぺらぺらと出てくる軽口に、舌打ちしたくなるのを唇を引き結んで堪えた。

 こういうテンションの時の北原は扱いに困る。そして、困っている奏大を見て尚更面白がっているのが明らかに見て取れるから腹立たしい。この可愛らしい笑顔が悪い顔に見えているのは、奏大だけかもしれない。可愛い人は得だなと思う。


「…二日酔い?」

「俺は違いますよ!」

「本当か?」


 すんすんと鼻を鳴らす音が耳元で聞こえ「ひっ」と声が出そうになる。けれど、凪生は涼しげな顔で、何事もなかったかのように線路へと目線を向け、電車が来るのを待っていた。

 奏大の真っ赤になった耳を見たのは、幸か不幸かニヤニヤと笑っている北原だけだった。


「うわ、この路線、密度エグい…」


 満員電車に慣れていない北原は、奏大の真正面で息苦しそうに肩を上下させる。

 可哀想に思って半歩にも満たない距離だが後ろに下がった。真後ろにいる凪生にくっつこうとしたわけでは、勿論ない。

 しかし、北原は逆に奏大の腰をぐっと引き寄せた。


「窮屈だろ、もちょっとこっちきな」

「や、大丈夫です」

「いいからぁ、痴漢が出ても先輩がガードしてやるよ」


 なんて飄々と笑っているが、それを言うなら先輩の方が心配だった。

 今日はちょっと顔が浮腫んでいるけれど、それでもその引き締まった身体を強調するタイトなジーンズや、筋肉の隆起を見せつけるようなぺらぺらのTシャツは、彼の魅力を惜しげもなく引き立てている。

 しかも、いい匂いがするし。その匂いだって、香水だけのものではない気がする。何か、この人特有のフェロモンのようなものが混じって、人をそわそわさせる香りなのだ。

 この人は無自覚でこうしているわけではない。自覚しながらも隠そうともしない。そんなだから、きっと相棒の篠野は苦労しているのだろうなと、奏大はこっそり溜め息を吐いた。


「いや、されないでしょ俺は…」

「分かんないじゃん。奏大は可愛い顔してるからなあ」


 むっと睨み付けると、誤魔化すような笑顔で返される。こんなガタイの男に可愛いだなんてと噛み付いても、どうせひょいと躱されるだけ。エネルギーの無駄遣いだと知っているから何も言わない。


「僕なんかこの間、ガッコ行く途中で知らない女の子に腕組まれたよ」

「それ、北原さんが忘れただけなんじゃないんですか」

「うーん、一理ある…」


 小声で会話しながら、少し距離を置こうとすると北原は尚更近付いてきて、挙げ句足を絡めたりしてからかってくる。すみません、この人痴漢です。

 凪生はというと、二人の会話に混ざる事なく、しかし後ろにはずっと立っていて、時折ちらりと振り返る奏大を微笑ましげにニコニコと見守っていた。ほんの数センチの距離感に、背中がもぞもぞする。

 優しい香りをかき消してしまう北原の匂いが、こんなにも腹立たしく思えたのは初めてだった。



 折角引き合わせたのだから何かしらの感想が貰えるかと思っていたけれど、結局そんな事はなく、「何しにきたの?」と嫌味を言った奏大に、北原はさっきまでのテンションはどこへやら、ツンとして何も答えなかった。

 下唇を出して肩を竦める篠野と顔を見合わせ、無言のまま放っておくという結論に至る。まぁ恐らくは、奏大の与り知らないところで篠野が機嫌を取るのだろうけれど。

 その後”ファッションの参考にする為に”今朝凪生が着ていたようなポロシャツを探しインターネット上を漁って回り、見つけたポロシャツの値段が想定より桁ひとつ多かった事に打ちひしがれていると、篠野はそんな奏大に止めを刺すように「お前、ポロシャツ似合わんそう」──と、けろりとした顔で言った。

 先輩達は冷たい。




 月曜日は他の曜日に比べても特に混み合う。混雑するホームの中にあって、それでも周りから頭ひとつ分背の高い凪生の姿を見つけるのは容易い。もしかすると、身長のおかげだけではないのかも、しれないけれど。


「今日は彼、いないんだ」


 普段通りのビジネススタイルに戻った凪生は、確認するように奏大の背後をちらりと覗き込んだが、当然あの先輩の姿はない。

 奏大は週末の間、凪生と北原を会わせてしまった事を度々後悔していた。

 篠野だったならまだ良かったかもしれない。篠野は友人の前でこそひょうきんなところを見せるけれど、基本的には大人しく物静かな男だ。

 でも、北原は良くなかった。彼が良い人なのは百も承知だが、楽しくなると向こう見ずで、テンションと勢い任せになるからヒヤヒヤさせられる。

 それに、ただでさえ気の置けない友人との他愛ないやり取りを見られるのは落ち着かない。きっと子供っぽく思われているに違いない、と、つい卑屈な想像が過るから。


「あ、はい、あの日はたまたま、です」

「そっか」


 会話が途切れると、何か話そうとしてもどかしげに奏大の唇は動くのだが、結局話題を見つけられなくて唇を噛んだ。

 せめて、何か、話ができたら良いのに。どこの駅で降りるのか、どんな仕事をしているのか、歳はいくつなのか。さりげなく、何て事ないみたいに。会う度そう思うのに上手く行かない。

 そもそも、共通の話題なんてあるんだろうか。大学生の話す事など、彼にとっては全て稚拙でつまらないものに思えてしまうんじゃないだろうか。


「わ…」


 ぼんやりとそんな事を考えていると、不意にフラついた乗客にどんと押され、隣に立っていた凪生の肩にぶつかる。

 体勢を立て直そうとはするものの、そのまま追いやられるように押し出されて、スニーカーを踏みしめ直した時にはほとんど寄りかかっていた。


「…っと、大丈夫?」


 密着した身体を抱き留める腕があった。背中に、大きな手の平の感触があった。肩を擽る微かな呼吸があった。

 気が付くと、奏大の手も凪生の腰にある。わざとではない、わざとでは。ただ、掴むものがなくてつい。そう繰り返し心の中で唱えながら、離さないでいる言い訳を探している。


「っ…すいません…」


 息を吐くのが嫌になったのは、体中を巡ってかき集めた二酸化炭素は、細胞ひとつひとつから染み出すこの感情を混ぜ合わせて、不快な湿気を帯びているように錯覚したからだ。吐き出した途端、空気に溶け込んで、彼に気取られてしまうような気がして恐ろしかった。

 ガタン、と揺れる電車にせっつかれ足を一歩踏み出すと、身体は一層密着した。

 くらくらとして、動悸が止まらない。半ば酸欠状態に陥り掛けていた奏大は、視界がぐらつくのを感じて、縋るように手に力を込めた。

 少し角の尖った耳が、汗の滲んだオークルの首筋が、毛穴までハッキリ見て取れるほど間近にある。腹の底から湧き上がる淀んだ衝動は一体何なのか、考えてはいけない。いけないと思う程、頭から爪の先までじりじりと埋め尽くしていく。

 せめて胸の前で抱え込んでいるリュックの中身が詰まっていれば良かったのだが、ほとんどぺたんこになったリュックは何の役にも立たない。

 電車がカーブに差し掛かると、ぎゅうぎゅうに詰まった人混みは、一層無遠慮に奏大をを圧迫した。

 その時、押された弾みで微かだが確かに、奏大の唇の先が触れたのは、ひんやりとした耳朶の辺りだった。


「…っ」


 息を飲んだ音は、奏大の内側から聞こえたような気もするし、そうでなく、耳元で微かに響いたような気もする。

 血圧が急上昇してすっかり音が遠く聞こえている奏大には、どちらが正しかったのか、あるいはそのどちらもなのか、ただの幻聴だったのか、なにひとつ分からなかった。

 ただ、電車が速度を落とし、ホームへゆっくりと滑り込んで止まるまでの間、お互い一言も口を利かなかった。


 そうして頭が真っ白になったままの奏大には言い訳も誤魔化しもできず、圧縮された空気の劈く音と共にドアが開いた瞬間、弾けるように人混みを押しのけ狭い車内を飛び出した。

 ホームに降り立ち、背後でエアーの抜ける音を聞いて、ようやく勢いよく息を吐き出す。鬼気迫った様子で息を切らせる奏大を訝しむ視線も、今は気にする余裕すらなかった。

 体中は汗だくだった。もしかすると、奏大は泣いていたかもしれない。けれど、顔ごと額を拭ったと同時に、それは汗だったのか涙だったのか分からなくなってしまった。

 その一瞬”このままではまずい”と、頭では考えていた──けれど、本当のところはどうだったのだろう。弾みで事故が起これば良いと、もしかしたら心のどこかで思っていたのかもしれない。

 ──今なら痴漢だと言われたら、奏大は素直に両手首を差し出すのに。いっそ咎められたいとすら思うのに。

 まるで本当に犯罪者になってしまったような後ろめたさで、奏大は暫くその場に立ち尽くしていた。


 放っておいてくれたら良かったのだ。そうしたらこんな恋、せずに済んだ。

 ただのありふれた片想いをしただけでこれほど罪悪感を覚える事もなかった。

 他人に色情を抱く事が、向ける事が、こんなに恐ろしい事だなんて思い知りたくなかった。




 面と向かって別れを告げるには、互いを知らなすぎるけれど、黙って消えてしまうには、執着が強すぎる。だからといって、何食わぬ顔をして日々を過ごせるほど図太くもなく、無神経でもない。

 貰った名刺は丁寧にしまっていたのに、何度となく取り出しては眺めるうちに少しずつ端がよれていて、手渡された時より幾分不格好に見える。それが自分とだぶって、無性に悲しくなった。

 格好悪くて、情けない。頼りなくて、幼い。自分が彼に与えた印象があるとすれば、きっとそんなマイナスの要素ばかりだっただろうに。奏大を助けたのも、いつも声を掛けてくれたのも、きっと彼が親切だっただけに違いないのに──そう思いながらも、そうでない奇跡を信じたくなる。


「…いつまでそうしてるんだ」


 背中に隠れている奏大に向かって、いつか兄が呆れて言った言葉が先輩の声と重なり、そして自分の声に変わる。


 ──奏大、言いたい事があるなら、言わないと分からないよ。


 そう促された言葉に、奏大は結局何も言う事ができなかった。それは叱責される事への恐怖だったのか、羞恥心からだったのか、母親に心配を掛けたくないという子供心だったのか。ともかく、そうして今の奏大がある。

 思考の深みから抜け出したくて無意識に別の方向へ考えを向けようと、意味もなく手にしていたスマホかで手当たり次第にアプリを開いているうち、来週のスケジュールが目に留まった。

 その中にある授業の予定とは別の、赤い十字の付いた建物のアイコンをタップすると、画面に”通院”の二文字がぱっと表示される。

 吐き出さなかった言葉は、消えてなくなるとは限らない。時には淡い思い出になるかもしれないが、時には深い傷になって残る。

 この感情が果たしてどちらになるのか、今の奏大には分からないけれど、あの時押し殺した痛みがこうして奏大を蝕んでいるのなら、そこにあるのは後悔の二文字だ。

 繰り返してはいけない、と思う。奏大はその為に、自ら満員電車に乗る事を選んだ。変わりたかった。そして実際、変わりつつあった。


 その時、ポロンという間の抜けた通知音と共に送られてきたのは、北原からのチャットのメッセージで、奏大は最初意味が分からず首を傾げ、最後の舌を出した絵文字にむっとした。


『童貞くんや、先輩のアドバイスは正しい。嫉妬丸出し。お前はマジで鈍感。』


 何を言ってるんだこの人は、と、呆れてスマホを放り投げた。

 目を閉じる。初めて言葉を交わした時の事を、他愛ない朝のやり取りを、その短い時間の全てを、呆れるくらい全部覚えている。褪せてしまわぬように、何度も思い返したから。

 奏大の無罪を堂々と証明してくれた彼の、余計なお世話だったかと礼を求めるでもなく言った彼の、奏大の顔色を気遣って心配そうに眉尻を下げた彼の、その言葉に、仕草に、ふと、違和感を感じると、瞼は勝手に開いた。

 それでも──そんなのは勝手な主観で、確証なんかどこにもない。けれど、戯言だと一笑に付す事も、奏大にはできなかった。


 先輩のアドバイスは正しい。そう先輩が言うのなら、間違っていた時は全部あの人のせいなのだ。奏大は悪くない。人のせいにするのはずるいとは思いつつも、勇気のない奏大にはそれが精一杯の言い訳だった。

 一度放り投げたスマホを拾い上げ、奏大は家を飛び出した。




 ホームのベンチにぼーっと腰掛けてどのくらい経っただろう。人の波は学生が多かったが、いつの間にか会社員の姿が増えていた。行き交う電車は、どれも帰宅ラッシュでごった返している。

 会えたら良いと思った。けれど、会えなければ良いとも。そうすれば、もう期待なんかせずに済むと思った。

 できれば、見つけないで欲しいと思った。でも、見つけて欲しかった。そうしたら、何もかもただの偶然じゃないと、こじつけでも信じられる気がした。


「こんな時間に見かけるなんて、珍しいね」


 黒い革靴から上に向かって、ゆっくりと視線を上げる。

 座りジワのできたスラックスに、少しよれたブルーのシャツ。セットの崩れた──というより崩したように垂れた前髪が順々に目に入った時、素直に嬉しい、と思う。

 朝と比べて疲れているように見えたが、奏大にとってはそれすらも魅力的に感じられて、果たして元々彼が魅力的だからなのか、自分に下心があるからなのか、もう客観的に判別するのは不可能だった。

 顔を上げた奏大が少しも驚かなかった事に寧ろ驚いたのは凪生で、何を思ったのか左右をチラチラと一瞥して早足で消えてしまったかと思うと、再び奏大の前に立ったとき、ブルーのラベルが付いた清涼飲料水のペットボトルを手にしていた。


「こんな暑いところにいたら、熱中症になるぞ」


 ペットボトルがぴたりと頬にくっつく。冷たくて気持ちがいい。

 しかし、奏大は熱にやられていたわけではなかったし、元々汗っかきの自覚があるから予めスポーツドリンクは常備している。


「…余計なお節介だった?」


 受け取るべきか迷って、そっと目を伏せた。

 頭の中がいっぱいで、とっちらかっていて、何一つ整理できていなかった。話したい事が列を作っていて、気の利いた世間話や相槌は割り込ませる事も無理らしい。

 少しもスマートじゃないけれど、もう器用にやろうとするのは諦めるしかないのだろう。どうせ最初から、かっこ悪くて情けないばかりだったから。


「…俺、接触恐怖症なんです」


 数年前からずっと病院にかかっている。触るのが嫌、というより恐ろしい。女性に予告なく触れられると軽度の発作が起きる。多少、偶発的に接触してしまう程度であれば我慢できるようになったのは、努力の甲斐があってようやくだ。長い間治療し続けてはいるものの、未だに克服できていない。


「満員電車に乗るのは、少しでも慣れたくて…」


 あの時取り乱したのは、急に腕を掴まれたからだ。勿論、疑われて動揺はしていたが、冤罪自体は事情を話せばきっとすぐに晴らせただろうし、実際それほど焦ってはいなかった。だから本当に、初めから、助けてもらう必要などなかったのだ。

 それが無性に後ろめたくて、それでも、あの朝一緒に満員電車に乗ってくれた事が嬉しくて、ありがたくて──ありがたかったけれど、まさか憧れを拗らせて恋をするだなんて。女性に対してそうした気持ちにならないのは、恐怖心や抵抗感があるせいで仕方がない事だと思っていたし、寧ろ、恋愛感情であるとか、他人との性的な関わり合いには、拒否感すらあったはずだった。

 もしかすると──あの先輩達の傍にいるうち、すっかり絆されてしまったのかもしれない。

 凪生は「そうだったんだ」と呟いたけれど、そこに驚きや戸惑いや思いの外なかった。今度は奏大がきょとんとする番だ。


「…実を言うと、君が女性に対して意図的に距離を置いてるのは知ってたんだ」

「知ってた?」


 ゆっくりと隣に腰を下ろす凪生を、奏大のくりっとした大きな瞳が追い掛ける。

 凪生は膝の上で広げた手のひらを、おもむろにぎゅっと握って「こうやって」と呟いた。


「いつも手をぎゅっと握って体の前で組んでただろ。潔癖症の知り合いがやるのと同じだったから、最初は潔癖症なのかと思ったよ」


 いつも──最初は──。少し早口な凪生の言葉を、奏大は丁寧に噛み砕いて、反芻しては飲み込んでいく。

 凪生が再び口を開いたのは、奏大がそれを全て嚥下し、声を絞り出すよりも早かった。


「見てたから、知ってる」


 凪生は横目で奏大をちらりと伺うと、組まれた奏大の両手に視線を向けた。


「男に触るのは、平気なんだな」


 平気というよりも、寧ろ今は。


「不快にさせたら悪いと思って極力気を付けてたけど、先輩とは親しげだったから」

「あー、北原さんは…ちょっと変わってるので…誰に対してもあんな感じで…」


 あの人はああいう人だから、と、何故か言い訳がましく口籠もる。

 ──嫉妬丸出し。本当にそうなんだろうか。全然想像ができない。でも、そうだったらいいと、祈るように考えている自分がいる。


「全然、不快ではないです…男の人は」

「そうなんだ」


 そんな奏大を慈しむように凪生は微笑んだ。しかし、すぐに器用に眉をくいっと上げて、握った手を忙しなく開いたり閉じたりしながら、苦々しく眉間に皺を寄せてしまう。


「うとうとしてる姿が」


 首を傾げた奏大の瞳を真っ直ぐに見つめ返されると、ただでさえさわさわとしていた心臓が尚更早鐘を打って落ち着かない。すぐにでも逸らしたかったが、ごくりとツバを飲んで堪えたのは、もっと見ていたくて。もっと見て欲しくて。


「可愛いなと思ったんだ」


 肩を竦めて、また「最初はね」と、凪生が言う。恥ずかしがって取り繕うように笑うと、同世代の学生とさほど変わらなく見える。髪を下ろしているせいかもしれない。

 就職活動しながら卒業制作に励む年上の学生達の姿を思い出して、後数年早く生まれていれば、凪生のそんな姿も見れたかも知れない、なんて、余計な事を考えているのは、暑くてすっかりやられてしまったかもしれない。

 いや、熱くて。

 先輩から”可愛い”とからかわれるのはあれほど嫌だったのに、凪生が口にした途端、その一言が与えた衝撃といったら。現実世界に何一つ影響を与えすらしなかったのが不思議なくらい、奏大の中では凄まじい嵐になって吹き荒れて、ぐわんぐわんと脳みそが揺れていた。

 このままふらりと倒れ込んでしまいそうで、掴みたい、と、本能的に思う。


「…それでも、不快じゃない?」


 それでも、不快ではない。二人の間に置かれているペットボトルは、既に汗をかいて濡れている。一気に飲み干してしまいたいくらいのぼせていたけれど、奏大はそれに目もくれず、健康的な蜂蜜色の指先に手を伸ばした。

 凪生は何も言わなかったが、僅かに差し出すような仕草をして、しかし。


「──ところが」


 遮るようにぴしゃりと言われ、思わず指先が跳ねる。


「電話は直接じゃなくて会社にかかってくるし、お茶に誘っても断られるし、なかなか目も合わせてもらえないし、笑えるくらい見込みないって思ったよ」


 畳み掛ける早口に、奏大はつぶらな目をぱちくりと瞬かせ、ぽかんとして固まっていた。

 その少し意地の悪い表情はさっきよりもずっと幼げで、その時ようやく気が付いた。初めてえくぼを見つけた時のむず痒い気持ちが、今感じているこの感覚が、つまりは”可愛い”って事だ。

 凪生のそれと、この気持ちが同じなら良いと思う。同じだと確かめたいと思う。まだまだ、聞きたい事がたくさんある。

 もっと知りたいと思うのは、最もシンプルな好意の現れだろう。ならば──もっと触れたいと思うのは?


「次は、こっちに電話してくれる?」


 角が傷だらけのスマホを見せる凪生は、行き場をなくして浮き上がったままの奏大の手を、握手するように優しく握った。

 恐る恐る、触れ合った手を指の先でそっと撫でる。それだけで、胸の奥が重みを増す。苦しい。それは苦しくて、頬がきゅうっとなるほど甘い。

 上手く声が出ない代わりに、めいいっぱい頭を振ってうんうんと頷いて、でもやっぱり、それを決心するには少し時間が必要だろうな、と、奏大は思う。


 まぁ、それもまた、ひとつひとつ克服していくしかないのだろう。

 これはまだ、最初の一歩。

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