戦場は更なる撫子パイロットを求める
年が明け世界は暗鬱たる思いで一九三九年を迎えた。
日英海軍の被った被害は、世界を凍り付かせるに十分だった。戦艦三隻と空母二隻が失われ、航空機四十二機が撃墜された訳だから、民衆がこの戦いは前回以上の敗北だっと受け取るのは当然だろう。
だが、日英海軍はこの事態に直面しても動揺の色を見せてはいなかった。
何故なら、この損害は、ほぼ想定内だったのである。
日本の連合艦隊を率いる山本五十六は、空母飛龍を救った山口多聞と同じく戦艦山城を守り切った艦長角田覚治大佐にわざわざ感状を送り、その活躍を労ったくらいである。
確かに船も航空機も失われた。だが、今回の人的損害は前回の第一次ソロモン海戦のそれを大きく下回ったのだ。
最初から日本の戦艦も英軍の空母も、脱出のための準備を周到にし、乗員の多くを救った。
航空隊、特にオブジェクトの切り離しに成功し、人類初となるオブジェクト撃墜を記録した英海軍航空隊は、全機損失にもかかわらず、戦死者はわずかに八名。あの最後の激しい攻撃の瞬間には、殆どの乗員が機外に脱出をしていたのだ。
沈んだ各艦の乗員も、後から駆け付けた駆逐艦や、南十字義勇軍が派遣した輸送艦によって多くが救助された。
主戦兵器ですら、使い捨てにしなければ勝てない相手。それがオブジェクトだ。日本もイギリスも、最初からそう認識し、作戦を立てた。
故にこの結果は、予想の範囲に収まったという事である。
「これは紛れもない消耗戦だ。だからこそ、兵を死なせてはならんのだ。士官は、常に兵を生かすための道を見つけ準備せよ、それがこの戦争の流儀となる」
年頭訓示で、山本長官は日本海軍将兵にそう声高に告げた。
そして、これはイギリスとその連邦各国でも同じだった。
オーストラリアは一月一日に就任した新首相カーティンが、その所信として述べたのが「生き残るための工夫こそがこの戦いの核となる。最前線に近い我が国は、全力で世界各国軍をサポートし、その兵糧を供給することで戦争を支援する。そして、狡猾に逃げることで、彼らに征服の機会を与えない道を進むのだ」という内容で、銃を取らぬ者もまた生きる為に逃げる準備を怠るなと暗に示したのだ。
そしてイギリスでも、チェンバレン首相が新年の演説で国民に告げた。
「我が海軍の空母部隊は、壊滅をしていない。建材建造中の各空母には完成次第即応できる航空隊が健在であり、艦船の損失を短絡的に敗北と考えてはならない。わずか一機、だが人類はオブジェクトを完全に葬った。勝利とは言えない、しかし蟻ほどの歩みでも我々は前に進んでいるのだ。諦めず闘い続ける、その覚悟をわが国だけでなく、全世界が共有しなければならない。奮い立て英国民よ、そして手を取り共に戦おう全世界の同胞たちよ」
こうして、敗北はしたが、日本も英国もまだその心を挫くことなく対オブジェクト戦争の継続を固く誓ったのだ。
この意識は、政府だけでなく各国の国民たちにも共有されつつあった。
日本、千葉の船橋にある民間パイロットの養成学校である第一飛行学校。ここに一人の中年女性がタクシーで乗り付け訪ねてきたのは、正月の松も開けぬ三日の事だった。
「お邪魔するわよ」
小柄だが、少しふくよかなその中年女性は大きな声で校舎に入っていった。
正月ではあるが、学校には飛行機の整備のために職員が殆ど出勤していた。
その中の一人が、女性の正体に気付いた。
「これは、西原代議士の奥方ではありませんか」
学校の専務が慌てて出てきて頭を下げた。
「まだその呼ばれ方には慣れてないわ。普通に西原でも旧姓の今井でも呼び捨てにして頂戴」
「ですが、我々にとっても西原さんは操縦士の先輩です。敬語は使わせていただきますよ」
「好きにして」
女性はそう言うと、そのまま勝手知った様子で格納庫の方に向かった。
この婦人の正体は、日本で二番目に飛行免許を取った女性。西原小松、いや世間的には旧姓の今井小松としてよく知られた、大変闊達な女性だった。
一昨年、日本の政治に深く関わる西原亀三と結婚し姓が変わった。
夫の西原は陸軍継戦派主導の政治に反発してきた男であったが、前年の一九三八年には一度国政への失望から郷里の福知山に戻った。ところが、その矢先に起きたオブジェクト騒動で、東京にあった宇垣一成議員(予備役陸軍大将)に呼び戻され、平沼内閣への協力を依頼された。
それに伴い、妻の小松も東京に戻り、同時に民間飛行協会に頻繁に顔を出すようになっていた。
西原小松は、整備場でようやく目指す相手を見つけた。
「ヤエさん!」
いきなり大声で呼ばれ、慌てて振り返ったのは長い髪を上に結い上げ、作業服を着た若い女性だった。
「小松先輩、どうしたんですか、こんな正月に飛行場に来るなんて。オブジェクト騒動で、まだ女性への飛行禁止は解除されてないです。飛ぶのは無理ですよ」
西原は首を振りながら女性に近付いた。
「私は飛ばないわよ。飛んだら、亭主に怒鳴られます。飛ぶのは貴女よ」
若い女性は「えっ!」と言って目を丸くした。
まだ二十二歳の若いこの女性も、二等飛行免許を持つれっきとしたパイロットだった。つまり、キクや蝶子同様に日本軍に飛行を禁じられた女性飛行士である。
名を及位のぞえヤエ。抜群の操縦技量を持つ若手一番の操縦士であったが、翼を奪われてからは、この飛行学校で助教授として航法の授業を受け持っていた。
「でも西原さん、軍は飛行禁止を解禁する気はないって明言したと聞いてます」
西原小松は頷いた。
「その通りよ。この国に居る限り、たぶん戦争が終わるまで私たちは飛べない、ねえ、あなたは知っている、松本さんや馬淵さん、そして中国に居た木部さんが今どこにいるか」
ヤエは首を傾げた。三人とも彼女の先輩だが、日ごろの交流は少なかった。だから、彼女たちが何処で何をしているのか、全く心当たりがなかった。
西原小松は、ヤエに言った。
「三人は今、南太平洋にいるわ。主人がね、情報を持って帰ったの、あのオブジェクトを巡る戦いに関する資料。そこにあったのよ、ドイツのハンナ・ライチェが募集した飛行義勇軍、その戦闘機隊の名簿に三人の名前が!」
ヤエは驚いた。
まさか、日本の女性パイロットが戦場に行っているなど想像もしていなかったのだ。
義勇軍の名簿は、南十字義勇軍に救助された日本海軍飛行隊の三井大尉の手で日本政府までもたらされたものの写しであった。
「あたしは強要をしに来たわけじゃない。でも、貴女の技術は間違いなく、この戦場で役に立つと確信して説得に来たのよ。私や兵頭さんは、もう歳が行き過ぎて戦闘機の操縦は無理です。でも、貴女は絶対に適性がある。もし女性に一等免許が解禁されたら、貴女が一番に合格するのは間違いない技量の持ち主。それを、こんな場所に埋もれさせたくないのよ」
まくしたてるように激しい口調で西原小松はヤエに迫った。
ヤエはまだ少し混乱する頭で必死に考えた。
戦場に?
自分が戦闘機に?
逡巡はやがて好奇心に変じた。
飛べるなら、それが戦場でも良いのではないか?
飛行は常に死と隣り合わせ。だったら、飛行機で戦うのだってその延長でしかないんじゃないの?
そのヤエの心の変化を西原は見逃さなかった。
「もし、戦場に向かう決意が出来たら私に連絡を頂戴。夫を通じて、政府に協力を依頼するつもりよ」
その西原の顔を見てヤエが言った。
「西原先輩は本気なんですね。女性にも戦闘機パイロットが務まる、それを国に認めさせたいのですね」
「あら、ちゃんとお見通しじゃない。その通りよ、石頭の軍人どもにはっきりそれを示し、あたしたちの手に空を取り戻したいのよ。それはね、兵頭さんも同じ」
「精先輩も…」
日本の女性パイロット第一号、それが兵頭精だ。
「ええ、彼女は今、もう一人の女性戦闘機乗り候補の説得に行っているわ」
ヤエは首を傾げた。
「もう一人。どなたですかそれは?」
「技量ではあなたと同じかそれ以上、でも女性飛行禁止になる前にコックピットから降りてしまった人よ、贖罪の意識から」
その相手に思い至ったヤエは「あっ」と小声を上げた。
西原がヤエを訪ねたのと同じ日、兵頭精も船橋に居た。ただし、行き先は飛行場ではなく古風な佇まいの一軒家であった。
「ごめんください」
兵頭が声をかけると、奥から着物姿の中年女性が出てきた。この家の主、日本舞踊西川流の師匠をしている西川扇歳こと中村ふくであった。
「どちらさまでしょう」
兵頭は一礼して口を開いた。
「初めまして、兵頭精と申します。今日こちらに、鈴子さんが見えていると聞き訪ねさせて頂きました。申し訳ありませんが、面会をさせていただけませんでしょうか」
最初いぶかしそうにしていた中村であったが、やがて兵頭の名前に覚えがあるのに気が付いた。
「もしや、飛行家の兵頭さんでしょうか?」
兵頭がもう一度頭を下げた。
「元飛行家です。大震災を機に翼は捨ててしまった臆病者ですわ」
中村の表情に、形容しがたい複雑なものが浮かんだ。
「そうですか、お待ちください。鈴子に聞いてまいります」
一度奥に引っ込んだ中村は、一分ほどで戻って来た。
「会うそうです。どうぞお上がりください」
兵頭は中村に案内され、日本舞踊の稽古場に通された。
広い室内の中ほどに、目指してきた相手が座っていた。
「ご無沙汰しております。兵頭さん」
肩にかかる髪を、後ろで束ねた女性が頭を下げながら挨拶した。
兵頭はその女性に相対し座りつつ口を開いた。
「ええ、長い事会っていないわね。貴女は、操縦を辞めてから一度も飛行クラブの行事に顔を出していませんものね」
顔を上げて少し暗い表情をするのは、上仲鈴子であった。
「それは…」
なにか言おうとする鈴子を、兵頭は遮った。
「私も翼を捨てた人間だから、貴女の心中がどんなものか判り切ってるわ。それでもね、どうしても貴女に見せなければいけない物があって訪ねてきたの」
そう言うと、兵頭は持って来た自分のバックから一枚の国際航空郵便を取り出した。
「これは、木部しげのが豪州から送って来たもの。貴女にこれを読んで欲しいの」
何故、木部さんの手紙が自分に関わるのか、鈴子は少し不安に感じだ。かつて木部と飛んだ時、いつもそこにあと二人肩を並べていた人間の顔が頭をよぎったからだ。
そのうちの一人は、自分が操縦を辞める決意をする原因になった女性…
鈴子は封筒から便箋を抜き出し開くとそこに目を落とした。
それは隊がガダルカナルに移る前にしげのが兵頭宛に投函した手紙だった。
『前略、兵頭さん江、僕は今豪州の空を自在に飛んでいる。一度は、一等免許を与えてくれぬ日本に失望し空を諦めかけていた僕は、この空で新たな翼を得て、新たな使命を受け飛んでいる。
南十字義勇軍に僕は参加した。今や僕は戦闘機パイロットだ。
僕の横には、僕が嫉妬しやがて憧れた松本君もいる。そして、松本君の良きライバルであり、僕の可愛い妹たちである馬淵君と長山君もいる』
「!」
鈴子の目が大きく見開かれた。
兵頭は頷いてから促した。
「先を読んでみて、貴女のことが出てくるはずよ」
鈴子は、手紙に再び目をやった。
『この空は、男も女も関係なく戦士を求めている。きっと僕は、この空に散る。でも悔いはない。軍が決して許さなかった戦闘機の操縦を、僕は義勇軍でかなえた。
しかし、この戦いは長く続く。それは間違いない。僕たちが倒れた先を、兵頭さんにお願いしたい。
日本に居ても飛ぶことの叶わない、僕なんかよりずっと技量の優れた逸材を、なんとしても南海の戦場に送る手伝いをして欲しいのだ。
上仲鈴子君を、兵頭さんが説き伏せ、この空に来るよう仕向けてくれ。これは、誰よりも長山君が望むことなのだ。長山君は、上仲君が操縦桿を手放したのが自分のせいだとずっと悔いている。それでも、彼女は空を諦めず、この豪州まで率先して松本君と馬淵君を引き連れて来たのだ。
今、長山君は義勇軍の航空参謀を担っている。
上仲君は何も悔いることなく、長山君に会いに来てほしい。
この空の戦いは、人類を守る戦いなのだ。岐阜に生まれた上仲君は、木曽義仲を支え戦った巴御前をよく知っているだろう。それを例えに説いてみてはどうだろう。日本女子は時に誰よりも強い武将になれるのだ。僕にはその資格はない。だが、上仲君を筆頭に、日本には一等免許を得られず切歯扼腕している女子操縦者が大勢いる。彼女らは、きっと義勇軍にとって強い味方となるだろう。
彼女たちに僕らの後を追わせる道を作って欲しい。
その先陣として、上仲君を説き、義勇軍に送り込んで欲しい。
明日散るかもしれぬ僕には、日本まで皆を説きに行くことはできない。どうかどうか、僕らに続く勇気ある女子操縦者を南海に導いて欲しい。
返事は一切無用、僕はもう空に散っているかもしれぬ故』
手紙を読み終えた鈴子の手は小刻みに震えていた。
長山きよ子が、戦場に居る。
あの日本軍が大敗を喫した魔の海の空、そこにきよ子は居る。
きよ子の足を動けなくしたのは自分だ。その後悔で鈴子は操縦席から離れ、幼い頃から習っていた長唄で生計を立てるようになった。
この中村の家の主人、扇歳は鈴子の良きパートナーであると同時に義理の母も同然の間柄だった。
鈴子は、その中村の懐で自ら折ってしまった翼の傷を癒していたのかもしれない。
だが、その翼を折る決心をした理由である筈の傷を負わせてしまった長山は空を諦めず、戦場に向かった。
その衝撃が、鈴子の心を激しく揺さぶった。
「長山さん…」
そう呟くと、鈴子は立ち上がり、稽古場の隅にあった手文庫を開き、そこから一枚の写真を取り出し兵頭の前に置いた。
「ずっと持っていたんです…」
写真には四人の人間が写っていた。右から、木部しげの、上仲鈴子、長山きよ子、そして馬淵蝶子である。四人の中で一番小柄な長山は、写真の中では飛行服を着てすくっと立っていた。
「私は、長山さんから空を奪ってしまった、ずっとそう思って過ごしていました…」
鈴子の目に涙がたまっていた。
「でもでも、長山さんは何一つ諦めてなんかいなかった。あたしは、臆病者です。自分で勝手に思い込み、自分を責め、空を捨ててしまった」
「遅くないわよ」
兵頭が言った。
「まだ遅くなんてない。あたしとは違う。あなたはまだ若い。今すぐまた操縦を再開すれば、戦闘機の操縦なんてあっという間に覚える。貴女は、十九歳で二等免許を取った天才よ。三年飛ばなかったくらいなんてことないでしょう。蝶子さんもキクさんも一年飛べずにいたのだし、しげのも一時操縦を離れていたのに、もう戦闘機を乗りこなしているようだし、貴女ならすぐに出来るはずよ」
鈴子は、兵頭を見つめ真剣に聞いた。
「でも、私は長山さんになんて言って会えばいいのですか?」
兵頭は、聖母のように微笑み言った。
「ただいまに決まっているでしょ」
鈴子は黙って畳に頭をつけてお辞儀した。
それを見て兵頭は言った。
「貴女を義勇軍まで送る手筈は、私たちに任せてね。さあ、急いで準備を始めて頂戴」
「ありがとうございます」
頭を上げぬまま答えた鈴子の声は嗚咽を堪える為か幽かに揺れていた。




