それは世界の知らぬ間に
「赤い熊の影響力、恐るべしだな」
そう言って肩をすくめたのは、ドイツにおけるV計画の兵器開発の中心的存在であるハインケル博士であった。
「これも、ハウレル大統領の寝技ですか?」
フォン・ブラウンがハインケル博士に聞いた。
「ああ、どうしても動こうとしない列強の尻を蹴飛ばせるのは、スターリンしか居ないと、二か月がかりで説得したそうだ」
「それにしても、とんでもない話ですよ。こんな大規模な航空隊をどうやって現地まで運ぶのでしょう」
ブラウンが首を傾げた。
「君は地球儀を見ていないのかね。ソビエトは、遥かアジアまでその領土を持っている。陸路や空路でシベリアを横断し、オホーツク海までたどり着けば、日本列島の先に広がっているのは太平洋だ」
ブラウンが、「あっ」と声を漏らした。
どうやら彼にとっては完全に盲点だったようだ。まあ、欧州に住む人間にとってソビエトは単にその北東部を占める大国にしか見えない。だが、実際のソビエトは途方もなく広い国なのだ。
「世界が忘れていた、最後の太平洋周辺の大軍事国家。それがソビエトだ。ハウレル大統領は、その眠れる熊を見事に起き上がらせたのだよ。彼らの工業機械技術が優れているのは君も知っての通りだ。現在ソビエトの各地では、土木建設用の重機械が流れ作業でどんどん作られているはずだ。これが、国際連盟の基地の建設に惜しみなく投入されるだろう。ついでに、我々の基地建設にもね」
ブラウンが感心したという感じで首を振った。
「あの大統領の頭の中は、とても私には覗き見ることもできない深淵だ」
すると、ハインケル博士がクスッと笑った。
「おそらく、ハウレル大統領も君の頭の中に関して同じ意見を言うのではないかな」
「え?」
ブラウンが驚いたという顔でハインケル博士を見た。
「こんな代物、考え付くのは君くらいだよ。これを実際に作るのにどれだけの実験と研究員が必要になるか」
ハインケル博士はそう言って、二人の前の机に置かれたある計画書と手書きの図面を示した。
「まあ、金も人手も、アメリカが用意してくれるだろうがね。それにしてもこれは、私の発想の二段くらいは上を行く代物だな」
ブラウンが恐縮そうに頭をかいた。
「私の研究は物になるまでかなり時間がかかりそうです。それよりは、博士の作ったあれ、あれを一刻も早く実戦に使えるよう仕上げて、ハンナの元に送り届けなくては」
この言葉にブラウンは深く頷いた。
「ああ、初飛行は成功し、その後も順調に飛行時間を伸ばしている。エンジンの安定性を確保し、速度も徐々に上げていきたい。現時点では、まだレシプロ機を限界まで搾り上げた物と同等の性能だが、私の試算が間違っていなければ、この次の設計エンジンで時速700キロの壁は容易に破れるはずだ。潜在的には800キロを戦闘速度として常時使えると試算している。まあ問題は耐久時間という事になるだろうがね。とにかく最初の課題はクリアしたのだ、後は前に進むのみだね」
そういって振り返ったハインケルの視界には一枚の写真が壁に飾られていた。
その写真には、一機の航空機とそれを前にしたハインケルをはじめとした科学者や空軍のパイロット達が写っていた。
しかし、その機体には大きな違和感があった。
そう、その彼らの背後の写真に写った機体には、誰もが見慣れたあれがなかったのだ。
「イタリアのカプロニ社でも実験飛行直前まで行っているとニュースが伝えてましたが、どうなんですあれは?」
ブラウンが聞くと、ハインケル博士は文字通り鼻で笑った。
「次元が違う。あれは、まだ基礎研究段階の過渡期のエンジンでしかない。加給に通常のレシプロ機関によるプロペラ回転を利用する、言ってみれば折衷の半ジェットエンジンでしかないのだ。我々がやっている開発の一歩前の段階の代物に過ぎないよ。それにもう、我々の機体は飛んでしまったのだ。ブラウン君、世界が知らないだけで、我々はもう人類で最初にジェット機を飛ばした国家であり、集団なのだ」
そう、ハインケル博士が先ほど振り返った写真に写っていたのは、世界最初の実用ジェット機であるハインケルHe187なのである。
なるほど、ジェット機だからプロペラはない。違和感があったのも当然だ。
彼らは、南十字義勇軍に送る決戦兵器としてこのジェット機をさらに磨き上げ、完全なる戦闘機として送り込むべく開発を続けているのだった。
「ハンナたちも間もなく実戦に向かうはず。日英海軍の空母機動部隊は、近日中に第二回目の作戦行動を始めると国際連盟に通知してきました。V計画のもう一つの側面、つまりもう一つのVを一刻も早く作り上げるため、現地の義勇軍には頑張ってもらわなくては…」
ブラウンが拳を固く握り言った。
「そうだな、今はまだ最初のV にしか全力を注げない。アメリカと協力し、一刻も早くあの亀裂の正体と弱点を探り出さねばならん。その為にも、オブジェクトに対する有効な兵器の開発は急務だ」
ハイケル博士はそう言うとこめかみを強く指で押しながら、さらに付け加えた。
「まあ、その第一歩としてモーゼル社に頭を下げに行ってくるか」
ブラウンが頷いた。
「完成したのですか、モーゼルが開発していた例の機関砲」
「ああ、ようやくね。単に口径を大きくするだけなら、とっくに完成していたと文句を言われた」
「まあ、そうなんでしょうが、それでは役に立たないでしょう」
「うむ、それを恐らくハンナは現地で自分の身で体験するだろう。先に送ったメッサーシュミットの実験機が積んでいるのはスイス製の従来型だ。彼女たちにはすまんが当面は苦戦を強いることになる。まあ、彼女たちは国連部隊と違い、攻勢作戦の矢面に立つ機会は少ないとは思うのだが…」
ハインケル博士の言葉尻が曖昧になった。
ブラウンも、ハンナの性格をよく知っているだけに、ハインケル博士の懸念に思い至った。
「突っ走らなければいいんですがね、ハンナ」
彼らはそう言ったが、そうはいかないのがハンナ・ライチェなのであった。




