淑女たちとじゃじゃ馬は東へ向かった
ハンナ・ライチェが三人目に中隊長に選出することになる人間は、この日インドのムンバイに居た。
飛行場で、ここまで彼女を無事に運んできてくれた愛機モランソルニエの機首を撫でていた。
「よくがんばってくれたわ、でも問題はこの先ね」
そう言って空を仰ぐのはマリー・ヒルズであった。
パリを発った彼女は、陸路を飛んでこのインドまでたどり着いた。
しかし、ここで大きな問題に直面していた。
彼女の愛機の航続距離だと、何とか補給を許可してもらえそうな飛行場、そのどこからもオーストラリアのケアンズまでたどり着けないのだ。
彼女がフランス人であることも微妙に影響しているようだった。
この近在は、イギリスの影響があまりに大きく、経済区として開放されていない場所は、今回のオブジェクト事件に消極的なフランス人には非協力的なのだった。
「せめてダーウィン、そこに行きつける中継地を探さないと」
電信を駆使して、着陸の許可を求めて回っているのだが、これまでいい返事はどこからも来ていない。
正直マリーは困り果てていた。
ところが、そんな彼女に思いもよらぬ救世主が現れようとしていた。
それは、あとおよそ百キロほどでムンバイに到着する空中に居た。
「どうです先輩、あたいの操縦は!」
デハビランド社製の双発機の操縦桿を握っているのは、ジャッキー・ソロールであった。
「ええ、腕がいいのは認めたわ。でもね、ずっと歌を唄うのはやめてほしかったわ」
そういって両手を広げるのは、本来のこの機体の持ち主だった。
彼女はエミー・ジョンソン。生粋のイギリス人である。
エミーとジャッキーが出会ったのは、英国婦人飛行クラブのクラブハウスであった。
ジャッキーは町で偶然見つけた南十字義勇軍の広告を握りしめ、ここへやって来た。
ここでなら、ケアンズへの行き方を教えてくれるかもしれないという期待で。
ここに至るまで、ジャッキーがかなりの迷走を続けていたのは想像に難くない。いや、実際丸四日もロンドン市内を駆け回っていたのだ。
言ってみれば、最後の頼みの綱とばかりに彼女はここに押しかけてきたのだった。
しかし…
「航路なんてないですって!」
クラブの事務員に話を聞いたジャッキーが大声で叫んだ。
「ですから、ケアンズに行くなら自力で飛んでいくしかありませんね」
眼鏡の女事務員は冷たく言い放った。
ジャッキーは絶望に打ちひしがれ、カウンターの前にへたり込んだ。
「飛行機、持ってないし…」
そこに偶然居合わせたのがエミーだった。
「ねえお嬢さん、あなた今、ケアンズって言ってなかった?」
年長のいかにもオフィスレディといった風貌のエミーが、ジャッキーを覗き込み声をかけた。
ジャッキーがエミーを見上げて頷いた。そして、手にしたくしゃくしゃの広告を示した。
「あたい、これに参加したいんだよ」
この時のジャッキー、まさか相手がシベリアを通る空路でヨーロッパから日本までの最短時間世界記録を作った女性だとは思いもよらなかった。
エミーはくしゃくしゃの広告に目を落とすと、にっこり微笑んだ。
「よかったら、私の機体に同乗していかない。私もね、ここに行くって約束した人がいるから」
そう、おっとり刀で飛び出して行ったブルーズに続いて、エミーもケアンズに必ず行くという約束を彼女と交わしていたのだ。
エミーは会社勤めの身であるから、この身辺整理をしないとオーストラリアに旅立てなかったのだ。
その準備がようやく終わり、ヒース夫人への報告と当面の飛行プランを携えここを訪れた。
そしてジャッキーに出くわしたわけである。
ここまで、まったくいい目に合えなかったジャッキーは、ついに幸運に巡り合えたのであった。
「本当ですか!」
いきなりジャッキーがぴょんと立ち上がった。
かなり運動神経は良いようである。
「この後、飛行場で最後の点検をして、南仏とエジプトを経由してインドに向かって、それからたぶんシンガポールを経由するコースになるかしら。何日もかかる長旅だけど大丈夫?」
ジャッキーが胸を叩いて答えた。
「全然問題ありません」
エミーがニコッと笑った。
「あたしの機体は大型だから、荷物も積めるわよ。なんか持って行きたい物ある?」
「それ、どれくらいまで積めるんすか!」
ジャッキーの目がきらりと輝いた。
こうして、一緒にケアンズに向かうことになった二人は、ようやくインドにたどり着こうとしていた。
ジャッキーの操縦するデハビランドは、ムンバイの飛行場への着陸態勢に入った。
そう、あのマリーのいる民間飛行場である。
マリーは飛行場に接近する大型機が、英国の民間機それも英本土の飛行協会に所属する者だけが許されたイングランドのラウンデルを描いた機体だとすぐにわかった。
そして彼女の直感が何かを訴えた。
西から向かってくる英国本土籍の個人所有の民間機、その行先として彼女に思い当たる場所は一つしかなかった。
マリーはすぐに滑走路へと歩み始めた。
自慢するだけあってジャッキーの技量は、それなりに上手かった。
初めての機体にも関わらず、ジャッキーは車輪をバウンドさせることもなく滑走路に着地させた。
そのまま滑走し減速をする。
デハビランドは危なげなくムンバイへの着陸を果たした。タキシング場では、すぐに飛行場の作業員が機体に駆け寄りストッパーを車輪にかけた。
着陸した機体にマリーが近づくと、すぐに横のハッチが開き、女性の姿が現れた。
そこで目にしたのはマリーの見知った顔であった。
「エミー!」
マリーが声をかけると、エミーは驚いたといった感じでマリーを見下ろした。
「あらやだ、こんな所でワールドチャンピオンに出会うなんて思ってなかったわ」
その時、エミーの背後からジャッキーがひょいっと顔を出した。
「先輩、お知合いですか? 誰ですこの人?」
エミーが、軽く溜息を吐いてから聞いた。
「ジャッキーあなたもパイロットなら、現在の女性世界最高高度記録保持者の名前くらい知ってるわよね」
ジャッキーはこくりと頷き答えた。
「フランスのマリー・ヒルズさんですよね」
これを聞いて、マリーが微笑みながらジャッキーに言った。
「私が、そのマリーよ」
次の瞬間、ジャッキーは意味不明の声を発した。
「あ、え、ほえ、な、なんでえ、ここインドですよね?」
そんなジャッキーを放置し、エミーが聞いた。
「ここに居るってことは、あなたもハンナの所へ向かっているのね」
マリーは頷いたが、すぐに暗い声で言った。
「ここまでは何とか辿り着いたけど、悲しいかなあたしの機体じゃ、オーストラリアまで燃料が足りないのよ。それで途方に暮れていたってわけ」
するとエミーが微笑みながら言った。
「だったら、あたしの機体で一緒に行きましょ。大型だから航続距離はたっぷりよ」
マリーの目が輝いた。
「本当にいいの?」
エミーが微笑んだまま答えた。
「ほら、あれでしょ、この先あたくしたち戦友になるわけですもの。それに二人旅より三人旅の方が楽しそうじゃない」
「ありがとう、恩に着るわ!」
マリーは、すぐに自分の機体から必要な荷物を引っ張り出し、エミーのデハビランドに乗り込んだ。
エミーの機体は間もなく補給が終わる見込みだった。
マリーが、エミーの機体に入り込み、最初に放ったのはこの言葉だった。
「何故こんな荷物が積まれているの?」
それは、ジャッキーが懇願して載せてもらった、えらくかさばる荷物であった。
「ああ、それはこのお嬢さんに聞いてね」
エミーがジャッキーを示して言った。
ジャッキーは、頭をかきながら答えた。
「そのお、つまり、これはあたいの相棒でして…」
エミーが微笑みながら言った。
「まあいいじゃない、あたしの飛行機はまだまだ余裕があるんだから」
こうして三人は、ケアンズへのフライトを再開したのであった。
まだオーストラリアは遠い、だが彼女たちは着実にハンナの旗の下に集まりつつあった。




