スピードスターの一本釣り
ハンナ・ライチェはその日、自らの操縦する複座機ユングマイスターでシドニーの飛行場に降り立った。後部座席には、副官であるテオドール・ワイゼンベルガーの姿も見えた。
この機体は、ソロモンの海戦の時にハンナが乗っていたユングマンの次の世代の練習機で、性能はかなり良くなっていたが、安定した飛行には適しても戦場に持ち込める代物でないのは間違いなかった。
南十字義勇軍は、これを連絡機としてだけ使っていた。
彼女たちの義勇軍に、今更初歩的訓練を必要とする人間など駆け付けるはずがないから、まあ当然の割り振りだ。
この日、シドニーの軍港に入港したばかりのイギリス海軍の最新鋭空母アークロイヤルの艦上で、侵略者であるオブジェクトに対抗するためオーストラリア及びソロモン諸島やニューギニアに布陣した各国軍の代表が一堂に会し、今後の戦闘をめぐる会議を開かれることになっていた。
ハンナは、南十字義勇軍の代表としてその会議に出席するためやって来たのだ。
大西洋からは既に三隻の英空母が太平洋にやって来ていた。
そのうちの一隻、カレージアスは現在シンガポールで補給中。この同型艦グローリアスは、アークロイヤルに先んじてシドニーに到着し、錨を下ろしていた。
だが、ハンナとテオドールの視界には、もう一隻の空母が見える。それは、日本が唯一新たに派遣した最新鋭の中型空母であった。
しかし、そのどれもがあの第一次ソロモン海戦で戦没した日本海軍の加賀より一回り程小さく、搭載機数でも劣っていた。しかし、これが現在日英海軍が出せる実戦に耐えうる最大限の空母戦力なのだった。
英海軍で大西洋に残っているのは旧式化した小型空母だけだ。日本は、前の海戦であまりに多くのパイロットを失い部隊の再建途上である。
「痛手を被った日本海軍は、まだ次の派兵に手間取っているようね。空母赤城は横須賀から一歩も動けないでいるらしいわ、航空部隊の再編成が間に合わないだけでなく、戦闘機も足りてないようよ」
移動する車が、、ハーバーブリッジに差し掛かると港の様子を見ながらハンナが言った。
「そうですね、現在この軍港に居るのはあの中型空母飛龍一隻ですよ。ただし、ソロモン海の文字通り最前線には小型空母の龍驤と急遽駆け付けた超ド級戦艦四隻が二十四時間体制で張り付いていますよ。日本海軍の軍人たちには頭が下がる思いです」
ハンナは、日本海軍のこの軍艦部隊の展開の意味を強く認識していた。
日本海軍は、オブジェクトの侵略範囲を広げるのを少しでも遅らせるための防波堤の役を買って出たのである。対抗が困難なのを承知の上で。
まさに命がけの防衛線だ。
「侍の国だけに、武人が揃っているということかしら。犠牲をいとわず、身を挺するなんて普通の人間には出来ないことよ」
テオドールは頷いた。
「ええ、騎士道に通じるものがありますね」
車は橋を渡り終えたが、会議まではまだかなり時間があった。
時計を見たハンナが言った。
「どうせ会議はろくなものが出ないわ、食事をしていきましょう」
港に近いホテルなどが並ぶ地区に何軒かの飲食店が看板を上げていた。
送ってくれた豪州軍のドライバーに別れを告げ、車を降りた二人はオーストラリアでは比較的多いロブスター料理の店に入った。
高級な店ではないので、ウェイターの案内はない。
自分らで席を見つけ、座るとウェイトレスがメニューを持って近づいてきた。
「いらっしゃ…」
口を開いたウェイトレスが、途中で言葉を切り、大きく見開いた眼でまじまじと飛行服姿のハンナを見つめていた。
その異変に先に気が付いたテオドールが聞いた。
「おや、飛行服が珍しいのですか」
ところが、次の瞬間、ウェイトレスは大きな声でハンナの名を叫んだ。
「ハンナ・ライチェ! なぜあなたがこんな場所に!」
ハンナが「えっ」と言ってウェイトレスを仰ぎ見た。
ひらひらとしたエプロンのせいで最初判らなかったが、すぐにハンナの頭の中で給仕の制服の上に乗った顔と飛行服姿に乗った時のその女性の顔が一致した。
反射的にハンナが、ガタンと大きな音をたて椅子から立ち上がり、ウェイトレスの両腕を鷲掴みにした。
「それはこっちのセリフよ! スピードスター! 貴女こんな所で何やってるの!」
この会話で分かる通り、二人は旧知だった。
ウェイトレス姿の女は、ジャクリーン・コクラン。
アメリカ人だった。
いや、そんな簡単な説明で済ませたらいけない、とんでもない人物だった。
つい昨年、女性が持つ速度最高記録を塗り替えた新進気鋭の女性パイロットなのだ。
彼女は、数年前からスピードレースに挑戦し続け、二年前にはこのオーストラリアのメルボルンからロンドンまでの競争にただ一人女性として参加したが、残念ながらこれは機体トラブルでリタイア。しかし、その足ですぐにアメリカ本土のレースに出場し、男性と互角の勝負を演じ、三位に入ってみせた。
それまでの彼女のあだ名は火の玉娘。
それが昨年ついに女性が未踏であった時速四百七十キロの壁を打ち破って見せ、呼び名がスピードスターに変わったといういきさつがある。
そもそも彼女は、自分が始めた美容関係の仕事が大当たりして金を儲け、それから飛行機の操縦にはまった異色の存在で、その金持ちのはずのジャクリーンが、何故ウェイトレスなんかやっているのか、ハンナにはさっぱり判らなかった。
ちなみに、この日現在でジャクリーンはまだ二十八歳である。操縦を始めたのが二十一歳を過ぎてからだから、ハンナなどよりその経験は短い。それが、金に物を言わせてとしか言いようのない連日のハードな飛行訓練で、このスピードスターの名を得るに至ったのだ。
ジャクリーンは、困ったという顔でハンナを見つめ、肩をすくめた。
「ドジ踏んじゃってさ」
そう言うとジャクリーンは説明を始めた。
あの事件が起こる少し前の事、予定では秋に再度のオーストラリアからの長距離飛行レースが企画されていた。
そこでジャクリーンは、事前にオーストラリアに乗り込み、少しでもレースに有利になるよう飛行コースの下見をしようとして居たという。
「ところがさ、メルボルンからこのシドニーまで来たところでエンジンがストールしちゃったのよ、何度セル回してもうんともすんともいわないから、諦めてさっさと脱出したの」
ところが、なんという運命のいたずらか!
「あたしが飛び出した直後にエンジンが再始動して、急降下態勢のまんま機体がどんどん加速し、微妙に機首が上がっちゃったもんだから…」
そう言うとジャクリーンは右の手のひらを上からスーッと下ろし、水平にした左の手の甲に微妙に曲線を描きながらドンとぶつけた。
「よりにもよって、バカでかい倉庫に突っ込んじゃったわけよ」
無人の倉庫だったから死傷者は出なかったという。だが、中にあった荷物が全焼してしまったという。
「これがさ、また運悪いことに、最高級の羊毛の倉庫だったのよ。弁償するのに、結局全財産はたく羽目になって、それでも微妙に足りなくて、気付いたら帰国するお金まで無くなっちゃったのさ」
「それでウェイトレスねえ」
ハンナが、肩をすくめながら言った。
「あなた商才あるんだから、他の仕事いくらでもあったでしょうに」
するとジャクリーンが頷いた。
「うん、だからこれは掛け持ちやってるうちの一つよ。明日は別の場所でオフィスワーク、全部で四つ仕事を回してるわ」
ハンナが苦笑しながらも、すぐにテオドールに目配せした。
「じゃあさジャクリーン、悪いんだけど、今からあんたの勤め先全部に辞表出してきてくれないかな」
ハンナの言葉にジャクリーンが首を傾げた。
「それ、どういう意味」
テオドールが持参していたカバンから一枚の書類を取り出した。
「これは、我々南十字義勇軍飛行隊への入隊申請書です。サインいただければ、あなたの借金は我々が責任もって帳消しにいたします」
ジャクリーンが目を丸くした。
「ちょ、ちょっとな何それ、どういうこと?」
連日休む間もなく仕事に追われていたジャクリーン、南十字義勇軍の事など全く知らなかったのだ。
「さあ、これで二人目の中隊長の目途が立ったわね」
ハンナはそう言って笑った。
一人目は、彼女より先にケアンズに到着していたイギリス人パイロットのビクター・ブルースである。
そして、三人目となる中隊長候補もすでにオーストラリアを目指している途上にあった。




