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彼女たちの決意、マリー・ヒルズ

 パリの街を見下ろすエッフェル塔の展望台で街を見下ろす女性がいた。

 彼女のすぐ背後には、長身の男性が立っていた。

「…という事なの、きっと彼女もあそこに行く。だから、私も……」

 背を向けたまま女性は言った。

「こうなるのは判っていたよマリー、君が空軍を訪れたことも知っていた。僕に君を止める権利はない、君はいつでも自由だった。今回もそれは同じだよ」

 女性は男を振り返り、すまなそうな顔で答えた。

「ありがとうアラン、あなたはいつも優しい」

 女性の名はマリー・ヒルズ。おそらくヨーロッパで唯一ドイツのハンナ・ライチェに比肩し得る女性パイロットであろう。

 彼女もまた大空に魅せられた人間で、現在の飛行高度の女性世界記録を持っていた。

 フランスには彼女に先んじて航空界の華と呼ばれた女性がいた。長距離速度の世界記録を持つエレナ・ブーシェである。

 男性でも数人しか操れないと言われた競走機コードロンC40を女性で唯一操れたエレナは、マリーの憧れであった。

 しかし、そのエレナは二年前にマルセイユの空に散った。

 エレナの死は全世界の女性パイロットに悲しみを誘った。いや、それどころか、これはフランスにとって国家的損失と言えた。現役の世界記録ホルダーの死は、政府にもまた深い悲しみを与え、死後追彰でレジヨンドヌール勲章がエレナに贈られた。

 エレナ亡き後、フランスの女流パイロットたちを引っ張ってきたのは間違いなくマリーだった。

 マリーはフランス空軍の協力を受け、世界記録に挑み続けた。そしてついにフランス空軍の誇るモランソルニエ戦闘機でその記録を作り世界一の座に就いた。

 いや彼女はそれに満足せず、二年前ついに男性の世界記録まであと133メートルに迫る高度14520メートルという、呼吸すら困難な高みにまで到達し自らの世界記録を更新した。

 だが彼女は高さにだけ拘ったわけではない。彼女は、遠い東洋にも憧れを持ちそこを自らの翼で訪れていたのだ。

 マリーは一九三三年つまり五年前に日本までの飛行に成功した。そして、そこで彼女は日本という国に夢中になってしまった。

 この時すでに、日本は中国との戦争に突入しており、日本の女性パイロットたちは自由に飛ぶのに苦労している現状を知った。

 戦争はよくないことだ、だが日本という国はマリーにとっては本当に美しい国であり、他のどの国より心惹かれる場所だった。

 そもそもマリーが空に憧れた最初は、生まれ育ったパリの街のごみごみした景色が、上から眺めるとたまらなく美しいと気付いたからだ。その高みからの眺めを求める過程で高度記録にも挑んだと言える。高度一万メートル超えの世界は、地球の丸さをその目で確認できる別世界だった。

 だが、それよりも日本の方がマリーには魅力的だった。地上を歩き美しいと心の底から思えた初めての国が日本だったのだ。

 どんな田舎に行っても、日本の町は整然とし、清潔で、人々は好意的だった。

 いや、それだけではなかった、空の上から見た日本も彼女を魅了した。

 富士山を見た時、マリーは日本人がこの山を崇拝する理由を心の底から理解した。その美しい山は、彼女にとって特別な場所として記憶された。

 マリーは日本の国土と人がたまらなく好きになってしまったのだ。

 だからだろう、なんとこのわずか十か月後にもう一度彼女はフランスから日本までの単独飛行を成功させたのだ。

 この短期間に二度もの大陸横断は、もちろん世界的快挙であった。

 日本人は熱烈に彼女を歓迎した。しかしマリーの目的はもう一つあった。

 立川飛行場に降りた彼女を迎えたのは、馬淵蝶子だった。

「ハーイ、パピヨン! 帰って来たわよ!」

 マリーはそう言って蝶子に抱き着いた。

 前回の訪日で、マリーに日本の女性パイロットの窮状を訴えたのは蝶子だったのだ。そして、それ以来二人は固い友情を誓う仲になった。

 この再会は、蝶子との約束の結果だったのだ。

 二度目の訪日で、マリーと蝶子、そしてきよ子との親密度はとても深まった。特に蝶子とは、まるで血肉を分けた姉妹のように打ち解けた。

 日本軍が女子パイロットから翼を取り上げた報せを、マリーは蝶子の手紙で知った。

 蝶子がどれほど失意の日々を送っていたか、マリーは想像に難くなかった。

 だから、あの広告を見た時に直感したのだ。

「パピヨンは、必ず参加するはず。彼女があの広告を見たら、必ず南太平洋に行く。だから私も行かなくちゃいけないの」

 マリーは恋人であるアランに言った。

 一週間ほど前、マリーはフランス空軍のトップを訪ねた。そこで、今回の侵略事件に関連し自分も軍に協力したいと申し出たのだ。

 ところがだ、フランスはこの件に対しあまりにも消極的だった。

「残念だが、現在我が国は航空戦力を南太平洋に送ることを留保している。高名なるヒルズ女史の協力申し出は有難いのだが、やってもらえる事は現状では無いに等しい」

 何のことはない婉曲なお断りである。

 マリーとても頭の回転の速い人間であった。だから、今回の事件が世界そのものの危機だととっくの昔に気付いていた。

 それだけに自国政府の弱腰に腹が立った。

 フランスは、現地に海軍と基地警備の陸軍兵しか送り込んでいない。世界で五本の指に入る空軍力を持っていながら、それを未だに動かす気配がないのだ。

 あの侵略者がどこに向け侵略の手を広げるか、フランスはそれを見極めようとし息を潜めている。何故なら、問題の海域を東に進めばそれはフランス領の島々が続く海域だからだ。

 その日和見的な政府のやり方にマリーは本気で失望した。

 そんな彼女の目に飛び込んだのが、南十字義勇軍の募集広告だった。

 募集主が、旧知のハンナであったことも驚きだった。だが、それ以上に「性別を問わず」の一文に強いメッセージを彼女は読み取っていたのだ。

 マリーの聡明な頭は、完全に蝶子の思考を追従していた。

 この広告を見たらパピヨンは、馬淵蝶子は間違いなく参加する。飛行禁止を報せてきた蝶子の言葉には悲観より憤りの色が濃かった。彼女は絶対に飛ぶことを諦めない。そこが戦場であっても。

 マリーはフランス軍があてにならないと知った今、自分も南十字義勇軍に参加する決意をした。

 しかし、それには恋人であるアランの了解が必要だと思いこの場に呼び出したのだ。

 彼は止めるかもしれない、そう思ったのだ。自分がもしアランの止められたら、それに抗う勇気はあるのか、正直自信がなかった。

 だが、返ってきた答えはまったく違っていた。

「マリー、君は翼の生えた天使だ。僕の好きなマリーは、その天使なのさ。飛ぶことをやめろなんて絶対に言えない。そして君はいつも自由に自分の行き先を決めて進んできた。今回も、君が決めたことは僕が何を言っても覆らないとわかっている。だけどねモン・アモーレ、僕は決して君を失いたくない。だから、ここに、このパリに君の帰る場所を作り待っている。必ず生きて帰ってくれ」

 マリーはアランに抱き着き囁いた。

「愛してるわアラン、そして、行ってきます」

 マリーの眦から真珠のような涙がこぼれた。

 こうしてまた一人、戦場へと乙女が向かう決意を固めたのだった。


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