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ヘンゼルとグレーテル 3.2

 11、

 朝の尊さといったらないだろう。

 仄かに照らされる埃を見たことはあるか。その様は静謐である。平生では嫌悪の対象となるそれも、こと朝となると、見慣れた毛布に降り積もる様ですら、時の流れを感じさせ美しい。

 眩い光は全てのものに降りしきり、悪といったものですら、浄化してしまうのだろうか。もしそうだとしたら、それは光のためか、その熱のためか、私はふとそんなことを考えていた。


 ただただ穏やかな時の中で、何をいうでもなく、私は姉を眺めていた。


 そして、数秒とはいえない時間が流れた。

 じっと見入っていると、焦点が定まらなくなったせいか、その輪郭は徐々にぼやけていった。それでも、彼女の呈する相反する白と黒は決して交わることがない。いくらぼやけていても、境界が灰色に見えることなどなかった。また、一致しないからといって、それらは競合している訳でもなく、眼に映る二つの色彩が独特な調和をもってして、互いの価値を私に示していた。

 それは何とも言えぬ感覚だった。私は少しずつ高揚していった。

 先程と似たような熱が、私の心を焦がしていく。不快さはなく、今はただ、身体が熱い。


 その瞳で何を見つめているのだろうか――きっと難しい顔をしながらまた私にわからないような何かを考えているに違いない。もしかしたら、私に聞こえないような何かがあるのだろうか――それならば、一体それはどういったことだろう。


 私の内にやどる感情が、あの感情とは異なる方向をもってして、出口を求めて奔走していた。

 それなのに、眼を覆う前髪がちくちくと、心身ともに姉の懐へ飛び込もうとしている私の邪魔をしているようで、不快だ。

 私は拭い去ろうとした。

 しかし、疲れのせいか、自分でも驚くほどに私の身体は力を失っていた。というより、その気概がなかった。勿論、その気になれば平時の活力を取り戻せようが、それはなしえないことだった。それでは不快なままであったので、私はひたすらまごついていた。

 それになんとなしの期待が含まれていたかどうかを尋ねるのは、野暮である。


 姉は私の様子に気づいたようで「そんなに見つめられたら、どこか気恥ずかしいな」と言い、そっと前髪をかき分けた。


 視界は途端に覆われてしまって、すらりとした指先の圧力が額をくすぐった。

 その時、私の中にはさらりとした音が響いていた。

 少しはにかんだような笑みを浮かべていた姉は、そうしている内に平静を取り戻して、今は私を見つめることを楽しんでいるように思えた。

 それは不可解だ。面白いこともないだろうに。

 もしかすると、私の鼓動が指を伝っているのかもしれない。


 ただ、それすらも心地のいい感触であった。


 身体のすみからすみへと溶け込んでいる感情が、この鼓動と共に、心臓のもっと深い所へと集められているような。

 息を深く吸うたびに、身体は熱を帯びていった。

 その熱は私にとってどういった意味を持つのだろうか、その答えに至る間もなく、想いを堰き止めていた黒い塊すらもその熱に溶かされていって――――。


 瞬間。言いようのないはやる気持ちは何となしの罪悪感に変わってしまった! 


 ああ、これはなんだろう。

 まるで頭が痺れてしまったかのようだ。

 心と身体が引き裂かれてしまったような感覚。

 舞い上がった気持ちは、ぱちんといった音を皮切りに、すっかりなりを潜めてしまった。


 私自身、それが悪いことだとも思えず、何者かが私を咎めた訳でもないというのに。


「ごめんなさい、お姉様。私、お姉様が何を見ているのか気になったの」

 胸中にはいくつもの暗い塊がひしめいて、私は鬱々としていた。

 その中のひとつ、自己に内在する得体のしれない衝動に従い、一応の謝罪をした。

「別にいいよ。怒ってなんかいないんだから。僕はね、あの窓の向こうのもっと先の景色を見ていたんだ」

 さほど気にしていないのだろうか。姉の視線も、その向こうへと移っていった。

「何か見えるのかしら」

「いいや、いつもと変わらない景色だよ。ねえ、グレーテル。そこからじゃよく見えないだろうけど、君にも浮かんでくるだろう」

「そうね、今ならきっと、あのみすぼらしい野良猫でも来ているんじゃないかしら」

「ああ、さっきあのしゃがれた声が聞こえてきたから、きっと来ているのかもしれないね」

 淡々としたその言葉は、私からするとて不可解だった。

「あら、猫好きなお姉様のことだから、探しに行くのかと思ったわ」

 どことなく訝しい心持ちになる。

「確かにそれも楽しいことだけれど、今後ゆっくりしようかな」

 先程までは感じられなかった、違和感。

 姉は、つい先刻まで感じていた様子、どこかおぼろげなその様を、いまだにまとっているではないか。

「そう。なら、お姉様は何を見ているの?」

「別に大したものは見ていないよ」

「何か聞こえるの?」

「ううん、特別なものはなにも」

「そこに何かあるのかしら」

「うん、例えばね、あの大きな枯れ木の枝の先に、まだ紅い葉っぱが残っていたりだとか……今日は晴れているからいつもより遠くまで見渡せるだとか……なんてことはないだろう?」

 なら、なおさら不可解である。

 私は迷っていた。

 無理に詮索するようなことは、はしたないことかもしれない。

 しかし、私は、思いつめているであろう姉のことを心配していた。先程取り乱してしまった罪悪感も高じて、なおいっそうその思いは強まっていた。

「ええ、そうね」

 それに、どことなしか逡巡している様子を受けて、私の私に対する苛立ちといおうか、焦燥感は募るばかりだった。

「ああ、向こうの方は生い茂っているね……僕達はこれからあそこに行くんだ、一体どんな景色なんだろうね」

 

「ねえ、お姉様。本当はまた何か、考え事でもしていたんでしょう? 私に教えてくれないかしら、私ができることは少ないけれど、お姉様の力になりたいわ」


 だから、そういって私が姉に詰問してしまうのも、仕方のないことだろう。


「グレーテル……」


 姉は返事に窮しているようだった。口をもごもごと動かして、何を言うべきか、また言わないべきかを選んでいるのだろう。


「……ううん、そんなことないよ。確かに思うことはあるけれど、悩むほどのことじゃないんだ。だから、ありがとう、グレーテル。僕はまだ大丈夫だから」


 結局、姉がそう返答したのは、いくらか間が空いた頃合いだった。

 ほんの少しだけ弱まった姉の手先の感触を額に受けながら、私は姉が何か大きな、それも、私が思う以上に重大なことを隠しているのを察した。どうやら、私に伝える気はないらしい。

 それ以上の追求はしなかった。

 その理由について考えることもしなかった。

 私はもう何も喋る気になれなかった。


 12、


 それから私と姉の間に暫しの時が流れた。

 5分くらいだろうか。ベッドは私と姉の体温で暖まり、同じような姿勢をとるのにも疲れが見えてきたものの、動くのもなんとなしに気まずいし、面倒くさい。そんな最中に、姉はこういったのである。


「そういえば、君はかなり髪が伸びたじゃないか」


 自分の髪の長さなど、あまり気にするようなことでもなかった。それに、この状況でするにはいささか冗長すぎる。

 だからといって断る理由もないので、私はほんの少しだけ後方に意識をやった。

 言われてみれば確かに、背中にかかるほどには伸びているのかもしれない。先程は前髪が眼にかかるのも鬱陶しく感じたから、思う以上に伸びているのだろうか。

「僕は短いから楽だけど、髪が長いと色々大変だったりするのかな?」

「あまり気にしたことがないわ」

 姉は短髪を維持するために定期的に切り揃えているものの、私からすると、それはどうにも面倒くさく思えたし、日常生活を送る分には、今が大して不快という訳でもなかった。

「これからも伸ばすつもりなのかい?」

「んー、あまり考えていないわ。でも、鬱陶しいから前髪は少しだけ整えようかしら。そうだ。ねえ、お姉様は、どっちの方が可愛いと思う?」

 あまり質問責めにされるのも、気分のいいものではない。私は、わざと姉に話を振るような真似をした。

「勿論、どちらも可愛いと思うさ。うん、けど、長い髪はとても君に似合っているし、綺麗だと思うよ」

 結果、私は少々紅葉してしまった。

「そうね、ならもう少しだけ、伸ばしてみようかしら」

 その意思は固い。

「そうか、そうか。いやあ、グレーテルもそういうお年頃なんだね……そしたら、良いものをあげよう」

 姉の素っ気ない反応に抗議でもしようかと思った矢先、何か不穏なことをいった姉は、待ってましたと言わんばかりにポケットをまさぐり始めた。


 しばしの静寂。


 探しあてたのはやや小さめの巾着袋のようなものだった。深い紺色をしたありふれた布に、簡素な草花の刺繍があしらわれている。紐の部分をつまみ上げ、目の前でゆらゆらと揺らしているそれを、私は猫じゃらしと戯れる猫のような挙動で受けとった。

 実際に手にとってみれば、柔らかな布の感触の中にずっしりとした固い感触があった。

 ただ、厚みはない。

 始めは昨日の石でも入っているのではないかと思っていたが、どうやら違うようだ。

「開けてごらんよ」

 私は恭しく紐をほどくと、中には吸い付くように滑らかな円盤状の水晶石がひとつ入っていた。それは夕陽が沈んだ直後のように透き通るような深い青色をしている。私の手のひらにすっぽりと収まるような大きさで、表面はしっとりと冷たい。

 私はまじまじとその水晶石を眺めた。

 側面を光にすかしてみれば、不可思議な紋様が刻まれていた。それは文字だろうか、それとも小動物を表したものだろうか、もしかしたら植物の一種であるのかもしれない。そういったような、ある一定の規則を感じられるぐねぐねとした模様だった。

 さらに注意深く見てみれば、その横軸をなぞるように切れ込みがあって、これが折り畳まれていることがわてかる。

 それを開けば、あるのは栗色の髪とよく見慣れた平凡な顔――いつもより目つきが悪く、また火照っていて、不機嫌そうな面構えをしている私だった。


 そう、それは手鏡だった。


「お姉様、ありがとう。とっても綺麗だわ。それにしても、どうして手鏡なのかしら?」

「どうしてだと思う?」

「意地悪」

「ごめんごめん、えっと、それはね……神様が教えてくれたんだ」

「……神様?」

 唐突に現れた神という言葉に、私は戸惑いを覚えた。

「ああ、そうだ。神様。でも君が思っているような神様じゃない。彼女は宗教的な神ではないんだ。あえて言うなら、僕らの神様かな」

 姉が幼い頃に夢の中で出会ったという、あの神のことだろうか。

「よくわからないわ」

 姉はその素性について、多くを語らない。

「僕もまだ、でも時折こうしてお告げというのかな、二人でお話をするんだ。意外と気さくな人だよ、彼女は」

「へえ、神様って女の人なのね」

「あれ、伝えてなかったかな。女の人というよりかは、少女。ちょうど見た目は君とそんなに変わらないくらいだよ」

「ふーん、そうなのね。また今度、その人について詳しく教えて欲しいかしら」

「もちろん! とにかく、それは君だけのものだ。そう神様が言っていたからね。だから無くさないように肌身離さず持っていてほしい」

「ええ」

 先程とはうって変わってご機嫌な姉を立てるため、具体的な理由もわからず、不服ながらも了承はしたが、やはり癪に障る。

 ただ、それ以上に受け入れ難い訳が私にはあった。

 私はせめて一矢報いようと、あれこれ考えを巡らせ、ある児戯を思いついた。

 その頃にはもう私の煩雑さはなくなっていた。

 私は凝り固まった身体を起こすと、これ見よがしに膨れてみせた。下品に、大きくではない。あくまでも上品に、控えめにだ。

 そして、少々不機嫌になっている私に気付いたのか、姉は徐々にうろたえ始める。鈍感な姉のことだ。まるで身に覚えがないのだろう。その様が何やらおかしくて、思わず吹き出しそうになってしまった。演技であるからして、中々に恥ずかしいことも手伝っていた。

 姉よ! 私も色々と辛いのだ。

 だから、少しは目にものみせてやろう。

 これで何度目だろうか、私は姉をじろりと見据えた。


「ああ、えっと、彼女は鏡を渡すように言っただけで、いつプレゼントしようかと考えたり、どれが君に似合うかあくせくしていたのは僕なんだ。だから、グレーテルに喜んで貰えたら、とても嬉しいよ」


 あたふたとしながら答える姉を見て、私は満足だった。

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