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ヘンゼルとグレーテル 3.1


 9、


「入るよ、グレーテル」

 食事を終え、自室のベッドで寛いでいると、姉から声をかけられた。振り返る間もなく、姉は扉の向こうからぬらりと歩み寄って来て、寝転んでいた私の横へそっと腰をおろす。その重みで生じた歪みに引き寄せられるようにして、私は姉にすり寄った。頬に受ける柔らかな布がこそばゆい。しかし、その感触は暖かで、自然と笑みがこぼれてしまった。

「どうしたの?」

 尋ねたからといって、さして興味があるわけでもなかった。

 ただ、条件反射のように、そして、話のとっかかりを得るために私はそういった。

 できれば少しでも長く、安穏と過ごしたいものだ。

「いや、特に理由もないよ。何となく僕もここで寛ごうかなと思っていたんだ。それに、時間だってまだあるからね」

 一方で、姉の様子も実に淡々としたものだった。それは普段通りの振舞いであろうか。しかし、その声色だけがどこか不自然だった。普段よりも、一段と声が低いような、いつものように要領を得ない話ぶりであるが、より一層とりとめのないような。そして何よりも、その台詞にハリといったものが存在しなかった。

 違和感の正体を探るべく、私は何の気なしに、というようなフリをして姉を見上げた――しかし、いや、だからといって、明らかにはならなかった。

 ひとつ、ため息をつきながら、姉は窓際に身体を向けていた。どうやら景色を眺めているようだった。何をみているかまではわからない。ここからでは、そのぼんやりとした後ろ姿のみがうつり、その表情も窺い知れなかった。

 しばらくの間、そうしていたにも関わらず。

 私はどことなく寂しい思いをした。


 ねえ、お姉様? そう私が問いかければ、貴女はこちらを振り向いて、いつも通りの微笑を浮かべるのかしら。


 ただ、それは私の求めていることなのか。

 きっと、そうではないだろう。

 朝にみた悪夢のように、もやもやとしたものが私の中であてもなく回り始めた。

 そう至った時点で、私は考えることをひとまず保留とした。そもそも表がわからなければ、裏など想像の余地がないことは明白であり、それでは私が姉にしてやれることもなかろうに。

 しかし、それは本意でない。

 それでは私が思っていることを私に問おう。

 思っていることとは?


 それは――――。


 ふってわいた言葉も、熱くなった胸中にさらりと溶け込んで、みるみる内にその形を失ってしまった。

 漠然とした想いだけが募って、火にかけた砂糖水のように粘度を帯びていく。

 それはいつしか焦燥となって私の心をさらに塞きとめる。

 今はもう、甘い香りなど漂ってはいなかった。


 10、


「今日は久しぶりの快晴だね。ずっとずっと向こうを見渡しても、雲ひとつ見えたりしないよ」

 私の胸中を知らず、姉は私に他愛なく語りかける。

「ええ、そうみたいね。私もさっき窓を開けるときに少し見たけれど、あまりにも眩しくて、目が痛くなってしまったわ」

 実際には、景色など見ていない。洩れ出る光をただただ不快には感じていたけれど。それでも、私はそう嘘をついた。そこに理由などなかった。

「そうか、それは災難だったね。ちゃんと休めているかい?」

 姉の声色はやわらかだった。

「ええ、そうしているわ」

 私はわざと毛布を深めに被って、できるだけ表情や声から気取られないようにした。

 この私は、きっと醜い。

「なら良かった。もう随分と冬が近づいたとはいえ、 陽が出ている内はそこまで冷え込まないね。食事をした後だと少し暑いくらいだよ」

「そうね、私ももう少し涼しげな方が落ち着くかしら。でも、暑いからってそんな薄着をしていたら、お姉様、きっと風邪を引いてしまうわ」

 どうだろう。一度毛布にくるまってしまえば、こんなにも私は次々と言葉を操ることができてしまう。

 それまでの気鬱とした気持ちに比べれば、幾分か楽だった。

 私が紡ぐ言葉は、私の想いをのせるには、軽すぎるのだろう。

 それとも、私の想いこそ、言葉をのせるには軽すぎるのだろうか。

 判別はつかなかった。

 しかし、かろうじて平静を保つことはできていた。

「ああ、そしたら、あともう少しだけにしておくよ」

 それでは貴方の今の思いを表現しなさいと言われたら、ほつれた人形から綿が飛び出している様子で表そう。

 ありていに言えば、私はもう泣きそうだ。

 刺激を少しでも抑えなければ、心は決壊してしまうだろう。

「グレーテル、それにしても君は随分と寒そうだね。そんなに毛布を深く被って、息も苦しいだろう」

「大丈夫よ」

「さっきはもう少し涼しいのがいいと言っていたじゃないか。それに、今日の君は、なんだか変だよ」

 変?

「それってどういうことかしら?」

「……うまく言えないな、でも、普段の君じゃないような気がするんだ」

 そんなこと、私だって知っている。

 それでも、今更何を思えばいいのだろう。私は何を伝えればいいの? 私の平穏は既に失われていて、それなら昨日までの私ーーもっと言えば、ついさっきまでの私と今の私が同じだということは誰にも言えないでしょう。

 私にだってわからないもの。

 今の私が感じているものがこれまでの私と違うなら、積み重ねてきた私ということから、私を演じるしかないじゃない!

 酷いわ、お姉様。

「意地悪なことをいうお姉様は、きらい」

「ああ、ごめんよ。グレーテル、そんなつもりはなかったんだ」

「本当に? それとも、お姉様はいつもの私じゃないと嫌なのかしら」

「そんなことない!」

「そんなことがあるのでしょう?」

 

「違うよ! 僕は、君のことが大切なんだ。いつだって……」


 ああ、またお姉様を傷つけてしまった。私は何度過ちを繰り返すのだろう。

 それでも伝えなければ、私は、私の想いを。

 もう溶けきれない感情が重みを持って私を押しつぶしてしまう前に。


「だったら放っておいて! そんなに構われても困ってしまうかしら。それにおかしいのはお姉様の方だわ。さっきからお姉様が何を考えているか、私には全然わからない。もう、私、どうしたらいいのか」


「……ああ! そうか、グレーテル。本当にごめんよ、全部、僕が悪かったんだ」

「私はそんな言葉聞きたくない」

「うん……」

「お姉様は何を考えていたの?」


「僕は…………ねえ、グレーテル、もう具合は大丈夫なのかい? 昨日のこともあるし、朝もあまり体調が優れないようだったから、心配してたんだ。でも、ごめんよ、君の気持ちに気づけなくて、君を傷つけてしまって」


 その言葉を耳にした時、私はようやく、泥のように固まった身体を振り起して、姉を見据えることができた。

 始めに気づいたのは、私の手を握りしめる柔らかい感触。

 黒地のブラウスからちらりと覗く素肌――袖まくりをした腕や黒髪が少しばかりかかった首筋は対照的で、えもいわれぬ身なりの艶やかさを呈していた。

 唇はふっくらとしていて、多少の潤いを帯びていた。

 その眼はいつもより少し赤かったけれど、いつものように黒々としていて、じっと見つめる私の顔がうつっていた。


 ああ、そうか――。

 

 途端、私の目、そして頰が、ひきつるような熱を帯びていることに気づいた。

 その事実に、私は少しの恥ずかしさを覚えた。

 でも、きっとお姉様も気づいているのでしょう。

 だって、私を抱きしめてくれたもの。


 そうして、何分経ったのかはわからない。何か言葉を発するでもなく、私を急かすでもなく、姉はただ穏やかだった。

 それからまたしばらく経って、ようやく私は喋ろうと思えた。その時にはもう、涙は引いていて、胸の中に渦巻いていた黒い感情も溶け出していた。ただ、口の中はカラカラだった。

「ええ、ご飯を食べたからかしら、少し元気が出てきたみたい」

「そうか、そうか。それは良かったじゃないか、私はとても嬉しいよ」

 姉はくつくつと笑う。

 私もぎこちない笑みを浮かべた。

 私達の間にあったほんの少しよそよそしい雰囲気がほぐれた気がした。

 こもれ出る朝の日差しに照らされた姉は、とても眩しい。その姉のそばに居られること、私はそれで満足だった。

「ありがとう、お姉様」

「いいんだよ、グレーテル」

 さあ、こっちへおいでと、導かれるままに私は姉の膝へと向かった。

 一度二度体勢を整えて、落ち着いた頃には、ふわりと優しい香りがしていた。

「ねえ、お姉様」

「なんだい、グレーテル」

「私ね、お姉様のことが心配だったの」

「うん」

「私ね、変だといわれて、とても悲しかったわ」

「うん」

「でも、今はそれでいいと思えたの。だってーーーー」

 こうして、他愛のない会話が続いていく。

 私はこの場から世界を一望した。外では小鳥の囀りが聞こえ、時折ベッドが軋む。優しく暖かな手つきを頭に感じる。気分が優れないような、今日に限って、空が晴れるのはどうしてだろう。

 心配かけてしまって、ごめんなさい。


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