ヘンゼルとグレーテル 2
7、
「おはよう、グレーテル。良く眠れたかい?」
起き抜けの私に向かって、姉はそう言った。
耳を澄ませば、遠くから小鳥の囀りが聞こえてきて、衣擦れの感触を肌で感じながら、身体が少しずつ強ばっていく。
そしたら、乾いた土に水が染み込んでいくように、全身の隅々まで血が巡っていって、じんわりと身体が暖かくなった。
それは私が私であると、ひとつひとつ確かめるかのように、ゆったりとしていて、無意識的に行われた動作だった。
そうしている内に、ようやく私の目が覚める。
今日もまた、変わらずに朝がきたようだ。
目を開けば、最初に映るのは、私を見つめる姉の微笑。
まぶたにさらりと掛かった黒髪がとても綺麗だった。
こめかみに感じる骨ばった腕の感触とその温もりが心地いい。
もう朝日が昇ってからしばらく経つだろうに、どうやら私が起きるまで側にいてくれていたらしい。
まだ頭がふわふわしていて、気持ちがいい。
その代わり、顔も軽く熱を帯びていて、きっと腫れているだろうから、すこし恥ずかしい。
姉は、そんな様子を察してか、私を優しく抱き寄せる。
頬にあたる柔らかな感触、暖かい鼓動が聞こえた。
頭に触れる白い指先がこそばゆく、ベッドはキシリと音を立てた。
大好きな人が目の前にいて、私のことを気にかけてくれていて、毛布は暖かくって、それがどこか優しく感じられて、冬が目前に迫った空気はすぅっと澄んでいて、髪を揺らす風が心地よくて……私は、今、とても幸せ。
でも、いつまでこうしていられるの?
──ああ、駄目だ。色々な気持ちが胸のなかで交差していて、押しつぶされてしまいそうだ。無理に考えないようにしても、考えるべきだと邪魔をする私がいる。それは無意識的に、沸々と、私のところまで浮かび上がってきてしまう。その内考えようとしても考えない方がいいと邪魔をする私の邪魔をする私の邪魔な邪魔で邪魔に──ここにいる私が私でないように思える。
思い出そう。もっと私は明るくて、お姉様と甘いお菓子が大好きで、ほんの少しわがままな、そんな女の子だったじゃないか。でも、いつからそうだったのだろう。やっぱり思い出せない。
わたしは?
あたしは?
ぼくは?
でもやっぱりわたしの頭がクレヨンで描くようにぐりぐりぐりぐりと塗り替えられる。
その色は何色とも似つかない。色だと認識することができない。
ぐちゃりと渦をまいたような模様だ。
それは、ぶよぶよと肥大して、大きく、大きくなっていく。
それは、真っ白な私の頭を覆っていって、押さえきれない私の身体は弾けてしまう。
ばちん、と!
私は私をもう保てない。
私の身体から、私が飛び出していくようだ。
形を失ってしまった私は力なく吸い込まれていった。
──ぅうううぅぅぁあああああああ!!!!
「……ねえ、グレーテル。こっちを見てほしい。大丈夫かい?」
その姉の言葉によって、私は突如として現実へ引き戻される。
私は、気付かない内に、微睡みの世界へ居たようだ。
それでも、悲しくもないのに! 涙が零れ落ちる。
──起きたって、何も変わらないじゃないか。
私は暗鬱な心持ちのままであるし、自分のことも、他のことも、何もかもわからない。どうしてだろう。先程まで感じていた何もかもが、今は煩わしく思えてしまう。
いや、少し落ち着こう。
「ごめんなさい、お姉さま。私、寝ぼけていたみたい」
やっとの思いで、私は言葉をつむぐ。姉はそんな私をじっと見据える。いつも通りの黒々としている瞳だ。私は、その瞳に、どのように映っているのだろう。どう思っているのだろう。愚か者と思っているのかもしれない。
そんなことあるはずない!
こんなに優しい姉を疑ってしまうなんて、その事実に、私の心はもやもやとしたものに覆われてしまう。
「グレーテル……大丈夫だ。無理に喋ろうとしなくてもいいから」
また姉に心配をかけてしまった。もう顔向けできない。
朝の光はこんなにも眩しいのに、どうして私の心を晴らしてくれないんだろう。
起き上がろうとする気力もない。かといってそれでもせめて体を起こさなければと思うのに、それすらもできない。私は、どうしてしまったんだろう。
「まだ寝てよう、もう少ししたら呼ばれるさ。そうしたら、一緒にご飯を食べよう」
それでも姉の声は優しい。言われたとおり、私はしばらくの間じっとしていた。じっとしていることも苦痛であるのに、そうすることしかできなかった。ああそうだ。呼ばれるまではそうしていよう。まだ動く必要はないんだ。
ずっと、このままでいられればいいのに。
時が止まってしまえばいいのに。
半刻くらい経って、父親から呼び掛けられた。
今日は、薪を拾いに行くらしい。
朝食を食べた後に支度をして、すぐ出発するようだ。
加えて、遅くはならないと告げられた。
そういった父の声色はどことなく明るく思えた。
──うそつき。
姉の手に引かれて、寝室を後にする。頭は冴え始めたが、足取りは変わらず重い。ここから出ない方がいいと訴えかける私がいる。私の胸の奥底から、助けを求めている。しかし、彼女は誰にも見つけられることはない。私は彼女を押し込めるかのようにして、階段をひとつひとつ降りていった。
それは、驚くほどに、冷たかった。
8、
出発のための準備をする。
朝御飯として、固く酸っぱい黒パンをお湯にゆっくり溶かしてもしゃもしゃと口にする。多少行儀が悪かろうが、こうもしなければ固すぎて食べることもままならない。
黒パンはとても酸っぱく、淡白な味だ。一口食べれば、嫌な酸味が口中に広がって、ほっぺたの辺りが痛くなってしまう。スープは塩辛く、肉やら野菜やらが入っているわけではないので、美味しくもなんともない。
命を繋ぐためだけの食事。それは尊いもののように思えるけれど、毎日これでは流石に厳しい。食事が苦痛だ。
ああ、甘いお菓子が食べたい。
「いったいいつになったらこれ以外のものが食べられるのかしら」
私は直接不満をこぼす。
そのようなことを言っても意味がないとはわかっていたものの、何となく、気まずい。
何でもいいから、姉と話すための話題が欲しかっただけだ。
もっとも、そう思っているのは私だけで、姉は今朝のことを何も気にしていないのだろう。
「そうだね。僕もいい加減飽きてしまったよ。それに……あれ、おはよう、コトリさん。今日は何かいいことがあるのかい? ご機嫌じゃないか」
と、母に対して言った。
そういえば、姉はあだ名をつけることが好きだ。今もこうして母のことをコトリさんと呼んでいる。父のことはなんと呼んでいたか、思い出せない。
それにしても、コトリの由来はなんだろう。
姉に直接理由を聞いたことはないが、想像するに、しゃべる声が甲高く不快であるからか。
母は、コトリに可愛らしいイメージがあるせいか、そう嫌ってはいないようだ。あだ名に対して、不満を言っている姿を見たことがない。
「……それに、僕達はこれを食べるようになっているんだから、仕方がないよね」
そんな皮肉を姉がこぼしながら、私達は母と他愛のない話を交わす。今日は晴れていて気持ちがいいだとか、夕飯はうまくいけば肉が食べられそうだとか、何てことはない。状況さえ除けば、普通の会話だと思う。
しかし、彼女の仕草や声は、これから私達を間接的ではあるといえ、殺そうとしているようにはとても思えない。今だって、かなり不穏な会話をしていたように思えるのに、母は笑顔を絶やさなかった。
そんな母の様子を見ると、本当は、このまま帰ってこられるのではないかと錯覚してしまう。上部だけみれば、理想とする一家の姿がそこにはあったからだ。
それでも、笑顔で私達と会話をする母が気持ち悪い。
ニタリと貼り付いた気色の悪い笑み。彼女の声は不快だ。
実際に考えてることと、放つ言葉が違うから。
同じ人間のようには思えなくて、私は身震いする。
何が彼女を狂わせてしまったのだろうか、それとも、狂っているのは私の方なのかもしれない。
ただ、一刻も早く、この場から逃げたかった。