ヘンゼルとグレーテル 1
1、
ヘンゼルとグレーテルは、ある貧しい木こりの夫婦の下に産まれた、少々変わった兄妹であった。
ヘンゼル──私の姉は、とても聡明で、短く切り揃えた黒髪が美しい少女である。その肌は溶けはじめの雪のように白く透き通っていて、慎ましやかなその体躯からすらりと伸びた四肢は、爪の先までしなやかであった。決して長身ではないものの、彼女の魅力はそれこそ枚挙に暇がない。ただ、その中でも、吸い込まれそうなほど大きく黒々とした瞳は特別で、その瞳からは、彼女の思慮が相当に深いであろうことと、底の見えないミステリアスさが垣間見えた。
彼女が持つ美しさは、常人の持つものではなく、どちらかと言えば無機質で──精巧なビスクドールのように──均衡の取れた美しさであった。さらには、彼女の性格の異端であるところが、尚その印象を強くさせた。
つまり、ヘンゼルは、不思議な娘だった、
ただ、昔から彼女が奇怪な人間であった訳ではない。幼少の頃は、私と共におままごとや人形遊びに勤しむような、間違いようのないほど、普通の少女であった。それがある朝を境に、姉は変わってしまった。
「やぁ、グレーテル! 僕は夢を見たんだ!」
その夢がどんな内容なのか、私は今も知らされていない。しかし、その夢が彼女に多大な影響を与えたことは想像に難くない。
その時を境にして、姉は、人外のものと言葉を交わし始めるようになったからだ。
それは生命の有無や、形のあるなしに関わらない。近所の野良猫から、道端の草花、風やその場の雰囲気のようなものまで。彼女は意思を持って存在しているものとして認識していた。それどころか、彼女は彼等の思考を言葉としてはっきり理解しているようで、私や両親と全く同様で対等の扱いだった。いや、私からすると、彼等を姉が呼びかけることによって、それらは確固とした形と意味を持ち、そこに存在しているように思えた。
姉が見ている世界は、以前とまるっきり変わってしまった。
「グレーテル、物事には形があるんだよ。それはとても単純なんだ。それを見抜いて彼らに示すことが重要なんだ、声とか、見た目とかでね」
その内姉は、長く美しかった髪を短く切り揃えてしまったし、黒々とした男性的な服装を好むようになった。自らを僕と呼び、私の兄を自称するようにもなった。
両親はそんな姉を気味が悪いと言っていたが、私はそんな風に微塵も思わなかった。多少戸惑いはあったものの、姉は変わらず私に優しかったし、ヘンゼルという人間の根本的な所は全く変わっていないように思えた。そのような考えで姉を見ている内に、奇妙な言動や振る舞いにも、違和感がなくなっていった。それに、姉はいつも幸せそうだ。私もそんな姉の姿を見るのが楽しい。ただ、姉と同じ景色を見れないのは、少し残念だったけれど。
何はともあれ、その様にして私達は、平凡な姉妹から奇妙な兄妹となったのだった。
2、
その一方で私──グレーテルは、どこにでもいるような少女である。妹を語った弟ではなく、奇っ怪な姉の単なる妹である。嫉妬深い性格をしていると良く言われるが、自覚はしていない。たまに食べる甘いお菓子と姉を心の底から愛している。平々凡々なその見た目からは、特筆すべきこともないだろう。
私と姉は、妻に頭が上がらない優柔不断で女々しいしがない木こりの父と、憎たらしくもどこか愛嬌のある顔面をしている傲慢な専業主婦の母──継母であり、私達姉妹の産みの親ではない──の下で生活をしている。家庭環境は劣悪で、その日食べるものすらままならない。薄く古びた家屋では、寒さはおろか、風さえも凌げない。その上、母は意地が悪く、才能溢れた姉とその妹である私を嫌っていた。その事に関して、父は見て見ぬふりをしている。その為、人並みにはあるだろう家族愛も、それ以上に様々な負債が私を襲っていたので、私の姉以外に感じることはなかった。
3、
ある日の夜。空腹と寒さのせいで、全く眠ることの出来なかった私は、居間で両親があることについて話しているのを聞いてしまった! それは要するに、自分達の生活のために、私達を明日の朝、森に置き去りにするという旨だった。それは幼い私達にとって、死の宣告に等しい。
(──私はきっと、飢えた狼に食べられてしまうんだわ……!)
柔らかい私の皮膚に狼の牙がぷつりと滑り込み、生きながらにして臓物を食い破られるのを想像した私は、まずはその現実味のない痛みに震えた。さらには、今まで意識したことのない死がじわじわと迫ってくるような気がして、恐ろしかった。呼吸は浅くなり、手や足が自分のものとは思えないほどに重く、力を無くしている。そもそも死とは一体なんだろう。自らの想像の地平線上をはるかに越えたその未知なる現象を据えようとした結果、私の頭は酷く痺れ、不安が、恐怖が、怒りが、絶望が、私に襲いかかった!
身に余る強烈な出来事とその衝撃にへたりこんだまま身動きも取れず、ガタガタと震えることしか出来なかった私を、いつの間にか背後にいた姉が優しく抱き締めてくれた。始めは、突如現れた得たいのしれないその触感に驚き、すくんでしまったが、じんわりと伝わる温もりのなかで、それが姉だと気づくと、私はほんの少しだけ落ち着きを取り戻し、どうしようもない安心感に包まれた。そっと姉の手が頭に触れ、私の栗色の毛を優しく撫でる。その暖かさは、緊張で押し固められた私の心を、少しずつ解していった。
「そんなに震えてどうしたんだい?」
姉は、いつもの調子で私に問いかける。
「……嫌ぁ! お姉ちゃん、私まだ死にたくない! もうこれからずっとお姉ちゃんの側に居れないなんて信じられないよぉ……!」
私は、一度決壊した感情の奔流が、そのきっかけである姉に向かっていくのを止められなかった。
「大丈夫だから、グレーテル、泣くのをおやめ」
「だって…!」
「落ち着きなさい。僕に考えがある」
そういって、もう一度私を強く抱き締める。
「………………っ!」
「まずはその涙を拭いて、それから僕に着いておいで。少し肌寒いから、これを羽織るといい。さあ、いくよ」
私は、授けられたショールを羽織り、姉の手に導かれるようにして暗い闇の世界へと誘われた。
4、
ドアを開けた途端、私の視界は夜色に塗り替えられる。冬が間近に迫っているからか、少し前まで賑わせていた虫のさざめきも鳴りを潜め、痛すぎる静寂が辺りを包んでいた。薄い寝間着とショールだけでは、ここは酷く寒い。それでも、繋いでいる姉の手だけは少し暖かった。私達は森の中をひたすら進んでいく。一寸先も見えないような状況は、明日の自分を暗示しているようであった。
ザクザクと、もうすっかり落ちた葉を踏みしめながら、私は歩く。夜眼がきくにつれて、周囲の様子がはっきりしていく。また、家からはそう離れていないようだった。
「ねえ、お姉様。私達はいったいどこへ向かっているの?」
「湖だよ」
きっと、私の家の近くにある小さな湖のことだろう。姉と昔よく遊んでいた場所だ。
「どうして、湖に行くの?」
「時間もないし、着いてから話そうかな。走るよ、グレーテル」
突如、姉は私から手を離して、駆け出してしまった。
私は姉の姿を見失わない様、必死になって追いかける。見覚えのある道で良かったと、心からそう思う。
5、
闇のトンネルを無我夢中で駆け抜けた私を迎えたのは、満月がふたつと、その明かりに照らされた姉だった。辺りは先ほどまでの闇が嘘のように思えるほど、眩しい。空と水面に浮かぶ月は、言葉を失うほどに、美しい。その月明かりに照らされた、水面の中に姉は立っていた。
「お姉様、置いていくなんて酷いわ」
「ごめんよ」
私に振りかえって、そう微笑を浮かべる姉の姿は、とても綺麗だった。
「ねえ、グレーテル。この景色を君に見せたかったんだ」
「ええ、お姉様。とても美しいわ」
「そうだ、鏡の世界は美しいだろう。鏡には、物事の本質を捉える力があるからね。ここには、僕の心が映っているんだ。いつもの僕には身体しかない。心には形がないし、自分の中にしかないから、見えないんだ。でも、こうやって鏡に映せば、自分の心が見える。こうして触れてみると、僕の体と、僕の心が混ざりあっているように思えて、とても安心できる」
「お姉様はいつだってお姉様じゃない」
「いいやグレーテル。僕はいつもは僕じゃないんだ。正確に言うと、常に純粋ではいられないんだよ。僕は様々なものに心も身体も侵されているんだ」
「私にはよくわからないわ。鏡を見たって私は私だって感じるもの」
「そこが君の傲慢であり、良いところだと思うよ。まあ、いいや。ほら、グレーテル。君も石を拾うんだ。同じような大きさのもので、種類は何でも良い。ただ、手頃な石を6つ」
「石は何に使うのかしら?」
「石は僕達の代わりだよ。手足と胴、それに頭で6つ。それを明日道端に落として、僕達は拾いながら帰るんだ」
「どうして身体に例える必要があるの? 沢山あった方が良いじゃない」
「だって、その方が面白いじゃないか。それに、2人合わせて12個もあればそれで充分なんだ」
姉は、何か悪戯を思い付いた子どものような、意地の悪い笑みを浮かべている。
「よくわからないけど、お姉様がそういうのなら、私もそうするわ」
姉の考えは良くわからないけど、そうすることが正しいように感じた。
「よろしい。本当は、僕が一人で拾うのがセオリーなんだろうけど、ポケットをぱんぱんに膨らんだまま歩くのは、みっともないからね」
6、
家に帰っても、私は中々眠れなかった。身体も頭も過度の疲れによってじりじりと痛むように重い。恐らく、このまま眠りにつくことは容易だと思う。ただ、まぶたの裏にある闇の世界から、何か恐ろしいものが這い出てくるような、そんな恐怖心がずっとあって、眠れなかった
じっとそれに耐え忍んでいると、視界は霞み、自然と涙が出てくる。今は、ただ、天国にいってしまった母親に会いたい。
「………………れていなかったんだ」
──私はまた、感情を抑えきれなくなる。
「どうしたんだい? グレーテル」
──優しい姉に、甘えてしまう。
「…………ああ、お姉様! 私はずっと、信じていたの……でも、結局、お父さんにも、新しいお母さんにも、少しも愛されていなかったんだわ! その事に気付いたら、何だか悲しくなって、涙が溢れてくるの
グレーテルは、産まれてくる必要なんて、なかったのかしら……」
「…………いいや、グレーテル、それは違うよ。君が心配することなんかひとつもない。僕達はこれで良いんだ。僕達は、どんなに酷い目にあったって、ここに存在することを許されているんだよ。だから、君はありのままを受け入れれば良いんだ」
「お姉ちゃんの言っていること、私には難しくて、よくわからないわ……」
「大丈夫。僕に任せてくれれば、きっと全てがうまくいくよ。」
「うん……」
「愛してるよ、グレーテル。だから心配しないで、たったひとりの兄──いや、姉の言葉を信じてほしい。」
「わかったわ……お姉様、私、少し取り乱していたみたい」
「うん、大丈夫だよ。だから今はおやすみグレーテル」
そういって姉は私の頭を抱き締めると、安心できるようにと、ずっと撫でてくれていた。明日は一体どうなってしまうのだろうか。不安に押しつぶされそうではあるが、様々なことがあり疲れきっていた私は、次第に意識を手放して、深い眠りへとついた。