マッチ売りの少女
マッチ売りの少女
私の物語というものは世間一般からしたら大した不幸のようで、その認識から逸れることもなく私はただ暗鬱な日々を送っていました。しかし、周りが思っているほど自らを哀れに思うことはありませんでした。物心ついた頃にはそのような暮らしをしていましたし、何より私は孤独ではなかったのですから。
1、
その日食べるものにも困るような家に私は生まれました。空腹を誤魔化すため入りきらないほどの水と空気を胃の中に押し込んで、苦しくなって吐き戻してしまうこともしばしばでした。それでも紛れない時はひたすらじっと身を縮ませて眠りに落ちていましたから、私はいつも酷い頭痛に苛まれていました。
歩く度に頭が痺れるような熱を持っていて、前を向いているだけで目がチカチカしてしまいます。上を見るとそれがなおさらに強く現れるので、私はいつも下ばかりをみていました。
それでも私は自らを哀れだとは思いませんでした。しかし、私以外の全ての人──家族でさえも私のことをその様な目で見つめます。私は不思議でした。私はちっとも不幸を感じていないのに。貴方達が不幸だというから、私は不幸なのかしら?
2、
幼い私を残して母は死んでしまいました。流行り病でした。いかにして感染するのか私にはわかりません。ただ、薬さえ飲めば死に至るような病でなかったはずなのに、それを買うお金もなかったから母は死にました。
いつも横たわっていたベッドの温もりは残らず消え去って、今は古びたシーツだけが母がそこにいた痕跡でした。
今は私が一人で使っています。とても寂しい気持ちと共に母が側にいるような暖かい気持ちに包まれて、孤独を少しだけ癒してくれます。
母が死に、それから父は変わってしまいました。
始めは口数が少なくなった程度でしたが、その内、少しばかりの食事でさえも私に与えず、次第に暴力をふるうようにもなりました。
あまりの痛みに泣き叫ぶことすら叶わずただ呻きのたうち回る私を見て、父は笑っていました。
父が哀れみ以外の目を向けるのは、それが初めてのことでした
そして、祖母は、私がいつもよりも酷く父に痛めつけられた次の日の朝に、首を吊って死んでしまいました。どこを探しても遺書は見つかりませんでした。
それからしばらくして、父も流行り病にかかりました。
私はざまあみろと思いながらも、お金を稼ぐために今日もマッチを売りにいきます。
私にはもう、父しかいませんから。
以前は、母親と祖母がいて、貧窮していながらも、私は確かに幸せでした。
母親は病弱で、私に構うこともあまりできなかったけれど、私に対する抱えきれないほどの愛情は伝わってきましたし、いつも私を気にかけてくれていました。
祖母は、とても心優しい人でした。そして、私に沢山のお話をしてくれました。それは、自分や母の昔話であったり、この町で伝えられている伝承であったりしました。
私に語りかける時の彼女の優しい声、骨ばっていながら柔らかい太ももの温もりや、少し乾燥した手のひらを頭に感じる時、私は幸せに包まれていました。
ただ、父が変わり、病にかかり、何もできずに生きながら死を待つだけの身となった今、私を愛してくれていた人は皆いなくなってしまいました。残されたのは私の足には大きすぎる一足の赤いブーツと、祖母が話してくれた色々な物語の記憶、もう二度と起こり得ない幸福の残渣だけでした。
果てしない苦しみの中、全てを投げ出しどこか遠いところに逃げてしまおうか、父を殺して全てから解放されてしまおうか、様々なことを考えました。不思議なことに、当時の私には自ら命を絶つという考えはありませんでした。幼かったということもありましたし、ただ、今よりも少しでも幸せになれれば満足であったのでしょう。
押し寄せる困難を波打ち際の岩のようにじっとやり過ごしながら私は生きてきました。
3、
もう葉を落としてしまった枯れ木をぼんやりと街灯が照らしています。月の光が降り注ぎ、それを鏡のように雪が反射させて、街は普段よりも少し明るくなったような、そんな大晦日の夜を私は歩いていました。
こんなにも寒いのに、周りは喧騒に包まれていて、目につくのは、年末の忙しさに喘ぐ大人達や、いつもより少し異質な雰囲気に浮き足立つ子供達。
私は彼等を一瞥すると、またすぐに足下へと視線を戻しました。……
雪の上を一歩踏み出すごとに、鋭い痛みがはしります。
私を守るための母の靴は、既にどこかへ持ち去られてしまいました。
空腹から手足の先まで痺れていて、いつ寝たのかもわからない頭の中は雑音で満たされており、歩く度に脳が震えるような感覚に陥っていました。
それでも、私の心はとても穏やかでした。
痛みも、凍えるような寒さも、痺れでさえも、どこか遠いように感じられます。それはまるで、夢から覚める前のぐちゃぐちゃとした微睡みにいるようで、とても心地の良いものでした。そしてそれは祈りに似ていました。
マッチはいりませんか…?
周囲の人々に問いかけます。
ただ、私の言葉は白い吐息と共に寒空に溶けてしまっているようで、誰も私に取り合うことはありませんでした。
時折、私に目を向ける人も居ましたが、この身なりを見た途端に目を逸らしてしまうのです。幾度も、幾度も、その様なことを繰り返している内に、私は問いかける気も無くしてしまいました。
それでも私は歩き続けます。そうしなければ、母の元へ辿り着けませんから。
4、
道端に座り込み、空を見上げると、大きな月が目に入りました。
とても、綺麗でした。
その時、今日が満月だと初めて知って、途端に、酷く惨めな気持ちになりました。
少し遠くにあるショーウィンドウを見やると、そこには家族連れの親子が幸せそうに談笑をしながら、煌々と光るガラス内の商品を眺めていました。先程まであれだけ汚ならしく騒いでいた彼等も、もう落ち着きを取り戻しているのでしょうか。
私には関係のないことです。
歩いていると、ふと、祖母が言っていた物語を思い出しました。
この世界のどこかにいた、灰被りと蔑まれた少女の話。
深い眠りに落ちてしまったお姫様の話。
泡となって消えてしまったある乙女の話。
どれも印象的で、それが単なる物語だとしても、私と同じような境遇の人が居ることは救いになりました。それと同時に、私はどの様な物語になって語り継がれるのだろうかと思うと、意地の悪い笑みが自然と浮かぶのです。
雪が溶けてできた水溜まりに、私が映っています。それは歪んでいて、とても醜く汚れていて、しかし純粋なように思えました。
ここに存在する私は汚れてしまっているのでしょう。
その代わりに、空腹と頭痛から解放されて、心の安寧も得ることができましたので、後悔はしていません。
ここにいる私と鏡の中の私。一体どちらが本当の私であるのでしょうか。
鏡の中の自分をしばらく見つめると、彼女の純粋さが私を侵してくるようだったので、それを踏み消すようにして、その場に座り込みました。
そうしたら私はもうその場から動けずにいました。
それほどまでに体力を消耗していたのです。
5、
自らの死を悟り、私は泣いていました。
苦しみはありませんでした。未練もありませんでした。
ただ、私が孤独であることが恐ろしかったのです。
誰にも看取られずに死に絶える自分が酷く惨めに思えました。
しばらくして、私はマッチに火をつけました。
マッチの光が灯る一瞬だけは、暖かく、それを忘れられました。
ゆらゆらと揺れる炎は、じんわりと暖かく、私の罪を浄化してくれるようでした。
上に立ち上る煙は、母や祖母が焼かれるときに見たそれと同じで、私に何も伝えることのないまま、消えていきました。
幾度も明かりを灯し、その煙の行く末を眺めていると、視界の隅で、流れ星がひとつ落ちていきました。
*死後、その魂は自然から解放され、流れ星となる
と、祖母が昔言っていたことを思い出しました。
そしたら魂はどこにいくの?
そう私が質問をしても、祖母には行くべき所に行き着くとだけ返されました。
私はそれを聞いて、もしかして二度と家族に会えないことを暗示しているんじゃないかと、心配になってしまいました。きっと私は地獄に落ちてしまうでしょうから。
不安になった私は何かはやる気持ちに支配されながら、次々とマッチに火を灯していきました。
そして、街灯が消えて、月の明るさが心なしか増した時には、辺りは青白くなり、手元にあるマッチは残りひとつとなってしまいました。
じんわりと熱を持っていた指先ですら、今では冷えきっています。
とうとう死んでしまうのでしょう。それでも悲しみはちっともありませんでした。このまま死ねるなら、寂しくても、悔いは残りません。
私は、マッチを擦りました。
6、
しかし、最後の炎が灯ったとき。
私は、どこか懐かしい温もりに包まれました。
それは、お母さんと一緒に眠ったある日の夜の暖かさ。
それは、お婆ちゃんに抱き締められた時の温もり。
それは、お父さんが大きな手で撫でてくれているかのような安心感。
もう二度と手に入らないと思っていた幸福が、ここにはありました。
最後に家族と会えるとは思って居なかったし、こんなに心地がいいのは初めての体験でした!
やっぱり皆が迎えに来てくれた!
私は愛されていたんだ!
こんなに、こんなに幸せで良いのかしら────そのようなことがあればいいのにと、私は一人夢想して、深い眠りへと落ちていきました。
私の魂は、煙と共に、上へ上へと登っていき、そしてあてもなくさまよい続けるのです。
これからも童話をモチーフにした短編を投稿していきます。
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