3:霖-03
僕の祖母は、二つの故郷をどちらも愛おしく思っているような、基本的にはとても穏やかな女性だった。
ハーラというのが姓で、彼女自身を表すのは名は、生まれた時に親から決められた、アリシアというもの。
そして、祖母は祖父と出会って、彼からもう一つの名を与えられることになったのだと聞いている。
『有子』というのが、祖父が彼女に与えた名で、僕はずっとその名で祖母を呼んでいたけれど、彼女からは『アリシア=ハーラ』が本当の名であることも教えられていた。
アリシアが暮らしていた世界は、いくつかの国が常に争いを続けていた。
その中で、彼女の故郷でもある国は、周辺を砂の海に囲まれた国で、鷹を国鳥として尊んでいたらしい。
『アレイシア皇国』という名の国で、国の頂点に皇帝がいて、その下には貴族位の家がいくつか存在していた。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士爵という一代限りの貴族位もあった。
祖母アリシアの生家であるハーラ家は、本家筋の直系で伯爵家だったと聞き及んでいる。分家筋のハーラ家は、子爵家になるらしくて、その辺りもいろいろとややこしいと感じるのは、僕の知っている周囲にはそのような制度がなかったからだろう。
「あぁ、よく寝た。砂の上じゃないのは嬉しいけれど、ここってどこだろうか」
あれから、僕はどれほどの時間を眠ったままで過ごしてしまったのだろうと考えてみても、ここには自分以外の誰もいなかったから答えを知る術もなかった。
とりあえず、このベッドから出てみよう。
そう考えた僕は、身体に被っていた上掛け布団を剥ぎ、身体を起こしてベッドの外へ、木の床へと足を下ろした。
床が冷たく感じても、それが気にならないのは、この辺りの気温が低いと言えない状態であることの表れだろうと察する。
「よし、立ってもフラついてない。えっと、服は……どこ、だろう」
部屋の中を、ぐるりと一周するように見渡したが、どうもそれらしき物は見つけられずに終わり、少し出足を挫かれた感じを抱えたまま部屋の一片にある窓の方へ足を向けた。
外の様子を見てみようと思った末の行動だったけれど、その途中で部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はい。起きてますよ」
声に出して応えてみたが、返事はなくて、少し戸惑いを感じる時間の後にドアが開いて、そこから一人の老人が入って来た。
『おぉ、漸く起きたか。身体の具合は、どうかね?』
老人の口にした言葉は、いつも僕が使っている言語ではなくて、一瞬だけ何を言われているのか分からない状態を面に表したけれども、よくよく落ち着いて聞こえた言葉を反芻すれば、僕はこの言語を知っていた。
「あっ、有子祖母ちゃんに教えて貰った言葉と同じだ。えっと、そうするとここって……ひょっとしてもしなくても『アレイシア皇国』ってことだろうなぁ」
『……ひょっとして、言葉が通じておらんのか?』
老人は、僕の様子と僕が口にした言葉を聞いて、おそらく聞き覚えのない言語を口にしていることに気が付いて、僕に老人が向けて放った言葉の意味が理解されていないのだろうと判断をしたらしかった。
『えっと、多分……分かります。身体は、しっかり寝たので大丈夫だと思います。お腹は減っていますが、それよりもここはどこで、貴方は誰ですか?』
僕は、久しぶりに使った祖母から教わった言語を口にしたが、ちゃんと通じただろうか。
『ふぅー、通じていたならいい。儂は、ナイゼルという。俗世のことは若い者に任せて、今は気楽な隠居生活を謳歌している。ここは、先ほどお主が口にしたように『アレイシア皇国』で間違いないが、西の国境に近い辺境地域でエストという土地になる』
「やっぱりなぁ……ということは、祖母ちゃんの実家もあるんだろうけれど、一回は見ておきたいかも」
ブツブツと一人呟く僕の様子を伺っていたナイゼルは、聞き覚えのない言語だと言った。
『そうだ、まだ名前も言ってませんでした。僕は、リン=タカツカサと言います。祖母がこちらの出身で、アリシア=ハーラだと聞いていますが、この言葉もその祖母から教わりました。祖母以外の誰かに対して使用したのは初めてで、僕の言葉はきちんと伝わっていますか?』
『おぉ、アリシア殿の孫とな。心配せずとも、言葉は通じておるよ。しかし、名前は発音が難しいな……リン、と言うのは大丈夫なのだが、タカ、…ッサ? あぁ、どうも違うな』
どうやら、僕の名前のリンは大丈夫らしいが、家名のタカツカサは難しいようだ。こちらの国では、どうやら馴染みのない配列らしいので、ただのリンで呼んでくれるように頼むことにした。
しかし、このナイゼルという老人は、アリシア祖母ちゃんのことを知っている人らしいことは分かった。
『どういうお知り合いだったのか分からないのですが、僕はここへ来るつもりもなく来てしまったみたいで……』
僕の記憶では、最後に砂原で倒れ込んだところから先は眠っていたことになっている。
それが、今はこうして綺麗なベッドの上で眠っていた事が分かっているし、誰かが僕をここへ運んでくれたのだろうか。
『とにかく、リンが目を覚ましたのだから、服の替えを用意させよう。少し待っていてくれるか』
『はい、お願いします。僕は、貴方の事をナイゼルさんと呼んでいいのでしょうか』
好きに呼んで構わないと言われたので、僕はナイゼル祖父ちゃんと呼んでもいいか、と厚かましくも申し出てしまった。
だが、ナイゼルはそれを快く承諾し、楽しそうな笑顔まで見せてくれた。
少しの間、ベッドに腰を下ろして待っていたら、服を持ったナイゼル祖父ちゃんが戻ってきた。
『これに着替えなさい。着替えながらで構わないから、少しだけ話をしていいかね?』
『はい』
ナイゼルは、リンが倒れていたのは、ここから約四半日くらいの距離にあるカーラル砂漠と呼ばれている場所だったと教えてくれた。そこからは、ナイゼルの知人でもあるアズールという名の若者が、リンを見つけて運び込んでくれたということだった。
その若者は、イシュルという名の賢い鷹を同行者にして、時折のようにあちこちへ出掛けているそうだ。
『アズール殿は、まぁ一応ながら軍人でもあっての。将軍の位を賜っている故、実家は侯爵家であるが、本人は騎士爵を拝領しているのだよ。次男であるということも関係しているが、長男がいずれは侯爵家を継ぐ事になるだろう。分家として、子爵や男爵となる事も出来なくはないが、本人がその必要性を感じておらん』
『それで、騎士爵なのですか。えっと、僕も鷹のイシュルとアズール様に会う機会はありますか?』
『イシュルは、アズールとの連絡役をしてもらうことになっているから会えるだろう。アズールとは、今はまだ無理だろうが、しばらく時間が経てば会う機会は作れるだろう』
『はい。では、そのようにお願いします』
やはり、一応は命の恩人であるから、礼のひと言くらい直接に会って伝えたいではないか。
着替えを済ませ、簡単な状況説明が終わると、僕は食堂へ案内されて、漸く空腹を宥める事が出来た。
食事を終えて、僕はナイゼル祖父ちゃんにいろいろと教えて欲しいことを考え始める。少なくても、アリシア祖母ちゃんから教えられているこの国のことは、すでに過去のことになっているはずだから、彼女から教わったこととの齟齬を減らしていく必要が有る。
誰に言われた訳でもなく、リンはそれを理解していた。
「ナイゼル祖父ちゃんに伝える事と、教えて欲しいことがあるよ」
「そうだろう。伝える事とは、アリシア殿のことかね。それに、教えて欲しいことが何かは分からんが、儂で分かることなら一向に問題はないぞ」
暇を持て余した隠居爺であるからな、と続けたナイゼルに笑顔を返したリンは、まず自分が暮らしていた世界が、この世界とは別の世界であることから説明しなくてはいけないと思った。